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2016年5月31日 (火)

田川紀久雄日記

詩を聲にだして語ることによって、活字では視えなかった世界が視えてくる。聲というものはものを考えるのは脳より優れているのかもしれない。そのことを昨日詩を書いていて明確になってきた。活字は眼で読む。しかし活字は耳で聴くことが本当は求められている。先日島村洋二郎の詩を語っていて、このような詩の朗読は聴いたことがなかったとある人から言われた。聲の表現は、意味を伝えるとともにそれ以上の心の感情を伝えることができる。それは心の魂を表現できるということだ。
現代詩が朗読されなくなっている。それは人々の心から遠ざかっているからだ。他者の詩に興味がなくなっている。眼で読んだだけで詩を評価している。他者に言葉を伝えようとしない。自己満足の世界で詩が書かれている。それだと当然朗読には興味が湧かないのも当然なことだ。『詩人の聲』でも詩人が聴きに来ることは少ない。私は詩人がいないところで詩を語りたい。吟遊詩人はつねに人々の生活の中で語りたいものだ。

2016年5月30日 (月)

田川紀久雄日記

身体がこの陽気についていけない。朝起きるのがしんどく感じられる。リハビリに行くにも面倒な気がしてくる。これが五月病なのだろうか? 
世界全体が幸せに向かっているのだろうか。いや貧富の差がますます広がっているゆな気がする。世界のいたるところでは小さな闘いが繰り広げられている。少数民族は人権が無視されて貧しい生活に追いやられている。やはり世界がいたるところで病んでいるとしか言いようがない。シリアからの難民が船が沈没して多くの人たちがなくなったと新聞の記事を見るたびに悲しくなってくる。同じ人間がなぜ苦しまなければならないのかと思うだけで怒りを覚える。国連も思うように機能していない。しかし懸命に何とかしようとしている人たちがいることも事実だ。そのような人たちに私たちは励まされているのだろう。そのためにも身近な隣人に対して優しさのまなざしをもって生きて行かねばならない。
詩誌受贈『鹿・143号』

2016年5月29日 (日)

田川紀久雄日記

相棒がSDからCDを作成することができた。これからは思う存分SDで録音していける。
「操車場」の原稿がすべてそろった。これだと六月五日までにはできあがりそうだ。
私の聲は朗読にはむいていない。朗読家から見れば批判されかねない。しかし詩人の聲は、言葉を読むということより、どれだけ内的な聲を表現できるかではなかろうか。詩を語ることを追い求めてきた私には、世間が考える朗読論とは異なる。いつの時代でも、一部の人間から魂の叫びをあげている人たちがいる。今はこのような人たちはほとんど全滅してしまった。個性というものが評価されない時代になっている。でも社会の表面には出てこないが、決して全滅したのではない。どの分野の世界でも、魅力あるものが少なくなっている。詩人の聲は一般化しない。それでよいのだろう。でも私が認める詩人の聲の持ち主は存在しない。
昨日はこのことを詩で書いた。これからも詩を書き、それを語っていくしかない。未来は美しく、癒しと、愛の世界に満ちたものでありたい。そのために今は叫びの聲をあげて行くしかないのだ。

2016年5月28日 (土)

田川紀久雄日記

アメリカの大統領がヒロシマを初訪問する。ある一つの形での和解である。核の放棄が世界の願いである。でも原発が動いている以上核を作るプルトニュムが生まれる。ドイツのようになぜ日本は原発を破棄しないのだろうか。
今月末に『沈黙』が出来上がってくる。発行日よりいつも早く作っている。なんでも早めに行うのが私の性分なのだ。
『詩と思想・6』に『永遠なる大地』を工藤俊さんが紹介してくれている。感謝。
詩とは何なのか私には解らなくなってきている。心からいいなという詩が感じられなくなっている。知的に書く詩は私の脳にほとんど入り込んでこない。心と心が向かあえる詩を読みたい。「詩と思想」に詩人賞が一覧されている。こんなにも沢山あるのだと驚くばかりだ。詩人たちがこのような賞に群がるのもうなずける。でも私には関係のない話だ。詩の価値は賞にあるのではない。読む人の心に届くことに価値がある。詩は無心で書いていることが大切なのである。詩の中にも書いたが、私は活字の中にいない。聲の中にしか存在しない。

2016年5月27日 (金)

