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2016年7月31日 (日)

田川紀久雄日記

今年の夏は暑くなるという。九月に入っても暑さが続くという。昨日「操車場」の印刷の途中で熱中症になりそうになった。気分が悪くなりめまいを感じてしまった。残りの印刷を今日中に終わらせたい。
今月はお金がどんどん出て行ってしまった。支払いに追われる生活はつらい。そのためにも詩集やCDが売れると助かるのだが、世の中はそんなに甘くはない。
幼少時代から苦難の連続であったが、いまこうして詩を書けていられることを思えば苦難も人生で大切なものであることが身を持って感じる。苦難を人生の糧として生きる歓びに変えてくれたのが詩であった。他者は詩として認めなくてもそのようなことはどうでもよい。大切なのは私が詩と思って書いてゆくことに意味があるのだから。そして、その詩を語ることで本当の幸せを見出してゆきたいと願っている。稚拙、素朴、祈りの心を持ってこの世界を開拓してゆきたい。誰のために役立たなかったとしても、自分のために生きる糧となっただけで充分である。そのことによって詩は小さな世界から解放されてゆくのだから。詩は無限な無垢の世界である。それ以外のなにものも必要としていない。

2016年7月30日 (土)

田川紀久雄日記

詩を他人には教えられないように、詩語りも教えることができない。すべて独りで切り拓いていくせかいである。要はだれも行っていない世界を見出していくしかない。そのためには多くの詩を読み、多くの芸能の聲を聴くことである。そしてがむしゃらに生き抜くことである。どのような社会でも楽な世界など一つもない。そして宿命と思って生きて行くしかない。好きな世界をおこなうことにはやはりお金がかかる。そして他人よりも努力が求められる。しかし詩の世界はそれを行っていてもまず報われることはありえない。ひたすら一つの道を歩むしかない。まさに孤独の世界でもある。そこに人間としての味が生まれて来るのだろう。他人と競う合うことも必要がない。自分の世界を作り上げていくしかないのだから。
『帰還』の校正を行う。テキスト用のゲラを出して語り始めなければならない。聲を出しながらまた校正を行う。この詩集は一年後の発行になるだろう。
世界中の天候に異変が起きている。洪水や以上の温度ので死者がでている。これもすべて温暖化がもたらした現象である。経済の発展がどんどん環境を悪化させているのだろう。日本も明治から数え切れぬほどの公害問題を引き起こしてきた。企業の利益を求めるあまり環境問題は後回しにしてきたからだ。これからの日本は何処に向かっていくのだろうか、不安を感じる。

2016年7月29日 (金)

田川紀久雄日記

『詩と思想・8』で私の詩集『廻廊を歩く』を八覚正大さんが紹介してくれた。感謝。彼は想像を絶する人生を歩んできたこたをインターネットでしった。辛さはそれを受け入れていくことによって救われる。あるがままの自分をさらけ出してゆきたい。それが私の詩のテーマでもある。
詩の世界では実直な言葉はあまり受け入れられない。まるで詩は技術が必要なのだよと言われているようだ。そして誰にも理解できない詩が生まれてくる。これがさも現代詩だといわんばかりだ。聖書でも仏典でも、詩は誰にも解るように書かれている。散文の箇所を読まなくても詩の部分を語るだけですべてが解るようになっている。本来詩というものはそのようにして生まれてきた。そして人々に語り伝えるものとして詩は存在していた。それを忘れたのが現代詩である。それは戦前の詩人たちのほとんどが戦争協力詩を書いてきたための反省からである。大聲を出すことは戦争詩に近づくといて避難してきた。でもね魂の痛みは大聲で叫ぶことも大切なのである。詩は哀しみや痛みに寄り添っていかねばならない。そして生きる歓びを見詰めていく世界でもある。毎日公園で鎮魂歌を語っているのは私ぐらいである。祈りの祈りでもある。どんような人間でも生きることそのものが尊いことを伝えていかねばならない。
この度の障碍者への事件は人間の愚かさをまざまざと見せつけられた。戦争への道を拓こうとしている政治家たちも愚かな心の持ち主としか言えない。愚かな心は誰もが持っている。自分だけは違うとは言えない。だからこそ詩人は聲を大にして命そのものを歌い続けねばならない。

2016年7月28日 (木)

