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2015年4月30日 (木)

田川紀久雄日記

『詩と思想・5』詩誌評で「たぶの木」が紹介された。そして「復活」を乗倉寿明さんが紹介してくれた。担当者に感謝。
詩集を聲にしていくことで真に活動している人は少ない。いまの詩人たちはそのような人を排除しているような気がする。
天童大人さんから詩集『ピコ・デ・ヨーロッパの雪』が送られてきた。外国で詩の朗読はまず聲の力が試される。意味が通じなくても聲の力でその詩の世界を感じられるからだ。詩人たちの朗読ではすぐテキストのコピーを配るが、それは間違いである。まず語り手の聲に耳を傾けることが第一である。コピーを見ながら聴いていては聴く意味が半減してしまう。詩人たちはあまりにも聲に対して無関心である。詩人の聲は俳優や役者・朗読家とは違う聲である。詩人の存在の聲であるとしか言いようがない。

2015年4月29日 (水)

田川紀久雄日記

ネパールでの地震の死者が一万人にという。生き残ったものもこれからの生活が大変だ。私にできることは語りを通して祈ることしかできない。
今の時代では詩人は吟遊詩人に成長してもらいたい。この時代をいのちの聲で表現してもらいたい。危険な時代に突入している。平和を守るためにも人の聲を響き渡らせたいものだ。そして『詩人の聲』に参加した詩人たちが一日も早く世の中で活躍してもらいたい。朗読会も仲間内の朗読会はなく、詩人の聲を持っている詩人を招いて行うべきだ。
来週は『旅人として』が出来上がってくる。そして天に向けて聲を撃っていく。狂気のように生きて行くしかほかに道はない。
詩誌受贈『WHO’S114号』

2015年4月28日 (火)

田川紀久雄日記

郵便を送ったはずなのに届いていないとの連絡が来た。郵便はどうなっているのだろう。
語りで「言の葉こころ」をいくらか摑むことができるようになりつつある。これによって詩を語っているという印象を強く持てそうだ。やはり精進をしてゆく中でしか何かがみいだせないものなのだ。
世の中がますますきな臭くなってきた。ここまで国民の聲を無視して進める法案は狂気としか思えない。
ネパールの地震は哀しい。死者が4000人もでたという報道もある。公園で祈りの語りを行う。

2015年4月27日 (月)

田川紀久雄日記

テレビも週刊誌も政府の無言の圧力でいいたいことが言わなくなってきている。詩の世界でも原発問題や政治的なことは書くべきでないという人たちがいる。詩といえども時代の波の中から生まれて来る。現実の悩み苦しみを通過して詩の核が生まれる。
私の語りは滑舌が悪い。でも詩人でなければ出せない語りができる。義太夫・浪曲などもその世界にも聲の特徴がある。それと同じように詩の語りもその特徴はある。他者がダメだといわれても私には自分の道はこれで行くしかない。詩の世界を世の中にもっと広げてゆきたい。狭い仲間同士で褒めあっている世界はごめんである。新しい道を歩むものはいつの時代でも妨害する者がいるものだ。小さなボス的な詩人が多すぎる。

2015年4月26日 (日)

田川紀久雄日記

昨日は嫌なことがあった。ある詩人が私の語りに対して、詩人の朗読は静かに読むべきだというのだ。詩人同士の狭い世界しか知らないからいうのだろう。演劇をやっている人はそれに反対してくれた。詩人というものは自分ができない世界は反対する習性を持っているようだ。詩人の朗読は他の世界の人が聞いたら通用しない。詩人はいつも仲間内の人しか聴きに来ない。私はできるだけ詩人の世界で語りをしたくないと思った。本物の詩を語る人間になってゆきたい。詩人たちは『詩人の聲』という世界を誰も理解しないだろう。これが今の朗読の現状なのだ。これはとても哀しいことである。

2015年4月25日 (土)

田川紀久雄日記

今日は杉田でライブがある。誰一人も予約者が来なかった。これは非常に寂しいことである。詩人たちは朗読が嫌いなのだ。自分が参加するとき以外は集まらない。私も詩人の朗読会にはめったに聴きにはいかない。ある意味ではお互い様の世界である。本当にこの詩人の聲が聴きたいという詩人が見当たらない。誰一人いのちがけで聲に精進していないからだ。
この孤独感が私の詩語りを成長させてくれた。誰にも負けない詩語りの世界を築いてゆきたいと思った。精神の成長は孤独感の中でしか伸びないものだ。植木さんが七人も予約者がいるという有難い。聴きに来た人のために心の打つ語りを披露したい
詩誌受贈『野の草など・34号』

