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2016年8月31日 (水)

田川紀久雄日記

やっと暑い八月が今日で終わる。台風の進路が当たらない。関東から随分離れたところを通過した。私が住んでいる川崎にはほとんど被害がなかった。でも東北や北海道は大きな被害が出たのだろう。農家の人たちはどうなったのだろう。やはり心配だ。
詩人は一つの宇宙を持って詩を書いているのだろう。それを面白いとか、つまらないというだけで読まれては哀しい。しかし、現代詩は確かに読者が存在しない。自ら詩集を買って読む人はほんの一部でしかない。古書店でも詩集など引き取ってはくれない。朗読会をおこなっても一般のお客はこない。これだけメディアが発達しているにも関わらず詩のエサには誰もかかってこない。
詩誌づくりにも工夫している詩誌が出てきているが、なんといっても作品の質が低い。これだけ読者の心が複雑になっていると、的を絞って詩誌づくりも難しい。単なる詩人の発表の場になっている。この時代と向き合う詩誌が少ないのだろう。心を揺り動かす詩誌づくりをしたいものだ。

2016年8月30日 (火)

田川紀久雄日記

詩集『一粒の種』を印刷所に入れる。今のところ隔月に詩集を上梓している。反応はほとんどないが、数人の方からあたたかいお手紙をいただいている。それで充分だ。詩を書くことで詩語りの方向性を見出しながら生きていられる。詩語りとは何か。生きているとはどのようなことなのか。私は小さな公園から宇宙に向けて鎮魂歌を語り続けている。そして自分の聲をCDに残せていければそれでよいと思っている。詩と詩語りは私の両車輪である。人がどう思うとそのようなことは気にならない。
今の詩界で朗読を本気で聴いてくれる人はいない。また本気で聲を宇宙に向けて撃っている詩人はほんの数人だけである。それらの人も個々のつながりを持っていない。他者の聲には興味がないらしい。お互いに刺激をし合うことがない。ということは詩人で聲に魅力を持っている詩人が皆無であるということになる。要は語る内容が心に響かないということになる。
私はブログを通して朗読の現状を訴えていても、どこからも反応がない。まったく無視された世界の中で闘うしかない。そのためにも自分の詩語りを深めて行く以外にはない。いのちのひかりを求めて詩を書いていかねばならないのだろう。

2016年8月29日 (月)

田川紀久雄日記

文明の豊かさによって、本当に人間は幸せになったといえるのだろうか? 幸せになったともいえるが、そうとも言えないという考えの人もいる。ここには価値観の大きな隔たりがある。しかしここまでどっぷりと文明に満たされてしまうと、過去の生活には戻れない。
アフリカが大きく変わろうとしている。日本の経済界もアフリカ経済に依存していくだろう。アフリカがどんどん変わることはもう誰にも止められない。生活が豊かになることと、幸福感は別なものであると思う。
立派なマンションに住んでいる人が幸せかというと、そうとも言えない。そのマンションを購入するためにどれほどの苦労をしたことだろう。借金をしたあげく、その後会社からリストラにされた人もいたという話を聞くと断腸の思いがする。今の世の中は、一度正社員から離脱すると、二度と正社員には戻れない社会になっている。
文明が豊かだといって、その社会が住みよい社会だとは言えなくなりつつある。貧富の差がますます拡大している。誰でもがいつホームレスになるか解らない時代である。先が視えない時代だともいえる。年金だって本当に大丈夫だとはいえないところまで来ている。庶民は少しでも蓄えをしたいと思う。不安な世の中であることには間違いがない。

2016年8月28日 (日)

田川紀久雄日記

『詩と思想・9』に私の詩「生きていることがひかりでもある」が掲載されている。私の詩が一番へたくそである。でも一番いのちについて書いてある。私の詩はある意味で失語症なのかもしれない。特集は「現代詩・批評の全景」である。
「詩を朗読する詩人の会”風”について 中尾彰秀」の中で[朗読]について書かれているが、だいたい私の考えと同じだと思う。しかし彼らの聲を聴いたことがないので、今は何とも言えない。大切なのは聲を聴かずしては何も言えないということだ。私の詩集を云々してくださる方でも、実際の私の聲を聴いた人はいない。朗読は説明ではない。あくまで聲だけが問題なのである。何を求めて朗読をしているのか? オープン・マイク的な朗読であれば私は批判したくなる。風の会は大阪で行われているので、聴きに行くことが出来ない。DVDやCDがあれば参考になるのだが……。「詩と思想」でも朗読会を行うことを要望したい。かつて行ったことがある。詩人は他人の朗読を聴くべきである。そうすれば聲にもっと興味を持てるのだが。

