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2016年6月30日 (木)

田川紀久雄日記

今日は定期検診日である。その他の日には腰のリハビリに行くので、毎日病院通いである。やはり気が重い。
昨日ガンで亡くなった、加藤旭さんの音楽をテレビで聴いた。「一筋の光」ピアノ曲はとても素晴らしい。ベートーヴェンの曲を思わせるところがあったが、心がうたれた。十六歳で亡くなるのは早すぎる。数年前に彼のことをやはりテレビで放映されていたことを思い出した。
いまガンは二人に一人の割合でかかるという。やはり恐ろしい病である。私の詩語りは「祈りの魂」という世界を作り上げたい。言葉でいうのは簡単だが、それを形にしていくのは難しい。そのためにも聲にぬくもりのある聲を作っていかねばならない。日々すべてのものに祈りを捧げて生きていたい。CDも「祈りの魂」という言葉をタイトルにしている。
今月も今日で終わる。精神的にきつい日々であった。

2016年6月29日 (水)

田川紀久雄日記

Nさんから電話で仕事が入ったと思ったら、それは詩語りでなく、三味線を弾いて語ってもらいたいとのことであった。体力的に今は三味線を弾かないと言ったらその仕事の話はそこで断られた。詩の朗読なら自分たちで済むと思ったのだろう。詩の朗読と詩語りではまったく異なっている。
そのことを上野さんの出版記念で証明した。やはり生の聲を聴かないことには話にならない。三十年以上も詩を語り込んでいる者と、普通の詩人の聲とは違う。それ以上に、聲に魂を撃ちこむ困難さをいまの詩人たちは知らない。CDやDVDでは、本当の聲の響きが伝わらない。そのことで詩集にCDを付けることに不安を感じている。詩人にはそのことが解らない。つまり詩語りには興味がないということである。ただ聲が響き渡るだけではない。大切なのは詩人の魂の問題なのだ。本来なら、もっと詩人たちに詩語りライブを聴いていただきたい。今のところ私の聲を評価しているのは、山本竹勇さんと上野芳久さんである。肉聲の響きこそ命の聲であり祈りの魂なのだ。もっと前向きで詩語りに取り組んで生きていたい。CDに不満があっても現在で記録として残せるのはこれしかない。七月のライブで『青空の下で』の前半を録音していく予定である。

2016年6月28日 (火)

田川紀久雄日記

昨日は、この画面が動かなくなってしまった。なぜそうなったんか解らない。
ここ数日鬱的な気分が続いている。これは周期的におこる病だから致し方がない。それでも詩を書き進めている。詩を書くことで今の自分を分析していけるからだ。詩はある意味では病の治療薬にもなっている。ときどきハガキなどで私の心を応援してくださる方がいる。お礼状は出さないがとても感謝をしている。
人の心は自分ではどうにもならない時がある。でも話せる友達がいることで随分と楽になることもある。詩語りの稽古以外家の閉じこもって生きていると、どうしても精神的の悪い。昔を音楽を聴いたり、本を読んだりして時間を潰していたが、いまはそれすらしなくなった。ちょっとした時間すらパソコンに向かって一行でも詩を書き進めようとしている。詩語りで語れる作品を書きたいのだが、なかなか生まれてこない。悪い状態で詩を書いていると鬱的状態が増してきて心が苦しくなってくる。このような世界を素直に書いていくことも大切なのだと思ってしまう。自然の風景を見に出かけられればいくらか気分も良くなるのだろうが、足腰が悪い私にはそれすらできない。やはり苦しくても詩を書いたり語りの稽古の中で自分の心を取り戻していく以外にはない。この困難な生き方が詩人の生き方なのかもしれない。

2016年6月26日 (日)

