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2022年4月30日 (土)

田川紀久雄詩語り

『生命の尊厳』の校正を行う。語るたびに直す箇所がでてくる。まだまだうまく語ることができない。不器用な私はひたすら語りこむことで「詩人の聲」で語ることができる。毎月新しい詩集を語りこんでいる。これはとても苦労をする。聴きやすいテキストを作る。テキストの土台があるから毎月新しいCDを作成できる。80歳を超えているから同じ作品を語ることができない。これは困難な闘いでもある。この闘争心が末期ガンを克服できる役目を果たしてくれた。
わが国には吟遊詩人が存在していない。ウクライナでも多くの吟遊詩人が殺された。ソ連時代郷土を歌うことは禁じられていた。いまウクライナの詩人はどのような詩をかいているのだろう。平和な日本で反戦歌を書いても重みがない。ただの言葉遊びになってしまう。避難してきた人たちを心をもって迎えるしかできない。
いまJFEの猫の保護活動に協力をしたいのだが、CDがうれないので、それも思うようにはいかない。何もできない自分が心苦しい。投げ銭でもよいから詩語りが行える場所があったら教えてください。

2022年4月29日 (金)

田川紀久雄詩語り日記

私のCDを聴いてどうでしたか。他者がどう聴いてくれたか知りたいものだ。詩人の聲では、聴き手がいない。芸というものは、お客によって育ってゆく。お客との対話が存在しなければ、芸は成長ができない。詩人に聴いてもらいたいと思っても送ってても、何も返事がない。精進だけでは何もわからない。相撲でも稽古が一番大事だという。飽くなき修行が強くなる秘訣だという。私もそう思って詩語りを磨いている。お客に向かって語りかけることが、芸を磨くことである。それができない。詩の朗読では、義理でしか集まらない。私はまだ一度も聴いたことのない人に聴いていただきたい。どうしたらお客を集めっられるのだろうか。CDでははなく、生な聲を聴いてもらいたい。「生命(いのち)の旅立ちは」末期ガンななった時の物語だ。生きるには何が大切なのか、それを詩語りでか当たっている。吟遊詩人のように語りこんでいる。詩の語りは、娯楽ではない。いのちといのちの語りあいなのだ。生きることに考える時間を持つことも大切である。しかし、いまの現代詩では無理である。人間馬鹿が存在していない。聲を撃つことが詩語りの第一歩である。心をうつ語りを目指さなくてはならない。

2022年4月28日 (木)

田川紀久雄詩語り日記

昨日のライブは納得のいくライブができた。そっそく松岡さんにSDを送る。お客がだれも来ないのが残念である。それでもCDが残せることで我慢するしかない。世間は詩人の聲にはまったく興味がない。いや人に聴いてもらえるような詩人の聲の持ち主がいないからだ。ユーチューブを見ても聴いてみたい詩人の聲がいない。まるで闇夜の道を歩いているような気がしてくる。歩くのが不自由な私はほとんど外出することがない。はやくコロナが収まるのを期待するしかない。だんだん友達もいなくなってゆく。我が家の猫が朋である。

2022年4月27日 (水)

田川紀久雄詩語り日記

今日駒込平和教会で午後7時より詩語りライブを行う。第一章「生命の旅」を語る。戦争では、まったく命が軽んじられている。このようなことは絶対あってはならない。テレビのニュースで何気なく見ている。これは恐ろしいことだ。末期ガンの宣告を受けたことで、死と向き合って生きてきた。生きたいと強く願いながら生きてきた。個人の生きてきた時間が問答無用に消されてしまう。恐ろしい。
今日は祈りながら語るしかない。詩語りの問い合わせは、090-3696-7098天童大人まで。

2022年4月26日 (火)

田川紀久雄詩語り日記

明日はライブがある。いのちを語り続けよう。ガンの予防の本はあるが、末期ガンになってからの資料が全くない。私は末期ガンをどのように乗り越えてきたかを三回にわたって語る予定だ。何かの参考になるはずだ。絶望してはならない。何らかの夢をもって生きることだ。
ウクライナもロシアに勝つことで、未来の希望が生まれてくる。隣人として祈ろう。そして未来の世界を夢見て今を生きることだ。今はガンは死の病ではない。しかし末期ガンとなると話は違う。90%絶望の世界である。そのわずかなパーセントに希望を託して生きる。私は詩語りで生き抜く覚悟をした。それはなぜかといえば、幼少時代の苦しみに要因がある。それにこたえるためにも末期ガンと闘い抜く。ただの詩語りであってはならない。詩語りとしても完成した世界を生み出さなければならない。自分に負けない生き方を求めて・・・。

