田川紀久雄日記
泣いても笑っても今日一日で今年も終わる。多くの人のお世話になった。感謝以外何物もない。来年は皆様が幸福であることを祈る。そして戦争への道を拒んで行くしかない。大切なのは人に愛を届けることである。心が穏やかで過ごしたいものだ。
今年も精一杯生き抜いた。まずは自分の仕事をしていくことである。
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泣いても笑っても今日一日で今年も終わる。多くの人のお世話になった。感謝以外何物もない。来年は皆様が幸福であることを祈る。そして戦争への道を拒んで行くしかない。大切なのは人に愛を届けることである。心が穏やかで過ごしたいものだ。
今年も精一杯生き抜いた。まずは自分の仕事をしていくことである。
詩語りを日々精進していると、つねに新しい世界と出会うことが出来る。ライブを行うことよりももっと大切な世界を見出していける。それは宇宙との対話だ。これを詩にしたいと思うのだが、その世界をまだ言葉化できていない。聲の闘いと詩を書く闘いの中で今年は生きてきた。このことは来年も続いていく。二つの車輪が轍となって詩集へとつながっている。聲の闘いを言の葉こころにしているのは私以外にはいないと思う。
私が求めているのは平和への願いである。戦争で亡くなってゆく子供たち。貧困でなくなる子供たち。この哀しみを鎮魂歌として語ることで語る意味を見出している。老いに鞭を打って生きて行かなばならない。
詩誌受贈『国鉄詩人・268号』『飛揚・62号』
今年もあとわずかだ。一年は早いものだと感じる。七冊もの詩集を上梓したのだからそれなりの仕事をした。そしてライブは二回できた。その一つをCD化した。山本竹勇と共演が出来たことは収穫であった。
愛しみと哀しみを書き続けたのが高畑耕治さんである。「たぶに木」の同人である。長編詩はなかなか感動的である。多くの人に読んでもらいたい。そして山下佳恵さんは人生の応援歌を書き続けている。この「たぶの木」は、詩人でない人に読んでもらいたくて発行している。詩壇とは関係ないところで、本物の詩人は仕事をしている。知名度よりも作品がいのちであることを知っているからだ。テーマを持って仕事をしている人は強い。仕事は孤独な作業だ。それに徹して書き続けている。報われることを求めてはいない。言の葉こころは永遠のいのちだからだ。漉林書房は本物の詩人を応援してゆきたい。
『詩と思想・12』に志田道子さんが私の詩集「空華」を紹介してくれた。編集部の皆様に感謝。しかし、詩誌を読んでいても何か虚しさを感じる。詩というものはなかなか人には伝わりにくいものである。上野芳久さんの詩がべスト・コレクションに載せられていてよかった。ことし一番の詩集は『おとずれ』である。誰もが取り上げないのは不思議だ。冨上芳秀さんの詩集も良かった。それに長谷川忍さんの詩にも温みがあった。『操車場』に参加している詩人の詩はみんな優れている。
詩人の朗読に誰もが触れていない。詩人たちは肉聲に無関心すぎる。このことが詩を一人よがりの世界に構築していってしまっている。詩はもっと人間そのものの心と向き合わなければならない。人間を感じさせてくれる作品がすくない。このことが私に虚しさを感じさせているのだろう。
Hさんが詩集六冊分を買っていただいた。ほんとうにありがたい。今年も多くの人たちに助けられた。「頑張って励みなさい」と応援をしてくれているのだ。詩の言葉が人の心に沁み込む仕事をしてゆきたい。
来年部屋をかたずけなければならない。CD(クラシック)を処分したい。千枚以上あるが置き場所がないのだから仕方がない。もう何もいらない人生にしてゆきたい。ひたすら詩を書き詩集を上梓、そして詩語りの精進だけの人生でありたい。詩を通して心の救済を求める詩を見出していければ、私が何のために生れてきたかが応えられるであろう。生活も困窮していくだろうが、詩人というものは苦しみの中で作品を書く人である。『操車場』に参加してくれた詩人たちに一番感謝をしたい。