田川紀久雄日記

人間は理想よりも、現実の苦しさを優先させる。これEUだけの問題ではない。今の世の中は経済が一番優先される時代なのかもしれない。政治家はこの国民の苦しみの聲を聴かない政治家は議員として失格者なのだろう。どこの国のトップの人たちは、似ているような気がする。国民の不満はいつどのような形で爆発するかは解らない。このとこは一国だけの問題で解決できるものでもない。
老々介護問題は、国民にとって身に応える事件が日々起きている。それには誰もが応えられないでいる。あくまで個人責任で扱われつぃまう。特に八十歳以上を越えた人たちの介護の問題は痛ましい。これは国民全体で対処しなければならない問題でもある。これからもっと老齢化していく時代である。
詩集を予約してくれた方のみにCDを付けることにした。自分ではこのCDに不満であるが、いつになったら満足が出来るものが生まれるかは解らない。詩人たちに聞くとCD化することに誰もが躊躇している。でも大切なのは詩人たちは他者の聲を聴く必要がある。下手であっても致し方がない。他者に聴いて貰うことによって聲というものは成長していくものである。長いものは敬遠されるだろうが三十分程度なら聴いて貰える可能性がある。いま「詩人の聲」に参明かしている詩人もだれもCDを出していない。貴重な体験をしているのだからせめてCD化を勧めたい。個人が長時間できる単独ライブなどはどこにもないのだから。

2016年6月25日 (土)

田川紀久雄日記

EUからの離脱をイギリスは決めた。日本経済も大きな打撃を受けると思う。自動車産業がこれからどうなってゆくのか。新規採用した人たちにも影響がでるのだろうか。資金のない会社は倒産してしまうかもしれない。アベノミクスは安倍総理の思う道理には進まない。まったく先が視えない世界になっている。これで参議院選挙にも影響を与えるのだろうか。平和を維持するためにEUに参加したイギリスが難民問題でこうもあっさりと離脱するとは思わなかった。どこの国も貧困問題を抱えている。この問題を解決しない限り、世界の平和はない。富裕層の欲望を止めることは難しい。かれらは権力と結びついているからだ。一人の大金持ちと九九人の貧困者でこの社会が維持されている。アメリカでトランプ氏のような人物が出てくるのも良くわかる。九九人の貧困層の下にまだ多くの貧困層がある。参議院選挙で与党が有利だという話もある。戦争や原発よりも今を何とかしてくれる党を選ぶのも解る気持ちがする。しかし、未来のことを思うと安倍政権を何とかしなければならない。相棒のアルバイトで生計を維持している私たちには確かに苦しいが、未来の平和のためには闘っていたい。
詩集受贈『禿慶子詩集・しゃぼん玉の時間』

2016年6月24日 (金)

田川紀久雄日記

昨日は自分でもよくわからないが書けてしまった。無意識に書ける時もあるものなのだろう。題名は「風の方角」である。今書いている詩集はどこの方角に進むのかまったく解らない。ただ「愛」というテーマを見詰めたいと思っているだけだ。
昨日『一粒の種』(前半)をCDからCDに取り込むことが出来た。数枚制作したが、発売するかどうか迷っている。それは不満が残っているからだ。しかし今のところ録音をとれる場所は隔月の「詩語りライブ」でしかない。これは朗読の勉強会を行っているので、時間も限られている。一応ライブ形式で行っているのでそれなりの緊張感はある。本当は録音ができるスタジオがあればいうことはないのだが、それは夢の話だ。いまのところいくらかでもCDで残しておけることで満足すべきなのだろう。DVDより聴くという意味ではCDの方が良い。

2016年6月23日 (木)

田川紀久雄日記

安倍総理は改憲について一言も触れずに、改憲を行う気でいる。参議院選挙の最大の焦点は改憲であることには間違いがない。国民は未来にのこせる政治を求めていかねばならない。しかしながら本当にほれ込む議員がいないということが寂しい限りだ。
昨日山本竹勇さんから電話があった。一日も早く歩けるようになりたいものだ。
熊本の人たちはこの度の豪雨で大変な思いをしたであろう。次から次へと襲い掛かる出来事には哀しみを覚える。政府は苦しむ人たちへの救済をお願いしたい。政治とは、国民のために尽くすのが政治の役割であることを忘れているような気がする。議員を選ぶのは国民である。国民の一人として真剣に政治のありかたを考えていかねばならない。そのためにはいろんな人たちと話し合うことも大切なのだろう。