田川紀久雄日記

井の頭公園のゾウのはな子が六九歳で亡くなった。飼育員の人と知り合いで、ゾウの糞からハガキを作っていた。なんだか寂しい気分になった。
浜川崎の猫たちはいなくなってしまった。猫嫌いの人が嫌がらせをするからだろう。野良猫と付き合いことはなかなか難しい。保育園でも子供の聲がうるさいから建設反対になる時代だ。
しかし原発再稼働は住民が反対しても国の力で再稼働が進められていく。本当はもう必要がないのに進められていくのは不思議だ。南海トラフの危険がいわれているが、その周辺にある原発の再稼働はあまりにも危険すぎる。川内原発や伊方原発はあまりにも危険な場所に存在している。
詩語りの叫びは、いのちの叫びでもある。ぬるまゆに浸っている人たちにはこの叫びには無関心だ。でも吟遊詩人となって語り続けなければならない。詩人の世界からも相手にされない朗読の世界は、詩は滅んだとしか言いようがない状況だ。ほんの一部の愛好家しかいない世界はやはり異常としか言えないのではなかろうか。

2016年5月26日 (木)

田川紀久雄日記

なかなか咽喉の痛みと咳が止まらない。それでも語りの稽古を続けている。ライブの時はどんな状態でもできませんとは言えないものだ。ライブの予定はないが常に聲を出すことは必要である。でも自分の聲の悪聲には悩まされる。この悪聲をなんとか生きた聲にしたいものだ。
福島第一原発の工事を中止した。一日も早く工事を進めねばならないのに、G7のために工事を止めるなんて、国のやることはどうにも納得が出来ない。一日も早くしなければならない工事を止めるということは世紀末の出来事のようだ。
熊本地震で、全壊と半壊には、アパートを借りでもその家賃が出るが、家の中では住めないのに、家が壊れていない人には支援金が出ないのはおかしい。アパート暮らしの人が何とかしてと訴えても家賃代は支給されない。困っていう人には何とか助けてもらえないものなのか。役所は、なんでもある線を引いてその線より下の者には何ら手助けをしない。義援金の扱い方にも納得できかねないものがある。必ずその枠に入らないで苦しんでいる人たちがいるということを忘れないでもらいたい。
詩人は詩を書くしかない。そして語ってゆくしかない。人々の苦しみを言葉で分かち合うしかない。一番弱い人の身になって詩を書き、聲をあげてゆく。

2016年5月25日 (水)

田川紀久雄日記

他者の詩を語ることは難しい。言葉を越えた詩の魂を語らねばならないからだ。その心の中心に愛という世界観が存在しないと語っていても虚しくなる。問題は他者の詩を語る場所がないということだ。たった一人で朗読を企画しても詩人はお客を集めることは難しい。私の場合でもほとんどお客は集まらない。やはり誰かが企画してくれない以上詩人の興業は成り立たない。
社会では詩の朗読を聴くという習慣はまったくない。いや詩の朗読という世界すら知られていない。詩の朗読会に行くと、詩人しかいない。この現象はある意味で奇妙な世界としか言えない。詩人はいかに他の社会とのつながりを持っていないかという現れである。
学校などで詩の語りが出来ると一番良い。札幌大学・日大・恵泉女子大学・その他でも行ってきたがみんな一生県命になって聴いてくれた。本当は中学生などに聴いて貰いたいのだがいまのところ出来ていない。テーマは「心を語る・愛を語る」という題で行いたい。いまの学校教育では必要なことだと思うがいまの日本ではなかなかそういう話はない。
詩誌受贈『ピエ・16号』『暗射・春2016』

2016年5月24日 (火)

田川紀久雄日記

録音した時の音が、本当の自分の聲だという。その聲に慣れてから聲をみつめなおさなければならない。昔と違っていまの録音機は性能が向上している。「詩人の聲」でも自分の聲を録音をとっている詩人が多くなっている。そのことは良いことだと思う。
CD付の詩集を出したいと思っていても、録音するスタジオがなかなかみつからない。詩集一冊まるごと語れる場所が欲しいものだ。中里にヤマハの貸しスタジオがあったが、昔はよく通ったものだった。川崎の近くにそのような場所があると良いのだが。
咽喉の痛みは少しも治らない。痰も出て困っている。それでも近所の杜にいって詩語りの稽古をしている。日々の精進こそが理想の世界を作ってゆくからだ。東鶴堂ギャラリーでのライブは七月九日である。今度こそうまく録音をとりたい。

