田川紀久雄詩語り日記
昨日のライブ「鐘の音」は最高の出来栄えであった。来週にはCDが出来上がってくる。平和を願い弱者が救われる世の中を目指して詩語りをおこなった。活字が霞んで文字がよく見えない。いつ失明になるかもわからない。もうすこし詩語りでCDを残しておきたい。コロナではお客がこない。生活が苦しい。だれもCDを購入してもらえない。詩人の聲の詩人も他人の朗読は聴かない。研鑽が研鑽がたりない。哀しい。出前の仕事が欲しい。
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昨日のライブ「鐘の音」は最高の出来栄えであった。来週にはCDが出来上がってくる。平和を願い弱者が救われる世の中を目指して詩語りをおこなった。活字が霞んで文字がよく見えない。いつ失明になるかもわからない。もうすこし詩語りでCDを残しておきたい。コロナではお客がこない。生活が苦しい。だれもCDを購入してもらえない。詩人の聲の詩人も他人の朗読は聴かない。研鑽が研鑽がたりない。哀しい。出前の仕事が欲しい。
今日詩人の聲ライブがあります。「鐘の音」を語ります。まだ一度も聞いたことのない方はぜひ一度は聴いてみてください。
話は異なりますが、川崎のラップと一緒に語り合ってみたいと思います。川崎区の下町から生まれた叫びの聲です。詩とかラップなどと区別する必要がないと思います。魂の叫び聲であればみんな同じであります。
昨日は一日中調子が悪かった。胃カメラ以後何もする気が起こらなかった。16音円の無駄な費用が消え去っていった。今生活苦苦しんでいる人たちにいくらかでも手渡したほうがよかった。気分が悪かったのも国葬がテレビで流れていたせいかもしれない。
よい詩には感動があるものだ。それは哀しみをこえた生命への感動である。吟遊詩人は魂を語れる詩人でなければならない。
今日は胃カメラの検査日である。一年委一回行っている。詩のライブといってもお客がいないのではライブとは言えない。そこで私はCDの制作を目的にこのライブを行っている。詩人でCDを制作する人はまずいない。詩人のCDは売れない。日本は詩人に対して尊敬の念がない。私の周囲を見渡しても聴きたいと思う詩人がいない。なぜ詩語りを行うのかは聴いてもらえれば解る。感動を与えられる詩語り人になってゆきたい。
是に詩で語ってみたい詩人がいる.1950年に35歳で亡くなった詩人淵上毛銭であつ。病との闘いの詩は胸に迫ってくる。これこそ魂の詩である。詩というものは心の叫びでもある。でも私は今のところ他者の詩を語ることをしない。依頼が来ない限り他人の詩を語ることはしない。自分の作品を語ることで精一杯である。「鐘の音」は最高の詩語りを行いたい。
「蘇生」のCDが出来上がりました。ご希望の方は頒価1000円です。詩語りを学びたい方には、良い資料となります。毎回出来不出来あります。そのことも勉強になります。ライブなので電車の走る音も入っています。詩人は他者の聲をあまり聴くことがありません。いろんな人たちの聲を聴くことが大切です。聲というものは毎日の精進が大切です。今私は心で詩を語ることに力を入れています。なかなか難しい。でも毎日が楽しい。『聲を求めて』からの詩語りに安定感が出てきました。やはり続けてCDの制作が大切なことです。自分の聲を成長させるには並大抵の努力だけでは不可能です。聲と詩の内容が一致しなくてはなりません。大変なことです。
台風が近づいている。相棒は会社だ。詩語りの仕事が入らいない以上生活は苦しい。こう物価の値上がりでは生きるのが精一杯である。なんのゆとりもない。腰が痛いので公園には出かけられない。家の中で小さな聲で稽古をするしかない。
ロシアはもう戦争を止めるべきだ。これ以上続けるとロシアが崩壊してしまう。他国を侵略して勝った国はない。戦争をしないためにも憲法9条を守っていかねばならない。
心を語れる場が欲しい。そこでいのちの詩語りを行ってみたい。いろんな人たちが自由に集まれ、いろんな話し合いの場が生まれる場が必要なのだ。詩を語れても、人に役立たなければ意味がない。ユーチュ―ブで「祈り」を取り入れだが、まだ聴き手がそれほどいない。でも聴いていただいた方には感謝をいたします。心を苦しんでいる方にはぜひ「祈り」を聴いてほしい。CDの制作もユーチューブも松岡さんに行ってもらっている。いのちのこころを語れる詩人としてCDの制作に励んでゆきたい。詩語りも最高の表現をしてゆきたい。自分のこころを語ってみよう。詩人でなくてもよい。素直な気持ちで心を語れれば、それが詩になる。苦しみはいのちの言の葉の操車場である。詩語りに関しての質問は田川紀久雄まで。090ー1845-4560