2016年6月22日 (水)

田川紀久雄日記

「詩界」という日本詩人クラブ発行のものがある。ある詩人が詩について書かれているが、詩というものはこんないい加減な世界であるかと思うと、詩を読むのが嫌になってしまうと思う。
私にとっては生きる道を見出すための世界である。ある意味で哲学でもあり、宗教的な世界でもあり、タオの世界でもあったりする。普通の詩人たちが詩を書く意味と異なっているのかもしれない。人生が旅だとすれば、旅の意味を求めていくのもまた旅である。ある詩人は「行路」と呼ぶかもしれない。旅と自分の苦難を乗り越えて新しい世界を求めていくものでありたいと願う。詩語りの世界も旅である。一人でも心に響く語りの世界を求めてゆきたい。
私たちは憲法九条を守らなければならない。誰も戦争で人の命を奪ってはならない。戦争の名のもので死ぬことがあってはならない。世界の各地ではいまだに内戦で死んでゆく人や難民が増えている。平和で過ごせることはいかに尊いことか、だからこそ他者の幸せを願っていかねばならない。日本はこの九条を誇れる民族としてありたいものだ。平和こそ掛け買のない宝物である。このたびの参議院選挙でこの平和憲法を守ってゆきたい。

2016年6月21日 (火)

田川紀久雄日記

詩人たちの朗読を聴いていて、なぜ聲の探究心がないのだろうかと思ってしまう。下手なくせに自己満足型が多い。それは私に言わせれば聲の精進をしていないからだとしか言えない。聲というものはそう簡単には生まれてこない。長い歳月の修練があって初めて聲という世界が生まれて来るものである。魂を抉るような聲は、内的な意味性を追求しなければ生まれてはこない。活字ばかり追っていては駄目である。つねに自己の魂と向き合っていかねばならない。これは詩を書くことでも言えることである。詩と聲が一致する場があるはずだ。この場を求めて語るのが詩人の役割である。プロの朗読家ではできない世界である。上手さでは表現できない味がある。その味を産み出すことは大変なことである。
いま新しい詩集『黎明』に取り掛かっているが、悪戦苦闘をしている。本当に私が語りたかった世界に近づいてきている。

2016年6月20日 (月)

田川紀久雄日記

いま自主出版が盛んであると言われている。物を書く人間には夢がある。他者に読んでもらいたいという願望が強い。詩関係の出版社は、この自主出版で食べている。しかし、本当に読んでもらえるかというと疑問だらけだ。人間の欲望を利用して出版社は成り立っている。
同人詩誌でも、仲間に読んでもらうことが困難な時代になっている。手紙で「後でゆっくり読ませていただきます」ということはまず読むことがないであろう。詩は仲間同士でも読まれない時代になっている。人によって送り返す詩人すらいる。
詩誌でも分厚い詩誌はまず全部読むのは無理だ。詩誌というものは薄いものがよい。それならトイレに入っている間に読んでもらえる可能性があるからだ。世の中はますます他者に興味がない時代になってきた。これは読者のせいにするより、書き手にも責任がある。詩誌を読んでいても内容が薄っぺらになっている。人間の魂をえぐるような詩にはめったに会えない。詩ぐらいこの世で真っ正直でありたいものだ。最後の人の心のよりどころが詩であってもらいたい。また、そのような詩を書いてゆきたいと願望せずにはいられない。たった一行の真の言の葉こころに出会いたいものだ。詩語りも、言の葉こころを語れる詩人になってゆきたい。

2016年6月19日 (日)