2015年4月24日 (金)

田川紀久雄日記

世の中の動きが速すぎる。流行という言葉があるが、その流行もあっというまに消え去っていく。私はできるだけのんびりと生きていたい。パソコンも思うようにできないことも幸いしているところもある。できないから不便だと思わないことだ。便利ということの中で大切なものがどんどん失われていっている。
私の詩語りは詩人からは何にも言われないが、山本竹勇(津軽三味線)からあなたの語りはまさに命の聲だといわれた。ありがたかった。明日のライブはどんな反応があるのか楽しみだ。
詩誌受贈『栞・2号』『たまたま・26号』

2015年4月23日 (木)

田川紀久雄日記

川内原発の裁判は、未来を裏切る判決であった。原発ゼロにすることが本当の平和への道なのにこれではいのちを裏切る行為だ。原子力の平和利用などあってはならない。
神奈川では猫の殺処分がゼロになったというが、川崎はまだゼロになっていない。とても哀しい。私の詩語りはいのちの尊さを求めて語ってゆきたい。

2015年4月22日 (水)

田川紀久雄日記

ひたすら詩を書くことによって詩語りの世界を明確にしていける。別に詩を書いているというより詩語りの探究書といった感じだ。人生と密着していることが大切なのである。
安倍政権は言葉狩りを始めている。言論の自由が奪われかねない。福島瑞穂さんの発言に対してもイチャモンをつける。安倍総理が進めているのはまさに戦争への道である。辺野古への移転もその一端にしかすぎない。沖縄の人たちの犠牲の上にこの70年間の平和が維持されてきた。若井信栄さんのことを思うと彼の死は早すぎる。
詩誌受贈『江口節詩集・果樹園まで』

2015年4月21日 (火)

田川紀久雄日記

最近頭がおかしい。何かに怯えて生きているような気がする。
安倍総理は70年談話で『侵略をお詫びしないでいい』とインターネットで報じられている。私たち日本人がみてもあれは侵略以外の何物でもない。庶民はなにも口出しができない社会になりつつある。経済優先で浮かれているうちに大きな闇の穴に落とされている。60年安保のときもあの闘争中に原発は承認されていった。私たちは大きな眼をもって世の中を観察しないでいると大変なことになる。すべてがなし崩しの世の中になりつつある。これでは頭がおかしくなるのも当たり前だ。

2015年4月20日 (月)

田川紀久雄日記

詩人は自分が朗読する以外に他者の聲を聴くことはしたくないらしい。要は二次会を楽しみに出かけるだけだ。いま私が一人公園で追悼のための鎮魂を語ることが今私を癒してくれる。狂気のように詩集を上梓つづけ、狂気のように詩を語ってゆく。誰からも相手にされなくても闘い続ける。ブッタという言葉は永遠に真実を探し求める旅人という意味もある。このことが道元が言う只管打座である。

2015年4月19日 (日)

田川紀久雄日記

川崎詩人会の例会がある。
いま私が詩語りを行っても聴きに来てくれる人がほとんどいない。だから企画が何もできないままでいる。どうすればこの問題を打開することができるのだろうか。詩人たちは本当のところ朗読には興味を持っていない。ということはひとりで鎮魂歌を語り続けるしかない。そして聲の深さをひたすら追求していくだけだ。
いま「操車場」の負担金を増やすかどうか迷っている。送料代がいままでより倍になったおかげで迷っている。安倍総理は景気が回復したというが、私には苦しくなったとしか言いようがない。前向きに生きようとしているのだが、今生きていること自体が息苦しい。

2015年4月18日 (土)

田川紀久雄日記

昨夜は変な夢を見た。いまだ救済されていない霊の哀しみの夢だ。とても疲れる。
詩をここ数日毎日書きている。言葉がどんどん湧いてくる。詩集を上梓すればお金がかかるが致し方がない。残りの人生を精一杯生きていたい。
私は書くことで詩語りが深まってゆける。人生にとって一番大切なのが、自分がどう生きるかということだ。詩人なんて初めから報われる存在者ではない。それなら自己をさらけ出して生きるしかない。ブッタというものは救済者というより自己を探し求める人という意味もある。探究者ことがブッタの姿である。そこに菩薩像が生まれて来る。詩語りはまさしく菩薩像でもあるのだ。私の聲を聴く人たちを癒してゆきたい。
詩誌受贈『きょうは詩人・30号』