今月のライブは9月29日 駒込平和教会で行います。『鐘の音』詩集を語ります。ご予約は天童大人まで。平和と命についてをテーマにしております。ウクライナ問題は、一日も早く平和が戻ってくることを願うだけです。原発にもしもの事故が起これば、世界中が大変なことになってしまう。戦争の無意味なことが明確です。吟遊詩人は世界の平和を願って語ってゆくことです。
台風で避難してもペットを一緒に連れていけないのはおかしなことです。今はペットじゃ家族と同じです。日本は動物に対しては遅れています。ペットと一緒に避難できる場所を作るべきです。
朗読や詩語りには地聲がよいのだが、小学生頃になるとその地聲が無くなってくる。それが学校の音楽の時間によって西洋式の聲におき変わってしまうからである。日本人の本来の聲を忘れてしまう。大人になって詩の朗読を始めると、朗読には適さない聲で詩を読むから聴き手はいなくなる。この悪循環が繰り返されている。聲というものは日常の生活で決まってしまう。詩人はそれすら知ることがない。本来の地聲に戻さなければならない。それには数年では無理だ。日々の訓練を何十年と行わないと生まれてこない。
詩人の聲というものは個性が求められている。それでいて言葉をはっきりと伝達しなければならない。わめいて何を言っているのかさえ分からない詩人もいる。個性が求められているのと、いい加減な個性とは話が違う。私も若いときはわめいていた時もあった。詩人の聲をいくら研鑽をしても、詩人の聲を聴く人はいない。このことは寂しいことだ。画家の松田正平さんなども会員からも非難されていた。松田正平さんの絵は心を癒してくれる。けっして幼稚な絵ではない。立派な才能のある画家である。デッサン力だけで画家の評価を判断するのは誤りである。表現をすることの意味を掘り下げてゆくべきだ。
腹式呼吸といっても、能や狂言のように謡いのような全部腹からの聲は詩語りではしない。詩語りはあくまで語るものである。節談説教の聲の出し方でもない。あくまでも詩を語ることである。腹式呼吸といっても別な世界である。のど聲と腹聲の組み合わせである。これを自然体として語ってゆく。私のユーチューブ・田川紀久雄「祈り」を検索してみるとわかると思う。古典芸能でいうと説協節に近いかもしれない。二代目の若松若太夫さんとも話をしたことがある。いまの三代目ではまだ説教節の聲にはなっていない。ひたすら語るだけの世界である。詩語りも語って語ってゆくしかない。その中からしか生まれない。詩語りを行いたいという方がいればいろいろと教えることがある。趣味の気分でやっていては何も得ることはない。ある意味で命がけな仕事でもある。私もまだまだ詩語りの半ばまでしかたどり着いていない。人の前で行わなければ成長しないいま。コロナでまったくお客はいない。つらい時代だ。いのちのやさしさを語ってゆきたい。
大型台風が九州に上陸する。日本列島を横断するかもしれない。今度は関東地方も大きな被害が出そうだ。
詩語りの聲は腹から出さねばならない。そこに聲の重みを出すことができる。詩人たちは腹式呼吸ができていない。これができなければ聲にならない。詩人の聲に参加している詩人はこの腹式呼吸を身に着けてもらいたい。相撲さんのように毎日稽古に励んでいくしかない。聲もスポーツ選手のように努力が求められる。その聲を10年も続ければ立派な朗読者になれる。詩語り人はそれを10年以上続けられた詩人のみが許される言葉である。詩語りという言葉を使っている詩人がいるが、私の聴いた限り詩語りの聲にはなっていない。今はユーチューブでいろんな詩人の聲を聴くことができる。多くの詩人のまず聲を聴くことから朗読を始めればよい。
腰の痛みで公園では練習ができなくなりつつある。年を取ると誰でも身体の一部が悪くなってくる。相撲でも身体の傷は誰でも持っているという。それを乗り越えて土俵に上がっている。我慢できるところまで行ってゆきたい。そのためにも聲が楽に出るようにしてゆきたい。故障が起こるから芸人はつねに工夫をしている。同じことを行っているようだが、毎日新しいことを行っている。詩語りの第一人者としても頑張ってゆきたい。
