田川紀久雄通信
ライブ中に眼が霞んで読み違いがあった。もっと活字を大きめなテキストを作らなければなならない。歩くのが不便で眼科に通うのが大変だ。それに歯も大分わるい。困ったものだ。
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ライブ中に眼が霞んで読み違いがあった。もっと活字を大きめなテキストを作らなければなならない。歩くのが不便で眼科に通うのが大変だ。それに歯も大分わるい。困ったものだ。
昨日のライブは80点の出来栄えであった。退院してから一年を費やした。努力しかない。CDが出来たら数人の人に送りたい。熊の話も出来た。やっと田川紀久雄の聲が戻ってきた。
今日は詩語りライブの日である。駒込平和教会で行う。午後7より。月一は練習を行うにも丁度良い。他の詩人たちはどのようなライブを行っているのか解らない。私が知る中では照井良平さんがよい。
木曜日は介護施設に行く日だ。今の講談には魅力を感じない。語る味が見いだせないからだ。今は聴くことが出来ないが一龍齋貞水さんまでである。
最近背中と胸が痛い。背中の手術から退院をして一年になる。足の指の神経を切られ立つことも歩くことも出来なくなった。介護施設とライブ以外は外出をしない。家の中に閉じこもっている。一年無事に生きてこられたことが不思議だ。
いつまで夏が続くのだろう。午前中は詩語りの稽古に時間をかけてゆきたい。といっても介護室施設に行く日はできない。それに相棒の休日はできない。つまり思ったほどできない。私は語るテキストが多いので大変だ。なにしろ詩集は100冊ほどある。いまは手作り詩集を語っている。
午前中は介護施設に行く。精神的に疲れるが仕方がない。来月に語るテキストは妹が亡くなる時の「哀しみの渚」である。これは辛いが何としてでも語りたい。
芸とは同じことを何度も繰り返すことである。それを飽きずに行うことでもある。それができるかどうかをがを芸を伸ばす決め手になる。まず楽しむことがもとめられる。29日のライブが楽しみだ。
テキストを語り込むほど、何が何だか分からなくなってゆく。これを通り抜けていくことで語りの世界が見えてくるのだろう。詩語りは飽くまで自作詩を語ることに意味がある。このことは他の芸能の世界にはないことだ。語りの歴巣は平家物語りから始まっている。
詩人の朗読は、社会的に無視されている。もっと社会との交流が求められている。どうすればよいのだろう。いま歩くことも困難な私は、自分で主催して行うことができない。芸として極めていくしかなに。それも語りを行う楽しみがある。
相棒と一緒にいると詩語りの稽古ができない。うるさいという。狭い家では仕方がない。詩の朗読で理解をしてくれることがない。だから相棒のいないときは、時間を有効につかいたい。週に三日あればよい。
昨日は6時間も詩語りの稽古をおこなった。ライブのため録音をとるのではなく、録音をとるためにライブを行う。そのためには稽古の時間を増やすしかない。
やっとCDの返事を頂いた。語りの内容まで評価された。ありがたい。詩人の聲は観客が来ないのでライブがどうなのかわからない。そこでCDを送ってどうなのかを知りたい。平和について語っている。誰か聴いてくださる方はいないのか。
午前中介護施設に行く。語りの稽古ができない。朗読のCDを作る友達がいない。寂しい。最近CDを送っても何の反応もない。
テキストを語るのが楽しくなってきた。いまラップの世界が面白い。戦争のラップも生まれている。 詩人の中から本気に朗読する人達がでてこないのか。企画をできる人が欲しい。足が悪くなければと思う。
午前中パソコンの調子が悪かった。CDを聴いて過ごす。自分の聲は変わってきた。それほど悪くはない。味が出てきたのだろう。嬉しい。
CDを送っても何の反響もない。寂しいものだ。まだまだ未熟なのだろう。肉肉聲を聴いてもらいたい。8月のライブは29日に駒込で行う。
今日は介護施設にいく。プロの人達は徹底的に語り込んでいる。それはひたすら精進をしているからだ。
29日に行うテキストとが、やっと「詩空を越えて」を語れるようになってきた。一時間近いテキストを何度も語り込む。語れば語るほど面白くなってゆく。CDを作成するためにも必要なことだ。詩人の聲の中では一番努力をしているだろう。それ以外に上達する道はない。
ひたすらテキストを語り込む。毎回新しく感じる。それはテキストを暗記しないからだ。常に何かを発見できる。
ひたすらテキストを語り込む。毎回新しく感じる。それはテキストを暗記しないからだ。常に何かを発見できる。
介護施設を休む。たんが出て困る。九州では大雨で大変だ。毎日テキストを撃ち込んでいたい。聲がでなくても撃ち込む日々でありたい。
戦争や平和については日々語らなければならない。それは詩人の仕事でもある。ナガサキの日に山田かんさんの詩がテレビで流されたことは良かった。
咳とタンがまだ出る。今日はナガサキ80年である。一瞬のうちに大勢の人が亡くなる。二度とあったはならない。私の詩語りは平和と美しいひかりの旅である。誰にも振り替えられないあが頑張るしかない。
夏風邪をひたようだ。鼻水がでるし咳もとまらない。困ったものだ。テキストを読むことができない。寝て過ごすことも大切である。
詩を語る時、輪を描くように語りたい。聲が思うように出ない。あとはテキストを丁寧に語るだけだ。保谷しから桃が送られてくる。
ヒロシマ80年を迎える。合掌。そしてナガサキ80年を迎える。詩人たちの仕事はまだまだ一杯ある。詩人の聲の仕事は必要である。
aru.
異常な暑さだ。何もやる気が起こらない。まだクーラーのない人たちがいる。大変だ。介護施設に行ってといると、本当にボケ老人になっていく。こまったものだ。
テキストを毎日語り込む。それ以外に上達する道はない。道元の言う行事の世界である。そのことによっていろんなことに気が付く。
最近亡くなった人の夢を見る。。これも歳せいかもしれない。最近のCDを照井さんに送る。照井さんの宮沢賢治の朗読はすばらしい。
久し振りに雨がふった。各地のダム湖がかれている。それに田畑にも水が必用だ。此の暑さも10月まで続くという。秋がなくなる。市民には電気代が大変になる。贅沢などできない。
多くの詩集を語る必要もない。10作ぐらいを丁寧に語ってゆけばよい。
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