田川紀久雄詩語り
神田伯山を聴いていると非常に疲れる。今はこれでよいのだと思う。60歳ごろになったとき彼の芸も落ち着いて楽しく聴くことが出来る。詩の朗読で彼のような人物が出てくることが求められている。詩人には競争する相手がいない。詩人には芸の段階を踏んでくる人はいない。詩の朗読にはお客が集まらない。これが一番のなんてんである。
神田伯山を聴いていると非常に疲れる。今はこれでよいのだと思う。60歳ごろになったとき彼の芸も落ち着いて楽しく聴くことが出来る。詩の朗読で彼のような人物が出てくることが求められている。詩人には競争する相手がいない。詩人には芸の段階を踏んでくる人はいない。詩の朗読にはお客が集まらない。これが一番のなんてんである。
詩はたんたんと語る。その淡々と語る中で聲のみ深を産み出してゆくしかない。あくまでも自然体で語る。そのためにはテキストを何百回と語り込み。活字をそのまま読んではならない。深みが出るまで20年ほどかかる。いい加減な気持ちで行っていたら客には詩を聴かせられない。他の芸能とは全く別なものだ。
言葉だけの芸には肉がついていない。肉のついていない芸は、いくら上手でも感動をあたえない。一にっ勉強そして経験だ。あとは人より芸への努力である、
午前中介護疏泄に行く。精神的に良いのかもしれないが、詩語りの精進ができない。もう大聲を出して語ることができない。講談や浪曲ではない。会場に聲が通ればよい。19日はそのための試験ライブである。人間主義的な語りが出来ればよい。
明治の落語の名人であった円朝は晩年は不幸な生き方をした。円朝の名をつぐ人はいなかった。若いころは谷中の近くに住んでいた。谷中で何度も詩語りを行った。もう谷中には行くことがない。
聲には色と心がひろがってい。若い時は、大聲が必要だが、年輪と共に大聲をつつも聲が求められてくる。ここに芸の道が生まれてくる。これはお客によってうまれてくるものである。今の詩人たちの朗読会では、単なる遊びにしか過ぎない。
午前中は介護施。家に帰ってくるのが、だいたい一時頃である。それからテキストの勉強である。詩人のライブには客が集まらない。芸というものは、お客が芸をのばしてくれるものである。これではまるで一人で練習しているようだ。一人でも来てくれればありがたい。
詩の朗読は、」講談と違って、物語性がない。聴いて居て退屈してしまう。ということは語り方の気迫が求められる。それも50歳ほどまでである。80歳を越えている私には、内的な深さがもとめられている。19日のライブは半年も聲を撃っていない。どのような語りが出来るのか楽しみだ。背中に鉄の鎖でさ自分の力で立つこともできない。さえられている。自然な聲が出せない。でも詩語りは行いたい。
ものの値上りで生きていくのが大変だ。この中には便乗もあるだろう。年金がわずかかな私には辛い。詩語りでお客が増えてくれることを願う。そのためには感動を与えられる芸を披露することである。生命讃歌を語り続けてゆきたい。
昨日内科の検診に行った。そろそろ胃のラメラを撮らねばといわれた。此のところ昔の作品を組み換えを行ってテキストを作っている。今は新作が書けない。語りの練習に時間が取られている。
午前中は介護施設にいく。語りの練習が出来ない。自由に詩を語ってゆきたい。帰宅したらテキストを何度も語ってゆきたい。
芸の道で最後に行きつくのは人間性である。この人間性が出てこない芸は、死んだ芸でしかない。いくらうまくても価値感だがない。若い芸人でも非常に上手い芸人が大勢いる。芸人はうまくて当たり前の世界である。
入院前のテキストがパソコンから消えている。なんども読みこむためにテキストは一ヶ月でボロボロになる。詩の語りは基本的にはテキストを持っておこなうものである。見台をもって行えればよいのだが。
午前中は介護施設に行く。詩語りの練習が出来ない。今は毎日語ることが楽しい。自然体であって、自然体ではい。このことが大切である。詩の言葉を大切に表現していかねばならない。小さな聲だと何を言っているのか解らない。
落語や講談では、見習いや前座という制度がある。それでも10年ほどかかる。それに対して詩の朗読は初めから真打気分で行う。40年以上行っているのは、天童氏と私ぐらいだ。この世界は経験が必要とされる。朗読でも最低10年は聲を撃ち続けてほしい。
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