田川紀久雄詩語り日記
詩人たりのほとんどが同人誌でしか活動をしていない。それ以外は無関心である。詩人の世界は個人まりした社会だ。「詩人の聲」に気づく詩人などいない。言葉が活字だけの世界ではない。聲に乗せることも必要である。本当の生きた聲に活字を載せてみようともしない。聲は三メートルの広さがあれば充分である。活字を聲の力で聴き手に手渡す。この日本ではそのような場所はなかなか生まれてこない。不思議な国だ。
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詩人たりのほとんどが同人誌でしか活動をしていない。それ以外は無関心である。詩人の世界は個人まりした社会だ。「詩人の聲」に気づく詩人などいない。言葉が活字だけの世界ではない。聲に乗せることも必要である。本当の生きた聲に活字を載せてみようともしない。聲は三メートルの広さがあれば充分である。活字を聲の力で聴き手に手渡す。この日本ではそのような場所はなかなか生まれてこない。不思議な国だ。
生きていることは苦しい時が多い。だから私はいのちのこころを聴き手に伝えてゆきたい。いま私はネコに助けられている。ネコの詩を書きたいのだが、詩は頭に浮かんでこない。私の聲を一人でも大木の人達に聴いてもらいたい。そのためのCDを制作しているののだが、聴きたいという人が現れてこない。数人の人達の前でもライブを行いたい。15分ほどでもよい。そしていくらかでも生活の足しにしてゆきたい。歩くこともままならない。肉体的な仕事はできない。年金ではとても食べてはいけない。詩語りの出前の仕事が欲しい。
温みのある聲を撃ちたい。聲に愛を感じさせたい。そのための語りを行いたい。平和と人々の幸せを祈願した詩語りを行ってゆきたい。このような詩語りを企画してくださる方がいないものだろうか。詩人の願いはなかなか世の中には伝わらない。絵の個展会場にイベントとして呼んでもらいたい。電話090ー1845ー4560までご連絡していただければ幸いです。
「風の詩」のCDを何度も聴く。自分の未熟感を味わう。そのことで先に進むことができる。多くの人に聴いてもらいたい。感想をいただける人には無料で贈呈いたします。ご連絡ください。どのように聲が届けられてゆくのかを知りたい。
詩の朗読で一時間を聴かせるのは至難なことである。テキストによっても語りやすいの語りづらいとのがある。最近体力的に衰えている。いまのところ一時間も語れる場所は「詩人の聲」しかない。できる限り詩語りのテキストをCDとして残しておきたい。多分一時間のテキストを三十本も残している詩人は私以外にはいないだろう。当然、出来不出来はある。これから朗読を試みる詩人にとっては参考になる。これからは深みのある詩語りを目指してゆきたい。
「風の詩」のCDが出来ました。頒価1,000円です。多くの人に聴いていただきたいとおもいます。このテキストはいのちの詩であります。また詩語りをさせていただける場所があったら教えてください。詩語りのいのちの聲をお聴きください。言葉が心に響いてきます。平和をいのりいのちの大切さ訴えています。
大相撲を見ていると勉強になる。コツコツと努力することしか強くなる方法がない。それは詩語りでもいえることである。努力をしない人間には未来がないということだ。この努力に毎日悩んでいる。進歩がまったく見えてこない。聲の響きは会場によって全く異なる。基本は毎日テキストを語りこむ。ただそれしか二。聴き手が来ないライブを行い続けるのは苦しい。いまはこれに耐えていく以外にない。自己との闘いななのだ。
「永遠なる大地」はいくら直しても語るたびに赤字が出る。
島村直子さんからかんぱをいただく。ライブを聴きに来ていただいたのに申訳がない。聴きやすかってと言われた。いま身体では何もしてあげられない。私を応援してくださる方がいるだけでもうれしい。ユーチューブで検索する場合、「詩語り人 田川紀久雄」だとすぐに映像が見られます。島村洋二郎展でのライブの映像も見られます。
午前中にワクチンの注射をしに行く。CDを聴いてくれる人を探しとぇいるのだがなかなか見つからない。送ってみても何の返事もくれない。どのように聲が届いているのかをしりたい。批判があればありがたい。語り手は、聴き手によって育てられる。詩人の朗読は知り合いの人しか来ない。それもほとんどがお付き合いである。だから素直な意見が聴けない。日本の社会では詩の朗読を聴きたいという人はいない。それはまずつまらない。それに語り手に技量がない。詩の聲を学ぶ場所がどこにもない。何も先がまったく見えてこない。私のCDがお役に立ちたい。ユ―チューブで私の詩語り「祈り」を聴いてもらいたい。