2016年8月27日 (土)

田川紀久雄日記

『嶺・45号』の仕事が入った。眼が随分と弱っているのが解る。いくらかでも仕事が入ると助かる。
巨大台風が来るという。わが家は、地震・台風が来るとボロ屋なのでとてお心配だ。手入れしようと思ってもお金がないので何もできない。階段を直しただけでも七十万円もかかったのだから、生きて行くにも不安を感じてしまう。といって心配していてもしょうがない。なるべき気にしないようにして生きている。何とかして詩集だけはこれからも上梓していきたいと思うだけだ。
詩誌受贈『交野が原・81号』
詩集受贈『荒木理人詩集・反田』

2016年8月26日 (金)

田川紀久雄日記

沖縄復興費が140億円も減である。こえは辺野古問題でのあからさまな態度だ。沖縄県民の戦後の苦しみを何も汲み取っていない。とても哀しい話だ。安倍政権という実態が暴露された姿である。沖縄も日本の国民。国民と共に政治があるべき姿である。
川崎で少年の殺人事件があったが、また東松山でも同じような事件が発生した。痛ましい事件である。人を平気で殺す世の中になりつつある。マンガなどを観ていても平気で人を殺す場面が多い。安保法案も戦争法案と言われている。末期ガンを患った私には、いのちほど大切なものはないと思う。生きていれば多くの人たちの為に生きられる。人のいのちは愛に向かって無限なんる力があることを何としてでも詩で表現したい。私が日々鎮魂歌を語り続けているのも一人ひとりのいのちに対してである。
詩誌受贈『千年樹・67号』『まどえふ・27号』
詩集受贈『美濃吉昭詩集・或る一年』

2016年8月25日 (木)

田川紀久雄日記

朗読の検定は一級から四級まである。と今日の東京新聞に書かれている。小説や童話などはその内容を伝えることに工夫の面白さがあるだろう。しかし、詩は、どのようにして読むのかは書かれていない。詩はストリーを追及していないから、どう読むかは個人の自由である。でも一番大切なのは、間である。これは一般の朗読と変わりがない。マイクを使用した朗読などそれほど意味がない。大切なのは肉聲の魅力をいかにして引き出すかであろう。
末期ガンを、詩を語ることで直した私には肉聲と心の問題をつねに追い求めている。聴き手の心を潤すことが出来ない。でも幼少時代はロクに人前では話せなかった人間が、七十歳を過ぎて肉聲で、人の心に響く語りが出来るようになった。そのことに意味がある。昨日から、このことを詩にして書いている。私の聲を聴きたい方は、ユーチューブで観てください。詩というものは、心で語ることが求められている。朗読の世界でも、人に教えることができない。ひたすら聲を撃っていくしかない。

2016年8月24日 (水)

田川紀久雄日記

八月が終わると秋が近づいてきたと昔は思っていたが、温暖化の影響でまだ夏が終わらない。でも間違いなく秋の虫が鳴いている。夜もまだ暑く眠れない日が続いている。
「操車場」に若林妙子さんの原稿が久しぶりに届く。ひらがなの詩である。ひらがなの詩について数日前に書いたばかりなので驚いた。日常の生活の中で、何となくもどかしい感じがひらがな詩によって醸し出されている。
『詩人の聲』はもう何十年も続いているのに、なぜ詩人たちからも注目されていないのだろうか。詩人たちからまったく相手にされていない感じがする。これが日本の詩の現状なのだろう。でも参加した詩人にとっては、大きな意味を持つものである。朗読する人と聴き手のパイプが出来ない。一時間も一人で聲を撃てる場は世界にも稀な場であることには間違いがない。問題は、聴きいてみたい人が出てこない。ここに問題がある。朗読に対して無関心な国は日本だけかもしれない。私がCDを出しても詩人たちからの反応はまったくない。朗読の質を高めるにはCDを出すことが必要である。観るのではなく、ただ聲を聴くにはCDがDVDより手軽に扱える。朗読を聴くことに慣れていないと、ただ退屈だけを感じてしまう。聴くことになれることがまず求められている。いまの日本人は聴く耳を失いつつある。
昨日、上野さんから、私が語った聲について反応があったことを知らせてくれた。詩人でない人の方が聲に関心があるのかもしれない。

2016年8月23日 (火)

