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2015年1月31日 (土)

田川紀久雄日記

操車場の原稿が集まる。これでまた新たに再開できる。
昨日は雪や雨で外には一歩も出れなかった。それにとても寒かった。雪国の人たちは大変な思いで生きているのだと痛感した。
宗教とは山と同じでどこから登山しても頂上が一つである。その頂が愛そのものでありたい。別なものであれば、その宗教は誤りである。いまのイスラム国はイスラム教とはまったく異なったものである。自分たちだけが正しいという考え方は大きな誤りである。異なる宗教でも同じ地域に仲良く生きて行ける。お互いを認めあうことこそ宗教にとって大切なことである。聖書もコーランも仏典もみんな素晴らしい。人間が生きて行くうえで大切なことが書かれているからだ。非暴力を訴え続けたガンジーの思想も好きだ。金子みすゞの詩にも「みんなちがっていい」という言葉があるように、みんなが違うことで相手を尊重することが求められている。同じ顔の人間がいないように、心も違っている。それでいいのである。

2015年1月30日 (金)

田川紀久雄日記

昨日は相棒と横浜中が街に漢方薬を買いに出かける。法律で漢方そのものは売れないので、薬膳として買うしかない。それも中華街でしか手に入らない。これは免疫量を高めるためには必要なのである。この漢方のせいで今年は風邪もひかないでいられる。
荒畑寒村著『平民社時代』を読み始めた。今も昔も世の中はそれほど変わっていないような気がする。そして民衆もそれほど変わっていない。世界の平和と叫ばれていても、世界は平和にならない。相変わらず争いが続いている。宇宙の存在そのものはある意味で普遍なのかもしれない。流動しているようで流動をしていない。まるで仏の掌の平で蠢いているのが私たちなのだろう。
今日は雪だという。とても寒い。

2015年1月29日 (木)

田川紀久雄日記

「原発ゼロ市民共同かわさき発電所」が2月1日に発電を開始する。中原区のビルの屋上にソーラーパネルを設置した。川崎市民である私にとっても嬉しいニュースだ。福島原発はいまだに事故が続いている。本当のことをいまだに隠そうとしている。
昨日「祈る人」という詩を書いた。これで新しい詩集の半分ほどは出来上がった。これが詩かどうかは何とも言えないが私のとっては詩なのだ。そのことが大切なことである。
詩誌受贈『詩7遊・45号』

2015年1月28日 (水)

田川紀久雄日記

人を人が殺すことはあってはならないことである。それが戦争であってもだ。死刑廃止論はいまの日本では反対する人がまだ五割を超しているが、私は死刑廃止論である。哀しみや憎しみは解るが、それを越えてこそ人類に愛が訪れてくる。それと犬猫の刹処分は禁止してもらいたい。
『寂静』という詩集を印刷所に入れた。三月の下旬には出来上がる予定だ。詩語りのテキストが増えることは喜ばしいことだ。語りを通じて哀しみや愛を語ってゆきたい。
HとSさんから詩集代をいただいた。個人名はここでは控えさせていただく。というのも色々と差し障ることがあったからだ。詩集を買っていただける人がいるから、次の詩集が上梓できるのも確かなことだ。私は多くの人たちに支えられて生きている。感謝感謝の気持ちでいっぱいだ。末期ガンで六年前に死んでいたはずが、こうして生きているからには全力で私の残されている仕事を行ってゆきたい。一瞬一瞬のいのちのありがたさを噛みしめて生きていたい。いのちとは素晴らしいものであることを証明していたい。

2015年1月27日 (火)

田川紀久雄日記

後藤さんの開放を祈るだけだ。祈ることは大切な行為の一つである。
最近詩を一日おきに書いているが、それは書いているのではなく、生まれて来るといったほうが良い。このところ詩も祈りに近いものが生まれている。
佐野カオリさんから「現代詩手帖1月号」に私のことが載っているとの連絡があったが、、私はまだ見ていない。だれかコピーでも送っていただけないだろうか。近所の図書館には詩の本はほとんどおいていない。
永井ますみさんが四月に東京で朗読会を行うが、そこでオープン・マイクで五分程度なら行っても良いとの連絡が来たが気が重い。永井さんの朗読は一度聴いてみたいと思っている。
丸山あつしさんが『詩・画集大成』が出来上がってきた。大変な努力だ。でき具合も素晴らしい。画家も知り合いが多く入っている。六月には渋谷で飯田市に関係のある人たちの展覧会があるが、私も誘いを受けている。そこでオープニングに詩語りが出来れば参加しようと思っている。私も詩人であるが、画家でもある。

