田川紀久雄詩語り日記
明日入院するのでこのブログはいったん休むことになる。いつ退院ができるかわからない。ライブの復帰もまだ解らない。
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明日入院するのでこのブログはいったん休むことになる。いつ退院ができるかわからない。ライブの復帰もまだ解らない。
テキストを読むことが大変である。活字がはっきりと見えない。視力もだんだんと悪くなってくる。テキストはなるべく心で読むようにしている。自分の作品を最期まで語ってゆこう。木曜日に入院だ。
今週の木曜日に入院だ。はやく腰を治して詩語りに復帰したい。未熟な詩語りでも行うことで、生きる歓びを味わえる。心の苦しみを抱えている人たちに語ってゆきたい。私の詩語りのCDを聞いてください。問い合わせは漉林書房まで。
ライブの時はつねに不安である。いくら精進をしても心配である。だから日々の練習が必要になってくる。人間はつねに目標をもって行動をする。そのことで成長してゆける。
聲の変化にたいして何も気にしないこと。つねに自然であればそれでよい。聲を撃っていく以外に何もできない。詩語りを超えた詩語りを行いたい。
詩語りは精進したからうまくなるのでもない。でも日々精進をしていかなければ、人に聴かせうる詩語りは生まれてこない。大切なのは心を込めて語ることだ。
詩を一時間も聴かせるのは難しいい。それにはまず体力が求められる。その上に聲の力も大切である。活字を語るだけでは駄目である。聴かせる力が必要である。友人だけが聴きに来るようでは上達しない。常に目に見えないお客に向かって語らねばならない。自分が語りたいテキストを書かねばならない。安易な気持ちではできない。
自然体で詩語りを行うこと。入院をしたらベットで黙読をしていこう。大部屋では聲を出して語ることはできない。一か月間の入院は苦痛だ。ライブを行ったら今までの詩語りとは異なると思う。今は懸命に精進をしてゆこう。
三のような太い糸の聲で言葉を語りたい。そして最後まで太い声を保ってゆきたい。それも魂の聲で語りたい。昨夜は足が痛んでほとんど眠れなかった。腰の痛みを治して早くライブを行いたい。あと10年は続けていたい。
今日も腰が痛む。「義太夫素人講釈」のテープを聴く。これは坂井さんが録音したものだ。眼の悪い私は活字が読めない。そこで坂井さんに聴きたい部分を録音してもらう。これは朗読論にも通じる。
昨日は一日中腰が痛む。何もできなかった。手術は10時間もかかるという。大手術だ。それなりの覚悟をもっていなければならない。残りの人生は詩語りにかけてゆきたい。語らなければならないものだ有る。
入院が31日に決まった。そして手術が5日である。大きな手術になる。生活が大変になる。詩語りを続けたい。この道には完成などない。失敗の連続でしかない。感動がなければ誰も聴かない。心の物語を語るのみである。感動だけが目的ではない。詩語り日記はたわいない話でしかない。
詩の朗読の世界では尊敬のできる先輩が存在しない。これではいくら努力しても真の朗読は生まれてこない。芸というものは年齢を重ねていかねばできないものがある。その出来ないものが芸という世界である。いくら私などがいっても解らないものには解らない。天童氏が始めた「詩人の聲」は、そのようないみでも大切なものである。芸術は感動があって成り立つものである。書かれた文字がいくら良くても語ってみて感動しなければそれは朗読にはならない。まず聲の力を身に着けることからはじめなけれえばならない。
詩の朗読はいくら修行してもどうにもならない世界である。それでもその道を極めてみたいと思う。今の時代では取り残された世界であろう。頑張るしかない。
詩語りは聲の力で語るものではない。それは言の葉に秘められている言葉の力で語らねばならない。言の葉を掘り下げていくしかない。丁寧に語るということはそのような意味でいう。それには日々の精進しかない。早く手術を終えてライブに復帰したい。ある人と一緒にライブを行ってみたい。
このところ不眠症が続いている。寝たのかどうかすら解らないときがある。18日には入院の日が決まると思う。詩人の中で朗読に対して厳しい精進を行っている人がいるのだろうか。朗読も音楽と同じように日々の精進が求められている。人に聴かせるということに対しては同じである。もっとお客を大切にしなければならない。
