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2020年4月25日 (土)

漉林通信

今誰もいない公園の公孫樹の下で『花束』という詩語りテキストを語っている。
多くの人に願いを籠めて語る。このコロナウイルスで美しい心の花束を手渡してゆきたい。誰もが持っている平和の祈り。それを言葉として送る。

世界に一つしかない
あなたの心の愛は無限な美しい音を響かせることができる
でも世界中に聴かせることができない
だからこそより一層あなたのなかで響く音は
より聴く人の心を打つ

2019年3月18日 (月)

田川紀久雄日記

詩集『八月にむけて』を書き始める。日記のように毎日書き続けている。これは手作り詩集を手軽に上梓できるからだ。書くテーマがあればそれを追い求めて行ける。手作り詩集を私ほど制作した人はいないだろう。30冊以上生み出している。ただ書くだけでは意味がない。それなりに内容が伴わなければ意味がない。それに私は詩集を語るという仕事がある。天上に言の葉を響き渡らせる。これは詩語りにとっての祈りの行為である。平和を願い一人ひとりの幸せを祈り、言葉は口頭愛語である。これから詩語りの場が増えれば詩集を謹呈しなくてすむ。聴きに来ていただいた方のみに手渡しできる。これは夢なのだろうか。夢は叶えるためにある。

2019年3月17日 (日)

田川紀久雄日記

二ヶ月間同じテキストを語っていると、不思議に新しい世界が見えてくる。詩語りはやはり聲がいのちである。その聲もいくらかもとに戻りつつある。詩人にはプロの朗読家はいないが、私は詩語りのプロを目指して精進をしている。8月のライブは今までにない詩語りをおこないたい。
いま書いている詩は、そのライブに向けての詩である。詩の朗読を行う人にとっては貴重な資料になるはずだ。いま私の詩集を謹呈しても誰も何も言ってこない。朗読に興味のない詩人には送っても意味がない。私の詩語りを聴けば驚くはずなのに。私の聲に耳を傾けてくれる詩人がいないとは悲しいものだ。

2019年3月16日 (土)

田川紀久雄日記

詩誌受贈『笛・287号」『鹿151号』
詩集受贈渋谷聡詩集『さとの村にも春来足りなば』
10年前に津軽に行ったときとてもお世話になった。彼はギターを弾きながら詩を朗読する。漉林書房からも詩集を出している。この度の詩集も、悲しみの中で方言とユーモアを屈指しながら描き出している。
詩を語りながらこの聲はなかなかいいなと思ったら、その聲は風邪聲であった。だみ聲私の詩にはあった聲なのだ。10分程でよいから語らせてくれる朗読会がないものなのか。今の詩人の朗読会は仲間内だけで人の聲を聴かない。詩も芸能まで高めなければ他人には聴いていただけない。芸能まで高めるには聲の力が大切である。そしてテキストも大切だ。
昼間の朗読会はネコがいるので出ることが出来ないが、夕方からなら出前詩語りが出来る。私を招いてくれる人がいないものか。

2019年3月15日 (金)

田川紀久雄日記

不思議と思うほど聲がでた。といって大聲ではないが言葉に吸い付くように語れた。これは二ヶ月間『風の聲』をひたすらに語り続けてきたことで可能になったのだと思う。これから四ヶ月間は言葉を一つひとつ明確に語り込むことである。精進することによってしか生まれてこない世界がある。芸というものはそのような世界でもある。中途半端な精進では何もうまれてはこない。
今書いている詩集『坂道』もあと数編で書き終わる。この坂道も登ることが出来そうだ。そして詩語りの目途もついてきた。私の詩語りは,出前公演も致しております。誰とも違う語りだと思います。

2019年3月14日 (木)

田川紀久雄日記

眼の定期検診は毎月行わなければならない。糖尿病との関係で眼にむくみがでるとのこと。昨日も半日も時間を潰してしまった。

過去の聲のことなど思ってみてもどうにもならない。大切なのは今の自分の聲を素直に受け入れていくしかない。テキストの内容をどのようにして伝えればよいのか。朗読とか語りはそれを聲で表現する世界である。文字とは違う。やはり聲の力を借りて行う。ここに悩みが生まれる。納得した聲でないと語りとして表現した気になれない。今の自分の聲を素直に受け入れるといっても、そう簡単にはいかない。ライブまではまだ時間があるのだから、ひたすら語ることしかない。しかし、思うように聲がでないと鬱になってしまう。今は言葉を丁寧に語ってゆくしかない。その中から何かが生まれてくればありがたい。

2019年3月13日 (水)

田川紀久雄日記

午前中に眼科に行く。
私のパソコンではインターネットの接続ができない。これは相棒のパソコンで行っている。原因が何なのかは私には解らない。自分のパソコンが使えないと不便だ。
今日は気分が乗らないので止めておく。

2019年3月12日 (火)

田川紀久雄日記

聲であらゆる苦悩からの解放を目指して語る。実際はそのようなことは不可能であるが、気持ちはそう心で語っている。叫び聲は苦悩を表現している。そしてそれを癒すように語る工夫を行う。
同じテキストをもう二ヶ月も語っていると、いろんな風景が見えてくる。花粉で鼻が詰まって苦しいが、語り続けることで前に向って行ける。今書いている詩集も半分は書き終えた。いまは詩にネコが出てきて、いくらか変化がでている。手作り詩集の良いことは、気楽に詩集を上梓できることだ。ほとんど送ることをしていないが、書くことで自分がなんであるのか摑める。お金がないことはある意味でそれを楽しみながら生きることだ。二・三年で詩集を三十冊以上を上梓することが出来た。詩人たちはこの手作り詩集を無視するが、そのようなことなど今はどうでもよい。前に前進することが生きている証になる。

2019年3月11日 (月)

田川紀久雄日記

東日本大震災が8年目を迎えた。まだ仮設住宅や復興が行き届かない場所がある。それに行方不明者が2000人以上もいる。私はイヌ・ネコの悲しみを詩に書いた。軍事費が膨らんでいるのに対して復興費が打ち切られてゆく。
人々の哀しみを我身として感じていかねばならない。その心がなければ詩は書けない。詩語りは口頭愛語である。その思いで語り続けている。魂の聲というものはそういうものだ。
「グッフォー・71号」が送られてきたが、このところ金子啓子さんが書かれていない。前から耳が聞こえなくなったというが、その後どうなっているのだろう心配だ。苦しい時こそ詩を書かねばならない。その時こそが一番良い詩がうまれるものだ。苦しみは希望でもなければならない。私はそうして今まで詩を書き続けてきた。誰にも読まれなくても、ひたすら書き続けることだ。

2019年3月10日 (日)

田川紀久雄日記

「いのちの籠・41号」「あすら・55号」ありがとうございます。私は崔龍源さんの詩が好きである。彼の抱える問題に共感を覚えます。「あすら」は沖縄の心がいっぱい書かれています。それに活字が大きくとても見やすい。私には助かります。
相棒が通っている農園は「えと菜園」でその経営を行っている方が小島希世子さんです。『ホームレス農園』(河出書房)を出しています。この本は人を勇気づける本です。彼女の悪戦苦闘が描かれています。自然そのままの畑を目指しています。相棒も土と向き合って苦戦しおります。本当においしい野菜を食べたいものです。私は新潟の農家で生まれたので小さい時から美味しい野菜に恵まれていました。自然そのままの野菜はとても美味しいものです。おいしいは美しい味と書いて美味しいという文字になります。いまの大量で作られている野菜は美味しいという文字ではないのです。大味でおいしいです。美味しい野菜こそ贅沢といえます。当たり前のことが大切です。

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