田川紀久雄日記

北海道は大雨で農作の被害が大きい。丹精込めて作った作物が雨でダメになるのは辛く苦しいだろう。自然の勢いは誰にも止められない。でも少しでも被害を食い止める方法はないのだろうか。
いま「むそう」という詩を書いている。むそうを漢字で書けば「夢想」「無想」になる。わが家を「むそう庵」と命名するのも面白いものだと考える。漢字よりもひらがなには無限なる広がりがある。ある意味ではいい加減だという人もいるだろう。日本人はこの曖昧さを好む民族でもある。またカタカナも面白い。漢字だけよりも心の豊かさを感じてしまう。私は『かなしいから』というひらがなだけの詩集がる。いつかカタカナだけの詩を書いてみたいものだ。カタカナは心の叫びを感じる。「シニタイ」「しにたい」「死にたい」では、その人のこころの心理が異なる感じがする。言葉には色がある。そして、その人の息ずかいも感じる。
朗読の世界では、ライセンスというものがあるらしい。そして等級もある。それを商売にしている世界でもある。詩の世界では、そのようなライセンスは無用である。詩はあくまで魂の聲のを求められている。一度ライセンスを持っている方が得意げな態度をとっていたので、批判をしたことがある。そのとき脇にいた詩人が「この人は朗読のライセンスを持っている人なのよ」と私をなじるように言った。このような人には詩を語るのは無理だと痛感したことがある。現代社会はなんでも免許性が流行っている。詩人たちが賞を取りたがるのも、ひとつの病の現れでしかない。いつも無念無想で生きていたいものだ。

2016年8月22日 (月)

田川紀久雄日記

台風9号が関東に上陸するという。「操車場」の印刷を始めようと思っている。原稿の集まりが二十日ごろに集まるのでゆとりを思って印刷や製本ができる。
私の青春時代は街そのものが劇場のようであった。芝居小屋も沢山あった。芝居・舞踏・それに音楽など盛んにおこなわれていた。しかし、今の街にはそれほど興味が湧かない。いや湧かないというより、足腰が悪いので家からほとんど出ない。
詩人の朗読を聴きに出たいと思うのだが、本当に聴いてみたい人は見当たらない。それより自分の聲を深めて行くことの方が大切だと思っている。なぜならいま詩語りシリーズを企画しているからだ。そのためにも質を高めていかなければならない。CDを作る意味は、そこにある。九月には『いのちの泉』の前半をCD化する予定だ。自分の聲を録音する場が欲しい。本当は『詩人の聲』に参加することが良いのだろうが、足腰の不安があるのでいまはそれが出来ない。それに参加する資金がない。詩集を上梓するだけで精一杯である。あと何冊詩集を上梓出来るかさえままならない。将来のことを考えると不安だらけだ。
詩のライブは、ほとんどお客が入らない。持ち出しのライブは出来ない。いま東鶴堂ギャラリーの協力で何とかできている。僅かな可能性を求めて行動するしかない。

2016年8月21日 (日)

田川紀久雄日記

この夏は確かに異常気象である。この現象を産み出したのは人間だ。豊かさを求めるあまりに自然破壊が続いている。お金さえあれば贅沢三昧ができる。その挙句の果てが病にかかる。質素倹約の生き方が大切である。野菜を中心にした食事をしている。これも相棒のお陰だ。地元の茄子が美味しい。まるで水ナスのようだ。焼いてたべると甘くてやわらかい。それに値段も安い。いつか農家の人と付き合いたいと思っている。
いま福祉の予算が削られている。介護用品のレンタル代も自己負担になる。それに介護負担も一割から二割と拡大する。老人が増えていくのにこの政策は貧しい人たちを苦しめる政策に他ならない。確かに税金には限度がある。つまり税の使い方に問題が生じている。原発や軍事費の拡大には多額な予算が組まれる。平和国家から離脱していく方向に舵が取られている。
福島の凍土壁も失敗をした。多額な税金をつぎ込んだ。初めから失敗になるという意見に耳も貸さない。無駄な税金の使い方だ。誰も責任を取らない。貧困層を苦しめて行けば、その挙句の果てが国の崩壊につながってゆく。

2016年8月20日 (土)

田川紀久雄日記

詩は自分の人生を深めるために書いている。そして詩語りの方向性を視つめている。語りである以上そこには人に感動をあてられる世界を見出していかねばならない。しかし、今のところそれが出来ていない。聲に思想性が出てこなければ、聲とはいえない。それにはひたすら精進しかない。それを遣りぬくことに人生の歓びを感じればよい。
オリンピックでメダルにはそれほど興味はない。要はどのようにして大会に向けて活きてきたかを知りたいものだ。メダルを取った選手も第二の人生は大変な人生が待っている。本当の闘いはオリンピック以後の人生との闘いにある。
詩人にとって賞など貰ったからといってそれほどの意味がない。大切なのは最期まで詩人として生きたかどうかということだ。これはあくまで自分自身との闘いの世界があるだけだ。宇宙の扉を開けたいという願いが詩人魂なのかもしれない。それには自然を自分の味方にした生き方が必要になる。