2015年4月17日 (金)

田川紀久雄日記

詩を書くことで聲の意味を追及していける。これも日々の精進が詩を書かせてくれるからだ。詩人たちの朗読は狭い世界で行われているから上達しないのである。人に聴かせる、聴いてもらうという意識が欠如している。この大地の自然の中で聲をあげるのが良い。人に褒められるために詩を語るのではない。宇宙のいのちと一緒になるためである。そのことによって鎮魂を語れるようになる。いのちの祈りこそ詩語りの目指している世界である。

2015年4月16日 (木)

田川紀久雄日記

腰が痛くてどうにもならない。ハリを打ちにいかなければならないだろう。日曜日に無理をしたせいかもしれない。でも人の中に入っていけることで人との出会いもある。公園で聲を撃つことばかりではなく、公の場で聲を撃ってゆきたい。
今度の詩集は思っていたより評判が良かった。お手紙をいただいた方には心より感謝をいたします。もっともっと聲を研鑽していかなばならない。誰も到達したことのない世界を目指して。そのことによって本当の鎮魂歌を語れるようになるのだろう。

2015年4月15日 (水)

田川紀久雄日記

新しい詩集『永遠の大地』を書き始める。二四日のライブは七人しか予約が入っていない。相棒の「歌かたり」と私の「詩語り」を久しぶりにできそうだ。でも私たちにはほとんど応援をしてくれる人がいない。聴きに来てくれる人に感謝する。大切なのは数ではない。聴いていただける人に心をこめて語るだけだ。12日でも山本竹勇さんだけが褒めてくれた。詩人にとってはまったくの反応がない。詩人は自分のことで精いっぱいである。
「港の詩人座」 2015年4月25日(土) ー永遠のいのちを語るー
画廊喫茶 ラパン・アジル 電話045・770・0678(京急杉田駅から徒歩5分)
開演午後2時より4時まで
会費2000円
予約していただければ案内状をお送りします。

2015年4月14日 (火)

田川紀久雄日記

今回の選挙で安倍政権を批判したかった。国政選挙でないにしても、集団的自衛権や憲法改正につながる雰囲気を潰したかった。それすらわからないで国民は自民党に多くの票を入れてしまった。それで安倍総理は自分たちの政策の正当性を主張した。投票率が五〇パーセントを割っているのに・・・。
詩語りは生きた叫びをあげていたい。そして人類の平和を叫び続けたい。今の詩朗読の世界では私たちを招く人はいない。狭い世界で満足している世界だ。ああ悲しい。
詩誌受贈『ムジカ2号』

2015年4月13日 (月)

田川紀久雄日記

昨日「詩朗読きゃらばん」に行く。なぜあの狭い空間でマイクを使うのか解らない。自然の肉聲の響きこそ詩の魂を届けるのにはふさわしいのである。私は十分の予定であったが、一篇だけ語らせてもらった。詩人たちにより津軽三味線の山本竹勇さんに感動してもらった。私の語りはまさしく魂の聲としか言いようのないものであったと。ある詩人は私をまったく無視していた。詩人には知名度なんて何の関係もない。大切なのは、いま本当に真剣になって生きているかということなのだ。でもいまの私は聲の伝道師として語れる場を見つけて行かなくてはならない。そして銭のとれる場が欲しい。なぜなら生活が大変だからである。山下佳恵さんも素直な朗読で好感が持たれた。高畑耕治さんにもお会いできてうれしかった。銭を払っても聴きたいという語りをしてゆきたい。

2015年4月12日 (日)

田川紀久雄日記

この度の統一地方選は自民が圧倒的に多い。嫌な雰囲気だ。政府は年収三〇〇万円を目標にしているが、私たちの生活は一〇〇万円程度である。生活保護以下の生活で生きている。未来の不安で一杯だ。その中で生きていることを豊かにしてきたいと努力している。他者の生活を気にしない。自然を愛し野良猫と戯れていればそれでよい。そして詩語りの精進に励んで生きていられればそれで満足したい。

 

午後から永井ますみさんのライブを聞きに行く。腰が悪いが「たぶの木」の仲間に会えると思うと無理をしてでも行く予定だ。

2015年4月11日 (土)