田川紀久雄日記

どの世界でも一流になるには、自分の限界を打ち破っていかないと超一流にはなれない。これでいいのだという気持ちが、成長をさまたける結果につながっていく。限界を超えることは、普通に精進をしていくことであると思う。やりたいときにやるのではなく、どんなつらい時も休まず努力していくことだと思う。それは誰でも出来ることではない。強い祈りと目標がなければできないことだ。
詩語りでも、いまの語りをもう一つ越えていかなければならない。そうでなければ、世の中では評価されないだろう。いま私は、この限界線に佇んでいる。この線をこえていくことが今の私の目標である。それには日々の努力しかない。
「たぶの木・23号」の原稿が集まった。今身体的に疲れているので、隔月はきつい。そこで年四回にしたい。できるのなら廃刊にしたいのだが書き手の人たちはどのような気持ちでいるのか教えて欲しい。仲間意識が薄れているのではなかろうかと思う。詩誌というものはある程度仲間の熱い心がなければ維持できないものである。

2016年6月18日 (土)

田川紀久雄日記

人生の目標といっても、はっきりしたものではない。つねに日々との闘いが生きる目標のようなものかもしれない。精神的にもキツイことが多い。
私も詩語りに懸けて生きているんだが、先がまったく視えないでいる。詩語り芸人を目指しているのだが、客の前で行うことがない。芸というものには、お客に聴いて貰うものだが、詩の世界ではそのようなことがない。ただただ自分の芸を磨いていくことは、ある意味では苦しみ以外のなにものでもない。客と分かち合うことのない世界では芸と呼ぶことができない。客に叱咤激励されてこそ芸というものは磨かれてゆくものである。詩の朗読の世界ではそのようなことは一切ない。詩の世界の社交的な行事でしかない。そこには新しい朗読の可能性は生まれてこない。
残された世界は自分自身との闘いだけである。そのためにはCDを残していく以外にはない。そして日々の精進だけが生きる自分を勇気づけてくれる。
詩誌受贈『柵・12号』

2016年6月17日 (金)

田川紀久雄日記

昨夜は、寝たのかどうか良くわからなかった。木食五行のことを考えていたからだ。仏像の表情は笑顔で穏やかだ。最近、円空仏よりもこの齢になってなんだか心が惹かれるようになった。
というのは詩語りでも、聲の奥に愛の心を秘めていたいからである。いま私はこのような気持ちで詩語りの精進に励んでいる。多分詩の朗読でこのような意識を持って朗読を行っている人はいないだろう。愛の心をもって初めて「魂の聲」と言えるのではなかろうか。このことは鎮魂歌を五年近く語り続けてきた結果に生れてきた世界である。
そのために新しい詩集は、いのちの曙を目指して書いてゆきたい。生きる歓びをどのようにして言の葉こころにしていけばよいのだろう。そのことで木食五行のことを思い出したのだろう。こころをこめて詩語り出来るテキストを産み出したい。

2016年6月16日 (木)

田川紀久雄日記

後味の悪い辞任劇であった。何も明らかにされずに幕が下ろされてしまった。政治というものはいつも同じことを繰り返している。あり意味の茶番劇でしかない。その茶番劇の費用は、ずべて国民のお金で賄われている。
イギリスのEU問題で、円高になっている。世界的な不景気になりかけている。いまの世の中の経済は一国では解決できない。連鎖の時代になっているからだ。いつも事件の発端は、貧しい人たちの渦の中から湧き上っている。不満は国民全体に広がり、政治の中に取り込まれていく。
詩集『帰還』を書き終える。これで詩語りの方向性がはっきりと見えてきた。あとは精進によってその世界を築いてゆけばよい。この世界を見出すまでには長い旅路であった。私の聲も芸人の聲になりつつある。これからが詩語りも楽しくなってゆくだろう。詩の朗読も、人に聴かせる聲を持たなければ、いつまでたっても学芸会と同じである。これでは誰もが銭を払ってまで聴きにはいかないだろう。
『詩人の聲』も銭を払っても聴きたい詩人が現れない以上、なかなか拓けた世界が見いだされない。天童大人の仕事はその道を作る役目であるのかもしれない。本当に一時間を語れる詩人が何人生まれて来るのか楽しみだ。
詩集受贈『水崎野里子詩集・火祭』