田川紀久雄日記

昨日、相棒は松本に行ってきた。先祖の墓参りに行った。私は足腰が悪いので父母の墓参りにはいけない。魂は私の中に生きているから別に行く必要がないと思っている。
詩は、書き続けていないと詩の言葉が浮かんでこなくなる。別に書かなくても済むことなのだが、やはり書かなければいられない。言葉を産み出すことは、自分の内面を正確に確かめていける。言葉は生の羅針盤でもあるのだろう。
書くことは他者にとってよりも、自己の在り方を意味づけてくれる。そして聲も他者にとってよりも自己の在りかたを照明してくれる。
CDを制作したことはある意味では失敗であるが、自己を知るという意味では良かった。自分の聲がこの程度のものかということを知らしめてくれた。CDによって自分の聲を客観化して見られる。このことに意味がある。自分が思っているほどの聲の力が出来ていない。商品化しなければこのような意識は生まれない。他者にさらすことに意味が深まる。詩人たちがCDを作らないのは、他者にさらすことに怯えているからだろう。それなのにライブは平気で行う。詩人たちの朗読を聴いていても一度も感動をした記憶がない。朗読の質を高めるためにも聲を客観化していくことが求められる。DVDではなくCDだけでどれたけ聲が耐えて行けるかを知るべきである。私の聲の挑戦かいま始まったばかりだ。生きるための闘いこそが未来の扉を拓いていける。

2016年7月27日 (水)

田川紀久雄日記

政府の沖縄いじめは凄い。同じ日本人として恥ずかしい。基地問題は沖縄だけの問題ではない。国民全体の問題なのに、なぜか本土の人たちは無関心だ。この狭い国で沖縄に多くの負担を押し付けるのはやはり問題だ。
相模原の障碍者19人を刺殺する事件は、事前に防げたはずだ。彼の思想はナチと似通っている。人間の尊厳を損なうものだ。この世の生物は生きるために必死になって生きている。いま熊本地震で動物の保護ができない状態だ。飼われていたペットの行き場に困っているという。子が親を殺す時代になっている。これも社会現象がそのようにさせているのだろうか? 
詩人は、苦悩と通して癒しの世界を求めていく。哀しみや不幸をよりよい世界へと向かわせていくのが詩人の仕事である。自分の不幸を個人だけの不幸と思わないことだ。あくまで全体の不幸であれば、それを越えてよりよい生活を営みたちと願う。詩人の叫びはいのちの叫びである。だから私は詩語りとして叫んでいる。いま詩人の聲に耳を傾ける人たちが少ない。それ以前に詩人たちが心から叫ぶことを忘れている。詩人の叫び聲はあくまで個人の聲である。そのことが大事なのだ。個人の痛みを越えてみんなが幸せになる世界を見出してゆきたい。
『青空の下で』のCDジャケットが出来上がった。聴いて楽しくもないが詩人の聲としてやはり残しておきたい。定価は千円である。詩集を先に読むか、聴いてから読むか。
詩誌受贈『詩遊・51号』

2016年7月26日 (火)

田川紀久雄日記

安保法は力を力をもって抑えるといった考え方である。小池百合子氏の考え方は自民党そのものの考え方である。日本の中心と都市がそのような考え方ではこまる。誰が知事に良いかと言われても返答に困る。大切なのは都民の暮らしを守ることである。
リオのオリンピック村はとてもいられる状態ではないという。このような場でオリンピックを開催するなんて驚く。もうオリンピックなどそれほど意味がないのではなかろうか。オリンピックの理念とどんどんかけ離れたものになている。なんでも金の問題に終始している。お祭りは何をもたらしてくれるのだろう。東京オリンピックはこじんまりな大会にしてもらいたい。
このポケモンGOのバカ騒ぎは、ある意味で寒気を覚える。人間がここまで痴呆化になるとは恐るべきことだ。どんどん仮想化された社会が発達してゆくのだろうか。人間の存在感とは何であるのかさえ袋小路に入り込んでいる。嫌な時代になりつつある。

2016年7月25日 (月)

田川紀久雄日記

一人で出版社を立ち上げている人が増えているという。そういう私も一人で漉林書房を行っている。一応地方出版取扱いに入っている。末期ガン以後はほとんど私の詩集を出版しているだけである。だから原価だけでできるので一冊の詩集を出すのにそれほどの費用は掛からない。だから隔月でも上梓できるのだと思う。CDも手作りだからこちらも費用がそれほど掛からない。詩関係はまったく商売にはならないから好きでやっているだけだ。詩誌も毎月発行している。こちらも手作りである。仕事は決まったことをちゃんとやり遂げることである。
このところ右肩の痛みで手が上にあがらない。これは齢のせいかもしれない。昔ならこの齢では本当の老人だったであろう。現代は医学の進歩で七〇歳の半ばでも若々しくして生きられる。それは生きることへの目標に向かっているからだ。
私の健康の秘訣は、毎日聲を天に向けて撃ちこんでいるからである。詩を語ることの基本は聲の力である。

