漉林通信
今誰もいない公園の公孫樹の下で『花束』という詩語りテキストを語っている。
多くの人に願いを籠めて語る。このコロナウイルスで美しい心の花束を手渡してゆきたい。誰もが持っている平和の祈り。それを言葉として送る。
世界に一つしかない
あなたの心の愛は無限な美しい音を響かせることができる
でも世界中に聴かせることができない
だからこそより一層あなたのなかで響く音は
より聴く人の心を打つ
今誰もいない公園の公孫樹の下で『花束』という詩語りテキストを語っている。
多くの人に願いを籠めて語る。このコロナウイルスで美しい心の花束を手渡してゆきたい。誰もが持っている平和の祈り。それを言葉として送る。
世界に一つしかない
あなたの心の愛は無限な美しい音を響かせることができる
でも世界中に聴かせることができない
だからこそより一層あなたのなかで響く音は
より聴く人の心を打つ
詩集『八月にむけて』を書き始める。日記のように毎日書き続けている。これは手作り詩集を手軽に上梓できるからだ。書くテーマがあればそれを追い求めて行ける。手作り詩集を私ほど制作した人はいないだろう。30冊以上生み出している。ただ書くだけでは意味がない。それなりに内容が伴わなければ意味がない。それに私は詩集を語るという仕事がある。天上に言の葉を響き渡らせる。これは詩語りにとっての祈りの行為である。平和を願い一人ひとりの幸せを祈り、言葉は口頭愛語である。これから詩語りの場が増えれば詩集を謹呈しなくてすむ。聴きに来ていただいた方のみに手渡しできる。これは夢なのだろうか。夢は叶えるためにある。
二ヶ月間同じテキストを語っていると、不思議に新しい世界が見えてくる。詩語りはやはり聲がいのちである。その聲もいくらかもとに戻りつつある。詩人にはプロの朗読家はいないが、私は詩語りのプロを目指して精進をしている。8月のライブは今までにない詩語りをおこないたい。
いま書いている詩は、そのライブに向けての詩である。詩の朗読を行う人にとっては貴重な資料になるはずだ。いま私の詩集を謹呈しても誰も何も言ってこない。朗読に興味のない詩人には送っても意味がない。私の詩語りを聴けば驚くはずなのに。私の聲に耳を傾けてくれる詩人がいないとは悲しいものだ。
不思議と思うほど聲がでた。といって大聲ではないが言葉に吸い付くように語れた。これは二ヶ月間『風の聲』をひたすらに語り続けてきたことで可能になったのだと思う。これから四ヶ月間は言葉を一つひとつ明確に語り込むことである。精進することによってしか生まれてこない世界がある。芸というものはそのような世界でもある。中途半端な精進では何もうまれてはこない。
今書いている詩集『坂道』もあと数編で書き終わる。この坂道も登ることが出来そうだ。そして詩語りの目途もついてきた。私の詩語りは,出前公演も致しております。誰とも違う語りだと思います。
眼の定期検診は毎月行わなければならない。糖尿病との関係で眼にむくみがでるとのこと。昨日も半日も時間を潰してしまった。
午前中に眼科に行く。
私のパソコンではインターネットの接続ができない。これは相棒のパソコンで行っている。原因が何なのかは私には解らない。自分のパソコンが使えないと不便だ。
今日は気分が乗らないので止めておく。
東日本大震災が8年目を迎えた。まだ仮設住宅や復興が行き届かない場所がある。それに行方不明者が2000人以上もいる。私はイヌ・ネコの悲しみを詩に書いた。軍事費が膨らんでいるのに対して復興費が打ち切られてゆく。
人々の哀しみを我身として感じていかねばならない。その心がなければ詩は書けない。詩語りは口頭愛語である。その思いで語り続けている。魂の聲というものはそういうものだ。
「グッフォー・71号」が送られてきたが、このところ金子啓子さんが書かれていない。前から耳が聞こえなくなったというが、その後どうなっているのだろう心配だ。苦しい時こそ詩を書かねばならない。その時こそが一番良い詩がうまれるものだ。苦しみは希望でもなければならない。私はそうして今まで詩を書き続けてきた。誰にも読まれなくても、ひたすら書き続けることだ。
「いのちの籠・41号」「あすら・55号」ありがとうございます。私は崔龍源さんの詩が好きである。彼の抱える問題に共感を覚えます。「あすら」は沖縄の心がいっぱい書かれています。それに活字が大きくとても見やすい。私には助かります。
相棒が通っている農園は「えと菜園」でその経営を行っている方が小島希世子さんです。『ホームレス農園』(河出書房)を出しています。この本は人を勇気づける本です。彼女の悪戦苦闘が描かれています。自然そのままの畑を目指しています。相棒も土と向き合って苦戦しおります。本当においしい野菜を食べたいものです。私は新潟の農家で生まれたので小さい時から美味しい野菜に恵まれていました。自然そのままの野菜はとても美味しいものです。おいしいは美しい味と書いて美味しいという文字になります。いまの大量で作られている野菜は美味しいという文字ではないのです。大味でおいしいです。美味しい野菜こそ贅沢といえます。当たり前のことが大切です。
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