2016年6月15日 (水)

田川紀久雄日記

操車場の原稿が集まった。あとは私の日記だけだ。気分的にとても楽である。
熊本地震から二ヶ月も経ったが、復興が進んでいない。家の再建のメドがたたない人たちが多い。人々の心のケーアが求められている。東日本大地震でもいまだに苦しんでいる人たちが多い。それなのに桝添知事はオリンピックで浮かれて贅沢三昧な浪費で都民を欺いた。福祉政策に力を入れてほしいのに、その方はまったくの無関心。これでは辞任しかない。それなのに、醜いあがき状態である。
経済優先のアベノミクス政策は、貧困層を増やすだけの政策である。そのために原発の再稼働を促進させていく。このような危険な政策は一日も早く原発を廃炉にしてゆきたい。福島も帰宅地域を増やしているが、山林などはほとんど除染がなされていない。宇都宮でも給食のタケノコに多くのセシウムが含まれていた。放射能検査がなされていない。なんでもかんでも安全だという風潮は恐ろしい。国民の安全よりも政策を優先させるこの国の政治とは何なのだろう。
庶民は分かち合える豊かな心を身に着けていかないと、この世の中は絶望の世界になってしまう。生活の豊かさよりも心の豊かさが求められている。この度の参議院選挙では、国民の意識が問われている。

2016年6月14日 (火)

田川紀久雄日記

昨日テレビで末期ガンの山本弘子さんが、懸命に生きている姿を見た。今を生きることの幸せを求めて生きる。これは私も同様な気持ちで今も生きている。生きていられることに感謝しながら、詩語りを通じて愛を語りたいと精進して生きている。詩語り公演をしたいと思っていてもどこからも仕事がはいらない。
いま私は隔月に詩集を上梓している。今を生きるとは何かを追い求めている。そして日々公園で詩集を語り続けている。ある意味で壮絶な闘いであるが、私は楽しく幸せを感じて生きている。そのことで免疫力を高めていられる。私も末期ガンと宣告されても八年も生きていられる。いまは足腰が悪く思うように行動が出来ないが、幸せをつかむために懸命に生きている。このことをガン患者に伝えたいと願っていても伝えられる場所がない。だから詩語りの聲をCDに残しておきたい。その場すらほとんどないのが現状だ。でも私は負けないで闘っていきている。それは愛を聲で表現したいからだ。
この前上野芳久さんの出版記念会で彼の詩集『風のいざない』から「風の峠」「風の旅」を語ることができた。上野さんはとても感動してくれた。そしてCDとして残せた。友と命の響きを分かち合えた。そして彼の朗読も聞けた。これは生きていることの幸せを痛感した出来事であった。このような出来事は稀有なことでもある。彼も困難な情状から生きることの幸を求めていま旅人として生きている。困難な苦しみを味わった人にしか書けない詩をお互いに詩集としてまとめている。現代詩から外れているが、いまこの世で最高の詩をお互いに書いている。それは愛の賛歌を求めているからだ。

2016年6月13日 (月)

田川紀久雄日記

アベノミクスは失敗しているのに、さも成功したかのように見せかける。貧富の差を拡大しているのはアベノミクスの方向性にある。これはある意味で世界の国がどこも貧富の差が大きすぎる。特にアメリカや中国が1パーセントの富めるものと99パーセントの貧困層で社会が成り立っている。
参議院選挙はどうなるのだろうか。国民は安保法案・原発・憲法問題よりも、生活の豊かさを求めている以上この日本はだんだん地獄への道に進んでゆくだろう。でも今ノーと叫ばなければ手遅れになる。軍備の拡大が大企業と手を繋いで戦前のような国家体制になってゆくだろう。戦前のように国の予算の90パーセントが軍事費になっていくかもしれない。戦争のない国作りを目指してゆかねばならない。文化交流が詩人たちができる大きな仕事なのかもしれない。そして平和を求める詩を書いてゆきたい。その道は困難であるが戦争反対詩よりも必要な気がする。それは愛の世界であるからだ。
詩誌受贈『風のたより・11号』

