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2016年11月30日 (水)

田川紀久雄日記

七〇歳以上の医療費負担が上がるという。何もかもが値上がりに向かっている。それは軍事費にまわすつもりかと思われる。世界が保守化に向かいつつある。
安倍政権の支持率は五〇パーセントを超えている。人というものは、他者の幸福よりも我が身の幸せを求めている。オリンピックの競技場も、アスリートたちは立派なものを求めている。永遠に赤字が続く会場だと解っていても、素晴らしい会場を求める。私はなんとなく違和感を感じる。世の中の貧富の差が拡大しているのに。貧しき人々のことを考えていかねばならない時代である。オリンピックはこの時代に逆行した発想である。メダルを取ることが目的であるようなスポーツは歪んだ世界になってしまう。
詩誌受贈『焔・108号』

2016年11月29日 (火)

田川紀久雄日記

五日ぶりに詩が書けた。詩を書くことで今の自分の居場所が明確にされていく。自己の探究である詩であるならば、人がどう思うが気にしないでいられる。言葉にしていくことは、生きる上で勇気と生命力を得ることが出来る。詩を書き続けることは、今の自分を深めていく作業でもある。心をさらけ出すことで、強い自分が生まれて来る。詩は、もう一人の自分でもあるといえる。
「操車場113号」の印刷を進めていく。新しいプリンターはインク代が安くて済む。送料代がいくらか助かる。予備のためにもう一台プリンターを購入したい。しかし資金が足りない。手元にいくらかの資金は蓄えていたいものだ。

2016年11月28日 (月)

田川紀久雄日記

いま精神的に一番悪い状態である。何に対しても興味が湧いてこない。心からときめくもが感じられない。せめて歩く歩数を伸ばしてゆきたいと思うだけだ。
幼少時代の苦しみが、他者への思いに掻き立ててくれた。しかし、その思いが何一つ果たせないでいることに苛立ちを感じる。慈悲の心も空回りをしている。本当の生き方を探し求めなければならない。その鍵は自然と向き合うことであろう。しかし、いまの私はあまりにも自然から離れている。

2016年11月27日 (日)

田川紀久雄日記

今日は何も言葉が浮かんでこない。最近このようなことがしばしばある。
カストロ氏が亡くなった。共産主義はどうなってゆくのだろう。医療や教育が無料であるが、経済の発展と共に、無料化がなくなってゆくのではなかろうか。確かにある意味では理想であるが、人間の欲望と相いれない社会でもある。これは宗教の理想像も同じことが言える。
資本主義社会も行き詰っている。欲望がむき出しになると社会全体が歪みだしてくる。人間というものは、ある意味で我儘な生き物であるということだ。
詩の世界でも、人間の理想的な生き方を追い求めてゆきたいと考えている。そして、もがき苦しむ人間を描くことで詩が成り立っているのかもしれない。

2016年11月26日 (土)

田川紀久雄日記

心だけは幼少時代の時のようでありたいと願うが、心も老化現象が起こるのだろうか。
かつて公園の近くのガード下には猫が沢山いたが、いつの間にか追い払われてしまった。人間のエゴには耐えがたいものを感じる。たった一人の嫌がらせで猫がいなくなるのは耐えがたい。ネコ島があるが、生きて行くには大変な場所である。カラスやトビなどに襲われる危険性があるからだ。子猫も一割しか生きられない。自然というものは恐ろしいものだ。
詩誌受贈『鹿・145号』

2016年11月25日 (金)

田川紀久雄日記

夜中の一時に眼が覚めてトイレに行ったが、その後あさまで眠れなかった。眠れないのはやはり辛い。
詩誌の発行が少なくなったような気がする。私たちの世代の詩人が亡くなっていくせいかもしれない。詩誌などは必死になって行わないと、だんだん出さなくなってくる。これはあくまで主催者の熱情が大切である。主催者は金銭的にも、時間的にも大変である。会員に求められるのは、原稿をちゃんと出すことである。そしていい作品を発表することだ。
上野玄春回顧展のカタログが送られてくる。玄春さんは上野芳久さんのお兄さんである。
詩誌受贈『千年樹・68号』

2016年11月24日 (木)