2016年8月19日 (金)

田川紀久雄日記

思想性が視えるというのは、借り物の言葉や聲ではなく、その人自身の内的な言葉や聲のことである。これは匂いといっても良いものだろう。それにはオリンピック選手のような厳しい精進の果てに生れて来るものである。これは知識とはまった異なった世界でもある。
知識などは学べばある程度は身につくものだが、思想性を持つということは困難との闘いの果てに生れてくるものだ。詩人の聲でこの身体性の思想を持った聲を出せる人は私も含めて誰もいない。テキストをうまく語れる人は多くいる。それは技術を身につけた朗読家といわれる人たちがいる。朗読家になるための学校や、そのための試験もあると聴く。でも私が求めているのは人間そのものの聲である。生きざまから生まれたそのものの聲のことである。人工的な聲ではなく、自然そのものの荒らしい聲である。
夢というものは、果てしえない遠い目標を置くことで、生きる値打ちが生まれる。死ぬ瞬間まで闘う姿勢を持てる生きざまである。まず他人から評価されない世界で生きることも必要である。要は自分自身との闘いに終始している。詩人でいわば宮沢賢治さんのような生き方である。失語症であった私が詩語りの世界を見出したことによって、意味ある人生にたどり着くことが出来た。辛い人生でも必ずどこかにいのちのひかりがある。それは内なる心の中にある。今も私はそれを求めて生きている。

2016年8月18日 (木)

田川紀久雄日記

今日は定期検診で病院に行く。
秋の虫が鳴き始めたのに、まだ暑さが続いている。昨日は40度近くまで行ったところがある。公園は風があると詩語りの稽古も苦ではないが、風がないと暑さで長い時間稽古はできない。でもCDを出してから、聲に何かが視え始めてきたが、この先一歩が難しい。この先一歩進めれば、聲に思想がでてくる。何とか聲に思想が出てきてCDが出来れば嬉しいのだが、それはある意味では夢の話である。あとはひたすら精進しかない。
「操車場」の原稿が集まった。詩作品は来週にでも印刷が出来る。力作ぞろいで発行者としてはありがたい。

2016年8月17日 (水)

田川紀久雄日記

『一粒の種』と『届く聲を求めて』の最終校正を終える。今年中に上梓が出来そうだ。末期ガン宣告から三十三冊になる。これも生きていられるから出来ることだ。生きている意味は、自分の仕事を行うことである。オリンピックなどテレビで観ている暇などない。他人の評判など気にしていたら何もできない。大切なのは、生きるために書くという強い意志力だけだ。書くことは新しい自分を発見する。
詩語りを毎日稽古しても、その結果は眼に視えて現れてこない。成果がないように見えても、そこには前進しなくても聲の深さは間違いなく増しているのだろう。そう信じて精進するしかない。何事も長い時間を費やしてこなければ、実は成熟しないものである。名人というものは、日々の努力以外なにもない。要は好きだから行っていることが大切なのだろう。自分では名人なんて少しも思っていない。いやそれどころか、何て、いつまでも下手なのかと自問自答してる。これも生きていられるから聲の深さを求めていられる。生きていることはとても素晴らしいことだ。
詩誌受贈『潮流詩派・244号・245号・246号』

2016年8月16日 (火)

田川紀久雄日記

オリンピックは、国家意識を捨てきれないものか? 純粋にスポーツの競技として平和を願うものでありたい。日本の選手だけテレビ中継をして、スポーツとして見たい競技があっても、日本人が活躍しなければ放映をしない。この異常な放映は、単なる国家意識を高めるためのものでしかない。どこの国が金を何個とったなどということは、スポーツにはそれほど重要なことではない。スポーツの素晴らしさを見ることに意味があるはずだ。卓球を見ていてドイツの選手はほとんど元中国人である。このような選手が出てくると観ていても面白くはない。オリンピックが終わった後のブラジルは大変な問題を抱えている。オリンピックを誘致することが本当に必要なんか疑問が残る。これは東京オリンピックも同じことが言える。企業との癒着はどうなっているのか。お金をかけないで出来るオリンピックにしてもらいたい。
全国戦没者追悼会で、天皇は「戦争の惨禍が再び繰り返されないことを切に願い」と言っているのに対して安倍総理は平和へのメッセージは語られない。「世界平和の貢献とは」戦争を出来る世の中にしていくことを指しているのだろうか? 平和を願う心には大きな隔たりを感じる。
詩人も平和を願う詩語りを行ってゆきたいものだ。

