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2022年3月31日 (木)

田川紀久雄詩語り日記

CDがまだ送られてこない・松岡さんに何かあったのかと心配になった。郵便の配達も変わったのでそれで遅れているんかもしれない。CDが残せないと何のためにライブを行っているのかわからなくなる。コロナ禍の中では、聴き手が集まらない。昔は録音機などなかった。だから聴き手にたいしていのちがけで語ったものなのだ。その気持ちをわすれてはならない。詩人の朗読会は朋だちしか来ない。それも義理である。私の詩語りを聴きたいという人だ明けで十分だ。多分詩語りでは日本一だと思う。

2022年3月30日 (水)

田川紀久雄詩語り日記

末期ガンになった詩を10年前に語ったことがあるが、来月から三ヶ月間にかけて同じ作品を語ってどこが違っているのかを確認できる楽しみもある。以前「生命の旅」をガン関係に送ってみたがどこからも反応がなかった。詩の朗読や詩語りに対して社会は全くの無関心である。詩人仲間だけで行う朗読会はまったく意味がない。多くの人たちに聴いてもらえないのは寂しいものだ。コロナ禍の中では身動きが取れないが、読んでいただければできるだけ参加したいと思っています。まずは人明かりを目指して。

2022年3月29日 (火)

田川紀久雄詩語り日記

ウクライナが日々悲惨んあ状態になっている。自由を守るということは多くのいのちとの闘いなのである。日本にいる私たちが何を言っても虚しく感じるだけだ。花見だ楽しんでいる人たちを見ると何とも言えない気持ちになる。
来月に行う詩語り「生命の旅」もなんとか語れるめどがついてきた。末期ガンでもう10年も生き続けてきたことが不思議に思える。詩語りに命がけで行ってきたことも一つの生きていられる要因だと思う。それにしても何にも進歩などしていない。100冊以上ある詩集を全部語るのは無理である。詩語りは生きることの闘いの記録でしかない。詩であるが、詩でもない。詩語りの世界でしかない。だから私の語りを聴いてもらわなければ私の存在は意味しない。詩人の聲ではだれもCDとして遺していない。これは不思議なことである。聲を遺すことは怖いが、それをやらない限り、聲の力は伸びない。今の詩人たちは聲を撃つことに対して甘い考えしかもっていない。寂しい限りだ。

田川紀久雄詩語り日記

ウクライナが日々悲惨んあ状態になっている。自由を守るということは多くのいのちとの闘いなのである。日本にいる私たちが何を言っても虚しく感じるだけだ。花見だ楽しんでいる人たちを見ると何とも言えない気持ちになる。
来月に行う詩語り「生命の旅」もなんとか語れるめどがついてきた。末期ガンでもう10年も生き続けてきたことが不思議に思える。詩語りに命がけで行ってきたことも一つの生きていられる要因だと思う。それにしても何にも進歩などしていない。100冊以上ある詩集を全部語るのは無理である。詩語りは生きることの闘いの記録でしかない。詩であるが、詩でもない。詩語りの世界でしかない。だから私の語りを聴いてもらわなければ私の存在は意味しない。詩人の聲ではだれもCDとして遺していない。これは不思議なことである。聲を遺すことは怖いが、それをやらない限り、聲の力は伸びない。今の詩人たちは聲を撃つことに対して甘い考えしかもっていない。寂しい限りだ。

2022年3月28日 (月)

田川紀久雄詩語り日記

猫と穏やかに過ごせる日々は平和そのものである。ウクライナにも一日も早く平和が戻ることを祈る。戦争を起こす人間は最大の悪人である。処罰されても致し方がない。ロシア人の中高年者がプーチンを支持率が70%超えるなんて以上だ。報道が切断されているからである。プーチンを裁けるのはウクライナの人々だけだ。ロシアの一方的な戦争でしかない。何でもない市民を大量に虐殺していて、何も問われないことなどありえない。日本は絶対に核を保持してはならない。全世界から核をなくす運動を日本が進んで働きかけることである。核を悪用する国が今は増えている。憲法9条の意義は大きい。いまそのことを日本人は忘れかけている。恐ろしいことだ。