2022年4月25日 (月)

田川紀久雄詩語り日記

ウクライナのテレビニュースが少なくなっている。今起きているロシアの行動を見る権利がある。歴史の承認者としての立場がある。一時的な感情で盛り上がってはならない。私たちも過去に大きな過ちを起こしてきた。そのためにもロシアの侵略は許してはならない。今の私には何もできない。でも祈ることはできる。そして聲をあげられる。早くにこの戦争を終わらせねばならない。子供たちまで無残な死に方をしている。いのちそのものをこれほど酷いことはない。誰もが眼をそむけたくなる。でも私たちははっきりと観ておく必要がある。いのちにひかりを。

2022年4月24日 (日)

田川紀久雄詩語り日記

もう無理をして聲を張り上げる必要がない。自然体で語れればよい。心の奥から聲を縛りだして行ければそれでよい。27日までのライブももうわずかしかない。いつも練習でも迷いながらしかできない。これで果たしてよいのだろうかと。詩語りの語りは永遠に完成することがない。ただひたすら語り続けるしかない。私の場合CDを遺せているから、聲の道を振り返ることができる。自分の聲はなるべく聴きたがらないものだ。聴いて納得ができなければ他人にも失礼である。でも納得をすれば、先には進めない。不満があるから語りも成長して行ける。いつもこの矛盾した中で生きている。だからこそ日々の精進が大切なのである。
ウクライナに平和が訪れるように祈りながら語っている。今の私はそれしかできない。憲法9条を守ることの困難さを感じ名からウクライナの状況を見ている。

2022年4月23日 (土)

田川紀久雄詩語り日記

軍事力を強めているロシアに対してそれと止めることができない。いまの時代で軍事力で物事を解決しようとすること自体が理解がしがたい。それだけ私たちが平和ボケをしていたのかも知れない。このようなことを許してはならないが、このことも空論でしかない。ウクライナが一日でも平和が訪れることを祈ることしかできない。軍事力には軍事力で対抗する考え方は危険な思考である。それしかないとすれば、人間の愚かさを嘆くしかない。この虚しさの中にも希望はあるはずだ。それを求めてゆくのも人間としての役目でもある。
我が家の猫が、また肛門腺で動物病院に行く。落ち込んでいる猫のそばで癒してあげる。相手を思いやる気持ちこそ平和への道である。

2022年4月22日 (金)

田川紀久雄詩語り日記

物価の値上がりは我慢するしかない。ウクライナの人たちを思えば、私たち個人は何もできない。戦前も「負けられません勝までは」という言葉が流れていた。本当に嫌な時代になってきた。
午前中眼科に追ってきた。長い時間待たされた。次の月曜は整形外科に行かねばならない。今月は病院に5回も行くことになる。それに詩語りライブがある。毎日が忙しい。パソコンをうっていてもあまりよく文字が見えない。辛い。

2022年4月21日 (木)

田川紀久雄詩語り日記

「いのちの旅」を公園で語る。多くの亡くなっていったいのちに語りかけてきた。詩はいのちの終わりではない。無の中でいは生きている。吟遊詩人の叫び聲を空(くう)に向けて語ってゆく。死者たちのいのちと会話をすることだ。生きている人たちに生きる勇気をあたえたい。
竹勇さんから手紙をいただいた。「語りが深まっている。」と書かれてあった。ありがたい。もう一度竹勇さんと一緒に語りを行いたいものだ。人に生きる勇気を与えてゆきたい。

2022年4月20日 (水)

田川紀久雄詩語り日記

人間の価値が、ロシアの侵略によって踏みねじられてしまうのを見て恐怖を感じる。末期ガンと闘ってきた私にとって断じて許されることではない。人は、人を愛するために生まれてきた。それを一人の権力者によってつぶされてしまう。もう戦争などやめてと叫ぶしかない。でもその叫ぶ声すら黙視してしまう。国家は国民を守る役目がある。今の日本は他国の侵略から国民を守れるのだろうか。この平和は単なる夢であったのかもしれないと思うとゾッとしてしまう。
ソ連の時代にウラジーミル・ソフロニツキーというピアニストがいた。ショパンの演奏は感動を呼ぶ。何かもの寂しい音色がする。文化の力が大切である。政治を越えた文化の交流が求められる。世界が平和になるために詩人たちの聲が求められている。