2015年1月26日 (月)

田川紀久雄日記

私が詩語りを追及している。その報告を詩や日記で書いている。それは私のあとに詩の朗読を行う人たちに一つの目標になってゆきたいからである。詩人の朗読に関する資料があまりにも少なすぎる。ただやりさえすれば良いというものではない。やる以上人に感動を与えるものでなければならない。素晴らしい仕事を残した人たちは、決して恵まれた条件で生きてきたわけではない。悪条件を克服して生きてきたから人に訴える世界を持つことができた。ひとえに努力しかなかったともいえる。恵まれて仕事をやっている人はその当時は有名かもしれないが歴史からほとんど姿が消えている。愚直に生きることこそ求められている。

2015年1月25日 (日)

田川紀久雄日記

ここ数日悪夢にうなされている。夢とはいったい何なのだろう。朝起きると頭が痛い。
この地球上では困窮にあえいでいる人たちが多い。いまの私たちの生活はある意味で異常なのではなかろうか。戦後生きてきた私にも、いまの貧しさは貧しさという範疇には入らない。戦後の上野駅周辺では親のいない子供たちであふれていた。そして庶民は一生懸命に働いていまの社会までこぎつけてきた。でも本当に幸せになったかというとそうでもない。心があまりにも貧しくなってしまった。行政の手が届かない不幸な人たちがまだ沢山いる。このことはとても悲しい。そして差別が出来ている。社員と非正規社員との格差。相棒のようにアルバイトだと社員と同じ仕事をしても収入が何倍も低い、そしてボーナスもでない。まるで奴隷のように扱われている。収入の増額といってもアルバイトまでは広がらない。貧富の差がどんどん広がってゆく。自己責任といわれても困る。
詩人だからせめて生きる歓びを書きたいものだ。どうしたら書けるのだろうか。

2015年1月24日 (土)

田川紀久雄日記

自然の中で詩語りの稽古をすることは大切なことだ。聲というものは自然のリズムや環境で変わるものである。自然とうまく調和していくことが求められている。聲がどこまで届くかということではなく、いかにして調和をしていくかということである。多くの人が勘違いをしている。それはお客との調和にも結びつくからである。そこには当然聲の力も求められている。
私はいつも森林公園で行っているので、この自然との関係に大きく影響を受けてきた。室内での稽古にはこの自然がないのでどうしても人工的になる。だからマイクとか持ち出す。そのためにも大きく息を吸って吐くことが求められる。それには腹式呼吸が最適であるということだ。

2015年1月23日 (金)

田川紀久雄日記

三日も雨が降り続けるとは珍しい。洗濯機が故障しているので洗濯しにも行けない。湯沸かし器も買え変えなければならない。金のかかることが続く。蓄えがないことはやはり辛いものだ。
坂井信夫さんから「操車場」の原稿が届いた。あと二人の原稿が届けば印刷ができる。
長谷川忍さんから個人誌「街景・3号」がとどいた。読みやすい詩誌だ。エッセイもなかなか楽しく読ませていただいた。彼はほかにも詩誌に参加しているが、個人誌を出すことの意味を感じる。薄いが温かみのある詩誌に仕上がっている。私も「田川紀久雄通信」を出している。
詩誌受贈『長谷川忍個人誌・街景・3号』

2015年1月22日 (木)

田川紀久雄日記

鬱的状態でいるとき寒いとなおさら気分が落ち込む。
 
『声と日本人』米山文明著を読む。詩語りにとって何も得るところがない。理屈ではなくひたすら精進の中で自分の語りを追及するしかないということだ。
 
雪舟も社会から受け入れらずに、自己の世界を自らの方法で切り拓いている。画家というものは権力と結びつかないと食べていけない世界だと、身分の低に雪舟にとっては生きずらい世の中であった。詩人は誰とむすびついても食べてはいけい。今の日本では詩集ならなんとか自主出版だできる世の中である。人に読まれるかどうかは別として。パソコンで版下を作りコピーでも作れる時代だ。今私は手作りで三冊もの詩誌を作っている。語りだってライブが出来なくても、公園で稽古ができる。社会に気にしなくても自分の世界を掘り下げていける。いまの私たちはある意味で幸せな世の中に住んでいる。不満を言うより、ひたすら自己を見つめて生きることが大切なのである。

2015年1月21日 (水)