2016年8月15日 (月)

田川紀久雄日記

今日は終戦記念日である。しかし世界はいまなお戦争を繰り返している。いつまでこの終戦記念日があるのかわからない時代になりつつある。
反戦詩を書きながら沖縄に遊びに行く詩人を見ると私は腹立たしい感じがしてくる。オキナワはいまなお戦争は終わっていない。沖縄の人たちの心を無視して基地が作られている。沖縄の人たちの痛みを感じながら行くならそれはそれなりの意味がある。
戦争の痛みを語れる人たちが少なくなっている。言葉だけの平和主義では、戦争を食い止めることができない。私たちが出来るのは選挙でしか戦争法を食い止めることができない。それなのに国会では与党が三分の二の議席を占めている。日本人は、戦争そのことを忘れた人民だとしかいえない。
私は戦争で亡くなった人たちや災害で亡くなった人たちに、鎮魂歌を語る。吟遊詩人の仕事でもある。祈りと平和を求めて詩を書く。詩というものは本当は祈りの文学でもある。私の夢は鎮魂歌を語る詩の会を作りたい。しかしその夢は生きている間には果たしえない。そのためには詩人の聲を持った詩人が出てきてほしい。いまはたった一人で闘っていくしかない。

2016年8月14日 (日)

田川紀久雄日記

原発の再稼働は大企業との癒着ではなかろうか? 原発を海外に売り込むのもその理由の一つであろう。資源の乏しい我が国は、輸出によってしか生きられない。円高になると日本経済は困る。それなのに大企業のボーナスはなぜ大判ふるまいなのか。しかし貧困層はいつまでも貧困であらねばならない。この社会の仕組みは摩訶不思議なところが多い。
世の中は言いたいことが言いづらい世の中になってきた。天皇制・原発問題・案保問題、平和を願うことが悪いような社会になっている。PKOで南スダーンに自衛隊4,000人を派遣するという。これも平和のための戦争の一環ではなかろうか。安倍総理の積極的平和主義には国民である私たちには納得が出来ない。どんどんなし崩しに平和そのものが崩れていく気がしてならない。
詩人である私は、詩を通して語ってゆきたい。そしてそれを語ることで生きるとはないかを追及したい。今日は川崎詩人会がある。
受贈書籍『中村不二夫著・辻井喬論』

2016年8月13日 (土)

田川紀久雄日記

プリンターのインクが高すぎる。これにはからくりがあるような気がする。プリンターの価額を抑えてあるために、インクで儲けるのだろう。私のように詩誌をプリンターで印刷するのでインクを多く使う。そうするとインク代が一万円以上かかってしまう。詩誌の発行も書き手が少なくなると発行の維持が難しい。
詩人たちがブログを持っていても、毎日載せる人は少ない。載せてあるものは、詩と要件だけが多い。このところ私は「お気に入り」を開いて見る数が少なくなってきた。他人のインターネットも開けて見ることはなくなった。詩人どうしでも交流が稀薄になっているような気がする。ある意味では無関心状態といっても良い。これは私にも言えることである。足腰が悪いといろんな会合に出席するのができない。
詩人から刺激を受ける機会がほとんどなくなっている。いま詩の話を真剣になって語れるのはUさんしかいない。それは詩について同じ方向に向かって歩いているからかもしれない。それと相手の詩を丁寧に読みあっているからだろう。いま詩人同士の会話にとまどうことが多い。幼少時代のように失語状態になりつつある。
詩集受贈『植木信子詩集・田園からこの幸福について』

2016年8月12日 (金)

田川紀久雄日記

伊方原発今日再稼動する。プルサーマルはとても危険な代物だ。それに南海トラフが起こったらいったいどうなるのだろう。不安がいっぱいだ。国は国民の安全など何も考えていない。なぜ原発を再稼働するのかの根拠が示されていない。馬鹿げた説明だけで国民が理解するとでも思っているのだろうか。この裏には軍事的な問題隠されているのかも知れない。
詩誌評や詩集評は必要なものである。同人詩誌でもお互いの作品を読まない傾向にある。同人誌ではないが、八〇ページを超える詩誌だと全部を読み切るには相当な気力がないと読み通せない。送っていただいても知り合いの人の作品だけを読んで終わってしまう。詩人にとっては、この詩誌評や詩集評に期待している詩人がいるかもしれない。詩という世界は他者にとって無関心な世界なのかもしれない。まるでオープン・マイクのような世界でしかない。「赤信号みんなで渡れば安全だ」といった雰囲気は私にとっては耐えがたい。
送っていただいた詩集は一応丁寧に読むことにしている。それは一人の人間の生き方と向き合える喜びがあるからだ。私は詩に興味を持つより、一人の人間がどのような形で詩と向き合って生きているのかに興味が惹かれる。詩人は不器用な人間が多い。だから詩を書くことで今を生きてきているのだろう。才能のあるだけで詩を書いている人もいるが、そのような人の詩には興味がない。生きているために詩がなければならない人の詩は美しいものだ。