2022年4月19日 (火)

田川紀久雄詩語り日記

ウクライナがこれからどうなってゆくのだろうか。下手をすると第三次世界大戦になりかねない。ロシアは何を考えているのかわからない。世界経済がとんでもない事態に落ち込んでる。日本も軍備を拡張している。憲法9条はどうなってゆくのか。これからなし崩しになってしまう恐れもある。平和を守ることはなかなか困難ことだ。難民たちを受け入れていってもらいたい。わが家にも一匹の難民猫がやってきた。ひげが切られている。体も濡れていたので餌を与える。動物も人間と同じ扱いをしてゆきたい。
詩語りも、自己流にやっていくしかない。CDを一枚でも 多く残せればよい。そのためにひたすら精進をするしかない。CDが売れれば猫の保護団体にカンパができるのだが、まったく売れそうにもない。

2022年4月18日 (月)

田川紀久雄詩語り日記

政治的にどうあれ、まずは人道である。人のいのちの大切さを無視した考えは恐ろしいことだ。これが毎日テレビに映し出されている。これは映画でなく現実のことが目の前で行われている。欲望の愚かさを痛感してしまう。どちらがネオナスなのだろうか。この日本が70年以上も平和でいられたことは奇跡なのである。平和の時代の中でも恐ろしい事件が何度もあった。
もうすぐ連休が始まるが、コロナ禍の中での旅行はできるだけ避けるべきだ。
詩語りを社会の中に受け入れられるために努力をしている。厳しい修行に耐えることである。聴いてもらいたい人にCDを起こっても何の反応がないのが寂しい。それはまだ芸が未熟だという証なのだ。末期ガンの詩を語るのは、辛いことでもある。あまり思い出したくはないが、やはり語っておくべきだと思う。誰のためではなく、末期ガンに侵されても、何人かは、今も生きて仕事している。多くの人たちにそのことを伝えてゆきたい。末期ガンでも生きられる可能性を求めるべきだ。生きることをあきらめない。そのことが最も大切なことかもしれない。
ウクライナで多くの市民が亡くなってゆく。その一人一人の歴史を忘れてはならない。一人のいのちの重さを感じながら生きていたい。今日も公園で祈りを込めて語ってきた。

2022年4月17日 (日)

田川紀久雄詩語り日記

末期ガンで生き延びるには、希望をもって生きることでがん細胞と闘う免疫力が高まっていく。人の生命とは医学では照明ができないものが多くある。なぜ年齢が伸びてきたかは医療体制のだけでは解決がされない。種の保存だけが人間の役目ではない。そこが他の生き物と異なるところである。
ますますウクライナが悲惨な状態に追い込まれている。平和への祈りの行進が各地に広がっている。老人の私には行進には参加ができないが、公園で祈りの語りを行っている。俳句でも短歌でも詩でもよい、何かを表現しようと思うとは大切なことである。日常の言葉で誰でも書ける。
例えば

手の平を見る 
その手を合わせてみると祈りの形になる 
平和が心の中から生まれてくる

このような短い詩でもよい。それを皆でか当たるのもよい。聲を出して。

2022年4月16日 (土)

田川紀久雄詩語り日記

ウクライナの一日も早く平和が訪れることを切に願う。小さな祈りから大きな祈りの輪が生まれてくる。いのちがこんなにも軽んじられる戦争の虚しさ。小さな動物たちも亡くなってゆく。その中でウクライナのハチ公に飼い主ができたことは小さな光だ。
この世の生き物はみんな光を求めて生きている。励ましあい助け合うことで世界の平和が訪れる。詩語りは生命(いにち)にこだわって行っている。何としてでも人前で語りたい。吟遊詩人は人々の生きるための役目を果たさねければならない。詩人は詩人を相手にしてもどうしようもない。詩語りに興味を持つ詩人なんで誰もいない。苦しみ哀しんでいる人のために語りをおこないたい。

2022年4月15日 (金)