2022年3月27日 (日)

田川紀久雄詩語り日記

まだ「生命への旅」がうまく語れていない。思い切った聲を張り上げたいのだが、聲が出てこない。まだ一ケ月もあるのだからじっくりと仕上げてゆきたい。以前あってユーチューブで聴こうと思ったのだが聲がでてこない。CDも見つからない。末期ガンとの闘いの記録の詩集三部作を何としてでも語りとして遺しておきたい。十年前の作品であるが、今という時点で語ってゆきたい。ウクライナ問題とも似通っているかrだ。チラシを120枚も作っているのに、誰一人も集まらない。ライブというものはお客と一緒になって生み出してゆくものなのだ。絶望の状態でも、CDは必ず遺して行ける。友人すらタダでもらえると思っている。困ったものだ。要は聲に関心を持っていないということだ。

2022年3月26日 (土)

田川紀久雄詩語り日記

相棒がいないので大変だ。猫は朝の一時に起きて餌をねだる。朝食の支度もなんかめんどくない。80を歳をを越えると、こんなにもしんどくなるものかと痛感する。一人暮らしのお年寄りたちは偉いと思う。多くの病を抱え込んでいる私にとってはこんなにもつらいとは思わなかった。
ウクライナの人々を思えばこのようなことなど言っていられない。プーチンに対する批難がまだ甘いような気がする。世界がこのプーチンと向き合っていかなければ、問題は何も解決しない。ロシア軍によって連行された人たちを思うとつらい。まるでシベリア送りと同じだ。
今の私は猫を大事にしてゆかねばならない。

2022年3月25日 (金)

田川紀久雄詩語り日記

相棒が今日眼科に入院した。やく一週間の入院予定だ。猫のミーとの共同生活が始まる。立って歩くことがやっとなのでどうなるかわからない。
天童氏に五月のライブのチラシを送る。
国連がまったく機能しないことは断腸の思いだ。何が正しく出何が悪なのか。今はそのようなことよりも、無抵抗な市民が虐殺されてゆく。それを何とかして食い止めなければならない。この21世紀にあってはならないことである。人類が分かち合える社会こそ希望の社会である。欲望はまさに悪だといえる。人のいのちを奪ってでも欲望を果たそうとする行為は断じて許してはならない。指導者だけではなくその国民全体にも言える。国民自体が眼をさましていかない限り、戦争はなくならない。無知なる認識こそが悪なのだ。

2022年3月24日 (木)

田川紀久雄詩語り日記

昨日のライブは自分なりに納得できるものであった。さっそく松岡さんにCD化してもらうためにSDを送る。誰かSDからCD化する方法を教えてもらえないだろうか。
今日からは「生命への旅」の稽古を本格的行ってゆかねばならない。お客がいないと語る熱も今一つである。お客の心が感じない気分的にも聲がのらない。あくまで稽古をしているときの状態と同じになってしまう。誰にも負けない語りを行っているつもりだが寂しいものだ。これも試練の一つと思って生きてゆくしかない。

2022年3月23日 (水)

田川紀久雄詩語り日記

今日午後7時よりライブを行う。平和を祈り詩語りを行いたい。詩語りはある意味での神事である。ひたすら語り祈るしか何もできない。それにてつしていくしかない。東日本大震災の時もひたすら鎮魂歌を語り続けてきた。これはCDとして遺せることができた。詩語りはまだ芸能としては認知されていないが、私としては芸能として語っている。
仏法でいう悟りというものは、定まった世界を目指しているものではない。揺れ動く心はあくまでも自然なものである。その自然を落ち着いた気持で見つめることが悟りの世界である。空襲を経験した人間にはウクライナのことは辛い。アメリカが広島・長崎に原爆を落としたことには許せない。だからこそ平和を強く願う。今の私は誰も憎むことはない。平和だけを願うだけだ。そのために詩語りを行い続けていたい。今の日本人が私の詩語りを無視していても何とも思わない。まだ未熟な人間だと思うだけだ。そのことによってより自己を深く見つめられる。感謝しかない。