田川紀久雄日記

歩くことが続けてできない。休みながら一歩一歩と歩くしかない。それでも歩くことを意識しながら前に進む。自転車で、移動するようになっていくらか足の筋肉もついてきたような気がする。いままではすべてオートバイで移動していた。リハビリを続けて行っている。歩く訓練をしていても、今のところ足の痺れは出てこない。雨の日は歩けないが、休むことで身体の調子をコントロールしてゆける。
最近、詩の言葉が浮かんでこない。無理をしてでも書こうとしなければ一歩も書けない。プロというものは、書けない時に書くのがプロだといった作家がいたがそうかもしれない。
毎日、日記をつけるのも頭の体操なのかもしれない。

2016年11月23日 (水)

田川紀久雄日記

昨日の地震で、高台に逃げる人と逃げない人たちに分かれた。それと老人や身体の悪い人たちの避難に問題点が残った。それと原発に対する不信感が強まった。
川崎詩人会通信を会員に送る。
歩く距離を伸ばそうと努力をし始めた。そのために朝起きたら足の筋肉が痛かった。相棒から無理をしない方がと言われた。でも1000歩ほどは歩きたいものだ。友達の個展にも行けない。
喪中のハガキが届く季節になった。私は年賀ハガキはここ数年出していない。それは詩集代にその金をまわしたいからだ。隔月に詩集を上梓てきたが、来年からはそれが出来ない。出したい詩集は何冊もあるが、その費用のメドが立たなくなりつつある。足を早く直して詩語りの出前を行いたい。日々の精進を活かした生き方をしたいものだ。

2016年11月22日 (火)

田川紀久雄日記

冷蔵庫が届く。今月は大変な支出だ。詩集代が消えてしまった。詩集を送ってもほとんど反応がないのだから、上梓してもしなくても同じかもしれない。詩集を上梓することは生きているのだということを実感を味わうためなのだ。それと詩語りのテキストを増やしてゆきたい。家庭を持っていれば詩集をつくることは大変なことである。いま私が詩集を次から次へと上梓できるのも、保坂さんという友達がいるからだ。
友達は大切である。決して無理を言ってはならない。そしてある程度の距離を持つことも必要である。人には出来ることと出来ないことがある。お金のことは禁物である。貸してあげる場合は,あげたと思うことだ。私も多くの人たちからカンパをしてもらっている。「操車場」が運営できるのも年間購読者がいるお陰だ。それと僅かな人たちが詩集代を送っていただけるから、こうして生きていられる。末期ガンを勝ち抜いていい仕事をしたと言われたい『生命の歓び』をガン患者の人たちの前で語りを行いたい。私も人のために役立つ生き方をしたいと思っているがなかなか出来ない。

2016年11月21日 (月)

田川紀久雄日記

昨日万歩計で測ったら700歩歩けた。歩く数を少しづつ増やしたい。足腰に筋肉がつくと聲にも力が入る。詩語りには未来がないにしても、自分のためには精進が必要である。生きている間はつねに自己との闘いである。自己に負けると他人に迷惑を及ぼす。生活が大変でも生き生きとしていられると何かが変わってくる。
上野芳久詩集『遠い旅』の発行が予定より少し遅れる。今月中に届くかと期待していたが十二月の中ごろになるそうだ。この詩集も中味の濃いものになっている。詩集というものは、苦しみの中からしか良いものは生まれてこない。詩人の苦しみはいのちのひかりを産み出してくれる。賞を狙うような詩集は、見た目には良いかもしれないが新鮮度は保たれない。本当にそこに人間つぃて生きていることを感じなくてはならない。詩の醍醐味は、心の渦潮を感じさせてくれなくてはならない。心に響く詩集に出会いたいものだ。

2016年11月20日 (日)

田川紀久雄日記

冷蔵庫が壊れた。もう十年以上も使っているのだから致し方がない。来年は詩集もそう簡単には作れなくなる。これからどうなるのか生活のメドが立たない。確かに詩集などは作れるうちに作らないとできなくなる。
人には生きる希望を持たないと生命を維持する機能が衰えて来る。そして免疫力も低下する。生きるにはたしかに気力が求められる。まずは何としてでも歩けるようになりたい。
詩集『抱擁』もゆっくりと書き進んでいる。詩集を上梓するとかを考えないで書き進むことだ。

2016年11月19日 (土)

田川紀久雄日記

今日はパソコンが正常に動く。昨日はメールが出来なかった。パソコンは常に動いているので、何が起こるかまったく解らない。
昨日は明治政府の誤りの夢を見た。日清・日露戦争は誤りであった。だから太平洋戦争まで戦争が続いた。多くの人たちが亡くなっていた。その怒りが夢の中で爆発した。鎮魂歌を語るためにももっと歴史を深く捉えてゆきたい。
川崎詩人会通信がやっと出来上がってきた。