新しい詩集に取り掛かった。『いのちの泉』というタイトルである。一日中うなりながら一篇の詩を書き上げた。空爆で亡くなっていく子供たちのことを思うと痛む。それは私が川崎空襲の経験者だからでもある。火の中を生き延びた私の思いを込めていのちの泉を書いてゆきたい。本当の幸せを求めてゆきたい。そして私はやはり吟遊詩人でありたい。
昨日ある詩人と詩の命について語り合った。心の救済を求めての旅が詩的行為となって生きて行かねばならない。詩人同士で詩の中身のことを語れることは嬉しいことだ。
『一粒の種』約一ヶ月で書き終わる。予定だと来年の八月になる。このままいけば詩集の印刷費が一銭もなくなってしまう。詩集を上梓したからといって何も得になるものがない。それなのになぜそこまで行うのか。それは生きているからだとしかいえない。末期ガンの宣告以後、必死になって生きていることを証明していたいからが。死ねば何もできない。生きているからこそ、自分の夢をかなえられていく。そのことが生きている意味にもつながる。
一月のライブは取りやめになる。それは山本竹勇さんの地方公演があるからだ。それに私の腰の痛みも回復していない。大切なのは吟遊詩人でいることだ。詩人は一人で闘い独りで生きて行く生き物である。孤独が一番の友なのだろう。
詩誌受贈『みえ現代詩・98号』『進化論・19号』『あるるかん・31号』『栞・4号』
詩集受贈『山口敦子詩集・文人達の哀歌』
昨日は天皇誕生日であった。でも天皇制の問題を考えるとそう簡単には喜べない。憲法改正があれば、天皇は元帥になるのだろう。国は常に天皇制を利用して戦争への道を進む。大衆は日章旗の小旗を持って皇居に押しかける。戦後は終わったというが、憲法改正になれば、また戦前の軍国主義が復活しそうな気がする。浮かれている人たちを見ていると恐ろしさを感じてしまう。
『一粒の種』はもう一篇を書けば終わるが、最後の所は平和の種を育てるにはどうしたらよいのかを書いている。どうしても自分なりにこの問題を詩語りを通して描いてみたかった。もう詩の形などどうでもよい。書かねばならないものを書けば良い。平和を守ることは並大抵のことではない。詩の形を借りて個人として闘ってゆくしかない。
原発の再稼働が次から次へと認可されてゆく。これは当然権力の無言の圧力もあるのだろう。もう日本は終わりだ。電力の自由化になったら、電力の購入は原発と関わらない会社と契約していくしかない。それと福島の民家から離れた山林は放射能除染を行わないという。このいい加減な原発対策はなんなのだろう。一市民として悪政と闘っていくしかない。
『廻廊を歩く』を印刷所にいれた。これは来年の三月に発行予定である。詩人は詩を書くことが闘いなのである。そしてそれを詩集にして語ってゆくだけだ。どんどん嫌な時代が近づいてくる。
詩集を上梓したばかりなのに鬱に悩まされている。世の中には戦争や経済の貧困で苦しんでいる人たちが多くいる。
昨日「戦火」という詩を書いた。宮沢賢治のいう本当の幸せは、世界全体が幸せにならなければという言葉に少しでも向き合っていたいという思いがある。不幸ほど辛いものはない。詩人というものは、この不幸を詩を書くことによって乗り越えてきた。そこから希求という言葉が生まれて来る。私はその一つとして詩語りを行っている。いまそのバランスが崩れている。来年は語れる場を作ってゆきたい。詩人にとって鬱は決して悪い現象ではない。
『永遠の大地』が届く。これは来年発行日であるが、次の操車場と共に送るので早めに作っていただいた。たった一人の方が予約されてくれた。その人には今日送る。あとは来年だ。
詩語りと共に生きている生き様を描いている詩集である。SDをCD化に出来れば、詩集と一緒に送りたいのだがいまだにCD化することができないでいる。CD化が出来ればCDを複製すること出来る。これは相棒がパソコン教室で教わってきた。学校の先生が言うのにはそれと同じにやれば出来るというのだが、うまくいかないでいる。デクノボーである私はパソコンの知識がまったくゼロに等しい。いまだにワーポロ程度でしかない。