2022年3月22日 (火)

田川紀久雄詩語り日記

国際法ではプーチンを裁くことができないという。ウクライナに侵略して大量の殺人を起こしていても誰も裁けないとは不思議な国際法だ。暗殺計画もあるが、それも確実性が低い。本来は人間は人間によって裁くことをしてはならない。生死はそのものが無であるのだから、裁くこと自体が無意味なのだ。己が己を裁く以外には何もできない。戦争で勝利国が負けた国の責任者を裁くことも不思議なことなのである。大切なのは亡くなっていった一人一人への深い祈りである。一人の運命が閉ざされたことへの怨念が込み上げてくる。私は詩語りを通しか祈りをささげることしかできない。温かい心の聲で語りたい。できれば子供たちの前で語ってみたい。平和を学校教育で行っているといわれている。平和でいる人間が平和を語っても意味がない。空襲の体験をしているのは、それほどいない。私の最初の記録は火の海が迫ってくる記憶である。それは川崎空襲である。平和を語るのはとても困難なことである。詩の言の葉にして語り伝えていくのが一番良いと思う。明日はライブがある。祈りを込めて語ってゆこう。

2022年3月21日 (月)

田川紀久雄詩語り日記

末期ガンの詩集はどうしてもうまく語れない。なぜなのだろうか。詩語りの語り方には自信を持っていたはずなのに、言葉が聲に乗ってこない。早い話だが、語りがしっくりしてこないのだ。
公園課に誰かが、変な人がいると電話を掛けたのだろうか、数日前に公園課の人が二人できた。ほとんど誰もいないので稽古を続けてきたのだが、コロナ禍の中では聲を出すことには割合うるさいものだ。部屋では大聲を出せない。小聲では詩語りにならない。日本の芸道の世界は、大聲で語るものなのだ。それ鍛え上げた聲で。落語も講談も浪曲もささやく聲で語っていては、芸にならない。
昔は路地裏から三味線の音が聞こえてきたものだ。今は庶民の生活が崩れ去ってしまった。何か寂しい感じがする。

2022年3月20日 (日)

田川紀久雄詩語り日記

「生命への旅」テキストに無駄なところを削除する。これは四月に語る予定にしている。いのちは何にもかえがたいものである。ウクライナ情勢を見ているとあまりにもロシアの行為は残虐なものである。ソ連の時代も吟遊詩人は大量に殺害された。本当のことを言うと殺される社会は国家とは言えない。日本でも戦前には行われていた。蟹工船の作家も築地署で殺害された。権力の恐怖に国民は口を噤んでいた。他人事として見ていてはならない。誰でもが心の中に持っているものである。詩語りを通していのちの大切さを語ってゆきたい。日々殺人事件が起きている。聲に愛の温もりを作り上げてゆきたい。

2022年3月19日 (土)

田川紀久雄詩語り日記

3月23日(水)午後7時より駒込平和教会で詩語り「未知なる旅」詩語りライブを行います。入場料3000円(予約2500円)
詩の朗読を行っている方は是非聴く価値がある。憎しみを越えて愛への道を求める。それは相手の痛みを自分の心で感じることである。
聲の響きの中に平和と愛への祈りを求める。80歳を超える詩人の聲を聴いてはいかがですか。

2022年3月18日 (金)