2016年7月24日 (日)

田川紀久雄日記

現代人は、ほとんど仮想空間に生きているのではなかろうか。インターネットで世の中を感じている。自分は何もしないでいても世の中のことはだいたいわかる。これでは生きているといえるのだろうか。ポケモンGOなどで生きている実感を味わっているつもりでいるが、それは実感とは別な次元を生きているだけだ。
本当に生きることは、人間との付き合いと、何かを産み出すことの中に生きていないと生きているとは言えない。仏陀でも、多くの弟子たちに取り囲まれて生きていた。聖人たちは孤独に見えていても多くの人たちを導いていた。ある意味では闘う人であった。闘う人だからこそまた孤独にならざるを得なかった。
今月の末には詩集『青空の下で』が出来上がってくる予定だ。予約購読者にCDを付けるためにCDを制作した。それから、上野芳久出版ライブのCDも少部数制作した。ジャケットも素晴らしいものが出来た。漉林書房でCDシリーズを制作してゆきたい。いつでも詩人の聲が聴けることは大切なことである。たぶん反応はほとんどないかもしれないが大切な仕事であることには間違いない。二月に一回ほどのライブを行う。一人20分から30分程度のライブを録音に採る。参加したい方は漉林書房に問い合わせてください。

2016年7月23日 (土)

田川紀久雄日記

辺野古問題で政府は強引な態度にでた。オキナワの人たちの怒り哀しいを少しも理解しない。詩誌『あすら』という沖縄で発行している詩誌がある。この詩誌には怒りと悲しみに満ちた詩であふれている。オキナワは詩を書かねばならないテーマであふれている。私はまだ一度も沖縄に行ったことがない。観光ではとても行く気にならない。それにもう若井信栄さんもいない。彼は新潟の刈羽で生まれやひとだ。私の隣の村の人である。刈羽原発でも若井さんは怒っていた。私も怒った。いま政府は再稼働を進めようとしている。どんどんなし崩しにされてゆく。
ポケモンDOが日本上陸された。国民がこのようなものに熱中するなんてバカらしい。世界中の人間がどうなってしまったのか。なにものかに操られている。このことが私は恐ろしく感じる。
アメリカでも共和党のトランプ氏がもし大統領になったら、日本は大変だ。彼は国家もビジネス化しようとしている。大金持ちはあくまで商人でしかない。といってクリントン氏顔つきが悪くなってきた。これはあくまでアメリカ国民が決めることだからあれこれ言うことはないが、心配だ。
東京都の知事選も茶番劇が繰り広げられている。誰が選ばれても、それほど東京都が良くなるとは思えない。もっと内容を伴った論戦が行われないまま選挙日を迎えてしまうのだろうか。詩人は個人との闘いを続けていくしかない。
詩誌受贈『伏流水・55号』

2016年7月22日 (金)

田川紀久雄日記

実態がないのにさもあるかのように反応するゲームが流行っている。ポケモンもそうであるが、私に言わせれば虚しいものに踊らされている。世界中がポケモンゲームでさわいでいるが、そのような人たちは自分から何もしない人たちなのかもしれない。何もしない生き方は楽のように見えていて、生きていることが辛いのかもしれない。
沖縄の基地問題を見ていると、政府の傲慢な圧力に腹立たしく感じる。参議院選挙が終わった途端政府は強気に基地問題を解決しようとしている。これは日本人の問題なのに、本土の人たちはほとんど無関心だ。何もできない私はせめて基地問題には関心を持っていたい。
それと福島原発問題も、とんでもないことになりつつある。凍土壁も私ははじめから無理だといってきたが、そのとうりになってしまった。汚染水をどこに保存していくのかさえ解らない状態だ。無駄な費用をかけてまでゴリ押しで進めてきた責任はだれが取るのだろう。その費用も電気代に上乗せで国民に負担をかけている。都合の悪いことはなるべく報道させないようにしている。
国民が権力と闘うことを忘れたら、戦前の政治が一気に復活してしまう。いまも肌でそのことをじわじわと感じる。

2016年7月21日 (木)

