田川紀久雄日記
オリンピックは、国家意識を捨てきれないものか? 純粋にスポーツの競技として平和を願うものでありたい。日本の選手だけテレビ中継をして、スポーツとして見たい競技があっても、日本人が活躍しなければ放映をしない。この異常な放映は、単なる国家意識を高めるためのものでしかない。どこの国が金を何個とったなどということは、スポーツにはそれほど重要なことではない。スポーツの素晴らしさを見ることに意味があるはずだ。卓球を見ていてドイツの選手はほとんど元中国人である。このような選手が出てくると観ていても面白くはない。オリンピックが終わった後のブラジルは大変な問題を抱えている。オリンピックを誘致することが本当に必要なんか疑問が残る。これは東京オリンピックも同じことが言える。企業との癒着はどうなっているのか。お金をかけないで出来るオリンピックにしてもらいたい。
全国戦没者追悼会で、天皇は「戦争の惨禍が再び繰り返されないことを切に願い」と言っているのに対して安倍総理は平和へのメッセージは語られない。「世界平和の貢献とは」戦争を出来る世の中にしていくことを指しているのだろうか? 平和を願う心には大きな隔たりを感じる。
詩人も平和を願う詩語りを行ってゆきたいものだ。
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