田川紀久雄詩語り日記

日増しにウクライナ情勢が悪化している。これは戦争ではなく単なる虐殺以外の何物でもない。プーチンの責任問題を問わざるを得ない。何のプーチンに責任が問われなかったら、人間の倫理感が問われなくなってしまう。ミャンマーの軍事政権も軍から離れてゆく人たちが増えているという。この軍事政権もそう長く持たない。権力の欲望はいつの世でも滅びてゆくものである。ロシアの女性の詩人が平和を唱えようとしたら警察に連行されてしまった。まだロシアには詩人魂が残っていた。ではわが国に本物の詩人魂があるかと問えば、答えに躊躇してしまう。平和の時は誰でもが何でも言える。国家に敵対することは、いかなることにも危険な眼にあうということだ。国家が国民を苦しめるとき以外には無視をできるだけしたい。平和でいられることをつねに願い続けていたい。
末期ガンの三部作「生命の旅」がなかなかうまく語れない。でもこの作品をCD化してゆきたい。ガン患者の前で語りたい。今までどこからも相手にされてこなかった。話は時々あるのだが、まとまることがない。詩語りというものが世間から理解されていないことが大きな要因になっている。だからこそCD化する必要がある。聲に安らぎと心温まる語りを目指してゆきたい。

2022年3月17日 (木)

田川紀久雄詩語り日記

末期ガンにありがとうということは、誰も末期ガンになってありがとうという人などいない。言えるのは末期ガンを生き残ってものしか言えない。生き残ったことで見えてくる世界がある。詩人はそのことにありがとうと言っているのだ。人明かりをもとめて詩語りを行いたいという気持ちが見えた。私の場合は、末期ガンが完治していない時でもガンが消えてゆくことが予感できた。そのことに対しても、末期ガンにたいしてありがとうと言えた。経験が新しい世界を生み出させてくれる。なぜここまで詩語りを続けてこれたかもこの末期ガン体験があるからだ。芸術家にとって一番大切なことは。苦しみぬく体験である。誰もできない体験することによって生きる自信が持てる。亡くなった人から見れば末期ガンありがとうなどというのはよくない。経験というものはあくまで個人的な問題だからあえて末期ガンありがとうということで、この絶望的な世界を乗り越えられたといえる。末期ガンの経験の書物はない。「生命への旅」という三部作の詩集ぐらいだ。それを詩語りでCD化してゆきたい。どのような困難に陥っても希望を失わないで生きることが必要である。そのことが今の時代でいいたい。

2022年3月16日 (水)

田川紀久雄詩語り日記

JFEの猫問題は、良い方向に向かっていない。猫があまりにも可哀そうだ。Hさんたちを支援してゆきたい。といっても私には何もできない。詩語りを通してしかできない。わが家にミーだけは幸せにしてあげたい。人間は弱いものに対しては何でもできると思っている。これは大きな誤りである。
詩語りは、健康のためにもよい。大きな聲を出すことは精神的にも癒される。そして身体の調子にもよい。詩はエンター性がないとしても、個人が生きるという意味では大切なことである。
ロシアはソ連時代と何も変わっていない。一部の人間だけが豊かで庶民は貧しい。これはいかなる体制下でも同じなのかもしれない。世界ではその日が生きられない人たちがあまりにも多い。難民は戦争が起こるたびに増え続ける。つねにその人たちのことを祈って生きねばならない。貧しいことは辛いことなのだ。戦後の時代を思うと悲しくなる。日本は本当に豊かになったのだろうか。貧富の差が拡大しているようにおもえる。自己責任で解決できる問題ではない。
私の父母も妹もガンでなくなっていった。何としてでもガンに負けないで生きようとして闘ってきた。詩語りを通してそのことを語ってゆきたい。

2022年3月15日 (火)