2016年11月18日 (金)

田川紀久雄日記

昨日は、身体の調子が悪かった。寒暖の差があったからかもしれない。
詩で人生の意味を追及することは、あまり喜ばれない。詩は詩であらねばならないという詩人が多い。現代詩は、詩に意味がない方が良いという人すらいる。私にはとても理解ができない。でも中には例外がある。山本陽子の詩には、意味そのものを超えた哀しみが伝わってくる。沢山の内容が隠されている。言葉を感じる詩があることも確かである。
このことは詩語りでも言える。朗読というものは静かに読むものだと注意されたことがある。感情というものは、時には絶叫することもある。解ることと意味が伝わることは別な次元なのかもしれない。人はそれぞれ違うように、詩の書き方はそれぞれ別で良いのだろう。心に響かない詩は、無視すればよいだけなことだ。
詩誌受贈『橄欖・104号』

2016年11月17日 (木)

田川紀久雄日記

午前中病院でCTの検査がある。
ガンでいまも多くの人たちが亡くなってゆく。医療費も高い。末期ガンと宣告されて生きていることが不思議だ。病に負けないためには免疫力を付けていくしかない。新薬の抗癌剤も半額に来年からなるというがそれでも高い。この薬は治療というよりも免疫力を高める薬である。
私が死ななかったのは、この世でまだやらなければならない仕事があるからだと思う。自分の仕事に日々打ちこんで生きていたい。

2016年11月16日 (水)

田川紀久雄日記

昨日の午後自転車に乗っていて急にめまいに襲われ、そのまま倒れてしまった。しばらく路上に横たわっていた。このようなことは初めてだ。恐怖感に駆られる。
自衛隊が南スダーンに駆け付け警備に行くことが決まった。TPPも意味を失ったにもかかわらず国会を通過してしまう。安倍政権の傲慢な姿勢に我慢がならない。それとインドに原発を輸出する。これも大きな問題だ。日本をダメな国にしようとしているしか思えない。
明日CTの検査があるが、お金がない、そうしたら佐野カオルさんと山下佳恵さんから操車場購読料とカンパをいただいた。とてもありがたい。今月はいろいろとお金を使ってしまった。私は多くの人に助けられて生きている。
詩誌受贈『潮流詩派・247号』

2016年11月15日 (火)

田川紀久雄日記

昨日で運転免許証を破棄した。
先日、浜川崎まで歩いたせいか足が痛む。本当に足が弱っている。足の痺れはリハビリに通っているために随分良くなってきている。自転車で足の筋肉がつけばよいのだが。
自我が強くなると人間は哀しくなる。仏教でもこの無欲の勧めを教えている。自然ということは無欲そのもの姿を言うのだろう。詩人たちはこの自我に苦しんでいる人たちが多い。いや詩を書くこと自体が欲望の塊かもしれない。人を抱擁することは、自己が無になることであろう。無になれないから人生は辛いのである。

2016年11月14日 (月)

田川紀久雄日記

六八年ぶりのスーパームーンである。でもゆっくりとこのところ月を眺めることもない。
先日の詩語りは、言葉がはっきりと聴き取れたことが収穫であった。でも私にとっては満足がいく出来栄えではなかった。相棒の麻生知子はとてもよかったが、機械の調子で録音ができなかった。
詩の朗読は、十五分程度が良いのだろう。私のは41分もかかってしまった。楽器も入らずに聲だけで聴かせるのは大変なことである。『いのちの泉』は二回録音を採ってみた。発売に使うのは今回の方である。詩集にはCDを付けることは止めました。詩集と聲とは別物であるからです。

2016年11月13日 (日)

田川紀久雄日記

今年のライブは四回であった。これで充分だ。自分自身が成長していくことが目的である。来年は年六回の予定だ。今の詩の世界から招待されることはない。詩人には他人の聲を聴くということには無関心である。要は自分が満足することにしかない。このような状況では詩人の朗読には期待ができない。大切なのは向上心である。
昨日は自宅から浜川崎まで歩けた。これは二年ぶりである。ゆっくりと十五分かけて歩いた。自転車を使うようになって少しは良くなっているのかもしれない。

2016年11月12日 (土)