凄い聲で歌う人や詩を朗読する人はいある。聲がすごいだけでは、まだ駄目である。それはただ人の心を驚かすだけである。歌を聴く、詩を聴くことを意味していない。聲に酔っているだけで終わることがある。歌でも、詩でも聴かせることは凄い聲だけでは意味がない。言葉を聴かせることは並みの努力だけでは生まれない。人間そのものが語れなければ、語ったことにならない。
心が病んでいる方はいつでもご連絡を下さい。生命讃歌を求めて共い闘って活きましょう。
いま語るのが楽しい。部屋で語るので大聲では語れない。それでも嬉しい。台風が近づいてくる。それもゆっくりと。詩語りで少し稼ぎたい。病院代や生活費のために。末期がんやいろんな病を克服した人間として、いのちについてかたってゆきたい。心で苦しんでいる人たちに。問い合わせは漉林書房詩語りまで。
聲がでなない。そのために詩の内面を語ることに神経を使う。それを芸の世界まで高めることである。そして詩を語ることである。詩は演芸ではない。あくまでも「詩であらねばならない。
詩を語る。それはなんと素晴らしいことか。失語から生まれた詩語りは私にとっては大切な世界である。詩集を残せたおかげで詩語りが生まれた。人生の苦しみの中で生まれた言の葉。それを語らなければならない。そのために腰の痛みを治したい。来週は台風が来るという。入院がなかなか決まらない。足の痺れも出始めている。
丁寧に作品を語り込む。活字の裏に隠されたもう一つの作品を語る。身体にそれをしみこませてゆく。義太夫ではこのような表現をおこなってきた。それは三味線の団平がいた時までである。今の義太夫は単なる古典芸能にしかならない。形式だけで中身がなくなってしまった。詩の朗読は、言葉の垂れ流しでしかない。これでは聴き手がいないのは当然である。
言の葉の本質をかたりたい。そのための努力をしてゆかねばならない。それは情を語り込むことでもある。つまり人間性を深める行為である。無駄な言葉などはない。言の葉をひたすら語り込むことである。
テキストの直しを何度も行う。納得のいくまで直す。そして語る。
原爆や、戦争のことを人前で語りたい。原爆の日に詩人の聲が聴こえてこないのは寂しい。元気になったら少しは動けるかもしれない。
詩を語ることは、そうなに生易しいことではない。言葉に隠されている裏の世界まで暴かねばならないからだ。音楽でも音符を引いているだけでは案が苦にはならない。語りでも同じことがいえる。書かれている文字を追っているだけでは語りにはならない。今練習ができない状態だから、そのことを考えながら黙読をしてみる。
腰の痛みで詩語りの練習ができない。聲というものは毎日撃ち続けていないと聲は出にくくなる。一ヶ月も入院をしていたら私の聲はどのようになっているのだろう。今年の夏は猛暑で公園ではできない。聲の貯金などはできない。入院中は黙読で練習をするしかない。早くライブを行いたい。
書くという行為と、語るという行為は別なものである。詩の場合は書き手と語る人は同じである。これはいいようでもあるが、困る場合もある。詩の朗読がつまらないのは、そのことが深く問われていないからだ。芸を磨くには、大勢の人の前で行うことである。しかし、詩の朗読では、聴き手がほとんどいない。もっと多くの場が欲しい。
詩人の朗読はプロ意識がたりない。プロ意識がないものは、朗読自体が成長していかない。聲の垂れ流しになっている。いかなっる仕事でもプロ意識のないものは滅びてゆく。私のところにも朗読に対する質問をしてくる詩人はいない。私も80歳を越してからやっと詩を語れるようになってきた。日々の精進の積み重ねが大切である。
入院日がまだ決まらない。中ごろになるかもしれない。18日にコルセットを作る予定である。入院はその後になる。ネコのことが心配である。聲を維持してゆくことが大変になる。多淫したからと言ってすぐ詩語りが行えるものでもない。復帰するのは10月ごろになる。あとは死に物狂いになって闘うしかない。
9月もライブは中止である。入院が伸びる。腰をしっかりと直しておきたい。
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