田川紀久雄日記

懐かしいクラシックを聴いている。バリリのヴァイオリンでモーツァルトのヴァイオリン・ソナタである。美しいメロディーに心が癒される。いまCDをどんどん処分している。本当に何度も聴きたいものだけを残している。
長く生きていると無駄なことに随分とお金を使ってきたが、その無駄なことが自分の人生の基盤を作り上げてきたのだと思うと不思議な気がする。
いまでも詩集を次から次へと上梓している。ある意味では無駄なことかもしれないが人生の道を先に進むためには必要なことである。多くの無駄をすることでより良い世界が視えて来るともいえる。人に読んでもらえるかどうかを気にしていたら詩集など上梓できない。詩語りの世界を深めるために必要である。ただそれだけのために上梓しているともいえる。そしてCDシリーズを企画したのももう一歩深みのある語りを築きたいためである。このようなCDではダメだと思いながらも、それを越えるために公の場で聲を公表していく。自己満足の為ではなく、その反対の理由からだ。ほとんど公でのライブ活動を行っていない。つねに闘い続ける詩人でありたい。

2016年7月20日 (水)

田川紀久雄日記

将来が不安を感じる人たちが増えている。確かにこのままいくと年金がどうなるかわからない。お金を持っていても使えないという心理が働く。消費が伸びない。ますます経済が悪化の現象になる。貧富の差もますます拡大していく。安倍政権下では暮らし良い生活は望めない。大企業に勤めている人たちには良いかもしれないが、零細企業の人たちは相変わらず苦しい。
リハビリに通っているが、少しも腰や足の痺れが治らない。昨日は病院に患者があふれていた。お年寄りの人たちで一杯だ。私もその中の一人であるが、大変な思いで生きていることを痛感してしまう。
詩語りも初心にも戻って、語り始めている。それには聲の立ち上がり方に気を付けることである。この猛暑の中でも精進していくしかない。

2016年7月19日 (火)

田川紀久雄日記

今月は「操車場」の原稿がすべて集まった。毎月出していくことはそれなりに大変だが、またそれなりの楽しみがある。詩人とは直接にかかわることがないが、詩誌をだすことで間接的に関わっている。読者の中にも毎月楽しみに待っている人もいる。
私は毎月十編以上の詩を書いている。発表する、しないは別として、何事も努力が求められている。狂気のように生きることは芸術家には大切な要素である。詩集を作るのにお金がなければ、手作りで数十部作ればそれでよいではないか。お金をかけて作る必要もない。詩集を作ることで前に進んでいける。大切なのは自分のテーマを掘り下げていくことである。そして自分と向き合い、時代と向き合っていくことだ。大切なのはいま生きていることを常に感じていることである。
詩誌受贈『焔・107号』

2016年7月18日 (月)

田川紀久雄日記

世界遺産になったから西洋美術館が凄いのではなく、初めから凄いのである。日本人は知名度のあるものにすぐ飛びつきたがる。蕪村が言うように本物でもつまらないものはつまらない。本物だからありたがる見方は最低だ。大切なのは自分の眼で見ることである。
詩の基準は、心に言葉が響いてくるかどうかで私は決めている。ただテクニックだけで書いているものにはそれほど興味を注がない。すべて自分流で判断する。他人の判断なんてあてにならないからだ。だから自分がよいと思っても他人にか押し付けない。朗読もいろんな仕方があっても良い。ただ私は詩語りという方法で自分を磨いているだけだ。世の中にはまだ詩の語りを知らない人たちが多すぎる。どこでも自由に語れる場が欲しいと思うだけだ。しかしオープン・マイクのような場は欲しくはない。心に響く聲を聴きたいだけだ。

2016年7月17日 (日)

田川紀久雄日記

あの世の美しい風景を夢に見た。ときどき変な夢を見る。
CDを出したことは失敗であっても、私にとっては意味のあるものであった。かつて失語症であった私が、詩を語ることが出来た、それもCDに残すなんて考えられないことである。それは詩を三十年にわたって語り続けてきたからだ。詩を語ることで失語症から抜け出すことが出来た。生まれてきて決定的な欠陥を背負わされた人間がその欠点を克服して生きる。そしてこの詩語りが、人のために役立つことを夢見ることができる。そして日々天空に向けて鎮魂歌を語り続けている。そのことだけでも素晴らしいことだ。
昨日詩を書きながら、そのことに気付いた。数日悶々としていたが、詩を書くことでこの不安がいくらかは解消された。生きるということは自己の苦しみと闘うことかもしれない。
詩を書くことを必要とする人は、詩を求めているのではなく詩という形を借りて魂の遍歴を描いているのかもしれない。だから周囲の詩には振り回されない。ひたすら自己の詩を描いていければよい。本当の苦しみを味わなければ、魂の詩などは書けない。人の評価など何も気にしないでいられる。魂の詩というものは永遠に不変なものであるからだ。

2016年7月16日 (土)

