田川紀久雄
月日の流れは早い。生活の不安を感じながら生きているのは辛い。文学など今の時代には何の足しにもならない。ただの自己満足でしかない。生活の足しにはほとんどない。出前詩語りの仕事が入れば別な話である。小さな光でもあればよいのだが、その可能性は低い。それでも詩語りの精進を怠らない。
« 2025年3月 | トップページ | 2025年5月 »
月日の流れは早い。生活の不安を感じながら生きているのは辛い。文学など今の時代には何の足しにもならない。ただの自己満足でしかない。生活の足しにはほとんどない。出前詩語りの仕事が入れば別な話である。小さな光でもあればよいのだが、その可能性は低い。それでも詩語りの精進を怠らない。
平和といのちについて語れる場所はないのだろうか。多くの人に聴いてもらいたい。いま詩人が叫ばなければ誰が叫ぶのだっろう。世の中が暗黒の闇に包まれようとしている。「風も聲」を大幅に手をいれる。少しでも心に届けられていくように。
「風の聲」の詩語りの目途がやっと着いた。これは私の代表的なCDになるだろう。これは聲を聴いてもらいたいのではなく。テキストの聲を聴いてもらいたい。この「風の聲」は詩人クラブで語ってものだ。あれから五年になる。夢中でかたっていた。出來もあまりよくない。このテキストが生きているうちにもう一度語れる。うれしい。私のCDは「詩語り読み」として発売をしていく。
語り読みは三味線の太棹の響きのようでありたい。お客が居なくては何も始まらない。「風の聲」は愛を語っている。この混迷している世の中に聲を撃ち込んでゆきたい。ライブに向けて精進をしてゆく。
来月は「風の聲」を語る。いま手直しをしている。語れるには一週間ほどかかる。楽しみだ。語り読みを作りあげたい。それには最低でも100回以上語りこまなければならない。
昨日のライブの出来栄えは70点である。語り読みができた。来月は29日にライブを行う。これは詩語りの完成でもある。いのちと生命讃歌を語り続ける。数人でも出前をいたします。
明日駒込平和教会で詩語りライブを7時から行う。前回は何の反響もなかった。中村中蔵の気分を味わった。築道さんが来てくれるという。ありがたい。
誰かあらもCDの返信がこない。私の聲がどのように伝わっていくのか解らない。足の悪い私は誰とも会うことができない。もっと精進して生きろと言われているのだろう。相棒も朗読する場を見出している。詩人を相手にしないで朗読の世界を広げていきたい。
介護施設の倒産が多くなっている。私の通っている施設も閉鎖になる。老人にとっては大きな問題だ。消費税は福祉に使われている。物価高でいろいろと問題になっているが、福祉のことを考えてもらいたい。二ヶ月間も相棒は仕事を休んでいる。生活が大変になる。
浪曲でも講談でも女性の芸人はなかなかいないものだ。明治時代の芸能を調べているが。女性義太夫にしても芸は育たなかった。詩の朗読でもしかりである。これを超えるのは命がけな精進しかない。2月27日の友理とのライブは歴史に残るものだといえる。
聲の質を高めることによって説得力がましてくる。いまは思うように練習時間をとることができない。短時間な中で能率よく行っている。最近よく詩語りを行っている夢をみる。
眼の悪い私は相棒の朗読によって本を聴いて居る。ほんの僅かな時間でも私には貴重な時である。今は辻まことのエッセイを聴いている。私の語りを聴くのを嫌がる。それはうるさいからだろう。相棒は二ケ月も仕事を休んで家にいる。詩語りが思うように出来ない。
たった一人の人間の言葉によって世界が狂い始める。言葉は常に愛に向かって発せられなければ哀しいものとなる。詩語りの世界は常に愛を語ってゆきたい。厳しい詩語りの世界を目指して精進しなければならない。
「抱擁・2」を数人の人に贈る。どのように聴いてくれるのだろう。いま昔の芸人の聲を聴いて居る。参考になるが、詩語りにどう活かしていけばよいのか解らない。聴くことの大切さを感じてゆくしかない。
午前中は介護施設に行く。なかなか話し合う朋ができない。自分の病気のことばかり話している。聴いて居て疲れる。妹の死についた書いた「哀しみの渚」を手直しをしている。語るのは辛いがいつか語ってみたい。
相棒は二ヶ月間休むことになった。詩語りの稽古ができない。致し方がない。相棒のお陰でここまで生きていられたのだから感謝をしなければならない。今の介護施設は4月で閉鎖をする。5月からは新しい場所に移る。今閉鎖する施設が増えている。高齢化社会になっているのに対策が追い付いていかない。身体が動けなくなったどうなるのかが心配だ。
家から外に出られないことは辛い。私の友達にも私と同じように暮らしている人が居る。月に一度だけ詩人の聲に参加している。危険だから止めろという人もいる。確かに転べば危険である。命がけで詩語りを行っている。希望を求めて生きていたい。
テキストをいかに聴かせるか、という問いの中で聲の力が出てくる。聲の力だけでテキストを聴かせるのは、危険なことである。私のCDを聴いてもらえればそのことが解る。古典芸能を聴けばより理解が出来る。
しみじみを語る浪曲はなかなはいいものだ。昔ラジオから聴こえてくる浪曲にはあった。それはまさに技のせかいである。詩の朗読を救うのは聲の力と技の世界である。でもこれを求める詩人はほとんどいない。相棒は腰の骨を折りここ一週間休んでいる。私は詩語りが出来ない。人が居ると練習はできない。
詩の朗読会で地震が起きた国にカンパする資金は集めにくい。私に出来ることは鎮魂歌を語るぐらいだ。3・11の時にこの鎮魂歌を書き上げた。それを公園で毎日のように語った。数人の前で語りたい。どこかで私の語りを招いてくれるところがないものだろうか。詩人の聲で語っても誰も聴いてくれる人は現れない。寂しい。
午前中整形外科にいく。昨日は内科であった。身体が疲れる。まだ語っていないテキストが出てきた。末期癌当時の作品である。7月ごろにかたってみたい。
午前中整形外科にいく。昨日は内科であった。身体が疲れる。まだ語っていないテキストが出てきた。末期癌当時の作品である。7月ごろにかたってみたい。
詩語りがどのように伝わっていくのかしりたい。若い人たちにも詩語りをひろめてゆきたい。色んな事が浮かんでくるが、何もできない。相棒も少し動き出してきた。
送られてきた詩集のお礼に私のCDを送っている。これは物々交換のようなものだ。眼が悪いのですぐには読めない。虫眼鏡で少しずつ読んでいる。歳をとるといろいろと不便なことが多い。禿さんが詩人の聲から降りるという。私が年長者になる。老人が頑張っているのに後についてくる詩人がみあたらない。寂しい詩人たちである。
物価の値上がりが凄まじい。年金生活は生きずらい世の中だ。桜が満開でもまるで冬の陽気である。南海トラフ地震が起きたら死者数があまりにも多い試算だ。私は足が悪くて逃げられない。どうすることもできない。自然は恐ろしい。今できる事を行っていくまでである。
最近のコメント