田川紀久雄詩語り日記

ロシアの国民もウクライナの国民も誰もが平和を願っている。政権を握っているたった一人の人間によってすべての国民の祈りの願いが裏切られる。戦争とはいつも同じことで繰り返されてきた。イラク戦争の時も同じであった。核がないのにあると嘘をついて始められた。戦争とはだいたい最初に始めた方が悪に決まっている。
私たちは平和が訪れることを信じて生きるしかない。一人ひとりのいのちが一番大切である。プーチン政権を倒すことがウクライナにもロシアの国民にも必要なことである。人は誰でもが悪も善も共にもって生きている。これをコントロールするのが人間の心である。正しい心を持つことが今を生きるということでもある。
末期ガンを生きてこられたからこそ、末期ガンに感謝をしている。何としてでも生きるという強い心が、今の私を支えている。そのことを詩語りで語ったらガンで亡くなった方に失礼だと言われた。ガンの体験によっていのちの大切さに気付かされた。だからいのちのひかりを求めて詩語りを行っている。他人はいつも何かっを言うとケチをつけたがるものだ。こころを見つめる眼を養うことが求められている。

2022年3月14日 (月)

田川紀久雄詩語り日記

今月語る予定の「未知なる世界」が何とか語れるところまできた。怨念を越えて未来への平和を求める旅でもある。演歌が怨歌でもあるように、詩語りも怨歌の系譜である。ハンを越えて希望を求めて生きることが大切なのである。
私も小さい自分は生まれたことに憎しみを抱いてきた。詩語りを通してその憎しみは人明かりへと導いてくれた。末期ガンも乗り越えてこれたのも詩語りを通して生き延びているともいえる。私の詩語りは、そう簡単に聴くことはできない。いまは「詩人の聲」でしか行っていない。あるいはCDを購入して聴くしかない。ウクライナに平和が訪れることを願いながら日々語りこんでいる。

2022年3月13日 (日)

田川紀久雄詩語り日記

プーチンは狂気以外の何物でもない。苦しむものは国民である。はやくロシア国民もそのことに気付いてほしい。平和を願うものとしてそのことを祈るしかできない。パラリンピックの開幕と同時にロシア軍はウクライナの首都を攻撃するのだろうか。これ以上の死者を出してはならない。戦争には勝も負けるもない。両方ともが苦しむ。世界のはまだ何人もの独裁者がいる。軍事政権がまかり取っている国もある。国連は何もできない。国連そのものが機能していない。
アフガンの下層階級の人々が苦しんでいても、何も手助けができない。世界中で多くの人たちが飢えにさらされている。今の日本は捨てられている食料がある。日本は不思議な国だ。テレビでも贅沢な食べ物の番組が組まれている。年金をわずかしかもらっていない人たちから見れば馬鹿げた報道番組だ。今の私は四万程度で生活をしている。何としてもCDを売って生計を維持したいのだが、詩語りでは一枚も売れない。決して悪い語りではない。詩語りでは最高の出来栄えである。それでも詩に興味をもっている人からも見捨てられている。これが日本の現状だ。「詩人の聲」にもほとんど観客はいない。詩人の聲はいのちの聲である。そして叫びなのだ。哀しい限りだ。

2022年3月12日 (土)

田川紀久雄詩語り日記

平和は武力によってあっという間に崩壊されてしまう。これは恐ろしいことである。プーチン政権を倒すしかウクライナには平和は戻らない。言葉でいうことは簡単だが、実際問題としては何も意味しない。言葉はただ虚しく響いていくだけだ。詩語りを通してしか叫ぶことができない。ソ連とロシアは何も変わっていなかった。ロシア国民は強い政府を望んできた。未来を見る眼を持つことが大切である。我々は難民たちに手を差し伸べることしかできない。核を持てば安心だという感情は誤りである。戦争を起こさない国づくりこ求められるべきである。わが国には資源が乏しい。一番の弱点である。原発ではなく平和利用できる自然をエネルギーに変えなければならない。知恵が未来への道を拓いて行ける。そして日々の平和への活動を怠らないことだ。大学でも文化部が軽んじられている。人と人との絆は文化以外の何物でもない。心を見つめるのは文化の世界である。
詩語りも誰も聴く人がいない。哀しい限りだ。

2022年3月11日 (金)