田川紀久雄日記

芸というものは、自分の芸に納得したときから芸というものは衰退していくのかもしれない。つねに不満との中で闘いをしていくから芸という世界が豊穣な世界へと成長していけるのだと思う。同じことの繰り返しの中で新しい世界を見出していかねばならない。つまり忍耐力の世界が芸を磨いていける。人はその人なりの世界を見出してゆければ良いのであろう。無理して背伸びする必要もない。要はそのことが好きであることだ。私の詩語りは、健康のために行っている。末期ガンを克服してきたのも、この聲を撃つことの中で生きる希望が持てたことだ。芸は身を助けるという言葉がある。別にお金にはならないが、自分の魂を成長させてくれた。

2016年7月15日 (金)

田川紀久雄日記

東京都知事選は、川崎市民には関係がないがとても興味深いものがある。三人三様で誰を選ばれるのか。政治というものはそんなに綺麗ごとの世界ではない。多数決の世界であるということはある意味で金銭感覚が麻痺してくる。知事を決めるのは無党派層が誰を選ぶかで決まってくる。だから大切なのは公約をどう受け止めて行くかであろう。でもその公約というものはあまり綺麗ごとであると疑いたくなる。
安倍政権で進めているアベノミクスは破綻しているにもかかわらず、それをいまなお成功していると思う政党には国民の苦しみは理解されないだろう。ますます貧富の差が広がるばかりだ。
熊本地震でも仮設小屋が予定の半分も出来上がっていない。まったく未来が視えない人たちがいる。政治家はいかに弱き人たちに寄り添うことが出来るのだろうか。
詩の世界でも、他者に寄り添う気持ちがないと詩の世界も小さな世界にとどまってしまう。詩人がこの社会に受け入れられていないのも、この小さな世界で蠢いているせいかもしれない。いや変に社会に受け入れられないのが良いのかもしれないと思うこともある。そのことを良く知って詩とか関わっていくしかない。

2016年7月14日 (木)

田川紀久雄日記

詩集に付けるCDは、あくまで意味が解るように語った。そのような理由で聴いていても面白くはないと思うが、詩語りを三十年間も行ってきた人間としてはこのあたりで聲の記録を作っておきたかった。CDを作る意味とは何かを問い続けていく意味でも大切なことである。ここでは自己満足など通用しない。DVDを作る時とはやはり異なる。詩集を語ることはとても難しいことである。テキストを百回以上語り込んでからではないと客には聲(言葉の意味)が届かないだろう。いくら聲が大きくても何の意味もない。本当は自分のスタジオを持てれば良いのだが、私には持てる力がない。ギャラリーを貸していただけるだけでもありがたい。
次のライブ録音は9月24日の予定。『いのちの聲』を語りたい。いまはこの詩集をひたすら語り込んでいる。たんたんと語る。このことを通じて聲を深めてゆきたい。年齢的に見てもそれほどCDは残せないが、人生の最後の闘いとしてCD化の作業を進めてゆきたい。

2016年7月13日 (水)

田川紀久雄日記

お金持ちがどれだけ幸せかというと疑問を感じる。お金があるのに自分の生き方が出来ない。お金だけにしか興味を持てない人たちが多い。自分らしい生き方を求めると、もっと世界を広く感じられるであろうにと思ってしまう。
詩語りを行っていると、自分の聲を深めることに精進をすることで精一杯である。貧乏は苦しいが生きている夢を持ち続けていられる。お客がいっぱい集められても朗読がどうにもならなければ虚しいものだ。自分の聲をお客目線でCDを聴くことによって欠点が見える。その欠点を克服しようとする気力が湧いてくる。いつまでたっても芸を磨くということは闘いでしかない。
幼少時代に聲に苦しんだことで、この齢になってその聲と真に向き合って生きられることに幸せを感じる。下手な詩語りでも、必死になって自分の世界を築くことに努めていられる。欠点を持つことで自分を磨くことが出来ると思えば、欠点も悪くはない。もし欠点をそのまま受け入れて生きていれば苦悩だが、それに向き合うことで欠点を活かせる。それだけでも生まれてきたことの意味がある。
詩集受贈『高橋憲三詩集・地球よりも青く』

2016年7月12日 (火)

