田川紀久雄日記
永井ますみさんのインターネットの『詩書の立ち読み』で私の詩集「慈悲」「聲を求めて」が紹介されていた。それから『詩人会議・12』で詩集評で佐々木洋一さんが『哀しみの渚』を取り上げてくれた。『詩と思想・11』に詩が掲載されている。
昨日注射をうつのになかなか血管に入らないで痛い思いをした。いまでも腕が青くなっている。
詩誌受贈『詩人会議・12』『詩遊・44』『RIVIERE・136』
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永井ますみさんのインターネットの『詩書の立ち読み』で私の詩集「慈悲」「聲を求めて」が紹介されていた。それから『詩人会議・12』で詩集評で佐々木洋一さんが『哀しみの渚』を取り上げてくれた。『詩と思想・11』に詩が掲載されている。
昨日注射をうつのになかなか血管に入らないで痛い思いをした。いまでも腕が青くなっている。
詩誌受贈『詩人会議・12』『詩遊・44』『RIVIERE・136』
今日は午前中CTの検査で病院に行く。
朝がめっきり寒くなった。齢をとると生きる目標を持っていないと衰えも早まる。長生きのコツは生きる気力にあると思える。といって無理に気力も高めようとするとかえって疲れて病気になる。足腰が強ければ散歩にも行けるのにそれが出来ないのが残念である。山々は黄葉で美しくなってきている。もうすぐ冬になる。時の流れは早いものだ。
詩集『寂静』を書き終わる。最後は「空華」で終わった。約六週間で書き上げる。この詩集は詩語りノートである。語りの迷いを書くことで、私のあとに続いてくる詩語り者にたいして参考になると思うからだ。心の迷いは詩そのもののテーマになるからでもある。この二月ほど聲について迷っていたからなんとか解決したいと思っていた。「正法眼蔵」は役に立った。世阿弥も間接的に道元の教えを得ていた。精進という言葉は只管打座であるからだ。只管打座の中で空華が理解できる。
今朝は寒い昨日よりも5度も低いという。身体の管理が大変だ。30日にCTの検査があるので、今飲んでいる薬は飲まないようにといわれた。
ビデオで撮った録音とカセットでとった録音の音が違うので、どちらが本当の自分の聲か迷う。録音の音を聴かに方が良いのかもしれない。大切なのは自分を信じて語りの稽古に打ち込むしかない。
相棒の賃金が上がらない。諸物価が少しづつ値上がりをしている。家計はますます苦しくなる。そのようなとき詩集代やカンパが入るのはありがたい。政治家は庶民の苦しみなど何にも考えていない。円安で輸入品もどんどん上がっていく。アベノミクスは失敗したのだと思う。国民の聲を聴かない政権は最悪だ。
詩人だから詩を通して生きる希望を探してゆきたい。
昨日から左足の腿肉が痛む。ほとんど眠れなかった。病院に行かなければどうにもならない。
昔のビデオの聲を聴いているとなかなか良い。今は聲がそれほど出ない。聲に迫力を感じない。やはりガンとの関係があるのだろうか。いまさら昔を懐かしんでも致し方がない。今はいまの聲を求めて行くいがいにない。
詩誌受贈『いのちの籠・28号』
詩語りノートを詩のかたちを借りて書いている。だから私の詩は詩であるかどうかはわからない。読む人が判断すればよい。詩というものはいろんな捉え方があるだろう。詩的という言葉は狭い範囲でしか意味をなさない。詩には散文詩もあれば、哲学的な詩もあり。経典の中にも詩で書かれている部分がある。詩というものは宇宙そのものを視つめるものであればよいのではないか。こころそのものも宇宙である。詩語りノートも人々のこころの中に溶け込む方法を見出したいと願って書いている。ひたすら精進を続ける中から生まれてきている。決して空論ではない。ある意味での実践論である。朗読する詩人たちから無視されているが、いまは致し方がない。
昨日中華街を久しぶりに歩いた。相棒と肉まんを一つづつ買って公園で食べた。すずめが近寄ってきてその肉まんをねだるのである。すずめも賢いものだ。漢方も随分値が上がってしまった。
須賀敦子さんは本の中にしかいない。多分私がなくなったらやはり詩の中にしか私は存在しないのだろう。だから自分の生き様はちゃんと書いておきたいものだ。
『たぶの木・14号』は高畑耕治さんのネットで観られます。