田川紀久雄詩語り日記

ウゥライナの人々は大変な思いをして生き抜いている。ロシアの下層階級の人たちも苦しんでいると思う。ロシア全体が悪だとみる見方は誤りがある。善悪の問題はその立場によって変わってくるものだから。日本だってこの前の戦争のときは酷いものであった。戦後の教育を受けた私にとっても善悪の価値観はなかなか見いだせなかった。失語であった私には、生きることが苦痛であった。
この失語のおかげで詩語りの道に救いを求めていった。それも40歳を過ぎてからだ。そして末期ガンの体験だ。自由といのちの大切さはだれよりも強く感じる。生きる人明かりを求めて詩語りの道を歩き続けてきた。毎日公園で平和への祈りを詩語りを通して語っている。憎むのはプーチンである。

2022年3月 9日 (水)

田川紀久雄詩語り日記

「詩人の聲」の参加者が全く増えない。詩人はあまたにいるのに、聲を出してまで表現したいという詩人が少ない。
今の時代は、聲を大にして叫ばなければ相手に通じなくなっている。しかし詩人たちは人の聲を聴こうとはしない。聲は鍛えなければ聲として自立性がもてない。中途半端な聲だと聴きてを苦しめるだけになってしまう。詩語りは芸の境地まで高めなければ聴くにたえない。聲とはとても厄介なものなのだ。私と一緒に始めた詩人たちは、現在誰も朗読をしていない。やはり内なる苦悩がないと最後まで聲を撃つことができない。
大きな苦悩こそ自由を得る闘いを行えるのだ。自分の定めを変えることができる。人生での不幸とか幸せを超えることができる。そのような思考など意味をなさない世界を勝ち取れる。

2022年3月 8日 (火)

田川紀久雄詩語り日記

自由を守るためにもウクライナの人たちを守らなければならない。難民の受け入れを拡大すべきである。日本政府は今まで難民について冷たく扱ってきた。今の日本の自由は自分たちの手で勝ち取ったものではない。自由に対して今の日本が問われている。ある意味で日本はエゴイスト的な態度でここまで来た。自由は棚から牡丹餅のように手に入るものではない。
私も失語から闘い、末期ガンとの闘い、心不全とも闘い生き抜いてきた。私はいのちのひかりと自由を求めていまは詩を語ってきている。本物の詩語り人になるための日々の精進を続けている。ユーチューブに「生命の歓び」のCDがある。ぜひ聴いてみてください。いまはシルバカーでしか歩行が困難ですが、詩語りの出前も行っています。「届く聲を求めて」は私の最高のCDです。購入は漉林書房までです。

2022年3月 7日 (月)

田川紀久雄詩語り日記

新しく携帯を買ったのだが、使い方が全くわからない。デジタルはまったく苦手だ。
ドイツでも原子力発電が使われるかもしれない。この度の戦争で世界の状況が刻々と変化している。この地球はどこに向かっているのだろうか。
ロシアの国民に憎しみを抱くことはやめよう。憎むのはプーチン大統領だけだ。憎しみを越えた愛を目指して生きなければならない。末期ガンで生き残った私は誰よりもいのちの尊さがわかる。人間は誰でもが悪人にも善人にもなりえる。だからこそ日々の生き方が大切なのである。
詩語りを通じて命の叫び聲をあげていこう。生命賛歌を目指していきていたい。

2022年3月 6日 (日)

田川紀久雄詩語り日記

詩語りを一時間にわたって聴かせることは難しい。「まずは聲を」を何度もCDで聴きなおす。間の問題がやはり問題がある。
今公園でウクライナの平和を願って語りこんでいる。無力感を味わいながら語りこむしかない。中国も軍事費を拡大している。武力では平和は決して訪れない。かつて日本もアジアに同じことを行ってきた。そのためには憲法9条を守り抜く必要がある。すべての国から核をなくす必要がある。どこの国よりも平和を願う国民でありたい。いのちを守る詩語りを語り続けていたい。誰も聴かなくても語り続ける。