田川紀久雄日記

今年の猛暑はどのくらい続くのだろうか。齢のせいか少しバテ気味だ。
CD制作すると、聲に対しうる意識が変わる。それは自分の聲を真剣になって聴くようになった。自分の聲を聴くと落ち込むが、それを越えていく聲を産み出したいという欲望も生まれて来る。細部にこだわるのではなく、言葉をひたしら語る。やはり聴いていて言葉が人に伝わらなくではならない。この何でもないことが大切なのだ。それから聲の力の意味を追い求める。人は前に進むもうと思うと、いろいろな困難に出会う。前に進む気持ちが新しい世界を産み出してくれるのだろう。CDは私の内部の眼になってくれる。このことも新しい発見だ。録音を採って聴くということの意味はここにあったのだ。詩人たちの録音を採って自分の聲を聴きたがらないが、それでは前に勧めない。なぜならば、ライブでは他人が聴いてくれているのだから、せめて録音を何度も聴きなおすことが大切である。詩集の予約者にCDを付けようと思ったことからいろんなことを学べた。この試みがどこまで出来るのかは解らないが、それなりの楽しみもある。

2016年7月11日 (月)

田川紀久雄日記

詩の朗読や詩語をCDで聴かせるにはいろいろと問題があるが、前進させていくことが大切である。聴くにはやはり意味を求めてしまう。それだけを求めるならばプロの朗読家にはかなわない。詩語りを行っている私としてはこの困難と闘いながら新しい道を見出したい。詩集のCDを作ってみたがいろいろと欠点も視えてきた。詩人はCDを作りたがらないのも解るが、この問題を掘り下げていかねばならない。ラジオで放送された詩人の朗読のCDがあるが、やはり聴くという意味では問題が多い。ライブを行うのとCDは別物だと考えるべきである。
朗読だけを聴いているとどうしても単調になる。音楽が入るだけでも違うのだが、朗読・詩語り文化が拡げていくには聲で勝負していかねばならない。私は自分の未熟さをさらしながらCDを作成していくしかない。いまの世の中は楽しく思うものが沢山ある。わざわざ詩の朗読など聴きの来る人は少ない。小さな世界でも生きる希望や人生に仮のある世界を目指してゆきたいものだ。
参議院選挙の結果を見ると虚しさを感じてしまう。原発・安保法案反対の聲が高まらない。ますます右翼化していく世の中だ。戦争のことを教えない日本の教育は何なのだろう。富の豊かさだけを求めて生きるこの虚脱感は耐えがたい。詩のもつ存在理由はかけがえのないものがある。詩語りのCD化もそこを求めて広げてゆきたい。

2016年7月10日 (日)

田川紀久雄日記

昨日のライブに坂井信夫さんが来てくれた。お客はたった一人であったがそれで充分だ。クーラーを止めて行ったので聴き手に負担をかけてしまった。これは録音を取るためにはやむをえない。私の語りは五十分ほど近く行ったので相棒に注意されてしまった。ライブで行うとどうあるべきかを考えされる。でもこのライブはCDを作るためのライブである。
詩は演劇ではない。長時間聴かせるのは難しい。聲の力だけで長時間は持たない。でも今の私はテキストを語り込むことしかできない。安易な小細工をしないでひたすらテキストを語るしかない。恥をかきながらCDを制作していく。

2016年7月 9日 (土)

田川紀久雄日記

今日はライブがある。ライブといってもお客が集まることはない。このライブは私が詩語りの録音を残したいために行っている。「詩人の聲」のように一時間も聲を撃てないが、それなりの時間は出来る。野間明子・坂井のぶこ・田川紀久雄といったメンバーである。それなりに朗読の場を踏んできた。「詩人の聲」にも参加した。そして朗読に意欲のあるメンバーだ。飛び入りも可である。今回は「青空の下で」の前半を語る予定だ。上手く録音できたら詩集予約をした方にはCDを付けたいと思っている。
「詩人の聲」に参加している詩人たちはCDを作らないでいる。ライブを行うということは他者に聴いて貰いたいから行うのだろう。それならばCDを作っても良いのではと思う。恥をかくことで朗読は成長していく。納得のいく録音などできない。要は闘う詩人になってゆくことである。詩朗読の文化を産み出していくことは並大抵のことではない。オープン・マイクのような自己満足型は朗読文化とは何の関わりもない。まず聲という世界を知らない詩人には朗読は無理である。確かに今まではCDを聴いてもなかなか良いものに出会うことが出来なかった。いまは詩朗読をCDとして記録しておくことが出来る。そしていろんな人に聴いていただくことである。ユーチュブに流してもよい。上野芳久出版記念会の時の聲もユーチュブで聴ける。本当なライブで生の聲を聴くことが大切であることは言うまでもない。生の聲とCDとでは別物である。

2016年7月 8日 (金)