詩誌受贈『柵・10号』
昨日『法華経』という詩を書いた。なぜ自分でも書いたか説明ができない。内面的なものが自然にうかびあがってきたとしか言いえない。これはU氏のお兄さんのことが頭にあったせいかもしれない。昔は机の前に座ればすらすらと言葉が浮かんできた。でもこのところ一字も浮かばかなくなっている。血を吐く思いをしなければ言葉が出てこなくなった。それでも机に向かって書いていかねばならない。明日の自分のためにも・・・。
山田洋次監督の「小さいお家」をビデオで観る。なかなかいい作品である。庶民の眼から見た戦争を描くことは山田風太郎の日記と似ている。勇ましい戦争映画は虚しいものだ。この映画を観ていて、今の日本と少しも変わらないことが解る。戦争という渦にまきこまれていく庶民の姿が描かれている。
日常生活を守るために、いまの安保法案に徹底的に向き合っていかなければならない。平和な日常生活こそが平和の条件である。私にできることは詩を書くこと、そして詩語りライブを行うことである。それ以上のことは何もできない。国民に出来ることは選挙だけである。いまの経済優先の社会ではますます貧富の差が増すばかりだ。子供たちも五人に一人が貧困家庭であるという。私たちも二人で十万以下の生活である。その上に私は詩集を隔月に上梓し続けている。不思議な生き方をしている。
コピー機が落ちて壊れてしまった。これでまた出費がかさむ。部屋がものでいっぱいのせいである。処分しようと思うのだが、なかなかできない。いまはなるべくものを買わないようにしているのだが。
空爆で子供たちが悲惨な目に合っているのを見ると胸が痛くなる。ISの行動は許せないものがあるが、空爆で亡くなってゆく市民たちのことを考えるといかがなものかと思う。戦争は絶対あってはならない。日本も戦争の足音が聞こえてくるような感じがする。来年の参議院選挙では何としても野党の票を伸ばしたい。戦争への道のベンを外してはならない。これは国民一人ひとりの問題である。
詩人はみんなが幸せになれる道を言葉を通して考えて行く人でなければならない。私は詩語りを通じてそのことを真剣になって考えている。ライブを行える場を探してゆきたい。
とりとめのない不安が駆られる。作品が書けないのではないかとか、詩語りに限界を感じてきたのではとか、その他もろもろのものが渦を巻いて私に襲い掛かってくる。それは自分自身をとことんまで追い込んで生きているからかもしれない。アスリートのような日々を送っている。日々詩語りを精進しながら、その意味を分析したりする。そしてそれを詩に取り入れながら、未来の方向性を考える。毎日緊張感の中で生きている。どうしたらライブが出来るのだろうか。できれば相棒とのCDも作成できるのに・・・。なんとか生活の糧にできる世界を見出していかないと生活が破綻してしまう。
新しい漉林通信とCDを組んだものを作りたい。出前の仕事がないと生きて行けなくなる。そのためにも足腰を何とかしたいものだ。毎日なにかと出費がかかる。生活が困窮していても詩集を上梓してゆきたい。詩語りの未来への夢を見ながら生きていたい。これからは詩集を一冊でも売っていかねばならない。そのためにもライブが必要なのだ。
年賀状を上司に出すと出さないでは給料やその他の条件が異なるという。これは嫌な風習だ。要は権力に媚を売ると少しも変わらない。自民党でも安倍総理に物を言う人はいなくなった。要は自民党でも自由が存在しないと同じだ。これが今の日本の政治なのだろう。世の中がこうなるとまるで戦前の政治体制と変わらなくなってくる。これは恐ろしいことだ。総理の一言ですべてが決まる。企業でこのようなことが起こると企業は倒産していく。この日本も倒産していくのではと思ってしまう。
日本人の性格は、強いものにまかれる体質がある。これはある意味での島国根性でもある。これは私の中にもある。これと闘うためにも詩が必要なのだ。