2016年8月11日 (木)

田川紀久雄日記

山本竹勇さんから梨が送られてきた。そして穂谷尚敏さんからシュースが届いた。ありがたい。
テレビはオリンピックの放映が異常に多すぎる。これほど日常の生活の情報が無視されるとは驚かされる。同じことばかりを繰り返しに放映する。私はいまテレビをほとんど見ないようにしている。
今年の夏は鬱陶しい。外での詩語りの稽古もこの猛暑では長い時間できない。
今日から夏休みに入るサラリーマンが多くいるだろう。でも私は何処にもいかない。腰を悪くしてから相棒とも旅をしていない。ほとんどが家の中に閉じこもっていることが多い。喫茶店にももう五年以上一度もいかない。人と会う機会がないからだろう。人とあっても何を話し合うのかさえ今の私には解らない。詩を書き、それを語るしか今の私には残されていない。若いころは毎日喫茶店に二,三回は入っていた。これも老いの現象なのかもしれない。
川崎詩人会は隔月に行っているので、そこで数人の詩人たちと会うだけだ。といって詩の話もしない。丸山あつしさんが亡くなって寂しくなった。詩人たちも、詩の書く内容が違うとあまり話し合うこともない。つまり共通のテーマが無くなっているのだろう。そうなると部屋に籠って自分の作品のテーマを掘り下げる作業をして、一日を過ごしているしかない。なんとなく寂しい気がするが致し方がない。

2016年8月10日 (水)

田川紀久雄日記

ヒロシマ・ナガサキのときになぜ原発反対が叫ばれないのか。原発によっていつでも核が出来るのに不思議である。
詩集代を送っていただいた方には、CD(青空の下で)をお送りしています。
CDで録音をするときは、マイクを使用せずに肉聲で行うことである。マイクだとその人の聲が解らなくなるからだ。つまりごまかした聲としか聴こえない。私は詩人そのものの肉聲を聴きたいだけだ。詩人たちが行う朗読会で、朗読とは何かを話し合うことが大切である。
詩をほとんど読まない人たちの前で朗読を行うと詩の良さを知ってもらえる。つまり内の世界から、外の世界へと広げられる。私は大学などで詩語りを行ってきたが、学生たちは真剣になって聴いてくれた。できれば中学校などで行ってみたい。できれば詩人クラブなどて企画してもらいたいものだ。そして詩人クラブで毎月でも朗読の会を持ってもらいたい。人前でそれなりの朗読が出来る人材を育成することも大切である。初めは誰でも朗読は上手ではない。それでよいのだ。大切なのは人に聴かせる肉聲を育てることである。そのためにも場数が求められる。

2016年8月 9日 (火)

田川紀久雄日記

ベートヴェンの第九のように、苦悩・闘い・平和・歓喜のような人生を送りたいものだ。いま書きは始めた詩集『日常』は平和(静かな平和)を描きたいと思っている。第九の三楽章のような心穏やかな作品は他にはない。昔はこの三楽章が退屈であった。ゲバントハウスの音の響きが好きであった。
天皇制の問題は、簡単ではない。今の天皇の象徴という意味を国民に寄り添うことで明確にされている。しかし戦前のことを思うと天皇制は、もっと国民も語ることが必要だ。多分いま戦争が起これば、天皇は元帥という立場に立たされる。つまり政治に利用されてしまう。そのことだけは避けたいものだ。今の天皇を見ているとご苦労がひしひしと感じる。一番国民のことを心配されている。それに比べれば、国会議員は自分たちのことしか考えていない。これは地方議員も同じだ。
戦争をしない平和な国でありたい。そのためにも九条をノーベル賞にしたいものだ。世界の平和の理念として。平和の尊さこそがいま一番世界が求めている。私に出来ることは鎮魂歌を語り続けることである。『日常』という詩集もそのような願いで書いてゆきたい。

2016年8月 8日 (月)