2016年5月23日 (月)

田川紀久雄日記

風邪を引いたようだ。咽喉が痛む。
自分のCDを何回も聴きなおす。まずテキストを出来るだけ丁寧に語り込むことである。そしてテキストに沿って詩語りとして聲を撃ちこむことが私の方法である。まず聴き手に言の葉が届かねば何の意味もない。CDを何回も効くことで自分の語り方を分析することが必要だ。
上野芳久さんのお兄さんの『玄春万葉』というビデオを観た。まるで私に似た人間がいることに驚いた。生き方はまったく異なっているが、求めている世界観が似ているのだ。かれは調和という世界を求めそのみ求望を見出している。この調和を詩語りで求めていくとなかなか厄介だが、言の葉を聲にしていくことは単なる調和を越えた超調和の世界を求めなければならない。
そこまでいければ、私の激しい語りも天命の語りになってゆけるだろう。そこまでゆくには、もっと人前でライブが必要だ。吟遊詩人として語り場を見出したい。ガン患者たちの人たちに語ってみたい。苦しみを癒す語りを目指して闘っていたい。そのためにももっと詩を書き続けて行かねばならない。詩人のように詩を読むのではなく、心で読む人でなければ私の詩は意味がない。詩人たちから相手にされないことはあるいみでの救いである。良薬はにがしと言葉がある。詩でないところに、本当は純粋な心の詩が隠されている。

2016年5月22日 (日)

田川紀久雄日記

「たぶの木」の締切日が間違いていた。Yさんと私の勘違いであった。でも私はいまとても疲れている。それは詩そのものの世界にまったく興味が失いつつある。
Sさんという女性詩人がいるが彼女も詩の世界から足を洗い静かに暮らしている。かつて凄い朗読を行っていた。病で身体的にいまは朗読は無理だが、詩の世界から去っていった意味が最近解りかけている。
詩人は他者の詩をほとんど読まない。自分のことしか考えていない。詩を書く目的が賞を取りたいために書いている。このような人たちの中にいると気が狂いそうになる。私は吟遊詩人でいたい。
六月五日の上野芳久さんの出版記念会は詩人は誰一人いない。学生時代の友だけの集まりだという。これは彼が企画したのではなく友達が上野さんを励ますための記念会だそうだ。温かい会に詩人としてではなく友として私も参加したい。これらの友が彼の詩集を購入している。詩人という人たちはほとんど詩集を購入しない。
私も詩集を数人の人たちから買っていただいている。(お礼状を書いていないが、私のノートにはちゃんと書き記している。)詩人もいるがやはり詩人でない人たちの方が多い。無関心が人の心を傷つけていることが多い。
詩誌受贈『千年樹・66号』

2016年5月21日 (土)

田川紀久雄日記

「島村洋二郎生誕百年の集い」で無事に詩語りができた。私の聲にみなさんが驚いた。ここで島村洋二郎の詩を語ることが出来たのは嬉しい限りだ。森田進さんの奥様が見えられていた。詩人がいなかったことはありたがった。Mさんも来てくれたが、私が語る前に帰られた。先日のパソコン用CDを普通のCDにしてくれた。これで記念盤として残せる。
今月は二回も東京に出かけた。タクシーを使えば足が悪くてもなんとか出かけられる。また少しづつ身体の調子を取り戻してゆきたい。つねに前向きになって生きて行けばよい。
「たぶの木」の原稿が集まらない。もう終刊の時が来ているのかもしれない。私も製本までするのが疲れてきている。集まって話す機会がないことにはどうにもならない。私もだんだん詩人の世界から離れようとしている。本当に生きるためには自分の世界を深めていく以外にない。

2016年5月20日 (金)