話は違うがテレビでグルメ番組をみていると腹がたつ。貧乏人の私たちには遠い話だ。これほど貧しい人たちを見下ろす番組はない。今テレビも最悪だ。とくに年末の番組は人を馬鹿にしたものばかりだ。本当の報道番組がない。テレビの機能がまったく果たされていない。テレビ局も政権に対して弱腰である。負け犬ばかりだ。哀しい世の中である。
精神的に追い込まれている。別に何に原因があるというものではない。仕事もいつものように進んでいる。この平和主義的楽観的な世の中に悩んでいるのかもしれない。
詩や朗読に対して熱く語る人たちがいない。詩人たちと話し合っていても昔のように熱く討論することもない。詩人で一番内容的に話し合えるのがUさんだ。いまの詩人たちと関係のないところで作品を書いている。私も詩語りを中心に作品を深めている。といってもこの詩語りについて語れる人はいない。
いま会う人に詩集とCDを売りつけるようにしている。といって会う人もいないのだが。このようなことをしたら嫌われるだろう。でも詩集を上梓していくにはこれしかない。気狂いのようになって詩集を出し続ける。それは詩語りの深さを探究しているからだ。聲と言の葉こころを私なりに見つめている姿である。今週に『永遠の大地』が出来上がってくる。発行日は来年の二月になっている。なぜ早めになっているかというと詩集が次から次へと生まれて来るからだ。毎月でも上梓したいほどである。頭がどうかしているのだろう。
殆ど歩かなかったので川崎詩人会には出席が出来た。人と会って話すことは良いことだ。『たぶの木』の忘年会をしたいけれども今は何とも言えない。みんな忙しそうだ。今年も多くの人のお世話になった。会いたい人がいても齢をとってくるとなかなか会う機会が少なくなってくる。これも寂しいものだ。年賀状だけで済ます人もいるのだろう。でも私は年賀状を出さない。このような社会習慣はなくした方が良い。詩人同士の付き合いは相手の作品を読むことだと思う。それだけで充分だ。
『廻廊を歩く』の校正も終わった。聲を出しながら何度も校正を行った。語るたびに直す場所が出てくる。この詩集は『永遠なる大地』の続編である。山本竹勇さんとのライブまでの話である。
今日川崎詩人会がある。バスで行けばほとんど歩かずにいける。なるべく人と会うことも必要だ。
来年は続けて詩集を上梓する予定だ。どこまで詩集を出していけるのか解らないが、頑張ってゆきたい。そのためにはどんどん詩を書き続けて行かねばならない。
防衛費が約6兆円近くになる。財政にゆとりがないのに安保法案のために行うのか。じわじわと戦争の足音が近づいている。老々介護のための予算がないのか。いまの日本は貧困層が増えている。福祉のための消費税というが、どのように使われているのか信用ができない。
詩は心の応援歌でありたいものだ。そのためには詩人はもっと苦しむことだと思う。苦しみの中から生まれる詩は美しい。
詩は私にとって、生きて行くための思考の助けになっている。だから毎日書いていられるのだろう。書くことで詩語りの道を深く考えられる。
「詩人の聲」に参加している禿慶子さんから詩集についてのハガキを貰った。「詩人の聲」に参加している人から始めての返事が来た。「詩人の聲」に参加している人は詩語りには全く興味がないのかと思っていた。誰一人としてCDを買って聴こうとしない。つまり他人の聲にはあまり関心がないと思える。いま足腰が悪いで「詩人の聲」を聴きには行けないが、天童さんが良いと思う詩人の聲を聴きに行きたいと思っている。禿慶子さんは八十歳を超えていても毎月参加して行っている姿は凄いと思った。昨日は野間さんが参加した。それなりの収穫はあったそうだ。かつて私は「詩人の聲」のDVDを五十回も記録として残している。これは日本現代詩歌文学館に寄贈してある。朗読を行う人は他者の朗読をたくさん聴くべきである。そして朗読を行う人を応援していくことが求められている。
山田風太郎著『不戦日記』は読みごたえがある。すべて削除せずに書いてある。普通ならば嫌なところは削除するのだがこの日記はありのまま載せてある。