田川紀久雄日記

人間にとって最も強い欲望は名誉欲らしい。性欲はある年齢に達すると消えていくが名誉欲だけは死後の世界まで持っていくらしい。墓石までも経歴を書き込む人もいるという。自己のプライドも名誉欲である。社会というものは知名度によって差別を生む。しかし詩の世界では賞をとっても何の価値も生まない。賞の名で詩人の価値が決まるものではないからだ。大切なのはどうして人間として生きているかだ。
いま詩で心をうつものが読みたい。頭で思考した詩ではなく、心の奥から生まれた詩を読みたい。自然そのものになる切ることが求められているのだろう。

2015年1月20日 (火)

田川紀久雄日記

今日は大寒。旧暦では12月1日である。本当に寒い。といっても東京では雪が降らないだけ助かる。北海道や北陸では例年の倍の雪が降ったという。
読書の知識は、本当の知識とは言えない。大切なことは経験と体験を積み重ねた思考である。詩を掘り下げていくにもこの経験と体験が重要になってくる。道元の只管打座も実践が伴わなければ何の意味もない。いくら『正法眼蔵』を読んでも自分の道は深まらない。『耕す』という詩もそのことを書いた。(たぶの木・15号)
私のいまの詩はどうして詩語りを深めていくしか書いていない。詩語りを通して世の中を見ていく。詩人たちの朗読も単に聲を出しているだけでは駄目である。聲の思想を掘り下げていく努力をしなくてはならない。そのためにも新しい詩を書き、それを聲で見つめることが求められている。つねに今に生き、今に徹することが大切なことだ。

2015年1月19日 (月)

田川紀久雄日記

寒いせいか頭が痛い。禅宗の坊さんでそれなりの名を残した人は、自己に厳しい生き方をした。ある言い方をすれば単独者である。世の中からはじき出された人たちである。詩人も初めから世の中からはじき出された人間であるはずなのに、うまく世の中に収まって生きている。この世でうまく立ち回っても作品がダメなら何も意味もない。
詩壇の評判なんて何もあてにならない。ようは自分で感じるものしか価値がないからだ。蕪村が、偽物でも良いと思うものはよい。どんなに評判がよくてもつまらないものはつまらないといっている。大切なのは自己の眼である。絵を観たり、音楽を聴いたりつねに心を豊かにしていくことが大切なのである。そしていろんなことに感動することだ。日々心を養う作業が必要である。

2015年1月18日 (日)

田川紀久雄日記

詩というものは自分を見つめる鏡でもある。自問自答しながら一歩一歩前にと進むしかない。
ここ数日精神的に不安定だった。いまもまだ不安定だが、なんとか持ちこたえている。こう世の中が生きることに息苦しく感じられる。人々の心のゆとりも感じられなくなっている。私の心はほんの少しのことでも傷がつく。特に昨日の阪神・淡路大震災の報道に接していると辛い。
詩誌受贈『潮流詩派・240号』

2015年1月17日 (土)

田川紀久雄日記

同じテーマを繰り返し書くことで詩の深みへと降りてゆきたい。いつも優れた詩が書けるわけではない。詩語りでも何度も繰り返し語ることで詩の味が生まれてくると同じことだと思う。表現とはいつも新しいものを書くというよりも、作品の質と深みを目指すべきである。
今日阪神・淡路大震災の日である。鎮魂の語りを公園で行う。聴き手は亡くなっていった魂たちにである。私の詩語りはだんだん鎮魂のための語りになっている。
昨年は「たぶの木」でみんなが集まって会うことがなかった。私としては寂しい気持ちである。今年は何とかして会いたいものだ。

2015年1月16日 (金)

田川紀久雄日記

明日は阪神・淡路大震災の日である。いまだ苦しんでいる人たちが多くいる。孤独死や、ローンの支払いで苦しんでいる人たち。いま街を見ただけでは判らないが、二十年になってもいまだ救われない人たちがあまりにも多すぎる。行政の手が届いていない。個人ではどうすることもできない。
詩では何もできないが、心の応援詩を書いていくことも大切なことだ。詩人の中にはそのような詩を書くことを嫌う人もいるが、それは誤りだ。詩とはそのような狭い心を持ってはならない。詩は詩であるという考え方なのだろう。
詩人はもっと豊かな心で詩と向き合ってもらいたいもだ。

2015年1月15日 (木)