詩語りには二つの方向性がある。お客を相手に楽しみながら行う方法と、私のようにCDのみを残して行う方法がある。このコロナ禍の中ではお客が来ることは考えられない。この一年間はゼロであった。これは当分続いてゆくだろう。一般の詩人たちが聲に対して関心を抱くまでは無理な話だ。ということはこれから先もお客は繰る気配はない。CDを残しことを考えたのはこのコロナ騒動がきっかけであった。詩語りの形跡を残しておきたかった。今から思うと一年間のCDは満足がいくものが生まれなかった。それが二年半してきたところから詩語りに変化が生まれてきた。今は聲のぬくもりを求めて語っている。戦争がなくなる世界を求めて平和を祈ってゆく。そのためには温もりのある子rが必要である。会場が教会であることも意味があると思う。平和のための戦争などというものは存在しない。吟遊詩人はひたすら愛と平和を願って言の葉を語ってゆくだけだ。
ここ数日腰が痛く公園まで練習に行けない。11月17日(木)にライブが決まる。「風の詩(うた)」を語る予定にしているのだが、テキストをずいぶん直さないと語れない。私は練習期間を十分とっていないとライブが不安なんだ、納得のいかないライブは行いたくはないからだ。
相棒の手術を昨日も行ったという。私一人で猫の世話やいろいろとやることが多すぎる。早く退院ができることを期待する。
詩人の聲も高齢化が進んでいる。若手で元気のある詩人が出現してこないだろうか。早い時期から聲に打ち込んで行ければ、詩人の生き方も変わってゆけるだろう。なぜかというと詩の朗読のできる場がそれほど存在していない。一時間も撃ち込みのできるのは天童大人が企画している「詩人の聲」しかない。5分程度の朗読では成長ができない。コロナ禍の中では朗読会も全滅に近い。毎月いままで一度も語っていない詩集を語り続けている。もうすぐで三十回を迎える。行うことはしんどいがまた楽しいともいえる。これらすべてCDとして残している。日本では誰一人も存在していない。それもすべていのちのひかりに向けて語っている。
詩の朗読や詩語りは、落語や講談と違って人々の楽しみのためのものではない。当然誰からも聞かれなくても致し方がない。その個人にとって大切なものであるということだけである。でも人間にとってもっとも大切なものでもある。それは魂との問いかけである。心を癒し生きる勇気を与えてくれるものである。ユーチューブ「祈り」も一人二人と聴いてくださる方がいる。私は魂の吟遊詩人でいたい。ただテキストを語る詩人ではない魂を語ってゆきたい。
いま相棒が目の手術で五日間も入院だ。猫のミーと一緒に暮らしている。身体の不自由な私にはいろいろと大変だが頑張って生きてゆくしかない。金曜日まではミーと一緒に暮らす。
いのちの詩語りはひかりに向けて語り続けていかねばならない。詩語りの輪を拡げてゆきたいが、なかなか難しい。詩語りは詩の朗読とは違う。それはまず内容と聲である。苦しみを超えて生きて勇気を与えていかねばならない。私のユーチューブ「祈り」を聴いていただきたい。朗読を行っている詩人は魂の聲を表現することができない。基本的な聲の力を持っていない。詩人の聲でも詩を語っているのは私だけである。聲に力をつけるんは最低でも20年間をかかるものだ。趣味程度では詩語りはできない。詩を語るのは本当に難しいことなのだ。心に傷を負っている方にはぜひ聴いてほしい。
腰の痛みで、午後からの練習はできない。座っていても腰が痛む。聲を出すことができない。もっと人間を感じさせる聲を出したいと思っている。落語でもただ演目を演じている芸はつまらない。そこにその人の人生だラマを感じさせなくては、聴いていても感動は伝わってこない。詩の朗読でも同じことがいえる。ただテキストを語っていてはダメだということだ。そのためには語って語りきることである。
少しづつであるが、田川紀久雄の詩語りが人々に理解されるようになってきた。今平和への祈りこそ求められることである。そして命そのものの尊さを歌い上げることのたいせつさを求めた泣けれならない。詩人たちは他者に無関心すぎる。私は愚直までに人への命のひかりを語り伝えて行く。ユーチューブで「祈り」を聴いてもらいたい。普通の人たちの前で語ってゆきたい。語りの場を提供してほしい。コロナ禍では難しいかもしれないが、安全対策をして行ってゆきたい。
聲の深みを感じさせてくれる詩人が見当たらない。芸能の世界では何人もいる。詩の世界といえども、厳しい精進をした人でないと、聲として聴くことができない。聲とは、魂から聲を出さねば聲にならない。落語や講談でも、若手の聲はまだ聲とは言えない。聲には愛を感じさせる聲を生み出してゆきたい。