物価がどんどん上がることは、本当に経済効果が良くなるのだろうか。安倍政権の物価上昇は貧困層にとっては大変な問題である。非正規社員やアルバイトにとってはボーナスも支給されない。貧富のさが拡大するばかりだ。中小企業でもボーナスがゼロの所もあるという。生活の苦しさは辛いものだ。うなぎやカニなど今年も食べられなかった。それにじわじわと戦争の臭いしてくる。軍備費の予算を見て驚く。福祉政策にもなかなか予算が回らない。
政治の力は国民感情を無視して嫌な方向に進んでいく。これは戦前の状況に類似している。
安保法案からこの日本は悪くなっている。秘密法案も施行から一年になる。国連からも非難されているにも関わらず安倍政権は言論の自由すら奪い取ろうとしている。
年金で暮らしている人たちにとっては暮らしていけない状況になりつつある。政府は低所得者に金をばらまくようだが、これも政治のごまかしだ。
戦前のように国民は、アベノミクスに飲み込まれていく。一応反対運動は出来るが、安保法案を撤回できるまではいかない。政権が変わらない以上無理な話だ。国民が荒んだ状況になってゆくことが心配だ。今できることは平和な憲法を守ることだ。そして平和を祈ることである。そしてできるのなら詩語りライブを行いたい。
原子力機構に38人の天下りと新聞に書かれている。原子力が止められない理由の一つでもある。このような人たちの為に日本が放射能汚染されると思うと腹が立ってくる。福島ではいまでも水漏れ汚染が続いている。オリンピックでこれらのことを忘れて行く日本を見ると哀しくなるだけだ。
詩というものは、糞ころがしと同じようなものだ。この世の中に何の役に立たない代物でしかない。このごろつくづく思う。でも詩人にとってはなくではならないものなのだ。玉黄金には,糞のなかに卵を産んで育てるには大切なものである。詩的行為もこの糞と同じなのかもしれない。この人間とっては、実はこの詩的行為が必要なのだ。普段の生活には必要がなくても、いのちの底にはこの詩行為によって人間が生かされているのだ。私の詩語りもいのちにとって大切な詩的行為なのだ。玉黄金のように毎日糞を転がして詩人は生きるしかない。
詩誌受贈『笛・274号』
詩というものは、心にゆとりがないと書けないものだ。やはり日記とは異なる。テーマを掘り下げなければならないからだ。ただ書いているだけだと日記とそれほど変わらない。いまは本もほとんど読まず、パソコンの前に座って詩を書くことと闘っている。同じところを何度もグルグル回ることがあるが、そのことが大切なのである。衛星と同じように回り続けることによって、別な起動へにも移行してゆける。
詩誌受贈『あすら・42号』
荒船健次詩集『夜の金木犀』のあとがきで画家の田澤茂さんが亡くなったことを知る。一時おつきあいをしていた。家まで遊びに行ってこともある。荒船さんとは若いとき近い存在であったが、なぜか付き合うことがなかった。今年は知人が数人亡くなっていった。こうして生きている自分が不思議に感じてしまう。
どうしてもSDからCD化をすることができない。だれか川崎に来て教えてくれる人はいないだろうか。パソコンの解説書だけでは私は無理だ。機械に弱い私にはこの解説の説明が難解に思えてしょうがない。グレン・グルードのようにライブを行わず音源だけを残す生き方もある。ライブの仕事がない以上、詩集を詩語りとして残しておきたい。できれば詩集にCDをつけてみたい。
電力をまかなうには日本は火力と原発に頼ろうとしている。この技術をインドに売り込んでいる。ヨーロッパから批判されているにも関わらずこれを推し進めている。
日本の電力は、なぜ自然エネルギーにしないのか。それは原発を再稼働したいからだ。これは誤った判断である。一家に小さな太陽発電を持ちたいものだ。多摩川のホームレスもこの太陽パネルを持っている人がいる。それも一万円程度でできたという。
詩集を買ってくれる人がいる。たった一人でも予約をしてくれることは生きる糧になる。いい詩集は買ってでも読みたいものだ。これからも詩集を上梓して行くには予約者の数を増やしてゆきたい。本当に送りたい人はそれほどいないものだ。