冨上芳秀さんの原稿が入った。90号は早めに印刷が出来そうだ。月末にはCTの検査やそのたの検査がある。来月の六日に入院するかどうかがわかる。万が一のことを考えて操車場は11月12月休刊にした。
今日は相棒と横浜に行って漢方を仕入れてこようと思っている。そして「須賀敦子の世界」を神奈川近代文学館に寄ってみたい。私の部屋に彼女の全集本がおいてある。全集本であとは宮澤賢治全集がある。その他の全集本はみんな売ってしまった。どちらもまだ全部読んでいない。いま道元の「正法眼蔵」を少しずつ読んでいる。なかなか進まない。
本田まり子さんから詩集代をいただく。ありがたい。みなさんが大変なのに申し訳がない。一年間に六冊も詩集を上梓する詩人はいないだろう。
学校教育で道徳を教えるという。偏った教育になってしまう。道徳というものは生きている中で自然に身に着くものである。国が口を出すべきことではない。嫌な価値観を植え付けてしまう。戦前の教育はお国のために尽くすのが道徳の一番の目的であった。集団的自衛権、秘密法案などでこの道徳教育も国策に利用されかねない。本当に嫌な時代になってきた。
『嫌なものは嫌』という詩を書いた。いま私たちは駄目なものや嫌なものにはっきりとノーというべきである。書くという行為は決して消極的な行動ではない。書いて発表することによって前に進めていける。できれば吟遊詩人として人々の前で語ってゆきたいものだ。
『たぶの木・14号』ができた。自分たちの世界をちゃんと書いている。やさしさ、生きる勇気、孤独。詩にとって大切なテーマである。読み手の心に何かを届けている。温かい心のプレゼントだ。書き手は高畑耕治・山下佳恵・坂井のぶこ・田川紀久雄である。
「操車場」の原稿の締め切りは25日までである。ほぼそろっている。来週には印刷に入れそうだ。
二人の大臣が辞任した。これで安倍総理の暴走にいくらか歯止めができるかん知れない。消費税の値上げに歯止めができるかも知れない。庶民にとっていちばんが普段の生活ができることだ。何もかもが値上がりで今の私たちは生きていけない。なぜパートの賃金が上がらないのか。会社は儲かっているのに不思議な話だ。
川内原発も地元の賛成を得たと新聞の記事に乗っているが、これも裏で金が動いているのではと思いたくなる。原発と金はつきものなのだからだ。自然エネルギー問題がこれでは後退しかねない。人間というものは目の前の利益のことを考えてしまう。国民の一人ひとりが本当に未来のことを考えない以上原発はなくならないかもしれない。
明治以降の歴史の勉強が学校教育で不足している。戦争があったことすら知らない若者がいる。私も人には言えないがもっと勉強をしなければと思う。
今の文学は人間存在の深さに導くものがない。ただの暇つぶしの文学になっている。これは時代の流れでそうなっているのだが、このままだと出版社はどんどんなくなってゆくだろう。詩人たちもそうだが賞をもらうために書いている人たちが増えるだけだ。書きたいから書くという苦しみを忘れているのではと思ってしまう。普段の読書には文学書がほとんどない。心の渇きは文学書では満たされないからだ。しかし詩という形式でしか自分の考えを伝えることができない。詩など人は見向きもしてくれないのになぜこの形式でしか言えないのか、なにか哀しい。
原子力に対して国や電力会社の甘い考えが根を張っている。これは危険認識のズレが大きい。事故が起きた時の対策がほとんどなされていない。事故がおきないという前提だけで原子力を勧めようとしている。福島の事故のことはまるでなかったかのような振舞いだ。このままだと日本は沈没しかねない。自然エネルギーの買い取りも取りやめるなんてエゴそのものだ。世界ではガンが少なくなっているのに対して日本ではガン患者が増えている。
犬や猫の殺処分が日本はあまりにも数が多い。それに対してドイツは殺処分はない。野良猫は県や市が負担して避妊手術の負担を援助してもらいたい。そして地域で野良猫を減らす運動が出来ればと思う。
今日は川崎詩人会の例会がある。
『新たなる旅立ち』を印刷所にいれる。今年中に出来上がれば良い。そうすると今年は六冊の詩集が出来ることになる。しかしほとんど反響がないのはやはり寂しいものだ。自分がしっかりしていかないと前に向かって進めない。私も含めてだが、詩集を読んでいてもこれはというものに出会わない。本当の人間に出会えないでいる。だから古典を読むしかない。