田川紀久雄日記

自動車のデーター改竄は大企業の驕りである。国民をだます体制がトップにはある。トップは言ってないというが、そのような無言な圧力を部下に押し付ける。改竄しなければならない状態に追い込んでいく。これは政治の世界でも行われている。無言の圧力。宮仕えである以上口答えが許されない企業では改竄ということが起こり得る仕組みになっている。偽装疑惑はいつでも起こる。
詩語りの世界を追い求めているが、なかなか満足ができる世界まで行けつけないでいる。でもここまでやってきたのだから最後まで追い求めていたい。末期ガン宣言されてから、ここまで生きてこられたということだけでも価値のあることかもしれない。結果だけがすべてではない。夢を追いことで活きられていることが大切なことである。今日は宮城道雄記念館で詩語りが出来る。そこで詩人の聲として詩と関係がない人たちに聴いて貰える。そのことが私の夢でもある。十分間で充分である。いのちの聲とはこのようなものだと伝えていける。腰の痛みを我慢して出かけてゆく。島村洋二郎さんの晩年も凄まじいものがあった。長谷川利行に通じるものを感じる。

2016年5月19日 (木)

田川紀久雄日記

今日は午前中内科の定期検診。
先日のライブの録音でCDが出来ない。それに湯沸かし器の音が入り録音としては失敗。SDで聴いていても自分でも納得できないものであった。他人に厳しくいっても、お前の詩語りはなんだと言われそうだ。録音を聴くことでもっと精進をしなければと思う。お客が納得できるものを目指していかねばならない。
トヨタの役員のボーナスは一億二千万だという。それに対して相棒のボーナスはたったの一万だそうだ。貧富の差がますます拡大している。私たちは年収百万円そこそこで生活をしている。最近の物価高で苦しさを感じている。
詩集やCDを売りたいがそれは商品として社会から認知されていない。詩人たちは賞が貰いたくなる気持ちも解るが、その賞を求めることも虚しいことのように思える。要は自分自身の根を大地にしっかりと張ることである。自分の求めている世界をひたすら掘り下げることである。
明日は宮城道雄記念館で詩語りが十分ほどできる。お客の前で出来ることで詩語りを磨いてゆきたい。

2016年5月18日 (水)

田川紀久雄日記

詩人の朗読の基準は私の眼で評価していくいくしかない。他者の聲には耳を貸さない。あくまで自分で聴いて評価する。厳しく評価できる人が必要なのである。詩人同士の評価などぬるま湯的でいい加減なものである。詩人は有名人だと甘くなる。蜷川さん的な厳しい人が求められている。つまり命懸けで行う人を求めている。そのことによってのみ詩人の聲がこの世に存在する意味が生まれて来る。いまだに詩人の聲は生まれていないといった方が正しい。
福島の山はいまだに放射能数値が高い。茸や山菜に多量の放射能が含まれている。家の周囲だけを除染してこれで大丈夫ですといっているだけだ。被爆を受けた日本人がこのようないい加減な政府の姿勢で良いのだろうか。原発は再稼働はどこも中止して欲しい。いちど事故を起こせば、その後の後始末で莫大な費用がかかる。福島ではその費用も打ち切りにしていく。国民の生活など置き去りにしていく。帰還できないにもかかわらず、帰還できるかのように促していく。人の心の痛みに鈍感になっていく国民。悲しいことが多すぎる。だから詩語りで愛と鎮魂歌を語り続けていかねばならない。

2016年5月17日 (火)

田川紀久雄日記

昨日は天童大人氏の朗唱を久しぶりに聴いた。ストーリー性のある詩を読むと朗唱の良さが消えてしまう。私の詩語りも、単なる朗読の世界になりかねない。
やはり詩を語るのは難しい。他者の聲を聴くことでいろいろと学べるものがある。学ぶことを怠ると芸の世界も小さくなってゆく。詩人たちの朗読が小さく感じられるのも当然なことだろう。他者に嫌われても良いから型を自分なりに身に着けることが大切なのである。でも詩人はその型を身に着けることを嫌う。いやそれまでの努力をしていない。ただ活字を聲にだしているだけだ。私のこのような考え方を詩人たちは否定するだろう。詩人の朗読会はみんな揃って活字を聲にだして読んでいるだけだ。芸は盗むものだと言われているが、詩の世界では盗むほどの芸を身に着けている詩人はいない。そのためには自分で見出していく以外にはない。それが評価されるかは別なことである。詩人は他人の朗読にはまったく関心がないことも事実だ。ある意味では虚しい世界である。だから詩人は賞を目指して動いている。悲しき存在者である。世間的なものはすべて捨てきって生きて行かないと本物は現れてこない。

2016年5月16日 (月)

