田川紀久雄詩語り日記
落語で師匠は弟子に何も教えたりしない人がいた。教えたものは真似になるからという理由だ。詩の朗読も他人に伝授できるものではない。詩人は自己の詩集を前提にして朗読を行う。自分で聲のリズムを見出すしかない。文楽の人形では足に6年から10年を要するという。詩人の聲は詩を語るにはやはりそれぐらいの時を要する。それまではひたすら聲を撃つしかない。人前で語れるになるまでは最低でも10年は必要である。今の詩人はすぐに人様に聴いてもらいたがる。考え方が甘いのである。
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落語で師匠は弟子に何も教えたりしない人がいた。教えたものは真似になるからという理由だ。詩の朗読も他人に伝授できるものではない。詩人は自己の詩集を前提にして朗読を行う。自分で聲のリズムを見出すしかない。文楽の人形では足に6年から10年を要するという。詩人の聲は詩を語るにはやはりそれぐらいの時を要する。それまではひたすら聲を撃つしかない。人前で語れるになるまでは最低でも10年は必要である。今の詩人はすぐに人様に聴いてもらいたがる。考え方が甘いのである。
ライブでうまくいったと思ったときは、後で聴くと思いのほか悪いことが多い。また失敗であったとき、聴きなおすと思いのほかよいできばえであったりする。ライブはなかなか難しいものである。調子の悪いときは丁寧に語り込むことが多い。慎重に語ればよいというものでもない。語りにはリズムがある。これは何度練習しても思うようにいかない。志ん生によれば出来の良し悪しの悪いほど良いという。人生と同じかもしれない。
昔の芸人は命がけで修行したものだが、今ではそのような芸人は見当たらない。詩人の朗読では公開する場がどこにもない。それに聴き手が集まらない。つまり金にならない。詩の朗読はほとんどの人が聴きたがらない。そのためにも詩を本当に聴かせる詩人が出てこなければならない。詩人の聲から数人の詩人が詩を聴かせる力を持っている。まず聴くことから詩の朗読を好きになっていこう。
丁寧に語ればなかなか詩語りにならない。でも今年は丁寧に詩を語ることから行わないとならない。思うような詩語りが出来なくてもいまは辛抱して語ってゆくしかない。いくつになっても芸というものは修行の道である。聴き手に納得してもらえるまでは、つねに修行である。
久しぶりの雨だ。ネコに向けて詩集を語る。外で語るのと部屋で語るのでは気分が全く違う。部屋では聲を撃つというよりも、詩集を語るといった気分である。ライブの時は外で語っていると同じ気分で語っている。まだ元の調子には戻っていない。詩を語るのは本当に難しい。
人の朗読を聴くことだ。下手な人も。上手い人も、それなりに聴いていれば収穫があるものだ。今の詩人の聲では他人の聲を聴く人がほとんどいない。CDを出して交換し合えれば良いのだが、それすら行わない。修行を行うことは、自分の朗読のみを考えている人は修行の心ができていないと言わざるをえない。今の時代は芸談という世界が生まれてこない。寂しい世の中になってしまった。
午前中、整形外科のいく。まだ少しの運動でも息が切れてしまう。どのような世界でも高みを極めるのは死ぬ思いの努力があって可能性が生まれる。才能などはほんの小さな世界でしかない。
女性の俳優が詩の朗読を行っていたが、それは聴くに与えしないものであった。詩の心を殺した語りであった。ある意味で腹が全くできていない。ただ言葉を読んでいるだけだ。詩を朗読をすることは本当に難しいことなのだ。名のある俳優だからと言って出来るというものではない。そのことがテレビ局は理解していない。詩人の心を語らなければならい。詩の活字を朗読するのではなく、詩のいのちを朗読することだ。これでは誰しもが朗読など聴きたがらなくなってしまう。
