田川紀久雄日記
詩という書物は、詩を読むことなのか、それとも人生の歓びを見出す書なのか。その前に、詩とは何かという問題がある。詩人たちは詩というものは、こうものだという概念に取りつかれていて、最も大切ないのちのありようを見ようとしない。あくまで形式にとらわれている。書物である以上、人間を磨くものである。詩という形を借りて魂の姿を描くのも大切である。いのちを求める心こそが詩なのであった、形式にとらわれているのはもはや詩でもなんでもない。それは言葉の遊びにしかない。詩語りを精進しながら聲のいのちと心のいのちを追い求めている。昨日「あなたの詩集は詩ではありません」というハガキをいただいたが、この人は人間のいのちの言葉には何も興味のない人だと思った。ある詩人にいわせれば一笑で良いではないかと、そうかもしれないが哀しいに思いをした。はっきり言おう。詩はいのちそのものだと。それ以外の何物でもない。私は詩の形式を借りていのちの詩を歌い続けているのだ。
宮沢賢治の『春と修羅』から
まことのことばはうしなわれ
雲はちぎれてそらをとぶ
ああかがやきの四月の底を
はぎしり燃えてゆききする
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