2016年6月12日 (日)

田川紀久雄日記

今日は、午後から川崎詩人会。
『詩人会議・7』に詩集評で宇宿一成さんが『蘇生』を取り上げてくれた。前の時もそうであったが名前に誤字がある。喜久雄ではなく紀久雄である。でも取り上げていただいたことに感謝。
急に温度が高くなったせいか身体がだるい。齢のせいかもしれないと感じるようになった。
ここ詩を一気に書けなくなった。数日をかけて一篇を書くようになってきた。できれば一気に書き上げたいのだが、イメージが続かいない。詩集『帰還』は何とかして今月いっぱいで書き終えたい。

2016年6月11日 (土)

田川紀久雄日記

詩人というものは自己の哀しき運命を背負って生きているものである。そのバネを梃子にして詩を書いてゆくものである。自己を肯定するのではなく、自己を無にしていく勇気が必要である。そして本当の愛を描ける詩人になってゆきたい。
詩人というものは、報われることを期待すると苦しみに取りつかれる。自然の風景のように詩も社会の中で何かの役になっているものだ。私もほとんどの詩人から無視されているが、私の存在に勇気づけられている人もいる。詩集を上梓してゆくのも大変だが、これも私の天命だと思って行っているだけだ。この世でたった一人でも私の詩によって生きる勇気を与えることが出来ればそれで私は救われる。そして私の詩語りも、失語症であって人間がこのようなことが出来るのかと思ってくれることだけでもありがたい。愛の聲、愛の言の葉こころを見出していければ私が生きた証になる。そのためにも他者に褒められることより、自分の運命を切り拓いていくことが大切なもとである。そのために詩を書き、詩を語って生きている。

2016年6月10日 (金)

田川紀久雄日記

文学という世界の価値観はだんだん薄れて行っている。それは生きて行く上での大切なものが書かれなくなっているからだ。社会が暇つぶしのための書物しか求めなくなっているからである。
詩は詩で現代詩というわけのわからない言葉遊びに陥っている。詩から心の救済を求める意識がどんどん薄れてしまった。現代人はつねに時間に追われて心のゆとりを失っている。私自身も詩を書きながら、他者の詩にそれほど期待をしていない。それは読んでいて心が揺さぶられることがないからだ。詩人自身も孤独感が薄れていることにも原因がある。それは文明の発展にも原因がある。あまりにも便利で豊かになっている。
私にとって、詩は自分の生き方を探究していくもの以外なにものでもない。そして詩語りの道をより良いものにしていくためのものでもある。本当の自分の姿を求めて旅人として生きてゆくしかない。

2016年6月 9日 (木)

田川紀久雄日記

古賀博文さんから、原発問題で手紙をいただいた。彼は九州電力で働いているので、それなりの原発に対して、私のように反対する人間に対して注文を付けたいのだろうが、多分いくら語ってもの平行線で行くだろう。私は生命論から原発に反対している。ただそれだけだ。嫌なものは嫌なのだとしか言えない。
すべての人が私を無視しているわけではない。私の生き方を応援してくださる方もいる。詩人の中にも操車場の年間購読者がいる。応援やカンパをしてくださる方には心から感謝をしている。古賀さんも年間購読者の一人である。私は詩を書き、詩語り人として生きて行くしかない。そしてすべての人々の幸を願っている。上野芳久さんが私の詩語りの意味を理解してくださった。CDや詩集からは聲そのものの意味を摑むことができない。実際に生の聲を聴いていただかないと解らないものだ。といって生の聲を聴いていただけることはなかなか難しい。だから私はCDとして残している。鎮魂歌を語り続けているのも、すべての人々が幸せになるためだ。私の聲は魂の叫びなのだ。

2016年6月 8日 (水)