田川紀久雄日記

今度の新しい詩集の題は『奉仕』ではなく『抱擁』に決める。そして昨日一篇書いた。ほうようには抱擁や法要という漢字がある。鎮魂歌を語る私にはどちらも意味した詩を書いてみたい。もう詩は書けないと思いながら詩語りの意味を追い求めている。
今日はライブで「いのちの泉」の前半を語る。相棒は麻生知子の詩を語る予定だ。野間さんは「詩人の聲」で語る予定のものを行う。中身の濃いライブになりそうだ。すべてCDにするつもりだ。ただ残念なのはお客が集まらないことだ。

2016年11月11日 (金)

田川紀久雄日記

詩語りは、芸である。芸であるということは日々の精進があってそのように言えるのである。でもなぜ詩の朗読を行う人たちは、芸であることを否定するのだろう。芸はいかがわしいものと思い込んでいるからかもしれない。聴き手に感動を与えたい。そのために芸人は死ぬもの狂いで精進をする。だからといって客に感動を与えられるとは限らない。ここに芸の難しさがある。客に媚びてはそれは芸ではなくなる。
明日ライブがあるが、聴き手はほとんど集まらない。でも私にはCDを作る目的がある。生きて行くには希望がなくてはならない。それがどんな小さなものでもよい。
詩誌受贈『雷電・10号』『あるるかん・32号』

2016年11月10日 (木)

田川紀久雄日記

今日は定期診断の日である。
今の時代は、何が起こるのかまったく予想ができない。トランプ氏が大統領になるなんて。貧困層に対する対策がクリントン氏は持っていない。それに二人とも未来のアメリカに対するイメージが感じられない。これからどうなるのだろうかまったく先が視えてこない。
日本もどうなってゆくのだろう。安倍政権のアベノミクスもますます先が行きどまりになりそうだ。
昨日『希望』を書き終わる。最後は「和解」で終わっている。次の詩集は何をテーマにしてゆけば良いのだろうか。『奉仕』をテーマにしたいと思っているが、詩の題としてはいまいちに感じる。

2016年11月 9日 (水)

田川紀久雄日記

詩というものは他者には理解しがたいものだ。それならば、徹底的に納得いく作品に仕上げたいものだ。それはあくまでも内的な意味でである。人生が旅ならば、その旅の意味と追及していくことが求められる。詩は哲学ではないが、ある意味では哲学的な要素を秘めている。瞬間のひらめきが重要な要素になる。科学者が、偶然に発見する物のようにそれが重要な意味を持つていることがある。詩には、このひらめきが生まれてこないと言葉が生まれてこない。このひらめきが生まれて来るための努力が詩人の生き方なのかもしれない。
私にとっての努力は、詩語りの精進である。

2016年11月 8日 (火)

田川紀久雄日記

コピー機が、また調子が悪くなりヨドバシに持っていく。ついでにコヒーの湯沸かし器を購入。
詩を数日ぶりに書けた。書いては消しを何度も繰り返した。珍しいことだ。あと一篇書き終えれば『希望』という詩集も書き終わる。詩語りがここまで持続できるのも、詩を書き続けていられるからだ。
今週の十二日(土)に鶴見でライブがある。『いのちの泉』の前半を語る予定だ。この詩集は来年の二月に発行の予定である。

2016年11月 7日 (月)

田川紀久雄日記

詩語りの稽古をしていると、テキストの誤りに気付く。私の場合わりあいと誤字が多い。書き言葉として詩を書いていないことにも原因がある。それは幼少時代の失語症によるところが多いのだろう。二十歳ごろまで本を読むこともしなかった。それと人との会話もそれほどなかった。詩など書く人間ではなかった。
私の存在が他者のために役立っていないとしたら、何のために生きているのだろうかと、昨夜ずっとそのことを思考していた。詩誌も発行している。詩集も出している。そのうえ詩語りも行っている。これらはすべて自分が生きるための行為でしかない。どこかに虚しさが付きまとっている。何のために生きているのかなどという答えなど本当はないのかもしれない。人生という旅をしているだけである。

2016年11月 6日 (日)

田川紀久雄日記

人はよりよい社会を求めて生きている。しかし、そのよりよい社会というものが個々によって異なっている。詩でも、そうである。詩で何を求めようとしているのか、解らないことの方が多い。解らないことの方がこの社会にはあまりにも多すぎる。つまり曖昧だからこそこの社会が成り立っているともいえる。老いるということは、いろんなものに関心を失ってゆくことかもしれない。つまり可能性の否定が老化現象なのかもしれない。
足腰が悪いと、外に出なくなる。人と会うこともなくなる。その上眼が悪いと本も読まなくなる。生きていても少しも楽しく感じられなくなる。何かに取りつくものがないと生きている意味性がない。そのような意味でも、私には、詩と詩語りが残されている。これを深めることが私には生きるという意味になっている。そのことを通じてこの宇宙と関わっていたい。
詩誌受贈『知井・21号』