田川紀久雄日記

本が売れない時代になっている。スマホやインターネットを見ることで本を読む時間が奪われているのだろうか。それとも心を引き付ける本や雑誌が少なくなっているからなのだろうか。喫茶店に入らなくなったと同じように書店にも入らなくなった。
足腰が悪いと何もかもが億劫になってきている。猛暑になると公園で詩語りの稽古も長い時間できない。でも決まったテキストは語り込みたいと思う。明日ライブのためにここ一ヶ月『青空の下で』を語り込んできた。ライブがあることは、CDに録音するためにテキストを決めて読み込める。録音を聴くといつも不満が残るが、いつも精一杯やっていくしかない。自分の聲と向き合うことで今の私の生き甲斐を満たしている。つねに何かに熱中していたい。聲の成長はなかなか厄介なものである。でも努力すればそれなりの成果がでる。小さな成果でもそれを目指していくことは楽しいものだ。詩人たちの聲で、本当の聲を聴いたという人は現れていない。聲は聲だけで成立するものではない。テキストを聴かせることが出来なければいくら聲が大きくても意味がない。大切なのはテキストの読み込み方である。他者に聴かせる朗読や詩語りはやはり至難な業である。

2016年7月 7日 (木)

田川紀久雄日記

ある出版社から現代詩を掲載したいからどうですかという話が来たが、要はお金を払ってくださいという話である。とんでもない話である。上手い話には落とし穴がある。みなさんも気を付けてください。
私は詩集を上梓していくためには無駄なお金は使わないようにしている。人と付き合わない。ほとんど家に引きこもって生活をしている。聲を鍛えるために近所の公園まで行くだけだ。そして時間を見つけて詩を書き続けている。出かけるのは病院に行く時である。
詩壇でいう現代詩とは何を指していうのか解らない。詩というものは現代詩を書くためにあるのではない。大切なのは今を生きるために詩があるだけだ。詩には難解な詩もやさしい詩も区別する必要はない。詩は詩であって他のものでない。そのことが大切なんである。
一番難解な詩人は山本陽子の詩である。でも彼女の詩は詩以外の何物でもない。言葉のスピード感は凄い。魂を切り裂くものが感じられる。絵も詩人の本物の絵である。絵も詩である。ときどき私は公園で聲をあげて語っている。彼女は永遠に理解されることを拒絶しているかのようだ。私の部屋に彼女の絵が一点飾ってある。詩人は誰にも媚びてはならない。その人なりの詩を書いていけば良い。ただそれだけだ。

2016年7月 6日 (水)

田川紀久雄日記

昔は毎日喫茶店に行ったものだが、もう何年も喫茶店に入ったことがない。私もクラシックの聴ける喫茶店を田端で開いていたことがある。詩人が行うのだがら儲かるはずもない。五年ほど行ったがやめてしまった。お客との縁で漉林書房を立ち上げることが出来た。仕事に熱心でなかったので、今は手作りの「操車場」しか出していない。あとは自分の詩集を隔月で発行しているぐらいだ。仕事もロクにしてこないで良くも七四歳まで生きてこれたものだ。
障害者を抱えて生きて行くことは大変なことである。いま親の介護で勤めを辞めることになる人も多いと聴く。親の年金で食いつないでいく。そして親が亡くなれば収入がゼロになってしまう。そして年金ももらえなく悲惨な晩年が待っているだけだ。社会の仕組みは、親の面倒は身内が見るのは当たり前といった考え方だ。貧困層が増え続ける。私もそれに近い身の上だが、相棒のお陰で詩集も上梓しながら生きて行ける。出版社を行っていたおかげで安く詩集が出来るので助かっている。末期ガンの宣告を受けながらここまで生きていられるのが不思議なことだ。いま詩語りで何とか人様の役立つ生き方を模索しているが、なかなか難しい。
心の叫びを誰よりも強く持っている。その苦しみを愛の世界に導いてゆきたい。私の詩語りを聴きたい方は交通費をいただければお伺いいたします。

2016年7月 5日 (火)

田川紀久雄日記

四日ぶりに詩を書いた。「操車場」の印刷・製本などで三日は時間を費やしてしまう。やはり詩を書き続けていないと書けなくなる不安を感じてしまう。詩を書くことで自分自身の存在の深さを探ることができる。そしてそれを語ることで存在の意味を確認ができる。
「たぶの木・23号」は高畑耕治さんインターネットでみられます。
私の求めている詩は魂の聲である。そして未来に向けて拓けて行く魂の旅でもある。魂の愛を追及することでこの世に生れて活きてゆく意味を探ってゆきたい。その祈りの魂を伝えるのが詩語りの仕事である。農夫が日々大地を耕すように、聲も日々耕していかねばならない。このところ猛暑なので長い時間ができない。でもある程度語り込んでいかねばならない。スポーツと同じように自分との闘いである。楽をしていたら人に感動を与えられなくなる。腰の痛みと闘いながらでも前向きに生きていたい。