田川紀久雄日記

詩集代を数人の人からいただいた。とてもありがたい。無理をして多くの人たちに送る必要がないような気がしてきた。私にとって大切なのは詩集を詩語りとしてCD化してゆきたいだけなのだ。どこまで聲に耐えて行けるかが大切なことである。自分の詩集を音声化した詩人は数人しかいない。そしてその聲が肉声として耐える力をもっているのかということだ。このようなことを試みている人はほとんど詩人にはいない。詩人は99・9パーセント活字だけに頼っている。聴くに堪える聲を持つ詩人はなかなか出現してこない。
今日『詩人の聲』で天童大人さんが一番新しい詩集を語るそうだ。腰の痛みがそれほどなかったら聴きにいってみたい。それと天気が良ければだ。それと今週は「島村洋二郎生誕百年展」もある。無理はできない身体であるが、行けるときに行かないとあとで後悔することがある。人との出会いを大切にしていかないと人間としての存在感が薄れてゆく。ローマ法王が「ペットを愛するより、苦しむ隣人を愛せよ」と言ったそうだがまさにそのとおりである。

2016年5月15日 (日)

田川紀久雄日記

昨日一年ぶりにライブを行った。参加者は野間明子・坂井のぶこ・田中恵美子・それに私の四人・そして高橋馨さんが朗読をした。約二時間近く行った。普通の人が聴くには、この二時間は長く感じたに違いない。詩の朗読は娯楽ではないので一般的には適していないのかもしれない。詩の朗読は人に聴かせるのは難しい。Mさんが熊谷から聴きに来てくれた。本当にありがたい。MさんがSDをCDにしてくださるという。
詩の世界が、なぜ社会的に普及しないかというと面白く感じないからだある。だからといって面白いものを目指ことは詩の世界から決別することにもなる。武力也という詩人がいて、聲の力もある方だが、一度は楽しく感じるが、二度目になると彼の詩は、詩ではないのだ。ここに詩人としては困るのである。一般的に受けるからといってそれが良いとは限らない。
私の詩語りも、社会的に受け入れられることは難しい。だからCDを残しておきたいのだ。自分の信念を貫き通していくしかない。客には媚びない。自分の詩語りの世界を完成させてゆくしかない。これからも詩語りライブを通じてCDを作成してゆきたい。詩人の生き方は困難との闘いでもある。
昨夜は、興奮していたせいかあまり眠れなかった。
詩誌受贈『風鐸・6号』

2016年5月14日 (土)

田川紀久雄日記

桝添知事の説明は、説明になっていない。テレビを観ていて救いようのない人間にしか見えなかった。前回の知事と同様に辞めてもらいたいものだ。オリンピックでも税金をどんどん投入していくのだろう。何が世界一の都市を目指してないのか私には解らない。大切なのは住みよい社会ではなかろうか。それも貧しい人たちの暮らしを守ることでもある。
詩人が朗読をするということは何を求めているのかを追及していかないと、誰からも相手にされないものになる。詩人同士の狭い世界でただ蠢いているだけで終わる。吟遊詩人のように生きていこうとしない。ただ朗読が上手いだけでは私には心がうたれない。聲に生きる意味が問われていないと聴いていても虚しさを感じてしまう。詩の朗読ほと難しいものだ。福島泰樹の聲には魅力はあるが、どこかにいやらしさを感じてしまう。今のところ福島泰樹を越える魅力ある語り手はいない。私の詩語りは、到底福島泰樹には及ばないが、人間として聲の温みだけは負けていない。大切なのは個々の魅力ある朗読を目指すことなのだが、その魅力ある朗読を真剣に目指している詩人はなかなかいない。『詩人の聲』に参加している詩人たちの聲を聴きに行けば良いのだが、足の悪さと金銭的にゆとりがない。でもまずは聴いてみないと話は先に進まない。

2016年5月13日 (金)