田川紀久雄日記

「昇華」という詩を書いた。震災で亡くなった人々に語れる詩を書きたい。今年はそのような思いで詩を書き進めてゆきたい。詩を書くことがこんなに大変なのかといま感じている。先がまったく視えない。
『新たな旅立ち』は多くの人たちから手紙をいただいた。このことで書くことの励みにもつなげられる。そして上野芳久さんの詩がいまの私に勇気を与えてくれている。それは死者に対してへの想いが強い作品だからかもしれない。彼も彼なりの救済を求めて書いている。
私は仏教家ではない。それでも私なりの世界を求めてゆきたい。どれが正しいという考え方はしない。出口のないいまの世の中で新しい道を見つけたい。ただそれだけだ。それは詩語りの精進を積みながら書いているからそれなりの業は積んでいける。聲とはひたすら聲(テキスト)を撃ち続けていくことしかない。そのためにもつねに新しい詩を生み出さねばならない。これからどこまで詩集を上梓できるか解らない。できるだけ詩集を買ってくれる人を見つけ出してゆきたい。
密教では頂けるものはすべていただく。それで人々を助けたり寺院を立てたりする。個人のためには使わないという。私も詩集(寺院)やボランティヤ活動を行っていきたい。そのためにも資金が欲しいものだ。

2015年1月14日 (水)

田川紀久雄日記

防衛予算が膨大な金額になった。人殺しのための軍備をなぜ行うのか。これが安倍総理の積極的平和論なのか。悲しいものだ。そして病院の入院時の食費代が260円から460円に値上げになる。長く入院している患者のとっては大変な問題だ。安倍政権の傲慢な政策にはとても我慢が出来ない。
私たちはそんなに豊かになる必要があるのだろうか。みんなが分かち合える社会こそ豊かな社会を生み出していく。それが一部に人たちが膨大な富を蓄えて、貧乏人たちを足蹴りしていく姿を見ていると哀しくなる。このまえのナッツ事件もそうである。政治家は膨大な資金の援助を受けているから、何も言えない。そして汚職がはびこる。日本もこうなってはおしまいだ。
テレビのグルメ番組も酷いものだ。いまはテレビの価値はほとんどゼロに近い。私たちはブリのあらを買って大根と一緒に食べている。ことはとても美味しいものだ。生活費もいくらかは助かる。捨てるところが一番美味しい。詩集を上梓ていくためにも贅沢は敵です。自分の道を切り開いていくためにも大切なことです。

2015年1月13日 (火)

田川紀久雄日記

高橋馨さん・野間明子さんの原稿が届いた。「操車場」が再開できる。「たぶの木」では高畑耕治さんの原稿が届く。
物価がどんどん値上がりしている。今月はパソコンの修理やバイクのタイヤ交換などでお金が出て行った。お金が出ていくことに恐怖感を覚える。生活のことを考えると未来がない。しかしこのようなことを心配してもどうにもならい。いつ亡くなるか解らない、それなら今できることをやるだけだ。いまの自分を高めて行けば未来は何とかなるかもしれない。
新しい詩集『灯火を照らしながら』を書き始めた。このままの日本だと駄目になっていく。書きたいことを書きたいように書いていくだけだ。
詩誌受贈『銀河詩手帖・268号』

2015年1月12日 (月)

田川紀久雄日記

これから自然破壊をなんとかして食い止めなくてはならない。アベノミクスはこの自然主義と反対の政策である。公共工事で自然を壊す。沖縄の辺野古の埋め立て、沖縄の人たちの反対意見を無視して実行しようとしている。予算も三百億円も減らして嫌がらせを行う。まるで子供じみたやり方だ。
テロ行為は断じて許してはならないが、表現の自由も無限であってはならない。特に宗教に関しては気を使うべきだ。イスラム国は認められないが、なぜあそこまで行ってしまったかは考えるべきだ。貧富の問題、民族の問題、宗教の問題といろいろと絡まりあっている。
私たちの周辺でもいろいろとある。役所はホームレスに対しては厳しい。暮れの公園での炊き出しをやらせないようにした。人に対する優しさをまったく感じない。今の日本は腐っている。誰もが幸せな世の中になってもらいたいものだ。

2015年1月11日 (日)

田川紀久雄日記

昨日『空華』全編を語ってみた。思ってより出来栄えが良い。少しづつ作品が深まっている。やっと何を求めて書いてゆくのかが見えてきた。
牧岡孝さんから詩画集『いつか きみの花咲く日に・・・』が送られてくる。この人は柏崎の人である。柏崎で詩語りと個展を行った時に来てくれた人でもある。そして私の詩集も買ってくれた。
きみたちよ/そんなに賢(さか)しらにならなくてもよい/そんなに真理のことを/容易に分からなくてもいいよ/今 いいよ/きみたちの今在るがままで/「これから始まる」と時が来たのだ
という書き出しで始まる。どの一行にも心のこもった詩でつづられている。高畑耕治さんとはちょっと違うが心の優しさと心の美しさを求めている点は似通っている。柏崎にもこのような詩人がいたと思うと驚きを覚える。この本によって心が温まれた。
詩画集受贈『いつか きみの花咲く日に・・・』