納得のいくまでテキストを直す。毎回語るたびに赤字がでる。テキストは数年前に書いたものだ。当然精神状態も前とは異なっている。語っるたびの変化するのも当然である。ライブでも出来の不出来はある。安定をしたライブは難しい。だからこそ日墓の精進が求められる。
ライブで語っている詩集はすべて改訂版である。語るたびに詩集は成長している。ウクライナ問題で世界が一つにまとまらなくなっている。平和という問題はとても難しい。それぞれの国の事情もある。国民の生活を守る。安易な平和論は語れない。しかし今の日本は憲法9条を守らなければならない。その9条が崩れ去ろうとしている。吟遊詩人んは12月のライブでこのことを語ってみたい。
今日はわき腹が痛む。これは季節の変わり目で起こるのかもしれない。公園でもなかなか練習ができなくなっている。高架線の下の工事で落ち着いてできなくなっている。私の詩語りは、つねに新しい詩集を語るので、語りこみができないとうまくいかない。最低でも100回近く語りこみたい。お金を取るライブである以上当たり前のことである。納得のいかないテキストなどお客の前では語れない。それにCDの制作のためにも語っている。何とかしていかねばならない。
昨日のライブは私としては最高の詩語りであった。でも私の聲は癖があって人によっては嫌う方がいるかもしれない。悪聲がまたそれが味といえばいえるのだろう。島村直子さんとも話すことができた。
そっそくSDを松岡さんに届ける。来週の木曜にごろにCDが出来上がってくる。いまから楽しみだ。詩の朗読を約一時間にわたって聴くことは大変なことだと思う。今の私には一時間を聴かせるだけの技量を持っている。それは日々の精進によって作られたものだ。ライブは毎回不安であるがその緊張感を楽しんで語っている。同じテキストを私は一度も語っていない。それゆえに語るたびに変化をしている。テキストがすべて語りやすいものばかりではない。それの体調によっても変化する。ライブは楽しいが毎回不安でたまらない。
今日、駒込平和教会で「風の詩」のライブを午後7時より行う。練習期間が短かったが、それなりに練習ができた。今日は島村直子さんが聴きに来てくれるという。先日池之端画廊で島村洋二郎の絵と先生であった里見勝蔵展が行われたが、どうしても足が悪いので行けなかった。直子さんにはいろいろとお世話になったが何もできない。最近知り合いの人がなくなってゆく。いま外に出かけるのは病院と自分のライブだけだ。駒込は駅から一分のところに会場があるので何とか行ける。でも出前詩語りにお呼びをいただければどこにでも行きます。
詩語りの世界が完成に近づいてきた。あとは自信をもって語ればよい。何としてでも稼げる詩語りにしたい。平和とすべての人たちの幸せを願って語ってゆきたい。そのためのテキストを語り続けている。ユーチューブで田川紀久雄「祈り」を聴いていただければありがたい。いま猫の餌代に困っている。私たちを頼ってくる外ネコがいる。避妊をした猫たちである。猫の餌代も値上がりをした。まったく収入のない私には何としてでも詩語り公演を行いたい。だれか呼んでくれないだろうか。
17日に語るテキストにまだ赤字を入れている。納得がいくまで原稿を手直しをする。毎月新しいテキストを語るのはしんどい。CDを制作する以上、同じ語りを行いたくはない。100冊以上ある雌雄なのだから、それを語れるように」手を入れて」語るだけだ。CD用テキストが私の詩集である。活字の詩集は私には必要がない。いのちと平和を願って語り続けたい。
一時間の詩語りはある意味でしんどい。「詩人の聲」は一時間詩を朗読することが目的で行われている。詩人たちの間では一時間も一人で行うことはまずない。普通なら聴き手が疲れてしまう。いままで聲を撃つという概念が詩人たちにはなかった。でも詩人の世界には聲を撃つという行為が伝わってゆかない。詩人たちは詩を一篇かニ編を語るしか経験を積んでいない。難しい世界であるが一時間詩を朗読できる詩人を増やしてゆかねば何も変わらない。
詩語りは、あくまで詩を語ることである。それは歌舞伎のと似通ている。それは自然体で行うことが求められている。詩語りはある意味で非常に難しい。毎日の精進が求められる。なかなか思うように語れない。誰も聴いてもらえないことはとても悲しい。どうすればよいのか。
朝起きると腰が痛む。毎日からだのどこかが痛む。
いま、聲で語りを聴かせるのでなく、詩の内容で聴かせたい。そう思って心を込めて語っている。外での練習はやりにくくなっている。なかなか思うような練習場所がない。生きることが難しい。