田川紀久雄日記

聲を出し、そして詩を書いていくと常に迷いが生じてくる。このことが詩語りを深めていくのだろう。迷いが深ければ深いほどそれを詩で探索していける。今書き始めている詩集はそのことを書いている。題はいまだ未定だが、そのうち全体像が視えて来るだろう。人は迷うことで成長していける。
明日一年ぶりのライブではやはり迷いが生じている。このライブは聲を録音するために企画した。なかなか聲を録音できる場が見いだせない。ライブ感覚で録音するのが良いのだろうと判断して今回のライブを決めた。これを続けていくか明日やってみないと何とも言えない。
それと私たちの聲を聴きたいという人が集まるのだろうかという不安もある。『詩人の聲』のときもお客はほとんど集まらなかった。お客を集めることは詩人にとって一番苦手なことである。やはり誰かが企画してくれるのが良いのだが、そのような人はなかなかいない。詩人の朗読会も、朗読する人がお客でもあるといういわば不思議な状況である。純粋に詩の朗読を聴きたいという人はゼロである。この状況を打ち破らない限り、詩の朗読の世界は拓けていけない。

2016年5月12日 (木)

田川紀久雄日記

桝添知事の公私に対する考え方が甘すぎる。これは多分石原都知事時代を引きずっているのかもしれない。あのときオリンピック時の予算の使い方は異常だった。税金であることを忘れている感がする。
詩語りにとってテキストが大切である。確かに詩の内容によって語るときの気分が変わる。それはテーマが外に向かっているものは語りやすい。内にこもったものはやはり語りずらい。ライブの時はお客相によってテキストを選ばなければならない。
詩人の朗読を聴くときには、何を朗読するのか、それと聲の力はあるのかを問わなければならない。詩人の朗読だからといって高いお金を払ってまで聴くに行く気にはならない。まず詩人の魅力も大切であろう。知名度があるなしはまったく関係がない。かえって知名度のある詩人の朗読はつまらない。朗読に懸けている詩人はほとんどいない。相撲のようにランク表があると解りやすいのだが、そのようなものが出来る基盤がまったくない。詩人ですら朗読を聴きたいと思っている人はいない。他人に無関心なのが今の詩人の態度である。

2016年5月11日 (水)

田川紀久雄日記

『廻向』という詩集書き終わる。詩は、現在に役立つというより、未来への人たちの心のよりどころになっていけば良いのだろう。だから現在の評価などにとらわれない方がよい。自分が信じる言の葉を求めて行けば良いことなのだ。黙々と書き続けていけばよい。ただそのことだけが必要なのである。ライブでは無心になって語っていけばそれでよい。
トランプ氏が大統領になっては困るが、彼に人気があるのは国民の不満をうまく取り入れているからだ。国民の不満をどのように受け入れそれを政治に活かせるかが求められているのだろう。どこの国でも貧困層が増えている。富の分配が上手くいかないのがいまのどこの国でも同じような気がする。パナマ文書の公開で権力者や大企業の名が公開されている。欲望の渦にのまれている人たちの愚かさを感じるだけだ。
オートバイの税金も倍になった。貧困層にとって大変な問題である。政治家が税のを逃れている姿を見ると税金を払うのも馬鹿馬鹿しくなる。相棒のバイト代も雀の涙ほどしか上がらない。正社員はバイトの何倍もの給料をとっている。この矛盾は腹立たしく感じる。

2016年5月10日 (火)

田川紀久雄日記

もうすぐライブがあるというのに、いったい朗読とは何かという疑問が湧いてきた。それは一年近くライブから遠ざかっていたためであろう。自作詩を語る。ただそれだけのことだが、それは何を意味しているのだろうかと。他人に聴いて貰うということはそれなりの何かが求められている。小説や童話はそれなりに聴いていても楽しみがある。しかし詩の場合はストリー性もない。詩の朗読の魅力とは何にか、と問われても答えにくい。ひいていえば魂の聲としか答えようがない。といって朗読している詩人からはこの魂の聲のなど聴かれることもない。
私は詩語りという世界を産み出し、そこにいのちの聲を求めてきた。CDのタイトルも「祈りの魂」であった。そして公園では鎮魂歌を語り込んできた。そんな私がライブを前にして迷っている。今月は人前で語るのは二回もある。ライブという場を通してもう一度語りを考えることが必要なのであろう。『廻向』という詩集ももう一篇書けば終わる。

2016年5月 9日 (月)

田川紀久雄日記

ネパール地震から一年が経つのに復興がまったく進んでいない。これは政治がまったく機能していないからだ。政治の不安定は国民を苦しめるだけだ。このような国はまだ世界の各地にある。権力の争いによってその国は民は苦しみを味わうだけだ。政治とは世の中を幸せにもするし、不幸にもしてしまう。人が生きて行くことはどうあるべきかを常に問うて行かなければならないのだろう。
午前中は足の調子も悪くはないのだが、午後からは歩くのにも苦痛を感じる。調子よく歩ける方法はないものなのだろうか。良くなる方法は運動することなのだが、それをまったく行っていない。いやできないのだ。相棒に迷惑をかけないで生きていたい。ただそれだけだ。
「索通信・21」が出来上がる。