ライブが出来れば詩集もCDも買ってもらえる機会が出来るのに、今のところライブの予定がない。詩語りを応援してくれる人が出てくればありがたいのだが残念だ。詩人は自分が生きるので精一杯なのだ。無理なお願いはしたくない。
下流老人につづき下流中年という言葉がでてきた。下流という言葉は嫌な響きがある。これは政治が生み出したものである。正規社員になれない人たちがあまりにも多すぎるからだ。平均ボーナスが60万円近いのに対して、非正規社員やアルバイトの人たちはボーナスが支払われない。そういえば私も一度もボーナスなど貰ったことがない。この不思議な現象は日本独特のものなのか? 下流の人たちにとって重い税金や介護保険の支払がある。それに十パーセントの消費税になる。これでは下流の人たちにとって未来など持てるはずがない。これからますます貧富の差が拡大していく。子供のいる家族も教育費が大変だ。
「戦争反対のための詩アンソロジー」「平和のための詩アンソロジー」などの参加する詩人の気持ちが解らない。軽い言葉で平和・戦争・愛などといってもらっては困る。詩人というものは自分の内なる言葉と闘うのが道なのだ。
私はデクノボーであるから、どのような思想とも組みしたくない。愛とか祈りとかの言葉を使って詩を書くことがあるが、それはあくまで私個人の内なる聲から生れた言の葉こころである。そこには深い心の傷や苦悩の中から生まれたものである。詩語りではその言の葉の深さを表現したいために日々精進している。そして誰にも解る幼稚な詩を書き続けている。早く腰の痛みを直してライブをしたいと思っている。
『永遠なる大地』が思ったより早く出来上がりそうだ。師走なので印刷所も早めに仕事を進めてくれている。
詩誌受贈『詩的現代・15号』
このところ嫌な夢を見ることが多い。生と死のギリギリのところに立ってこの先はどうなるのだ、などと夢の中でわめいている。
最近、下流老人という言葉を聴くようになった。たしかに貧富の差が著しくなっている。いまの私たちの生活は下流老人より低い生活だ。先のことを考えていたら気が狂ってしまう。詩人なんて昔から貧乏人であった。そしてろくでもなしといわれてきた。別に下流老人なんていわれて気にならない。人間として誇りをもって生きていれば、それでいいじゃないかと思う。
「コールサック・84号」詩集評(若宮明彦)に天童大人「ピコ・デ・ヨーロッパの雪」と私の「旅人として」が同時に載るなんて不思議だ。彼は朗唱で私は詩語りという世界で活躍している。二人は肉聲にこだわっているが、方法的には異なっている。このことはどこかで述べてみたい。朗読を行っている詩人たちも、この二人の聲を聴いたことのない人が多い。なぜ肉聲かは本当に聴いてみないと理解されない。マイクを通さない聲は響き方が全く違う。あくまぜ自然体である。マイクの音はこの自然を破壊した機械的な響きになってしまう。
「操車場・101号」お発送を今日行う。
日本はインドに火力発電を援助しているが、その火力発電は住民に大きな被害を与えている。基準に合っているというが、実際に被害がでいるのに眼をつぶってる。
温暖化の問題は複雑な問題が絡み合っている。経済が発展すればするほど気象は異常になってしまう。中国は昔の川崎(臨界地区)と変わらないの。あのころの空は薄赤くなっていた。日本鋼管からの煙は凄かった。私はそのおかげで喘息きみだ。
平和と幸福を求めることは、この地球を破滅に追い込んでいるのではなかろうか。不安を感じる毎日だ。
中村文昭さんの原稿が入ったのだが、文字化けしていて今月号に載せられなかった。操車所の参加はメールで受け付けています。誰でもが参加できます。手作りなどで人数にも制限があります。原稿にはかならず「操車場参加」と記入してください。ときどき原稿だけを送ってくる方がいますが、その場合載せることが出来ません。私は『たぶの木』も手作りで発行していますのでどちらの参加なのか解らないからです。ただ私に読んでもらいたいために送ってくる方もいます。
詩誌受贈『ココア共和国・18号』
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