2015年1月10日 (土)

田川紀久雄日記

この世に存在するものはすべて仏であるという考え方は大切である。詩語りを聴いてくれる方も仏なのだと思って語りことが必要である。そうすればいい加減な朗読はできないはずだ。仏の中にも十界を持ち合わせている。曼荼羅は大日如来を中心にしてみんなが寄り添いあいながら存在する。何も否定することのない世界。科学的進歩と調和は矛盾する世界であると思われていたが、この自然環境が崩れてきたことによってその考え方が崩れてきた。先進国は公害を生み出してきたことによってそのことを理解した。原発も同じことが言える。アベノミクスの考え方は時代遅れの思想なのである。豊かさにも調和がないと貧富の差がどんどん広がってゆく。これからこのような思想を根底に持って詩を書き進みたいものだ。

2015年1月 9日 (金)

田川紀久雄日記

詩集『空華』が書き終わった。約一ヶ月で書いた。私が勢力的に書くことは末期ガンを宣告された人たちに勇気を与えていると思う。あきらめないでつねに前向きでいきること。見果てぬ夢に向かって生きぬくこと。詩が書けるのも日々語りの精進を行っているからだ。
このところ毎日音楽を聴いている。音の良いラジカセを購入したからだ。低音と高音も良い音がでる。弦の音色もいい。
今年は語りができるところがあれば積極的に出かけて行くようにしたい。『空華』が書き終わったこともあるからだ。つねに前向きになって生きていたい。

2015年1月 8日 (木)

田川紀久雄日記

空海によれば言葉や聲は単なる伝達ではなく、それは真理の世界に繋がっているという。真理を表現しているから、言葉や聲には感動に繋がってゆくのである。詩語りはこの言葉と聲の車輪なのである。普通の朗読は言葉の伝達を目標にしているが、詩語りは真理との出会いの感動をめざしている。この違いはとても大きい。
安倍政権は防衛費の増額と沖縄には予算の減額をする。このことは国民を裏切ることだ。経済の発展といいながら実は集団的自衛権を押し進める政策でしかない。そして生活保護費も削減する。貧乏人は死ねといっているようだ。
詩をあと一篇書けば『空華』という詩集は書き終わる。言葉は私の精神をさらけ出してくれる。そして空海がいうように真理を垣間見せてくれる。そのテキストを聲で表現していけることは生きていて最高の歓びである。ライブを行うとかそのようなことは問題外である。腹の底から聲を撃つことは詩人にとって最高の行為なのである。

2015年1月 7日 (水)

田川紀久雄日記

詩を書くにはつねにいのちの火を燃やし続けることだ。哀しみや苦しみはその人一人だけのものでないからだ。みんなで分かち合えるものである。それが詩の絆となって深まってゆく。永井まゆみさんのインターネットで「詩書の立ち読みで」コナーがある。それに取り上げてある詩を読んでいると心に響くものが多い。詩にとって最も大切なのは心に響く言葉ではなかろうか。そのことは詩の言葉が木霊なって人の心を揺さぶってくれる。私もインターネットが開ければいろんな詩を紹介できるんだが、なにしろ機械音痴なものでできないでいる。
詩の朗読も聲が大きければ良いというのではない。作品をどう読んでいけるかだ。作品の心を伝えることが出来なければ聲が大きくても何の意味もない。詩は肉聲で語るものだから、当然聲の力は要求される。いまのところ詩人たちは詩を読むだけで精一杯の状態だ。お客に聴かせるところまでは来ていない。それには常に精進しかない。お客に聴いて貰うという意識が低い。朗読といえそれは命懸けの想いで行わないとお客には心が届かない。
詩誌受贈『榛名団・13号』7

2015年1月 6日 (火)

