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2024年7月31日 (水)

田川紀久雄詩語り

昨日は一日中詩語りを行っていた。朝から咽喉がいたむ。思うような聲がだせない。この咽喉を我慢して聲を撃ちつぅけりしかない。今日もテキストを撃ちこむ。新しい聲をつくる。

2024年7月30日 (火)

田川紀久雄詩語り

夏バテだ。気温が40近℃近いというこころんだ場所がまだ痛む。それでも詩語りの稽古には励んでいる。語ることが楽しい。

2024年7月28日 (日)

田川紀久雄詩語り

肩がはれれてえてウンデしまった。やはりころぶと大変だ。久しぶりに「夢の旅路」を語った。

 

 

 

 

 

 

2024年7月27日 (土)

田川紀久雄詩語り

バス停で転ぶ。多くに人に助けられる。足腰の打ち身が残る。この暑さで歩行の訓練も出来ない。家に籠って詩語りに励むしかない。

2024年7月26日 (金)

田川紀久雄詩語り

眼科にいく。テキストもみえにくくなっている。何とかテキストは読めるようにしたい。相棒が休日以外日々テキストをかたっている。詩人の聲もあと10年だ。頑張るだけだ。

2024年7月25日 (木)

田川紀久雄詩語り

詩人の聲を聴かせる企画はよことだ。北の朗唱はどうであったのだろう。詩人でも優秀な詩人だる。きっと驚いたに違いない。若い詩人たちも成長していくだであろう。私は自分の詩を語るだけだ。

2024年7月24日 (水)

田川紀久雄詩語り

詩人の朗読は活字を読んでいてはだめだ。聲に思想を持つようにならなけばならない。活字が見えるような朗読では、お客が退屈してしまう。だから精進がもとめられる。私の詩語たりをメールで見てください。

2024年7月23日 (火)

田川紀久雄詩語り

詩人は自作詩を大聲を出して読むことだ。それを何十年かけて行う。そうすると詩人の聲がが出て売る。鍛えられた聲でないと作品は生きてこない。死んだままだ。それは単なる活字を読んでるにかすぎない。朗読くはそんなに甘い世界ではない。最近やっと自分の聲が戻りつつある。奥深い詩語りをおこないたい。

 

2024年7月22日 (月)

田川紀久雄詩語り

メールで「自作詩の朗読を」見ると、ほとんどの詩人は、詩の朗読する聲ができていない。詩には詩を朗読する聲というものがある。芸人のように厳しい精進が必要である。

2024年7月21日 (日)

田川紀久雄詩語り

CDが40枚ほどある。これを入院後の聲で語ってみたい。そのためにはもう一度テキストを作らねばならない。持ちネタをこれに縛って精進しゆけば私の詩語りは完成する。すべて50分以上かかるので大変である。これは私の最期の仕事とかのも知れない。

2024年7月20日 (土)

田川紀久雄詩語り

天童さんたちは北海道で北の朗唱を行っている。私は一度も招かれたことはない。北海道には私のファンも多くいる。今は余り詩人たちの前ではあり語りたくはない。

2024年7月19日 (金)

田川紀久雄詩語り

いのちのひかりについて詩語りをおこないたい。この世の混沌から抜け出す道をさがしもとめて。もう少し聲の力が欲しい。入院で聲の力が衰えてしまった。ライブまでには聲を出したい。

2024年7月18日 (木)

田川紀久雄詩語り

午前中は介護施設に行く。そのうち介護施設で詩語りライブを行う予定である。どのような反応があるのか楽しみである。「豊穣の海」の一部を語ってみたい。

2024年7月17日 (水)

田川紀久雄詩語り

神経を集中して語らなければならない、まず無の境地にならなっればならない。昔も語り方は座禅をおこなった。円朝などもその一人だ。私のかつて谷中の寺に通ったことがある。今の仏教はそれほど価値がない。本来の仏教から外れている。

 

2024年7月16日 (火)

田川紀久雄詩語り

『幻視の旅」を何度もかたっていてもなかなか思うようには語れない。落語家のある人は一日あればテキストを覚えてしまう。気力力の悪い私には無理なはなしだ。詩の朗読はあくまでテキストを見ながらかたるものである。テキストに尊敬をする意味がある。

2024年7月15日 (月)