田川紀久雄日記

今年のボーナスは大企業で最高額が支払れるというが、バイドの相棒はたった一万円しかないという。ますます貧富の差が広がるばかりだ。もう詩集を上梓してゆくのが難しい。どうしたら私が稼げるのか、それは詩語りの出前しかない。しかしこの出前の仕事もなくなっている。生活面で未来を考えると不安でたまらない。だから何も考えないようにして暮らすしかない。
詩集『南無』までは上梓してゆきたい。この『南無』は私の詩集で最高作であるかもしれない。そう思うのは私だけだが、自己満足感がなくなったら生きていくのが辛くなる。六十冊近くも詩集を上梓している私はいったい何者なのか自分でもわからない。解らないが生きて行く意味と未来への希望を求めて生きていることは確かなことだ。生きているということは一つの闘いなのだ。ひたすら未来に向かって闘っていくしかない。
詩誌受贈『笛・276号』
詩集受贈『管井敏文詩集・コラージュ』

2016年6月 7日 (火)

田川紀久雄日記

桝添氏の都知事は、適任ではない。法的には罰則されないとしても、人間的、また政治家としては失格者である。誰しもが潔癖な人はいないと思うが、立場をわきまえないで政治家としてはとても許せないものを感じてしまう。
上野芳久氏と私の聲がCD化になった。上野氏は『祭りの後』と私は『風の峠』『風の旅』が収録されている。どちらも上野芳久さんの作品である。このCDは貴重なものとなろう。いまのところ非売品である。これから私の詩語りがすべてCD化されてゆく。これで聲の成長が残せると思うとなんとなく嬉しく感じられる。いつか編集しなおして商品化にしたい。
詩誌受贈『あすむ・44号』

2016年6月 6日 (月)

田川紀久雄日記

学友がいることはいいことだ。昨日の上野さんの出版会でつくづく感じた。私には本当の朋が何人いるのだろうか。詩語りを行ってみればすぐに答えは出てくる。上野さんの会で『風のいざない』から詩を二篇語った。上野さんがいちばん感動してくれた。聲に愛の気持ちをのせて語ることが出来た。詩語りは、本当の言の葉こころを表現することと、人の幸を願って語っていければ良いのだ。
詩集六十冊ほど上梓しても私は一度も出版会をしたことはない。私の出版会はつねにライブが出版会である。お酒を飲んで雑談会はしたくないからだ。詩と付き合うときはつねに真剣でありたい。
詩誌受贈『橄欖・102号』

2016年6月 5日 (日)

田川紀久雄日記

今日は上野芳久さんの学友仲間で出版記念会を行う。この仲間ほとんどが操車場の年間購読者である。それで私も出席する。彼らは詩人ではない。詩人でない人たちが詩人を応援している。このことは素晴らしいことだ。どのような会になるのかとても楽しみだ。
安倍総理は公約を果たせない以上、辞任するか衆議院を解散すべきであった。参議院で国民の判断を仰ぐなんていうのは詭弁の何物でもない。国民は正義よりも生活の安定を願っている。そして次第に戦争への道に進んでいくのかもしれない。いま安保法案を止めなければ大変なことになってしまう。それなのにこの危機意識を国民はそれほど感じていないように思える。
詩人で戦争反対の詩を書いている人たちの詩を読むと、詩になっていないものが多い。心の内なるいのちから書いていないと言葉が空回りしているだけにか過ぎない。詩人にとって一番大切なのは、内なる心との闘いである。それを感じないものは私は詩とは呼べない。
私の詩も詩とはほど遠いものかもしれないが、内なる闘いから言の葉こころを産み出している。
上野芳久さんの詩を高く評価しているのも、彼の心の叫びを感じるからである。そのような詩人の詩を語ることに楽しみを感じる。私の詩も上野さんの詩を批判する人はいるが、そのようなことには何も気にしないことにしている。

2016年6月 4日 (土)

