田川紀久雄通信
今月は今日で終わる。10月にはいってもまだ暑いという。朗読を行うためには常に目標をもって行わなければ進歩をしない。これは難しいことでもある。
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今月は今日で終わる。10月にはいってもまだ暑いという。朗読を行うためには常に目標をもって行わなければ進歩をしない。これは難しいことでもある。
次回のライブの原稿ができた。といっても「語っる悦び」を手直ししたものだ。少しでも語りやすくする工夫をしているだけだ。それから聲が前回はいまいちであった。10月は聲が出やすいようにしていきたい。
詩には頭で書く詩と、心で書く詩がある。詩語りは心で書く詩が、語りやすい。聴きににとっても聴きやすい。詩人の聲ではどのような詩を聴かせてくれているのか、私には解らない。
人に聴かせるためには、精進いがいにしかない。相撲を見る楽しみは、勝つことへの努力その執念を見ることである。 次回のライブは10月30日(木)に行います。
昨日の詩語りは聲を抑えながら語った。どのような聲だったのだろうか。CDで聴くのが楽しみだ。津軽三味線のTさんから感動したとのお手紙を頂いた。
今日はライブの日である。妹の死をめぐっての詩語りである。語り込むことによって語りの味が生まれるようになってきた。詩人の語りで最高のものをお届けできる。
詩の朗読は、他の芸能とは全く異なっている。それは自分の書いたものを語るということだ。それをある高みまで上げて語ることが求められている。そのために詩人の聲ではマイクなしで肉聲で語っている。そして一時間も語り込む。どこにもない企画である。
Mさんから「プロの講談師のようだ」と言われた。やっとここまで来たのかと思うと嬉しかった。これからももっと精進をしていかねばならない。25日に駒込平和教会で7時より詩語りライブを行います。予約受付中。天童大人まで申し込みください。
午前中は介護施設に行く。詩人の聲について書いているのは私ぐらいであろう。そしてライブCDの制作も私だけだ。朗読について語り合う場がない。これでは詩人の聲が世の中に広がっていかない。これでは勉強不足になる。
心地よく語りを聴かせるのは難しい。それには精進しかない。素人の詩人にはなかなかできない。詩人の聲とはいったい何であろうか。詩を聴かせるとはどのような事なのか。色んな詩人の聲を聴きたい。皆違っていいのだろう。
詩の朗読に対してはほとんど反響がない。それは内内同士でしか行われていないからだ。仲間同士では本当のことが聴かれない。ある意味でのお遊びでしかない。今私は虚しさの中で詩語りを行っている。
サンマを食べた。今年のサンマは大きく油のあって美味しい。猫も喜んで食べた。そして栗ご飯も食べることができた。いつまでも庶民の食べ物であってほしい。世界では食事にありつけない人たちがいる。戦後の、貧しい時代がを過ごしてきた私にとっては他人事ではない。ガザは今は酷い状態に陥っている。誰もが何もできない。無関心であってはならない。
聲を撃つということは自分の魂を撃つことである。それた単なる感情ではない。自然{じねん)のまままに生きることでもある。自然ほど厳しいものはない。他者に対しては優しく。自己は厳しく生きる。
CDのお便りが届く。うれしいものだ。素直な感想を聴きたいものだ。
「哀しみの渚」を語り込むことによって感情のっ柔らかさが出てきた。同じことを語っていても同じ語りはできないものだ。毎日新しい世界を語っていることになる。ここに日々の精進の意味が隠されている。楽しみをもって語り込んでゆく。
感動を受ける詩の朗読を聴きたいものだ。なかなかいないものだ。
「詩人の聲」ではお客に届く聲を目指している。私は、テキストを活かした聲を求めて居る。だからライブまではテキストを語り込んでいる。一時間も語れる場所はここしかない。テキストと自分が向き合える。社会的には詩人の朗読は受け入れられない。だからCDで聲を残している。
昨日内科の定期検診にいった。血糖値が高めなので注意しろといわれた。下げるのは難しい。100以上の人が増えた。それが幸せなのかは解らない。人生の目標をもって生きる人は少ない。苦しみの中で歓びをっ掴むことが大切である。
詩の朗読会の案内状が来たが、もう魅力を感じなくなっている。一人10分間ほどの朗読会は空しい。
午前中は介護施設に行く。木・金曜日は相棒が居るので詩語りの稽古はできない。
テキスト何度もを語り込むことによってしかうまれてこない世界がある。それを求めていく中で詩語りの世界が生まれてくる。忍耐と努力しかない。
部屋で稽古をしているときと、ライブの時の聲は違う。木造の建物なので下の部屋に聲が大きいと聴こえてしまう。どうしても思い切って聲が出せない。いつも練習では満足がいかない。気分的に落ち込む日が多い。
介護施設に午前中に行く。「哀しみの渚」を語り込むことによってその世界を深めてゆきたい。このテキストは妹の死をめぐっての詩集である。
自分のCDを聴くのは嫌なものだ。機械で聴くのと肉聲とでは違うからである。ライブで良かったがCDで聴くと何かが違うのだ。愕然とするときもある。詩人の聲のライブでは人が集まらない。哀しいいものだ。
急便局は民営化なったから配達がおくれる。今私は電話で連絡を取ることが多くなった。CDだけは郵送するしかない。私のCDを聴きたい方はご連絡ください。10人だけは無料で謹呈をします。
『時空を超えて」のCDができた。聲を聴いてもらうより、テキストを聴いてもらいたい。いま「詩語り読み」と名乗って行っている。ぜひ聴いてもらいたい。注文漉林書房まで。定価1000円です。出前ライブも行っています。
久さしぶりの雨だ。午前中は介護施設に行く。
テキストを語る度に直しが出てくる。誤植や読み易さあを求める。何回読んでも直しは出てくるものだ。読みこむことによってテキストを語る深みも出てくる。楽しい。
ライブでは見知らぬ人が来てはじめてライブと言える。ただ友人ばかりではつまらない。未知の人達に向かって聲を撃ちたい。私はCDで勝負をしたい。
「哀しみの渚」のテキストを治し、活字を大きくする。だんだん活字が読みにくくなっていく。このテキストは妹の死を扱ったものである。白い鳥が白い泡と一緒に天国まいあがっていく詩がある。魂を込めて語りたい。
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