田川紀久雄日記

寒さのせいか腰が痛い。昨夜美空ひばりが他人の歌をうたうCDを聞いていたが。やはりそれほど面白いものではない。歌は上手いがその世界を醸し出していないからだ。これは朗読の世界でも言えることだ。俳優や声優の聲を聴いてもそれほど関心がしないのは内容が語れていないからだ。内なる世界を語ることの難しさを痛感する。

 

一時間を語る人たちも言葉が流れていくだけで、一篇の詩を語りきれないで終わってしまう。いかに一篇を語ることの難しさを越えていかなければ、詩の朗読の世界は存在価値がない。わたしもいまは一篇を真剣になってかたってゆきたい。

2015年4月10日 (金)

田川紀久雄日記

『もう一歩前に』が書き終わる。
四月は介護保険やその他の支払が多い。気分が落ち込む。収入のほとんどない私にとっては大変なことだ。国民に負担だけを押し付ける。そして軍備費は増額していく。安倍政権は国民の平和を願うのではなく、戦争への道を突き進んでいる。平和の道は憲法九条を守り続けることにしかない。安倍政権は何に脅えているのか。大切なのは相手の国を思い、話し合いを続けることしかない。国民との対話もない。とくにひどいのは沖縄に対しての扱い方だ。辺野古は美しい。そこには軍事基地は必要がない。私はまだ沖縄には行けない。沖縄に軍事基地がある以上、どうして観光で行けるのか。四人に一人は亡くなっているあの戦争で。それなのにどうして気楽に遊びに行けるのか?

2015年4月 9日 (木)

田川紀久雄日記

クロネコ便が一五二円になった。これは痛い話だ。ほとんど無収入の私には詩誌の発行も困難なってくる。それでも「操車場」は一〇〇号まで頑張ってみるつもりだ。それと参加者には一〇〇〇円を負担してもらうしかなくなるだろう。大企業の法人税を引き下げて、国民の負担を多くする政府にはあきれてものも言えない。これも自己責任でかたずけられてしまう。
今生きる希望は二五日に「港の詩人座」でライブができることだ。やっと詩語りの苦しみの峠を越えたところだ。多くの人たちに慈しみの聲を届けてゆきたい。道元によれば、仏と一体になるということである。いまその聲に向けて精進を続けているところだ。
いまは生活費をとことん切り詰めてなんとか「操車場」を発行してゆきたいと願っている。

2015年4月 8日 (水)

田川紀久雄日記

また腰が痛みだした。これは急に寒くなったせいなのだろうか。いや多分パソコンの打ち過ぎが原因なのだろう。版下うちはもう身体的に限界なのかもしれない。椅子に座って仕事ができるのはせいぜい二十分程度だ。私の知り合いにも腰の悪い人が多い。だけれども手術をした人はいない。なんとかだましだましながら生きている。寝ながらパソコンが打てるのがあれば助かるのだが。
詩もあと二篇書けば『もう一歩前に』が書き終わる。そう前に前にと進んで生きてゆきたい。いま三冊分上梓できる。これは自分自身との闘いなのだ。
「操車場」の原稿が高橋馨さんから届く。

2015年4月 7日 (火)

田川紀久雄日記

上野芳久さんの原稿が入った。彼も私もどこに向かっているのか? でも私たちは真剣になって真理を見出そうとしている。他の詩などに構っていられない。死を通して求望を求めているのだから。そして私の詩語りは、朗読と異なった位置に向かっている。本物の魂の語りを求めて旅人となっている。社会的に評価されなくても自分を信じて生きて行くしかない。

2015年4月 6日 (月)

田川紀久雄日記

このところ嫌な夢を見ることが多い。どこかで見た風景も混ざっている。いつも死んだ人が出てくる。意味不明の物語が続く。寝たのかそれすらわからない。朝はいつも身体がだるい。
沖縄には安倍さんが行って話すべきだった。要はお金で解決したいのだ。ということは沖縄の苦しみを少しも理解いしようとしない。沖縄ではアメリカ国家と日本の君が代が朝流れている島がある。不思議な光景が見られる。米軍基地の跡地には巨大な商業施設ができ、経済効果を生んでいる。政府は経済効果で沖縄の人をごまかそうとしている。ようは原発もお金で縛り地域の人の心を反原発に向けないようにしている。アベノミクスから転換する思考が求められているのだ。

2015年4月 5日 (日)