昨日洗濯機が壊れた。新しいものに買え変えなければならない。生活をしていくことは今の私には大変なことだ。
咽喉の痛みはなかなか取れない。
松尾ちゑ子さんからリンゴが送られてきた。美味しいリンゴである。
三日続けて詩を書いた。語りのあり方が少しづつ深まっている。これは稽古を通じて得たものであるから貴重な報告詩でもあり得る。朗読を行う詩人たちも朗読に関してはほとんど考察しない。ということはそれほど精進をしていないからである。世阿弥の能への思考は年々深まっていく。『風姿花伝』書いた時よりも晩年の思考はずっと深まっている。幽玄の世界も世間が考えているよりももっと深い世界を視ている。つねに精進をしている人間には普通の人には見えないものを視ている。芸能に関しての書物はいろいろあるが、詩の朗読に関しての本物の書は一冊も存在していない。今言われているのは『聲を撃て』だけだ。その撃てというありようには触れられていない。これは長い精進を続けて初めて分かってくることなのだ。大切なのは人間の生き方である。今私は咽喉が痛い。それでも精進を怠らない。つねに前に向かって生きている。
昨夜は寒かった。足が温まらないので湯たんぽを使った。身体の温度がうまく調整できないようだ。そして語りの稽古をしていてもここ数日咽喉が痛む。
上野芳久さんから新井狼子さんの短冊をいただいた。そこには『愚人笑我』と書かれてある。狼子さんとは千葉に行ったことがある。そこで二人で田んぼでセリをとった思い出がある。
道元は自分の文体で仏教の有り方を解いていった。それはひたすら真実を求める為である。上野さんの詩は、自分の世界を構築するための文体である。それは私にも言える。詩を書くのではなく自分の世界を表現するために選んだ文体なのだ。それが詩であったと言うだけのことである。上野さんの詩はいくらか難解な所があるが、それが解かれば決して難解な詩ではない。
最近一休さんの「狂雲集」も解かりかけてきた。時間をかけて読んでゆきたい。
真実はなかなか見つからないが、それを目指す生き方が必要なのである。詩の語る境地を見出してきている。その過程をいま書いているが、これは語りの世界だけではなくすべてに通じるものである。山頭火も旅を通じて人生を見つめている。答えはなかなか得られないがそれが真実の世界でもある。文学にとって迷いは真実への旅でもある。そのことは西行にも言える。しかし現代では自然が確かなものでなくなっている。その不安が真実を覆い隠しているのだろう。月を見ても西行のように月に心が浸ることがない。いまは月を眺めるのではなく、月を征服しようとしている。嫌な世界競争だけがみえる。
台風は夜中激しい雨と風があったが、朝には通り過ぎて行った。前回の18号と同じくアットの間に終わってしまった。でも各地では大きな被害があったようだ。
詩『迷いの涯』を書く。この分だとふた月に一冊の詩集が出来てしまう。語りを通して人生を深く掘り下げていける。
文学という言葉は明治以前にはなかった。文学は翻訳語である。詩も翻訳によって近代史が誕生した。つまり今の詩は日本人が生んだというよりまだ借り物ではないかと思う。詩はこうでなければならないなんていうのはおかしな話である。詩の心は人間の精神と心に重さがあるはずだ。技法にとらわれているのが現代詩というやからである。つまりわけのわからないものが現代詩と呼ばれている。詩人たちは、もういちど人間という目線にたって詩の言葉を生み出していくべきではなかろうか。詩は百年経過しなければ本当の詩かどうかわからないものなのだ。いまの現代詩は百年ももちそうもない。数年で古く感じてしまうのがほとんどだ。いま文学そのものが世の中から見放されている。その中で文学と向き合うことは何なのかを深く問うべきだ。
カール・ベームがコンセルトヘボウを指揮したモーツァルの交響曲39・40・41番の演奏がとても良い。このCDはモノラルであるが気にならない。気が滅入っているとき音楽を聴いていても心が癒されない。音楽を聴くときは精神が安定していないと駄目なものだ。齢をとってくると何もかもが面倒くさくなる。