田川紀久雄日記

他人の詩を読む楽しみを感じるようになってきた。このような気持ちになったことはいままで一度もない。中学校時代、国語の時間に読まされることに恐怖を感じていた。失語症の私はどうしても人前で話すことに怯えていたからだ。
人に聴いて貰えることを楽しく感じるのは、詩語りを通じて徐々に生まれていたのだろう。でも詩語りは、聴いて貰えることの楽しみを感じたことはなかった。それはまだ心のゆとりがなかったからだろう。これはある詩人の聲を聴いていて、これではいけないと思ったからだ。聲の力だけでは人の心に聲は届けられないと感じた。作品を読み込む努力が大切である。朗読ではなく詩語りとして他者に聴かせる力を身に着けてゆかねばならない。
これからは語ることの楽しみを味わいながら生きていくことだ。
詩誌受贈『漪・41号』『コオア共和国・19号』

2016年6月 3日 (金)

田川紀久雄日記

「操車場」と「沈黙」を送ることができた。「コールサック86号」の詩集評に若宮明彦さんが「永遠なる大地」を取り上げてくれた。私のようなテーマ(詩語り)で誰も書いていないからだろう。テーマを持っていない人は、詩の技術を求めるしかない。そして賞を狙って詩を書いていくのだろう。それは非常に虚しい行為だ。詩というものは魂と魂の共存が望ましい。
詩は詩として読むのではなく、人生の朋として読んでもらえるのが最高の喜びだ。そのような詩がどんどん増えてくると嬉しい気がする。若いときに読んだ詩は、心の支えになっていた時期がある。しかし、生活が豊かになってくると詩人の詩もなかなか読みたいというものがなくなってきた。齢を取ってくると頭で書いた詩はなかなかついていけない。やはり心に響いてこないと読む気が起こらない。詩は魂との共存でしかない。それ以外のものは詩とは言えないのではなかろうか。詩も存在していく場がだんだん失われつつある。庶民生活の中に生きて行く場を求めていかねばならない。すべての人々の心の支えになる詩を求めてゆきたい。苦しみや哀しみを分かち合える世界を求めて行くしかない。

2016年6月 2日 (木)

田川紀久雄日記

安倍総理の釈明は、自分の都合だけを国民に押し付けるものであった。公約というものは案外軽いものであることを痛感しただけだ。G7も国民への釈明に利用しただけのものとしか受け止められない。
また桝添氏の答弁も、なんら説明にはなってない。これでは都民は不満が募るばかりだ。
どちらも国民や都民の生活の苦しさを思いやる心がない。
昨日『操車場・107号』と『沈黙』を半分ほど送ることが出来た。さっそく公園で『沈黙』を語ってみた。Uさんが『沈黙』の購読をしてくれた。一冊でも売りたいと思っているが、詩集を売ることは至難なことである。そのためにも読んでもらえるような作品を書いていかねばならない。それは読者に媚びるのではなく、自己の生き方を深めて行くことに尽きる。
詩誌受贈『詩的現代・17号』『水盤・16号』
詩集受贈『日原正彦詩集『163のかけら』

2016年6月 1日 (水)

田川紀久雄日記

今日詩集『沈黙』が届く予定。詩を書くことで視えないものが視えてくる。これはひとつの発見でもある。無意識を意識化する作業でもある。このことは大きなことだが、読者にとっては、書かれている言葉がすべてである。そのような意味では詩集を理解することはある意味で困難なことでもある。人は他者の心をどれだけ理解できるのだろうか。それを考えると絶望的であるとしか言えない。読者はあくまで都合の良いことだけしか受け入れていない。まして詩集は一回読んで終わることが多い。語りのように何度も読み返すことがない。聲を出して何度も読み込むことで毎回新たな発見が生まれる。
詩集を上梓しても何も期待しない。詩を書いたことに歓びを感じればそれだけで充分だ。そしてそれを詩語りとしてCD化することに生きがいを感じる。このことは孤独な社業であるが、自分だけの世界に浸ることが出来る。詩人は自分の内面を深く掘り下げて行くことしかない。あとはすべて天に任せればよい。

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