田川紀久雄日記

先ほど書いた文章が入力されていない。パソコンは不思議な世界だ。同じ文章は書けないものだ。手書きとパソコンの差は大きい。パソコンは便利であるが入力が消えてしまうとこれほど不便なものはない。詩誌を作っていても文字が化けて違って文字が入力されていることがある。昔はフロッピーが使われていたが、いまはUSBになっている。どんどん保存方法が変化している。CDでも永遠性があるものではない。自分が生きている間でも変化が多すぎる。だから印刷物として残しておかないと不安になる。詩はできるだけ詩集として残しておきたい。
詩誌受贈『亜土・99号』『日本海詩人・44号』

田川紀久雄日記

いのちを追及している以上、詩というものは古くはならない。時代を超える永遠のテーマを詩の中心に置くことが大切なのである。現代詩でもつまらない詩が多すぎる。それは言葉遊びが多すぎるからだ。言葉は単なる記号でしかない。そこに言霊が存在してこないと言葉は詩に変化しない。言葉も生き物である。ものであることから抜け出すことが詩を書く上で求められる。自分の書いた詩を一度聲にだしてみることをすすめたい。
詩誌受贈『亜土・99号』『日本海詩人・44号』

2015年4月 4日 (土)

田川紀久雄日記

日銀と政府が思うほど経済状況は良くなっていない。この日本を悪くしているのは政府と日銀である。昇給のないアルバイトや非正規社員は、生活が苦しくなっている。貧富の差が今の世界を悪化させている要因の一つである。私も生活のことを考えると眠れなくなる。
地方選挙があるが、なんとなく虚しく感じてしまう。自民党の候補者があまりにも多くてあきれた。十二日は永井ますみさんのライブがある。十分ほどと語らせてもらえるという。それと「たぶの木」の仲間と会える。人とあうことも大切なことだ。家にばかりこもっているとやはり落ち込んでしまう。前向きに頑張っていこう。

2015年4月 3日 (金)

田川紀久雄日記

落ち込んでいるとき、『寂静』への励ましの手紙をいただくと気が楽になる。「操車場」を送る方はまだ『寂静』を発送はしていない。
詩はいつも書いていないと、書けなくなるものだ。同じようなテーマでも書くことによって作品は深まってゆく。書けば良いというものでもない。つねに深みへ目指していないと作品はつまらないものになってしまう。私にとって詩とは何かといえば、生きるための妙薬であるとしかいえない。それは毎日の詩語りへの研鑽があるからだ。この両輪があって今の私が生きている。人生と真剣勝負が詩でもあり、詩語りでもある。末期ガンから生きられた秘訣もそこにある。雪舟もそれほど生きているうちは報われていない。毎日大型版の雪舟の画集を見ている。そこに描かれている風景が楽しい。風景は厳しいがその中に家があり人々が語り合っている。これは禅の境地なのかもしれないが、心に安らぎを与えてくれる。

2015年4月 2日 (木)

田川紀久雄日記

ここ二日ばかりつまらない詩を書いてしまった。それは愚痴っぽい詩だ。詩の本質は愚痴も大切な要素なのかもしれない。そこに人間性が感じられれば良しとするしかない。所詮詩というものは自分が生き抜くための方便なのだろう。
国会で国民の苦しいを訴えても、ほとんと無視してしまう安倍政権下では聴いていても虚しい。安倍政権には個々の人間の苦しみなど無関心なのである。政治の原点を失いかけている。詩は個人の問題を最優先する。そういう意味では詩というものは存在価値がある。政治と相反するのが詩の世界でもある。詩人は政治には負けたくはない。だからこそ詩は語っていかねばならないのだ。
詩誌受贈『ココア共和国・17号』『Lyric  Jungle・18号』『叢生・197号』

2015年4月 1日 (水)

田川紀久雄日記

急に暑くなるので身体がついていけない。
道元の「正法眼蔵」の中に行事という言葉が出てくるが、これは三昧とある意味で近い世界である。ようは無心になって業を行うことである。詩語りもこの無心で行うことで三昧に近づいていける。それには日々の精進こそが本物の三昧の世界に行く付くことができる。朗読をしている詩人たちは私の詩語りについての詩集にはまったく興味がないらしい。詩語りの世界は自分との闘いなのだから、致し方がないのだろう。
今月はライブがある。それに向けて努力をしていきたい。
詩誌受贈『黒豹・138号』

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