田川紀久雄日記

昨日は激しい下痢で悩まされた。暑いせいで冷たいものを飲み過ぎたのかもしれない。
『いのちの籠・33』を読む。崔 龍源さんの「ことば」がよい。全体にこの詩誌は心に響いてくる作品が多くある。テーマを決めて発表するのはそれなりの説得力があるものだ。政治的な詩を嫌悪する詩人がいるが、今の時代は言いたいことを言うことも大切である。ただ概念的な詩では困る。そこにはちゃんと自分の心がこもっていないと読む気にならない。なぜ書かねばならないのかを問うていない詩にはならない。戦争など好きな人はこの世にいない。本当は美しい世界を書きたいのだが、それを書かせてくれない状況が今の世界に漂っている。
詩人は自作詩を聲に乗せるのが苦手な人が多い。私も決して上手ではないが、書いた詩は必ず聲を天空に撃ちこんでいる。このことがいかに大切かを気付いている詩人は少ない。そして聴きづらくてもCDを制作して詩の言の葉こころを伝えてゆきたいと願っている。言葉を開放する。活字という狭い空間から宇宙に解き放つことで鎮魂歌になる。四十歳の半ばまでうまく言葉が話せない人間であった。そんな私が吟遊詩人になったのも宿命なのかもしれない。聲を放つことはうまいとかへたな世界を超えたものが秘められている。詩人たちは自分な好きな詩人の聲を聴くことも必要である。聲そのものが詩であるからだ。

2016年8月 7日 (日)

田川紀久雄日記

沖縄はいま大変なことが起きている。オスプレーの基地を作るために強引に住民の反対を押し切って工事を始めようとしている。ヤンバルの森は壊されようとしている。貴重な生き物たちが消えていく。平和主義だけでは、自然や戦争を守ることが出来ないのだろうか。ヒロシマ・ナガサキから私たちは何を学び取ってきたのだろうか。そしてここに沖縄戦を同じ次元で並べなければならない。オキナワ・ヒロシマ・ナガサキと、そして終戦。改憲で平和への願いが崩されようとしている。
詩人は言葉を持って最後まで平和を求めて生きて行かねばならない。八月は巨大な虚無感と闘わねばならない。詩集を上梓しても何も言われないのも寂しい。これは個人的な問題だから別に他人に言うことでもない。いつものことだと思えばそれでよい。齢のせいか愚痴ぽっくなってしまう。
詩集『黎明』が書き終わる。朗読という不毛の世界の中で真剣になって闘った詩人がいたことだけでも意味がある。CDを出したことにも意味がそれなりにある。詩人というものは吟遊詩人であることが求められている。腰が悪いのでライブがほとんどできないが、CDを出すことでこの世の中に鎮魂歌を語り続けていたい。
人は生まれた以上、幸せになることが必要である。どのような人間でも人間としての誇りをもっている。障害者のたいする殺人事件は許すことはできない。障害者も一人の尊いいのちの持ち主である。普通の人と何の変わりがない。いや普通の人より純粋な存在者である。

2016年8月 6日 (土)

田川紀久雄日記

これからは寝苦しい夜が続くと思うと耐えがたい気分になる。私の家の前の住人はクーラーがない。いつも玄関のドアをあけっぱなしだ。川崎のアパートの住人でこのクーラーを取り付けていない人たちが多い。それだけ貧困層が多い。私がクーラーを取り付けたのは末期ガンで治療をやめたからだ。夏ぐらい快適に過ごしたいと思ったからである。巣鴨に住んでいた頃もクーラーをつけることはなかった。しかし夏の暑さがだんだん異常の暑さになってきた。猛暑が何日も続く。地球規模の異常気象になってきた。豊かさが増すにしたがって温暖化になってゆく。それだけ公害が増している。
核の絶滅など今の世界情勢では考えられない。日本は核を持っていないが、原発があるということは核があると同じことになる。女優さんたちが、夏になると原爆をテーマにした詩の朗読会を行っている。気迫のこもった聲で朗読を行っている。詩人たちが戦争や原爆の詩を朗読しているのを見たことや聴いたことがない。かつて私は竹内浩三の詩を語っていた。まは他人の詩をほとんど語らなくなった。自作詩を通じて鎮魂歌を天空に叫んでいる。
吟遊詩人として今日もいつもの公園で亡くなっていった人たちに、心をこめて愛の鎮魂歌をかたりたい。

2016年8月 5日 (金)

