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2016年8月19日 (金)

田川紀久雄日記

思想性が視えるというのは、借り物の言葉や聲ではなく、その人自身の内的な言葉や聲のことである。これは匂いといっても良いものだろう。それにはオリンピック選手のような厳しい精進の果てに生れて来るものである。これは知識とはまった異なった世界でもある。
知識などは学べばある程度は身につくものだが、思想性を持つということは困難との闘いの果てに生れてくるものだ。詩人の聲でこの身体性の思想を持った聲を出せる人は私も含めて誰もいない。テキストをうまく語れる人は多くいる。それは技術を身につけた朗読家といわれる人たちがいる。朗読家になるための学校や、そのための試験もあると聴く。でも私が求めているのは人間そのものの聲である。生きざまから生まれたそのものの聲のことである。人工的な聲ではなく、自然そのものの荒らしい聲である。
夢というものは、果てしえない遠い目標を置くことで、生きる値打ちが生まれる。死ぬ瞬間まで闘う姿勢を持てる生きざまである。まず他人から評価されない世界で生きることも必要である。要は自分自身との闘いに終始している。詩人でいわば宮沢賢治さんのような生き方である。失語症であった私が詩語りの世界を見出したことによって、意味ある人生にたどり着くことが出来た。辛い人生でも必ずどこかにいのちのひかりがある。それは内なる心の中にある。今も私はそれを求めて生きている。

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