歩くとまだ息が苦しいが、テキストをいくらか語れるようになってきた。友理さんも6月にライブを行う。目標をもってやらないと先には勧めない。いま吉田文五郎の芸談を相棒に読んでもらっている。芸は教えられるものではない。自分で掴むしかない。死ぬまで修行である。詩の朗読や詩語りも芸の世界である。趣味で行うものじゃない。
入院をすると体力が衰えている。聲を出すにもすぐに息が切れてしまう。今月いっぱいは元に戻るのが困難であろう。無理をしないで体力をならしていくしかない。
退院をしたが大変な思いをした。手術を二度行った。それでも判らない心電図に異常な数値が出る。原因が不明なので再検査をおこなう。心臓の検査はつらい。
今日心臓の手術で入院する。これが機会で詩語りに変化が生まれることを期待したい。人の心に役立つ詩語りを行いたい。精進に力が入りこんでゆきたい。あくまでも生命讃歌を求めてゆきたい。
「旅人として」の詩語りテキストを作る。これは6月に語る予定である。詩語りでネコの餌代ぐらい稼ぎたい。芸というものは人を引き付けるものがなければ、だれも聴きにはこない。お付き合いで行っていては進歩をしない。人の心と分かち合う詩語りの出前を行いたい。いろんなことを話し合いたい。末期ガンのことや心の悩みなどを寄り添いながら語り合いたい。一般の家でも出前をいたします。詩語りの三篇ほど語らせていただきます。あなたに寄り添う詩語りをいたします。
こころに響く聲を撃つことは困難なことである。単に活字を読んでいるだけでは感動を伝えることができない。と言って大聲で叫べば、言葉が陳腐にしか聞こえてこない。迫力と感動はまったく別な世界である。雨の日は、猫に向けて詩語りの稽古をおこなう。
午前中眼科の検診。しかし、朗読を批判するのは誰でもできるが、いざ自分が行ってみると、なかなか聴けるか語りができない。それも一時間続けて語れるかというとできるものではない。まずは聲の力量がないと方tれないものだ。温みのある聲で文章を語れる人は少ない。今の学校でも文章を語ることを教えていない。読むと語ることは別な次元である。落語家の文楽は一つの作品を仕上げるのに三年もかかったとという。今の落語家がつまらないのは徹底的に作品を語り込んでいないからだ。語りは難しい。
師匠がいるということは、それは芸能だからだ。しかし、詩の朗読の世界ではそのような師匠は存在しない。だれも朗読で厳しいい修練をしてこなかったからだ。師匠とお弟子の関係は大切なことである。それと詩の朗読を聴かせる場がどこにも存在していない。日本詩歌文学館ですら「詩人の聲」の詩人たちは招待されていない。私の前回のライブはやはり途中から息切れをしていた。それでもそれなりの詩語りになっている。現在は一時間語れる体力をつけている。それはシルバカーでいくらか散歩を始めた。
狂言の芸談を読むと修行時代は厳しいものである。今では寒げいこなどできない。すぐにうるさいと近所から怒鳴られてしまう。聲というものは削るものらしい。詩語りでも同じことがいえる。無駄な力みは剃りとっていかねばならない。聲には確かに聲の力が求められる。それが目的ではない。聴き手に言の葉こころを届けることが最終的な目的である。八十歳にならなければわからないものがある。芸の道は死ぬまで修行である。
詩の言の葉こころをゆったりと伝えた詩語りを行いたい。テキストを語れるまでに何ヶ月もかかってもよい。今までの詩語りとはまったく異なってもよい。言の葉をいかす語りが出来ればありがたい。これも今まで詩語りを一生懸命で行ってきたから言える。全くの無駄なことはない。一時間語れる体力をもちたい。のどの痛みはまだあるが、それも耐えていかねえばならない。
あと一種間で入院だ。もう無理な聲で詩語りはできない。テキストの言の葉こころを伝えて行ければそれでよい。とはいいえ詩人のような朗読はしたくはない。生命讃歌を語れれば求めてよい。退院が出来たら、何処でも良いからかたってゆきたい。