田川紀久雄詩語り日記

詩を語るには、第一位に聲の力を持つことである。人に聴かせる聲を持つということだ。それが今の詩人の大部分が持っていない。それには。聲を出して何度となくテキストを読むことである。テキストを明確に聴かせる技術を身に着けることである。詩は演劇ではない。あくまで淡々と語ることである。この当たり前のことがなかなか難しい。それには多くの詩人の聲を聴くことである。私も詩語りを40年も行ってきて、やっと人に聴かせる聲になってきた。詩を朗読する方は、一度私の聲を聴くことだ。そして多くの人の前で行うことである。CDを作って聴いてもらうのもよい。自分の聲を録音してまず納得する詩人はいない。そこを越えていかない以上、先にはすすむことができない。

 

2022年4月14日 (木)

田川紀久雄詩語り日記

ウクライナ関係のテレビ番組を見るのはつらい。辛いが歴史から眼をそらしてはならない。憤怒を込めて詩を語る詩人がどこかにいるはずだ。幸せの世界に住んでいる日本人が叫んでも何の価値もない。吟遊詩人こそ今の世界には必要なのだ。私が叫べるのは末期ガンについてだ。今月から三回にわたって語れる。それをCDに残せる。はっきりと言の葉を明確に語ることだ。詩の内容を伝えてゆきたい。それと聲の抱擁力だ。温みのある聲で語りたい。コロナでも亡くなってゆく人が多い。今は生きる勇気を与える力を持ちたい。戦争の無意味さを感じても、何もできない。多くの人他亡くなってゆくのではない。あくまでも一人の個人が亡くなってゆく。亡くなってゆく人への祈りを込めて詩語りを行いたい。

2022年4月13日 (水)

田川紀久雄詩語り日記

戦争の虚しさを痛感せずにはいられない。戦争は人のいのちを奪う。それ以外の何物でもない。戦争をするための正当な理由など存在しない。侵略することは悪でしかない。そのための政治外交というものがある。空襲体験がある私は毎日が恐怖である。戦争は多数の民間人を巻き添えにしてしまう。勝つためには何でも許される。この思想はとんでもない思想だ。多くの人たちが亡くなってゆくのを黙ってみているだけしかできない。国連の無能さにいら立つ。日本に住んでいるロシア人には優しくしていくことを忘れてはならない。ある県ではロシア人の宿泊を断るところもある。ロシア人のすべてが悪いわけではない。優しさだけは忘れないことだ。

2022年4月12日 (火)

田川紀久雄詩語り日記

戦争のない時代こそ平和なのだ。日光の東照宮に猫が彫られていたのは始めは誰も知らなかった。眠っている猫は平和そのものなのだ。あの猫は可愛い猫とは言えないかもしれないが、まさに戦国の世が終わって江戸の長い戦争のない時代を迎えたのだ。その象徴ともいえる。
いま我が家にも猫を飼っている。野良猫がわが家にやってきた。猫は人の心がわかる。JFEの猫がひどい状態に置かれている。野良猫だからと言ってひどい状態に置くのは非人道的である。野良猫救援隊に支援をしたいのだが、CDが一枚も売れない。自分の未熟さに哀しい。無関心が自由を阻害している。ウクライナに一日でも早く平和が訪れることを祈るしかできない。

2022年4月11日 (月)

田川紀久雄詩語り日記

自由とは参加する自由もあるが拒否をする自由もある。詩の朗読にはそれを拒否する人たちが圧倒的に多い。人は楽しいものへと興味をひく。詩人の聲でのライブには、聴きに来る人はゼロに近い。詩語りのCDなど聴いてみようとすら人は皆無である。自由ということは何であるのだろうか。芸能界でも無名であることは、その人の人格まで無名のままである。テレビを見ていてもつまらない芸でも笑ったり拍手をする。完全にその場が作り出されている。テレビを見る人が少なくなってきているのもうなづける。何が本物で、何が偽物かも判断ができない時代に来ている。自由と名のもとで人々は操られている。本当の自由とは今の日本では遠い存在になっている。自分では何も判断ができない。そのような人たちであふれている。世界には多くの難民がいる。ホームレスの人たちも難民である。見て見ぬ振りもするのも自由である。自由には大きな責任がある。そのことを忘れてはならない。

2022年4月10日 (日)

田川紀久雄詩語り日記

シェフェンコの詩集「コブザール」はまさに魂の叫びである。詩集というものは売れないものだ。この詩集はウクライナ語で朗唱する以外には意味をなさない。眼の悪い私は虫眼鏡で読むのだからなかなか読めない。でも楽しみだ。この訳の藤井さんが私と同じ歳だとは驚く。ウクライナの問題が起こらなかったら。私もこの詩人に出会うことがなかった。札幌大学でロシア語を教えている工藤さんに呼ばれて札幌大学に招かれたことがある。あの時私の三味線弾き語りを聴いて学生さんたちは驚いた。懐かしい思い出だ。
私の詩語りを聴きたいという人は出てこない。詩人は寂しいものだ。