ある人から「祈り」のCDについて大変ありがたい言葉をいただいた。それは愛を感じる聲であるとの言葉である。私が願っているのは、こころの愛をどのように表現してゆくかであった。いくらかでも愛の聲が感じられたことに喜びが見いだされた。テキストの意味も大切であるが、それより愛を感じる聲ができつつあることに詩語りの意味がある。もっともっと精進してゆかねばならない。一枚でもよりよいCDを生み出したい。
詩語りは、自分自身との戦いの場でしかない。社会的にどうこうといわれることもない。あくまでも孤独な仕事でしかない。普通の芸能の世界では円熟期に入っているのに、詩語りでは、まだまだ入り口でうろうろしている。一喜一憂していてはどうにもならない。詩の朗読に対して語り合う朋がいない。次のライブに向けてひたすら精進していくしかない。
詩語りは難しい。一時間緊張感をもって語りこまなければならない。一切の雑念を拭い去って行わなければならない。ただそのことを行うには厳しい精進しかない。それは聲との格闘でもある。この一時間を語れる場があるだけでもうれしい。記録を残すという行為がなければ、そう簡単にはできない。テキストによっても心の状態が変わる。毎回異なって詩集を語っているのは私ぐらいである。
胃カメラが今月の」27日に行う。ライブ前であるが、これは致し方がない。
今日の夕方内科の検診日である。多分今月胃カメラを行うかもしれない。詩語りの稽古が続けられるのも、毎月の検診があるからだろう。いろんな多くの人に助けられている。それなのにいまだに詩語りで人の心に届く語りができない。これは努力だけでは無理なのかもしれない。でも稽古を続けなければこの先はない。人のことは簡単に言うことができるが、自分のこととなると、何とも言えない。身体が続く限りは詩語りを行いたい。
先日のライブは咳こんでいたので、最後のほうは、ちょって緊張感が薄れていた。CDを残せることによって、いろいろと反省点が見えてくる。体調が芳しくないと詩語りにも影響が出てしまう。経験を突き重ねることで芸の道が開けて行ける。詩人の聲で朗読のうまい人はいる。うまいということはそれ以上のものは生まれてこない。下手な詩人こそ特徴のある朗読が生まれる可能性が秘められている。要は味があるかないかという問題なのだ。ユーチューブで「祈り」の語りを聴いてもらいたい。
ユーチューブ田川紀久雄「祈り」で8月25日の録音と書いたが、実は7が29日の録音でした。詩の朗読に興味ある方はぜひこの詩語りを聴いてください。詩語りは、芸能と違い、聲に抑揚をつけない、また芝居かかった表現をしない。ひたすら聲のみで詩の世界を表現してゆく。単純であるが、もっとも難しいものである。講談や落語とはまったく異なるものである。言葉にこびてはならない。
ユーチューブで私の詩語り「祈り」を聴くことができます。松岡さんには感謝をいたします。これは8月25日に駒込平和教会で行われたライブです。今はウクライナが一日も早く平和を願って語りました。戦争には手を貸してはなりません。いのちの大切さこそが平和への道です。毎日物価高の話で気分が落ち込みます。国民の苦しみの耳を傾けてください。
「蘇生」のCDが出来上がった。先着三名様に贈呈いたします。問い合わせは漉林書房まで。詩の朗読で一時間も聴かせるの大変なものだ。せいぜい三分程度がよいとされている。私は25枚以上ものCDを制作してきた。詩人の中でも多分いないのではなかろうか。毎回違った詩集を語ってきた。平和を願い愛を語ってゆきたい。詩は口頭愛護でなければならない。このCDはときどき咳こんでいるところがある。ちゃんと詩語りとしてできあがっている。
詩人にはプロはいない。朗読にしてもプロは存在しない。こういわれて何年もたっている。詩はあくまでも趣味でしかないのだろうか。朗読に対しては,聴き手はあくまで友人どまりである。私の詩語りでは友人に案内状を送ることはしない。いつまでたっても仲間内だけの世界で終わってしまう。だから私はCDを制作し始めたのだ。そのためには聴いていただけるもおのを作らなければならない。それは大変なことである。それを目指していま詩語りを行っている。
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