今月の17日にライブを行います。「風の詩(うた)」を語ります。場所は駒込平和教会です。問い合わせは天童大人氏まで。いままで「詩人の聲」で44回も語ってきた。これらはすべて記録に残してある。いまは昔より聲が出なくなっている。そのかわりに詩の内容が深まっている。聲も旅のようなものだ。変わる聲に楽しんで語れればよい。あとはあなたに聴いてほしい。聴き手の酔って語りにも変化を与える。それが語り手としての楽しさでもある。
詩を語るのは難しい。それはいのちを語りたい。いのちは漠然としているが、確かに存在している。喜怒哀楽のなかに隠されている。どこでも語れるが、今の世界ではなかなか見つからない。詩の朗読などというと世間から敬遠されてしまう。古典芸能もだんだん聴く場が失われている。寂しい世の中になってしまった。大きなイベントには人が集まる。そして韓国のような事故につながる。何が楽しいのだろうかと思ってしまう。もっと個人の生き方を大切にしてゆきたい。
聲で詩を表現するのはとても困難である。悪聲でも自分の聲である以上それを受け入れるしかない。テキストを大切に丁寧に読む込むしかない。歳をとると聲の力も衰えてくる。致し方がない。すべてを受け入れて生きるしかない。その上で聲を鍛えていくしかない。数人に「風のこころ」を送ってみた。どのような返信が来るのか。
坂井のぶこの麻生知子の朗読の映像がユーチューブに入っていた。麻生知子の詩は哀しいが素晴らしい。普通の詩人が亡くなると二度とよみがえることがほとんどない。語り継ぐ詩があってもよい。有名な詩人はそれなりに残ってゆくが、語らないと消えていく詩人がいる。そのようなCDを残したいと思う。しかし今は語る場がない。
自分の聲にもっと自信をもたねばならない。聲を聴かせるよりも詩の内容を聴いてもらいたい。そのための聲であればよい。いのちそのものを語る。末期がんの経験者にはどうしても語らなければならないテーマである。それには詩語りがもっとも語りやすい。どこでもよいから命について語れる所はないものか。仏をいのちとルビーを振って語っている。あらゆる宗教を超えた命を語りたい。私が求めているのが自然仏(じねんぶつ)である。風のこころのCDに収められている。ぜひ聴いてrもらいたい。
やはり自分の聲を聴くのは嫌なものだ。いやだと思ってもそれを否定してはならない。その聲と向き合って生きていくしかない。確かに録音した聲とライブの時の聲は違う。それは致し方がない。詩人たちがCDを制作しない気持ちもわかる。
今の私は聲よりも詩の内容を聴いてもらいたい。でも活字ではなく、あくまで聲を通して聴いてもらい。いのちを語る。それを深めた聲を撃ち込んでゆきたい。
「風のこころ」のCDが出来上がった。詩の朗読を行い方には一度は聴く価値がある。田川紀久雄の世界が深まっている。詩は平和を祈るうえでも大切な要素である。吟遊詩人の聲を聴いてみてください。ご希望の方が漉林書房まで。
CDは多くの人に聴いていただけなければ意味がない。と言ってやたらに送ってもしょうがない。CDの再生機持っていない方もいる。生きる意味を常に問い続けてきた。詩は楽しいからと言って聴くものではない。聴くということはなかなか難しい。今日CDが出来上がってくるかもしれない。楽しみに夕方まで待っていたい。
どうしたらライブのお客を増やすことができるのであろうか。年金額の少ない私には、ライブにお客が来ないのは苦しい。せめて十人程度でも集まればよいのだがそれができない。詩人の聲自体でも十人は集まらない。もしきても義理程度であつまる。これではお客とは言えない。まず詩の朗読や詩語りが聴きたいという人が集まらなければ意味がない。そのためにもそれだけ魅力のある世界を築かなくてはならない。いまのところそのことすら難しい。まずは会場に足を運ぶことから始まるのだが。
詩の朗読はつまらないと思っている詩人が多い。でもだれも詩語りを聴いてはいない。心の底から言葉が生まれてくる。そのような語りをできる詩人が今までいなかった。詩語りはお客と真剣勝負を行う。ユーチューブで田川紀久雄「祈り」を聴いていただければわかる。芸能とはまた一味違った楽しみもある。詩人の中でも詩語りは私しかいない。ある意味で芸能のように聲を鍛える必要がある。基礎の聲の力である。その人の生まれついた聲を鍛えてゆけばよい。そのためにはテキストを何度も語りこむことである。それ以外何も求めない。自然に生きて行ければよい。
「風の詩」を語りこめば直しが出てくる。余分な箇所が出てくる。新たな詩集を生み出しているような気がしてくる。語りのテキストが本当の詩集である。聲で残した言の葉が詩集だといえる。無心になって語りこんでいこう。CDの中に私のすべてがある。
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