2016年7月 4日 (月)

田川紀久雄日記

「操車場・108号」今日発送ができます。右肩があまり動かないのでいろいろと苦労しています。
本当に昼も夜も暑く思考力が低下していく。日本もインド並みの暑さが訪れて来るのだろうか。電気代が大変になる。
クーラーも備えていない人たちが沢山いる。わが家の隣のアパートの住人はクーラーが備えていない。いつも窓や玄関の扉があいている。どうしてつけないでいるのか理由は解らない。
詩人だから詩が好きだというわけではない。詩を書くことで心が慰められるから詩を書く人の方が多いのではないかと思う。そのような人たちは他者の詩などにはそれほど興味を持っていないと思える。詩集や詩誌を送ってもどれほどの人に眼を通してもらえるのかまったく解らない。同人誌の勉強会はそのような意味では大切な場である。いま足腰の悪い私は、ほとんど外出が出来ないので詩人たちと話し合う場がない。でも詩語りの場を隔月に行っている。飛び入りも自由にできる。詩の朗読を学ぶ人にはそれなりのアドバイスも行っている。今月は7月9日(土)に東鶴堂ギャラリーで二時から行います。
詩のテーマについては電話でUさんとは話しあっている。このことは私にとって詩を成長させてくれている。お互いに刺激あえる友がいることは大事なことだ。

2016年7月 3日 (日)

田川紀久雄日記

昨夜は熱帯夜であまり眠れなかった。金沢では37度もあったという。今年の夏はどんな暑い日が続くのだろうか。
バングラデシュでテロがあった。邦人が7人がなくなったと報じられた。なんともやりけれない話だ。どこでもテロが起きる。その原因を産み出したのが貧富の差であるのかもしれない。いまの時代は二極化になりつつある。この日本でもそうだ。イギリスのEUからの離脱の原因も貧富の差によるものである。大企業も零細企業によって支えられている。この格差は目に余りあるものを感じる。主人と奴隷の関係と似通っている。年収何億円の報酬を貰う人と、百万円以下の生活者がいる。アルバイトや非正規社員は、日々の生活に怯えて生きている。この矛盾を断ち切るにはやはり政治力を借りなければできない。しかし現実には政治に無力を感じて生きている。
私たちは貧しいなりに、幸せと生きる歓びを求めている。お金では買えない尊いいのちの歓びを・・・。

2016年7月 2日 (土)

田川紀久雄日記

上野芳久出版記念会での朗読と詩語りがユーチュブで聴けます。上野芳久さんは「祭りの後」。田川紀久雄は「風のいざない」から二篇です。松岡章さんが作成してくれました。
「操車場・108号」の印刷と製本は三日ごろまで終わる予定です。今月は原稿が早めに集まったので助かりました。
朗読や詩語りの基本はテキストを徹底的に読み込むことである。最低でも100回以上聲を出してみることである。それから人前で披露していかなければならない。聲というものは生き物と同じである。できるなら毎日聲を撃つことである。それを三年以上続けて行けば立派な朗読人と呼べる。聲は作り上げるものである。作り上げていない聲は聴くに堪えないことがある。三十年以上も続けている私でも毎日が迷いの世界で生きている。私のようなボロ屋では聲がだせない。公園でだから毎日香を撃っている。落語家は歩きながら練習をするという。精進が出来ない人は、朗読を試みないことだ。大聲が出せなければ普通の聲で毎日読むことでも違う。そして仲間を作ってライブを行うことを勧める。
詩誌受贈『いのちの籠・33号』『水の呪文・43号』

2016年7月 1日 (金)

田川紀久雄日記

『青空の下で』の版下を印刷所に入れる。
タオの道は知識として読んでいても何の意味もない。心の問題はなんでもそうだが実践の哲学である。それは経験と体験との差でもあるからだ。そして詩の世界も同じことが言える。深い経験を体験として思想化していかないと詩の言葉が軽くなってしまう。言の葉こころを命懸けで追い求めなければ詩になってゆかない。そのような意味で詩というものはとても厄介なものである。詩というものは魂を追及していくところに醍醐味を感じる。
詩の朗読も趣味として行っていては、本当の聲には到達しない。私に言わせれば「祈りの魂」こそが詩人の聲でなければならない。私はそれだけを追い求めながら精進に励んでいる。魂の救済を求めての旅でもあるからだ。
詩誌受贈『光芒・77号』

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