田川紀久雄日記
昨夜は人が亡くなってゆく夢をみた。これは震災の時の津波の映像を何度も見たせいだろう。自分でも心の一番深いところで何が隠されているのか知らないでいる。自分自身で知っている自分はほんの一部なのだろう。
姥が森の桜は満開だ。桜の名前はしらない。私たちは弁天桜と呼んでいる。今年の桜の色は見事である。なぜ弁天桜というかというと弁天様が樹の下に祭られているからだ。ここ二年あまり相棒と桜を見に出かけていない。昔は河津桜を見に行ったこともある。いま思うように歩けないことは辛い。春は梅と桜で心が安らぐ。私は山桜が好きなのだが、川崎では見ることができない。
詩人の聲も、それほど変わるものではないが、日々精進をして三〇年ぐらいになってやっと聲が聲らしくなれる。大切なのは日々の精進である。そしてその聲をどのようにして表現に活かしていくかということである。そのためには詩のテーマが求められる。単なる書いている詩では、聲を活かすことができない。聲の究極はいのちのひかりを求める旅でもある。詩人たちはそのことに誰も気づいていない。
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