田川紀久雄日記

沖縄の復興予算が来年度から減額になるという。政府の沖縄にたいする感情があらわである。要は沖縄を軽視している証だ。政治のからくりは力関係で成り立っている。基地問題・原発問題は国の意向にさからうとどうなるかを暗示している。
今週から東京でも真夏日が続きそうである。年々温暖化で野菜の収穫も悪くなっている。八百屋に行っても値段が高いくなっている。低所得者では生活がやっていけない。
大企業では夏のボーナスが大幅アップだそうだ。アルバイトや非正規社員には雀の涙ほどしか支払われない。相棒は例年より半額さがってしまった。たったの一万円だ。毎日こき使われている。この相棒のお陰で私が生きている。毎日ありがたいと感謝している。CDが一枚でも多く売れると助かるのだが・・・。世の中は甘くない。

2016年8月 4日 (木)

田川紀久雄日記

改憲の動きが早まりそうだ。世界情勢がどのように変わっても憲法九条を守る思想を作り上げたいものだ。明治から日本は戦争ばかり行ってきた。それにはそれなりの理由があるかもしれないが、やはり明治政府は誤った進路をとってきた。
人間のいのちは一銭五厘の値打ちしかなかった。それもすべてお国の為という名目。お国の為なら、国家はなんでも許されるのか。平和を守るためには愛の思想を深めていく以外にはない。国家への愛国心ではなく、人間存在そのものの愛を深めすしかない。先日の相模原の事件にしても、どのようなに人間も尊い存在者であるということ。いのちは国家といえども侵してはならない。原発も同じことが言える。福島の原発事故を思えば、再稼働など断じて許されないはず。それなのに、ここにきて原発の再稼働が起きている。
非正規社員やアルバイトの待遇も、人間存在への軽視以外のないものでもない。正社員との格差があまりにもありすぎる。やっと一人が生きて行ける賃金しかもらえない。未来への希望がもてない。国民年金だけでは、老後の生活すら不安がある。親の介護で退職していかざるを得ない人もいる。私も知的障碍者の面倒を見ることで、まともな職に就くことが出来なかった。すべてが身内が面倒を見なければならない。なんとかもっと住みよい社会を期待したい。

2016年8月 3日 (水)

田川紀久雄日記

『操車場』と『青空の下で』の発送が終わった。
『黎明』という詩集もあと二篇書けば終わる。まさに題名のようにCDの失敗によって、新しい世界が視えてきた。人に聴かせる語り方を求めてゆきたい。CDを出す意味が十分にあった。勇気をもって前に進んで行けば困難な問題も解決されてゆく。失敗は恥ではない。恥は、何もしないで注文ばかりいうことである。何事にもあたってみるものだ。
変な天気が続いている。そのためにか身体が非常につらい。こんなことは生まれて初めてだ。やはり齢のせいかもしれない。
詩誌受贈『Lyric Jungle21』

2016年8月 2日 (火)

田川紀久雄日記

人は眼に視えない高い山を持っている。その山を何処まで登り切れるかがその人の存在の意味になる。最後までその山の頂上に向けて歩くのがその人の宿命である。
『青空の下で』をさっそく公園で全編を語った。ゆっくり語ることで聴き手に届く聲が生まれる。CDの録音で何かが物足りなかったことが解決するかもしれない。CDを出さなかったらそのことに気付かなかったかもしれない。友達にはゆっくり読みなさいと言いながら、その意味が本当はつかめていなかったのかもしれない。ではどの程度の速さで語るのかというと、これから精進のなかで見出していかなければならない。
詩人は詩を書き続けることで詩人といえる。ただ書くだけでは詩人とは呼べない。誰にも相手にされなくても自分の信じる世界を構築していかねばならない。この世の評価などすべてが虚しいものだ。大切なのは自分の心の中の宝石を手放さずに磨いていくことだけだ。ひたすら高みを目指して生きるしかない。孤高でよい。この世で一人の朋が出来ればそれで充分だ。

2016年8月 1日 (月)

田川紀久雄日記

今日詩集『青空の下で』が届く予定だ。言の葉こころを見つめることで私はここまで生きてこれた。人生の苦難を乗り越えてきたのも詩があったからである。いや詩ではないかもしれないが、詩という形を借りて人生のひかりに向けて活きて行ける。
私は幼少時代うまく話せなかった。その苦しみがなかったら詩語りなど行うことはなかっただろう。詩語りを行うことは生きたいという強い願いから生まれてきた。そして語れるに堪える聲を身に着けた。人は努力すれば無限な可能性を秘めている。その世界が小さなものであっても素晴らしいことである。詩というものは無限な豊かさを持っている。私の詩集は生きることとは何かを描き出している。そして妹が願っていた「みんなの幸せ」を求めて詩の葉を深めてゆきたい。そのためには素朴で無垢でありたいものだ。

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