2022年4月 7日 (木)

田川紀久雄詩語り日記

早く戦争が終わってほしい。言葉の虚しさをかんじるだけだ。シェフチェンコの詩集を注文する。安全な立場で物事言う風潮は恐ろしいことである。吟遊詩人である私にはシェフチェンコの詩集を聲をあげて語るしかない。

2022年4月 5日 (火)

田川紀久雄詩語り日記

ウクライナの吟遊素人シェフチェンコの詩が朗読された。日本では祖国の詩を書くと右翼と言われてしまうが、それだけウクライナを守ることが困難である国にとって、祖国は常に故郷なのだ。シェフチェンコの銅像の前に人々が集まって合唱曲がうたわれた。詩人の役割はその国の心をも支えてくれる。今の現代詩はなぜか虚しい。賞ばかりを気にする詩人が多すぎる。詩人たちからも、詩人の聲が軽んじられている。骨の太い詩人が表れてこない。詩を語れば語るほど下手になってくる。それだけ耳が鍛えられている証拠だ。

2022年4月 4日 (月)

田川紀久雄詩語り日記

ロシアではどのようなニュースを流しているのかを観てみたいものだ。公平な判断を下すためにも両方の番組を見る必要がある。なぜロシアがウクライナを攻撃したのかわからない。人類は戦争によって成長してきたともいえる。日本は難民者台でまだ消極的である。ウクライナで悲劇が起こっているのに和気あいあいしているテレビ番組をみると鬱になる。できるだけテレビは見ないようにしている。
詩語りを一時間聴かせるには何かが足りない。詩語りは芸能である。と言っても演劇ではない。淡々と語ることが求められる。芸として確立する要件は聲の力である。芝居かかった演技はみっともない。何かを生み出してゆきたい。

2022年4月 3日 (日)

田川紀久雄詩語り日記

今回のCDを聴いてみると、だんだん語りが下手になっていくのを感じる。それだけ自分の聲が分かってきたともいえる。といっても自分の聲である以上それを受け入れていくしかない。詩を一時間も聴かせることに問題もある。だいだい詩は5分以内が良いとされている。落語なども15分から30分以内のものが多い。淡々と一時間も聴くのことがお客は疲れてしまう。しかし詩集を丸ごと語るとなるとどうしても一時間はかかる。詩人の朗読でも一時間を行う詩人などまずいない。それをCDでのこすことなど行わない。よほどの自信がなければできないことだ。いままで22枚のCDを制作したが、はじめの方は聴き苦しいものもある。これは私にとっては勉強になった。自分の聲を見つめるために制作を始めたものであるが、今はできることなら人に聴いてもらいたいと思っている。記録として遺すことは大切なことである。詩人でだれも私の方法で行っていない。
今は平和を祈りながら語っている。

2022年4月 2日 (土)

田川紀久雄詩語り日記

6月に語る「生命の尊厳」の手直しを行う。いくらか語りやすくなる。
プーチンには困ったものだ。まるで子供の用だ。自分が納得するまでウクライナを攻撃するつもりである。はやく停戦をと呼び掛けても,NOというだけだ。権力のもつ怖さを目の当たり感じてしまう。毎日公園で平和を願って「生命の旅」を語っている。この虚しさの先に平和が訪れることを願う。今の私は語ることしかできない。ウクライナの吟遊詩人たちは権力によって殺害された歴史がある。吟遊詩人であり続ける。ヴイソーツキイの聲とウクライナ大統領の聲が似ていることに驚く。聲は魂の聲である。

2022年4月 1日 (金)

田川紀久雄詩語り日記

「未知なる世界」のCDができあがってきた。思った出来栄えであった。一人でも多くの人に聴いてもらいたい。ハガキで申し込みをお願いします〒210ー0852 川崎市川崎区鋼管通3ー7-8 2F 漉林書房 頒価1000円(送料込み)
いのちの大切さと平和を願って語った。今の私たちが日々平和でいられることに感謝したい。だからこそウクライナの平和を祈り続けていたい。それからJFEの猫たちのいのちを守りたい。人明かりを求めて詩語りを行っています。

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