2022年3月 5日 (土)

田川紀久雄詩語り日記

自由は暴力の前では何も抵抗ができないのだろうあうか。いまウクライナの人々の抵抗は頭が下がるおもいだ。第三次世界大戦を避けるのために、経済面で抵抗をしている。原発に攻め込むなんて断じて許されない。祈りは虚しいが、一日も早く停戦になる日が訪れるのを祈るしかできない。安部前総理の核の発言は問題があまりにも大きい。世界の核の全廃こそが世界平和への道なのである。安易な発言は慎むべきである。
いのちのひかりを求めて詩語りが行われる。末期ガンを経験した人間でしか語れない世界である。

2022年3月 4日 (金)

田川紀久雄詩語り日記

ソ連時代に反体制側の詩人でウラジーミル・ヴィソーツキイという詩人がいた。彼は役者でもあった。そして歌声がすごい。日本版でも「大地の歌」というCDがある。一時毎日のように聴いていた。ある意味での吟遊詩人である。ロシアの人民はよい人が多い。そのことを忘れてはならない。あくまでも権力者が悪いのである。
先日のCD「まずは聲を」が出来上がってきた。いままで一番出来が良い。まさに吟遊詩人の聲である。一人でも多くの人に聴いてもらいたい。頒価1,000円で漉林書房から発売しています。

2022年3月 3日 (木)

田川紀久雄詩語り日記

ウクライナの詩人でタラス・シェフチェンコを知っていますか。彼が画家で吟遊詩人であった。生まれは濃奴である。彼はひたすら自由を求めて闘った。今の日本の現代詩人にはない不屈の精神で戦う詩人であった。ウクライナ人は、ロシアの圧力には屈指しない精神を持っている。ロシアは何人もの詩人を虐殺してきた。私も末期ガンとの闘いで生き抜いてきた。今詩語りで語っているのがいのちの尊さと命の光である。私も吟遊詩人だ。詩人たちからは認めらっれないが、そのようなことなどどうでもよい。今はCDに残すためににライブ活動を行っている。客はだれも来ないがCDをのこせることはうれしい。ガン以前は津軽三味線をもって詩を語っていたが、今は身体の都合で三味線はできない。鍛え上げられた聲で詩を語っている。5月ごろから末期がんの三部作を語る予定にしている。ガンにならないための本はあるが、末期ガンになったらどのように生きるかの本がない。命の自由を求めて人明かりになってかたってゆきたい。

2022年3月 2日 (水)

田川紀久雄詩語り日記

ロシアへの制裁へのために物価が願っても我慢するしかない。私の生活も年金もほとんどない、生活は苦しいが今の時代は闘い姿勢が求められている。武力ではなく生活で我慢する。テレビで贅沢(食べ物番組)な番組を見ると腹立たしさを感じてしまう。世界では飢えに苦しんでいる多くの人たちがいる。今の日本でもコロナで職を失って困窮にあえいでいる人がいる。お金がない私は詩語りで心の朋になってなってゆきたい。そのような詩語りを目指している。このところ朝の食事は梅干しだけでいる。物価の値上がりは貧しいものにとってはくるしい。

2022年3月 1日 (火)

田川紀久雄詩語り日記

10年前のライブをDVDで観たが、いまはあのような語り方はできない。無理して聲を張り上げて語る必要がなくなった。あくまで今は自然体で語りたい。温もりのある語りが生まれてくればよい。この10年間のブランクは私には必要であった。それでも詩人の聲では、今の詩語りができるまで二年もかかってしまった。CDを制作中から生まれてきたともいえる。もしCDがなかったらライブの聲を検証もせずにいただろう。コロナ禍の中ではお客来ない。詩語りの反応を摑めとれない。「届く聲を求めて」のCDを生み出せたことによって新たなる境地にたどり着けた。今は語ることが楽しい。

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