大型台風が近づいている。おんぼろ家であるので少し不安を感じる。修繕するお金もないので将来のことを思うと鬱になる。
浜川崎の操車場近くで山葡萄をとってきた。これを酒に着けて三年ほどおいておくととても美味しい葡萄酒になる。
『たぶの木』原稿が集まった。私は発表場が三カ所ある。『新しい風』『操車場』『たぶの木』詩人はだいたい三カ所ぐらい発表場を持っている。そのことでつねに詩を書いていけることになる。
『いのちの聲』を録音したいと思って稽古を始めている。これは短い詩だけなので、それなりに難しい。詩集によって語りやすいのとそうでないのとがある。どれもがうまく語れるとは言えない。だから日々の精進が求められている。この詩集は他者に伝いたいという思いが強い作品である。語りというより朗読した方が良い作品であるが、なんとか語りの世界にしてゆきたい。努力だけではそうにもならない世界もある。幽玄の世界でも強いものが求められている。それを感じさせない語りの世界があるはず。語りの旅は大変だが楽しい心を持って生きていることが大切である。
詩誌受贈『日本海詩人・43号』
山下佳恵さんから原稿が入った。入院する前の『たぶの木』は作っておきたい。私は『八木重吉の夢』を載せる。人の心に届く作品を書いてゆきたい。
大型台風が近づいている。こんどこそ東京も被害が出るかもしれない。続いて同じ方向に進んでいるのは不思議な話だ。
ノーベル賞で九条がはずされたのも致し方がない。九条を守るのは国民の意識の問題にかかっている。なにもかもがなし崩しになってゆくのを見るのはやりきれない。いま景気が悪くなっているのに日銀の黒田総裁は一時的なものと安倍政権を擁護している。どうにもならない人間だ。預金しても利子がつかない。どんどんお金の価値が下がっていくだけだ。庶民生活は暗闇の世界になりかけている。貧富の差どんどん増すばかりだが。
詩集受贈『細野幸子詩集・夜の少女』『中原道夫詩集・石の言葉』
詩を書くのが辛くなっている。でもそれを乗り越えて書いている。昨日も「消滅」という作品を書いた。もう詩集の半分は一カ月で書いた。詩の原動力は詩語りにある。何とか人に聴いてもらえる語りを目指しているからだ。日々の稽古の中で感じたことが詩になって行く。詩を書いて語ることが私の生である。それに今は徹して生きている。身体の事を気にしないで前向きに生きよう。
昨夜皆既月食を久しぶりに見た。月を美しいと見えるうちは幸せを感じられる。
『大地の聲』という詩を書いた。これは哀しみを越えて生きるうたである。これは被災地を見たおかげだ。死者たちの霊に対して語れる詩でもある。このような詩を書きたかったのだ。
今日詩集『復活』が届く。今月の暮れに出来るはずが、早くできてしまった。そして近いうちに『新たなる旅立ち』を印刷に入れるつもりだ。
集団的自衛権はアメリカに利用されるだけだ。九条を一日も早くノーベル賞にしたいものだ。
景気がますます悪くなっている。物価の値上がりも異常だ。消費税がこれ以上あがったらパート働いているで人たちは生きて行けなくなる。未来を考えると不安だらけだ。
世阿弥の言葉に「離見の見」という言葉がある。これは稽古によってしか得られないものでる。朗読でも自分の聲というものは録音しないとわからないことが多い。詩人たちの朗読ではお客と聲が対話していない。ここに大きな問題がある。これは朗読だけでない。詩そのものが他者と向き合っていない。お客に開かれていない言葉をいくら聲を出してもお客は耳を傾けてはくれない。現代詩は、自ら読み手を否定している。これで朗読の道が開かれないのも当然なことである。
「離見の見」は道元の言葉でいえば只管打座の世界である。そのことに徹していればただそれだけでよい。仏のことなど考えることもない。打座そのものが仏である。語りの世界もひたすら語ることしかない。それ以外何も考えないことだ。今私はそのような気持ちで稽古に励んでいる。誰からも相手にされないことで詩語りの世界を築いていける。世俗的なことなど今の私にはどうでもよいことなのだ。ひたすら聲を撃ち続けるだけだ。
台風はあっというまに川崎を通過していった。また来週も台風が来るという。
川内原発もいい加減な検査である。日本は地震大国であることを無視して安全であるというだけだ。なにかが起こると、予期できなかったというだけ。原発は100パーセント安全でなければならない。