田川紀久雄日記

年金生活者の平均が22万円であるという。私たちの生活は相棒との生活は8万円台である。これはいかに低いかということだ。詩を発表していくにはどうしても自分で版下・印刷を行わないとできない。お金を払って他の詩誌には参加ができない。だから出版社を行っているがほとんど仕事がない。また出前の詩語りもいまのところ仕事がない。ようは仕事では収入がない。それでいて自分なりによく生きていると思う。
このハングリーが詩を書かせたり詩集を上梓させたりするのだろう。皆様の温かいカンパでいくらかしのいで生きていられる。できれば詩集を買っていただければありがたいのだがそうもいかない。なぜなら詩集というものはお互い交換し合うのが原則だからだ。
また『操車場』を再刊できる。原稿は一月末である。

2015年1月 5日 (月)

田川紀久雄日記

文部省が大学で哲学や文科系を外そうとしている。人間の生き方にとってもっとも大切なものである。国には国民を総白痴化しようとしているのだろうか。戦争をしたがる人間が国を動かそうとしている。集団的自衛権や憲法改正がそれにつながる。集団という言葉の中に人間の知覚が麻痺していく。それを食い止めるのが哲学や文化である。
では詩は何なのだろうか。それは生の喜怒哀楽を素直に歌えることだ。生存の根幹をなす世界を描ける。それを聲をあげて歌えるのが吟遊詩人である。詩の魂は詩の技術ではない。素朴な魂の響きである。詩の言葉だけに詩があるのではなく、人間そのものが詩であることを忘れてはならない。今私はそれに向かって詩を書き詩語りを行っている。詩誌『たぶの木』はそのような世界を築いてゆきたい。妹の死を越えて新しい世界が視えてきた。もう今月は二篇の詩を書いた。私の心に賛同する友を作ってゆきたい。人間として詩人としていまの体制と向き合っていたい。

2015年1月 4日 (日)

田川紀久雄日記

中国もバブルが崩壊するという噂がある。そうすると日本経済にも大きな打撃がおこる。アベノミクスも崩れていくだろう。上から水を流せば下に流れるのが自然な法則であるが、アベノミクスは自然とはかけ離れたものである以上そうなるとは言えない。それは人間の欲望が邪魔をするからだ。資本主義社会は欲望をむき出しにして走っていく。表面上、民主主義といいながら実は貧富の差を作り上げていく社会制度である。資本主義も長く続いてきたがそろそろ終末期を迎えている。人間の欲望とは恐ろしいものである。これから逃れるのは菩薩道しかない。自己を高め人々のために尽くしていく精神こそが求められる。
詩集受贈欄から私の詩集をはずす詩人がいる。小さな心の持ち主だ。欲望にこれも取りつかれた仕業なのだろうか。私には痛くも痒くもない。でも私は彼のやっていることを尊敬している。なぜならとてつもない企画を行い続けているからだ。彼の存在で私もここまで詩語りを歩んできたからだ。そのことは私はありがたいといまでも感じている。これからもこの企画は続いて行くだろう。陰から応援をしてゆきたい。一人でも多くの詩人が参加して経験していただきたいからだ。私の詩語りは単独者でいたい。孤独こそがよりよい詩語りを作り上げてくれる。そして誰にも負けない精進を続けることが私の仕事である。腰の痛みと体調がまだ良くない以上夜は一人で出かけられない。

2015年1月 3日 (土)

田川紀久雄日記

嫌な気分から抜け出すには詩を書くことで気分が楽になる。詩というものは私にとって必要な薬剤である。今年の最初の詩も書けた。
パソコンの修理費にはお金がかかったが、これからは安心して使える。機械は必ず壊れる性質を持っている。そのために常日頃から予備費を蓄えておかないと大変になる。特に私のような生活をしているものにとっては。カンパをいただいたので今回もなんとか切り抜けられた。ただ困ったことがある。それはFA明朝体が入っていないのだ。これは致し方がないのだろう。パソコンの使用方法がどんどん変化していることに私は戸惑うばかりだ。機械音痴ではこの時代にとても付いてはいけない。

2015年1月 2日 (金)

田川紀久雄日記

正月といっても普段と何も変わらない日々を過ごしている。いつものように公園で語りの稽古に精進している。
今年も年賀状は出さなかった、というより喪中である。いただいた方にはお礼を申し上げます。私はできるだけ社会的慣習から遠ざかろうとしている。社会との付き合いが煩わしくなっているからだ。ひたすら詩を書き、語りの精進に生きていたい。老後くらい何にも気にしないで生きていたい。
相棒は今年も正月から仕事に出かけていく。今年は金沢につれて行ってあげたい。そして詩集も隔月に上梓する予定だ。詩語りの菩薩道を目指して頑張ってゆきたい。
ことしもよろしくお願いいたします。
詩誌受贈『飛揚・60号』

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