床を磨くようにテキストを無限に語り込むことだ。その中から自然な語り口が生まれてくる。今詩語りを誰かに伝えてゆきたい。周囲を見ても誰一人もいない。今私はテキストの語り口を聴いてもらいたい。
また少しづつ詩語りの練習を始めだした。病院から心臓の薬をもらっているので、それほどの苦しみもない。来月に延びた詩語りのテキストを語り込んでいる。その間に新しい詩語りのテキストを作り上げている。なぜ詩の朗読のCDが売れないのかわからない。詩人たりは詩を活字で読むものだと思い込んでいる。
いま目が悪く読書ができない。そこで相棒からこのところ読んで聞かせてもらっている。毎日10分程度。詩の朗読を聴きたい人は多くいると思う。まず手に取って聴いてもらうことからしか始まらない。聴くことはとても楽しい。
詩の朗読では暗記をしてはならない。私は語ってことを忘れる。語る時は常に新鮮な気持ちでかたりたい。芝居というものはセリフを暗記しなければ何も始まらない。しかし詩の朗読は芝居とは逆なことを行う。しかしテキストは何度となく語り込まなくてはならない。その作品を初めて語る気持ちが大切なのである。詩人たちは、優れた詩語り人を聴こうともしない。学校の授業にでも取り入れてくれればと思う。肉聲を聴くという試みは必要なことである。学校の先生がいたら考えてもらいたい。
公演で詩さしぶりに語ってみたが、聲が出ていない。語りに少しづつ聲をならしていくしかない。部屋でのこえと、外での聲とでは全然異なる。詩は詩を語る聲が求められる。肉聲でどこまで人の心に食い込むことができるのかが大切である。怒鳴るような聲は必要がない。あくまで心に届く聲であればよい。一番大切な聲は愛を感じる聲である。それも自然な愛の聲である。日々の精進はそのために行う。詩人の聲について話し合える朋が欲しい。
言の葉のぬくもりを伝えてゆきたい。いまはそのための詩語りを目指して精進をしてゆきたい。これからのCDでもその聲の響きを求めたい。この度の心臓の病でそのことを理解した。もう無理な聲を出せない。詩語りでも最後の地点に差し掛かっている。詩人というものは生きているときは報われることがない。できることは詩語りの痕跡を残しておくことだ。それがわたしにとってCDの制作である。
ライブを行うにはおお聲で100回以上テキストを語り込む必要がある。ある意味で毎日語り込んでいなければならない。詩の語りは言葉に感情を入れてはならない。語り込む中で言葉を膨らませていくことである。簡単であってなかなか難しい。人様に聴いてもらうということは、見知らぬ人にも聴いてもらうことである。当然批判もある。それに耐える努力が求められている。
詩語りではいのちの光について語っている。人の心に温もりを与えてゆきたい。聲を聴くというよりもテキストの言葉を聴きとってもらいたい。一時間近く語れる聲の力を取り戻したい。毎日語り込むことによって力をつけてゆくしかない。詩語りの豊かさは、日々の精進しかない。五月には詩人の聲でライブを行いたい。
毎日気温が大幅に変わっては身体がつらい。詩語りの稽古も今のところはできない。心でテキストを丁寧に語り込む。ライブで語っても聴き手がいない。それでもライブに参加している詩人がいる。私にとってはもう聲を鍛える場所ではない。CDを残す。ただそれだけ。そのCDすら聴き手がいない。孤独だ。分かち合える朋がいない。
今日は朝から心臓が苦しく感じられる。気温のせいかもしれない。詩の朗読のことを考えていると何もかもが分からなくなってくる。詩の朗読は本当に困難である。心臓が苦しくなると、聲も出なくなる。今まで詩語りとしてやってきたが、何の意味があったのだろう。入院までまだ十八日もある。
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