田川紀久雄8四語り

午前中介護施設に行く午後からは昔のテキスト語る。語ることが楽しい。詩人の聲は北海道で公演を行うが私には何ら関係がない。自分の道を究めるしかない。

2024年7月14日 (日)

田川紀久雄詩語り

今日はいろんなテキストを語ってみた。どのようなテキストも語れるように準備しておきたい。

2024年7月13日 (土)

田川紀久雄詩語り

座禅をしても常にまよいが生ずる。これは平常心である。語りの精進も迷うことが多い。そのことに最近は気にしない。それは自然なことである。世界の政治を見ていても中道精神が見られない。極端な政治家が多い。

2024年7月12日 (金)

田川紀久雄詩語り

梅雨もあと一週間。歩行もだんだん良くなってきている。詩人の聲に参加できるようになってゆく。いまはテキストを語り込むだけだ。

2024年7月11日 (木)

田川紀久雄詩語り

介護施設に午前中に行く。夕方は内科の検診。私の詩語りも、ほとんど理解されていない。案内状も送っていない。天童大人のブログを見てください。二時間ほど撃つ聲を持っている。作品は聲の力がなければ生きてこない。テキストをひたすら4大聲で読み込むことである。

2024年7月10日 (水)

田川紀久雄詩語り

詩の朗読路いう言葉があるが、詩語りという言葉はない。語りというものは、語りものという世界が存在している。詩というものは歌うように語るのがよい。それを語るように朗読をする。詩人の聲でも私しかいない。いま8月29日のライブに向けて精進を積んでいる。

2024年7月 9日 (火)

田川紀久雄詩語り

毎朝詩語りの語りを行ている。8月のライブに向けての稽古である。詩の朗読は暗記しないことだ。テキストを見て語ることが大切である。これは義太夫と同じだ。聲は全く逆である。詩の朗読はあくまで自然体で語る。といって精進をしなくてよいとは言えない。詩人の聲を聴いていて、今まで関心をした人に出会ていない。はっきり言って全部ダメである。

2024年7月 8日 (月)

田川紀久雄詩語り

詩の語りのには、語りの聲というものがある。ひたすらテキストを語り込むことによって生まれてくる聲というものがある。落語には落語の聲がある。講談には講談の聲が圧。浪曲には浪曲の聲があるように、それぞれの修行がある。聲というものは何10年の時を要する。忍耐と努力が求められる。

2024年7月 7日 (日)

漉林書房通信

聲が思い切って出せない。これは手術のためなのだろうか。詩の内面を語るには丁度良い聲である。相棒は夏風邪をひいている。聲がガラガラである。こんなに暑くては語りの稽古にも身が入らない。まずは無理をしないでいきることだ。

2024年7月 6日 (土)

漉林書房通信」

こう暑いと頭の回転が思うようにいかない。詩の内面を語れる聲をだしたい。詩は個人の内面を語る世界であるので、その時代に影響されることはあまりない。他の芸能との違いでもある。

2024年7月 5日 (金)

漉林書房通信」

午前中整形外科にいく。
詩語りは娯楽ではないといっても、精進は芸能のように厳しく行わなければならない。魅力のある語りを目指しておこないたい。

2024年7月 4日 (木)

漉林書房通信

午前中介護施設にいく。今日は40℃を越した地域あった。施設で私の語りを聴きたくぃと言う人がいた。詩の語りは娯楽のためにあるのではない。難しい。

2024年7月 3日 (水)

漉林書房通信

聲はライブを撃ってみなければ解らない。部屋の中では何とも言えない。思い切り聲を撃ってみたい。

2024年7月 2日 (火)

漉林書房通信

毎日テキストを」語り込むことによって、詩語りのリズムが生まれてくる。他のことがあるので、毎日はきつい。相棒が休日だとできない。語りの練習は誰にも聴かれたくはない。落語は歩きながら練習を行うという。志ん生は諏訪神社の境内の隅で練習をやっていた。足の悪くないときは、公園で行っていた。そこいは公孫樹のがあって、その下で練習をおこなっていた。でも今はできない。つらい。

2024年7月 1日 (月)

漉林書房通信

午前中に介護施設に行く。今週から月と木の日に決める。眼が悪くパソコンの文字も見えにくくなっている。何かとても辛い。歩くのも思うようにいかない。

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