2016年5月 8日 (日)

田川紀久雄日記

浜川崎付近にスイカズラが咲いている。相棒はそれを取ってきて部屋に飾った。野草にはそれ独自の美しさがある。花そのものは小さいが心を癒してくれる。今年もニガウリ苗を植えた。これで太陽の日差しを遮ることが出来る。そして茄子の苗を階段の踊り場に置いた。庭がなくてもなんとか自然を感じられる。
生きていることは自分の思い道理に行かないことが多い。それを受け入れながら前向きに生きることが大切なのである。上野芳久さんの詩集『風のいざない』を再読したがやはりいい詩集だ。一年に一冊づつ発行するのも楽しいものだ。私のようにまるで詩誌を発行するように上梓していては読者も落ち着いて読む暇もない。それにはガンを克服して生きている人間がいることを証明したいからでもある。つねに前向きで生きることで他者を応援していける。数人の読者がいるだけでも嬉しい。聖書に「人の苦しみは耐えられないものはない」とあるように苦しみがその人を成長させてくれる。苦しみの中から希望を探す旅が人の生き方でもある。上野さんの詩はそのような世界を描いている。

2016年5月 7日 (土)

田川紀久雄日記

何事に人と違ったことを行うには、先生というやからは必要のない。つまり先生というものは独自性を否定する。自分より優れたものを見出しては困るからだ。下手でも独自性を追及していけばそれなりの世界を築いていける。その時は評価されなくても、のちに評価される。その時代に評価されることは、芸術にとってそれほどの問題ではない。ひたすら我が道を進むことである。いま私は詩語りで聲の思想性を追い求めている。それは簡単に出来るものではない。単に活字を朗読するのは、逆に聲の自由性を否定することにつながる。
誰にも評価されなくても、公園で自由の聲を精進していけることに幸せを感じている。若沖が自分の世界を追い求めたように、聲を追い求めていければそれでよい。所詮、他人は自分なりにしか聲を受け入れない。そのような人たちに褒められても虚しいものだ。孤高の人になることが今の時代に求められている。聲というものはその瞬間に消えていくものだが、それでもかまわない。朗読というものはお客があって初めて成立する世界であるが、誰にも聴かせるものでもない語りがあっても良いのではないのか。そのためにも詩を求めていかねばならない。上梓てもすべての人から無視されても良いではないか。世間の動きにあたふたしないことだ。詩語りの機会があれば語るし、どこからも聲がかからなければそれも良い。ひたすら己の道を歩いていくしかない。
詩誌受贈『タムレ・99号』
詩集受贈『おしだとしこ・鳥たちのように』船田崇詩集・鳥籠の木』

2016年5月 6日 (金)

田川紀久雄日記

韓国の若者たちは、北朝鮮に対して無関心である。生活が豊かになると、自分たちの幸せのことしか考えなくなる。これは日本でもいえることだ。
人間はチンパンジーと異なるところは、相手を思いやる。そして言葉で想像性を膨らましていくことであると言われている。この度の熊本地震でも、多くのボランテォアの人たちが集まった。そして憲法改憲に反対の若者たちも集会を行っている。このようなことを見ていると、まんざら若者たちもと思う気持ちになる。ある意味で感動を覚える。
詩誌でも読みたくなる詩誌を目指して「操車場」を発行していたい。それは詩人だけが読者でない詩誌づくりである。ボランティアでガン患者のための詩語りを行いたい。人に役立つ詩語りを目指して研鑽していかなければならない。詩も詩のための詩は必要がない。このことは鎮魂歌を語っていく中で芽生えてくる世界がある。それを詩にして語ってゆきたいと最近思っている。どのような詩が生まれて来るのかまだわからないが、近いうちに生まれて来るだろうと思っている。
詩誌受贈『北方文学・73号』
この中には鈴木良一さんの「新潟県戦後50年詩史(7)」が掲載されている。

2016年5月 5日 (木)