昨日九条に対する詩を書いた。思い出でなく時代を貫いて求めなければならない世界を描いてゆきたい。私は一人で闘ってゆきたい。詩というものはあくまで個人との闘いなのだからそれに徹するしかない。
詩誌受贈『櫻尺・40号』
台風が東京に近づいている。
昨日雨であったので、部屋の中で詩語りの稽古をする。録音をとりながら語りを修正して行う。この方法はなかなか良い事に気付いた。欠点は大聲をあげられないことだ。天気の日は外で行えばよい事なので、部屋での練習も楽しい。
「九条の会」に行っても誰とも話さず淋しく帰ってくる。もう詩人たちとの交流もだんだんなくなってきている。昨日は100人ちかくの人が集まった。関心が高い事は喜ばしい事なのだろう。詩人はやはり良い詩を書く以外には生きている証がない。知名度なんて何の役にも立たない。私もそうであるが詩人たちも年寄りが増えた。でも元気な人たちばかりだ。
大型台風が近づいている。今度こそは東京にやってくる。ボロ家なので不安である。
「九条の会」に対して調布市は後援を拒否した。その理由は政治活動とのことである。安倍政権の集団的自衛権の姿が見えてきた。これは戦前の赤狩りと似ていくのではなかろうか。
今日横浜で「輝け九条!詩人のつどい」が横浜市開港記念館で行われる。できたら行ってみたい。そこで詩の朗読も行われる。熱き魂の聲が聴けるのだろうか?。
今私は詩人たちの朗読から外されている。それは詩人たちの朗読を批判してきたから当然だといえばいえる。本当の自由を得ることは反骨精神しかないのだ。駄目なものは駄目なのだ。この反骨が詩語りを深めていく原動力に繋がってゆく。仲良くみんなで渡れば大丈夫ではいけない。詩人というものは群れにくみせず、自分自身との闘いに生きるものである。しかしいまは「九条の会」を応援していたい。だから詩でも戦争反対詩を書いてきた。それは私が末期ガンの宣告を経験したからである。いのちの尊さを身に染みて痛感したからだ。命を奪う戦争など断じて許してはならない。
詩誌「たぶの木」ではいのちの尊さを求めて追及している。高畑耕治さんも山下佳恵さんも温かいぬくもりのある詩を書かれている。もう一人参加者を増やしたいと思っているが誰も参加しようとしない。いまみなさんが忙しいので集まることができないのが寂しい。
詩人たちの朗読は、どのように聞かせようという意識はない。ひたすらテキストを読むということである。ここにはお客に聴いていただくというプロ意識はまったくない。これはこれで良いのだろうが、朗読そのものを聴きたいという人間にとっては不満が残る。いま日本をとりまく状況からすればやはり人に聴いていただきたいテーマでは、聴かせる技術を持たなければならない。人の心を捉えることをしていかなければならないのではなかろうか。
「操車場・89号」は明日にでも送れそうだ。
詩集受贈『羽切美代子詩集・コラージュ』
総理の権限が巨大化すると独裁者になってゆく。国民の聲を聴こうとしない。この権力をなんとか歯止めする方法はないものなのか。たとえば国民投票などができる仕組みなど。中小企業は大変になっている。総理は自分の都合の良い数字だけを並べて景気は良くなったといっているだけだ。庶民の暮らしなどまったく関心がない。
いま渡り鳥が群れになって渡っていくのが窓から見えた。まだ朝に五時前だというのに。ここ数日この時間に見ることができる。
詩誌受贈『日本未来派・227号』
『詩と思想・10』で私の詩集『聲を求めて』が紹介されていた。青木由弥子さんが書いている。編集部と青木さんに感謝。
政府はあの手この手を使って国民の表現の自由を奪おうとしている。これはとても危険なことだ。嫌なものは嫌だといい続けていたい。詩としてどのように表現していけば良いのか難しい問題だ。浮ついた言葉ではもう通用しないところまで来ている。自分の身を削る思いで書いていかなければならない。いま古典を読んでいるが、ほのぼのとした温かいものが伝わってくる。意味が解らないところもあるが、心を幸せにしてくれる。
詩誌受贈『叢生・194号』『裸木・36号』『稲穂』『大洋村通信・27号』
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