2016年11月 5日 (土)

田川紀久雄日記

TPPには不安がある。まず食の安全性である。そして小さな農家がどうなってゆくのか。それから棚田の問題だ。棚田は一つのダムの役目を果たしている。なんでも合理化してゆくことが良いものではない。アメリカの次期大統領はTPPに反対している。それなのに日本はなぜ急ぐのか理解が出来ない。
今日は、相棒はまた山梨に行く。足が悪くなければ私もゆきたいのだが遠出は無理である。一生懸命に働いてくれているのだがら、時々は息抜きに違った世界を見に行くのも必要である。

2016年11月 4日 (金)

田川紀久雄日記

詩が書けないと思いながらも三日続けて書けた。詩は、自分の詩語りを見つける旅の記録である。私は、詩の言葉遊びをしている暇はない。実直に言葉を書いていくしかない。言葉は闘いの中から生まれて来る。言葉がいのちであれば、いのちの祈りの語りも生まれて来るはずだ。
ユーチューブで『生命の歓び』(ガン患者のための詩語り)を一人でも多くの人に聴いてもらいたい。余命半年の私が、ほとんど治療もせずに元気で八年間も生き続けている。それはいのちに感謝して生きていられたからだ。これはCDからユーチューブに取り入れたものである。今の私は震災で亡くなっていった人たちの為に鎮魂歌を毎日のように公孫樹の下で語っている。私の詩集であるが、これもCD化しようと計画している。『祈りの魂』のシリーズとして企画している。幼少時代失語症であった私が、良くここまで闘ってこれたものだ。自己との闘いの中でいのちのひかりを見出している。

●詩語り 田川紀久雄_生命の歓び
https://www.youtube.com/watch?v=bGLt5Ehz3fc

●詩語り 田川紀久雄+坂井のぶこ 宮沢賢治・青森挽歌+銀河鉄道の夜
https://www.youtube.com/watch?v=3PXo6KECLqo

●詩語り 田川紀久雄 上野芳久詩集より「風の峠」
https://www.youtube.com/watch?v=3PXo6KECLqo

 

2016年11月 3日 (木)

田川紀久雄日記

Mさんから詩集のお礼状のハガキをいただいた。ありがたい。その中で(「自由」の概念が私と違いました)書かれてあった。Mさんはどのような意味でいったのかはこの文面では解らない。私にとって自由とは困難な中を自分の意志で闘いに挑むことである。なんでも許される自由などどこにも存在してはならない。
『希望』という詩集ももうすぐ書き終わるところまで来ているが、なかなか書くのに困難している。詩語りの夢が薄れていく中で、どのように生き抜いていくかを追い求めている。朗読や、詩語りは詩人たちからも見放されている世界である。
昨日、松岡章さんが、私の詩語りをユーチューブに取り入れてくれた。いつも温かい気持ちで私を見守ってくれている。彼は詩人でもない。上野芳久さんの友達である。無欲な人である。

2016年11月 2日 (水)

田川紀久雄日記

『操車場112号』発送が終わる。
詩人たちは、他人の詩を読んでもわくわく感がないという。ということは平凡な繰り返しの人生を送っているからではなかろうか。年金生活者にはどうもがいても予期しない人生など待っていない。よほどのことがない限り人生は変わってゆかない。あとは内面的な生活意識を変えていく以外にはない。魂を掘り下げる生き方を求めるしかない。言葉だけの遊びはもう詩のテーマにはならない。詩を書くことが困難な時代になっている。なぜ書かねばならないのかが、あるいは詩のテーマになるのかもしれない。

2016年11月 1日 (火)

田川紀久雄日記

人は楽な人生よりも、困難な人生を選ぶのだろう。その方がより人生を楽しむことが出来るからかもしれない。でも生活の苦しみだけは避けて通りたいものだ。年金もほとんどない私は未来を考えると絶望的だ。何とかして少しでも詩集を売りたいが、詩集というものは売れない。いまは小説も売れない時代になっている。書物は、庶民生活からどんどん遠去って行っている。眼が悪くなっている私のような老人は、詩集すら読むのが辛い状態だ。ただひたすら書くことに徹している。新聞でも大きな見出しだけしか読まない。
昨夜はショパンの曲を弾いている夢を見た。
『操車場112号』が出来上がった。

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