田川紀久雄日記

欲望というものは果てしないものだ。仏法でもこの欲望を戒めている。私は詩と語りを精進しているだけで、その成果については気にしないことにしている。他者の評価などあてにならない。まず自分を信じ、自分の魂を耕していければそれでよい。そのためにも孤独に強くならなければならない。
昨日自分のCDを聴いていてこのまま精進していけばそれでよいのだと悟った。うまくなろうとも思わない。自分の聲を掘り下げて行くだけで充分である。詩も聲も人に褒められたいために行っているのではないからだ。妹が求めていたみんなの幸せを追及していければそれでよい。欲望をなくしていく生き方をこれから先は求めていかなければならない。南無の世界を目指して生きて行こう。

2016年5月 4日 (水)

田川紀久雄日記

夜中風が凄かった。熊本の人たちは大変であっただろう。自然は苦しいを与え、また歓びを与えてくれる。人間はどちらも受け入れて生きて行くしかない。
プリンターの修理代が一万八百円だという。インクが随分残っているので致し方がない。詩誌の発行は苦しいものだ。送料代が約一万円ほどかかる。それとインク代がそうとうかかる。年間購読者を増やしてゆきたい。
憲法では、いま日本国民はとなっているが、自民党案では、日本国はとなってしまう。国民が不在になる。これでは憲法九条が守れない。国民は生活を優先に考えているが、戦争が起これば生活などと悠長なことなど言ってはいられなくなる、まずは九条を守るところから生活や経済を考えるべきである。戦争の記憶がどんどん薄らいでいる。震災のことも語り継ぐ運動は大切なことである。安倍政権ではどうしても憲法を改憲したいらしい。それは大企業が軍事産業で儲かるからだ。原発でも同じことが言える。大企業は下請けを締め付けて生き延びている企業である。政府は大企業だけを税でも優遇している。国民の苦しさを知らんぷりして。富の分配は一方通行である。これはアメリカでもおなじだ。だからトランプ氏のような人がでてくる。

2016年5月 3日 (火)

田川紀久雄日記

憲法の日である。平和というものは他者の平和を願うことでもある。戦争というものは個人の平和も他者の平和も破壊する。そのような憲法を目指して改憲しようとする安倍政権は政治家とは言えない。どんなことをしても戦争への道を絶つことが政治家の仕事である。私は無抵抗主義を理念にして生きていたい。
「操車場」は六日に皆様の手元に届くと思う。郵便局は宅急便と違って連休は公務員並みである。民営化になったはずなのにいまだ公務員気分である。
十四日は久しぶりのライブを行う。『一粒の種』の前半を語る予定。そrから二十日には宮城道を記念館で「島村洋二郎生誕一〇〇年」で詩語りができる。少しずつ前向きで歩いてゆきたい。
詩誌受贈『えこし通信・21号』『環・156号』

2016年5月 2日 (月)

田川紀久雄日記

今日「操車場」を発送を行う。毎月発行するには書き手の熱い心が求められる。つねに詩を書くという気持ちが大切なのである。
詩を書くことも一つの旅であるかもしれない。上野さんの『風のいざない』も旅であるが、そこには苦難から希望を見出す生き方が描かれている。苦難だけなら誰でも書ける。しかし、そこから希望を見出すことは誰でもが書けるものではない。想像を絶する苦難がなければこのいのちのひかりは見出せるものではない。
いま熊本地震で、絶望の淵に佇んでいる人たちにもかすかな希望を見出す道を見出してほしい。上野芳久さんの詩集は多くの人の心を勇気づける世界を内包している。人を勇気づけるには言葉が一番大切である。聖書にも「初めに言葉ありき」と書かれている。詩人はこの言葉を背負っていきている人のことを言うのだろう。
詩誌受贈『国鉄詩人・269号』

2016年5月 1日 (日)

田川紀久雄日記

家が全倒壊した人たちの哀しみは辛い。一日も早く仮設住宅をと願う。といってまた元の場所に建てるのも不安があるだろう。活断層がある以上難しい問題だ。
ますます貧富の差が拡大している。たしかに私たちの生活は苦しい。といって苦しいと嘆いてもしょうがない。相棒がいなければ私一人では生きてゆけない。こうして生きていられるだけで幸せと思うほかない。
「操車場」も印刷が始まった。なんとかいつものように出来上がる予定だ。

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