田川紀久雄日記
明日からいろんなものが値上がりする。貧困層の人たちはますます生きにくくなってゆく。給料が上がった人は何人いるのだろうか。年金生活者にとっては生きて行けなくなる。アベノミクスは国民の生活をズダズダにしているだけだ。そして原発再稼働、そのうえに集団的自衛権で国民の幸せを踏みにじってゆく。
『山家集』を読み始める。気分が落ち込んでいるときには西行の世界にひたるのも良いことだろう。今月もなんとか生きられた。
« 2014年8月 | トップページ | 2014年10月 »
明日からいろんなものが値上がりする。貧困層の人たちはますます生きにくくなってゆく。給料が上がった人は何人いるのだろうか。年金生活者にとっては生きて行けなくなる。アベノミクスは国民の生活をズダズダにしているだけだ。そして原発再稼働、そのうえに集団的自衛権で国民の幸せを踏みにじってゆく。
『山家集』を読み始める。気分が落ち込んでいるときには西行の世界にひたるのも良いことだろう。今月もなんとか生きられた。
人の作品を読んでいてもそれほど共感しなくなっている。これは齢のせいなのだろうか。でも古典などを読むとやはりいいなと思う。これは感性だけのことではない。人間存在の稀薄さからくるのかもしれない。経験の質が薄いということなんだろう。詩というものは頭で書いていても経験の深さがないとどうしても説得力がなくなる。ここに詩の面白さが秘められている。といって経験がいくら深くても書けない人もいる。他者に共鳴を与えることは難しいものだ。それは詩語りにも言えることだ。それにまず努力しかない。
御嶽山が噴火した。川内原発の周辺には活火山が多い。はたして原発は安全だといえるのだろうか。日本は地震が多い。日本という国は、そもそも初めから原発には不向きな土地なのである。人間の愚かさが安全神話を作り上げてここまで来てしまった。安全神話とは危険を意味する言葉なのだ。危険だからこそ人間は安全と言う言葉で乗り越えようとする。これだけ国民が原発に反対しているのだから原発ゼロに国は方針転換したらと思う。御嶽山の噴火が原発を警鐘している。
国と電力会社はどうしても原発再稼働をしたい。そのためには自然エネルギーの買い取りを中止すると九州電力は発表した。これは未来志向を否定することだ。
それに原発事故で発生した指定廃棄物の最終処分所を栃木県の尚仁沢湧水から四キロほどしか離れていない場所に決めようとしている。ここはブナやクヌギの原生林がある。どんどん自然を破壊しようとしている。原発事故が起きるとどうなるのか国民はテレビの報道でも知らされてきたのに、無関心の人たちが多い。未来の子供たちを守るためにも原発ゼロを目指してゆきたい。
これから日本も世界の戦争の渦に巻き込まれていくのだろうか。集団的自衛権を成立させてはならない。平和を守ることの困難さが突きつけられている。七〇年を過ぎると何もかもが忘れ去られていく。語り伝えることの難しさを身に染みて感じる。
操車場91号・92号を休刊する予定だ。それは11月の検査結果で一ヵ月ほど入院することになる可能性があるからだ。今月と来月までは発行する。細かいことは操車場で。本当はすぐに入院といわれたが仕事が入っているので先延ばしにしてもらった。そして『詩語り教室』も中止だ。
今日午前中は病院だ。
やりきれない事件が多すぎる。それだけ世の中が生きづらくなっている。世間からはみ出された人間の受け皿がどこにもない。動物の虐待も器物破損罪で終わってしまう。動物も人間同様生き物である。
私も川崎に住んでいるが一人も友達がいない。相棒以外と口をきくことがほとんどない。部屋に閉じこもっている。他人から見れば何をやっている人かと思われるだろう。これはマンションに住んでいる人たちも横のつながりがないという。都会生活はどこかゆがんだ社会でもある。定年過ぎの人たちがボケたり鬱になっていくのが多いといわれている。
詩集受贈『秋元烔詩集・ばなし』
昨日も三日をかけて詩を書いた。ここには宮沢賢治さんも出てくる。小川小学校の児童も出てくる。そして妹も。被災地を訪れてから私の詩も変わってきた。私が書くのではなく、私が詩に書かされている。
語りの稽古も以前より深く語れるようになってきている。だんだん詩人たちの世界から離れて行っている。ものすごい孤独の中で詩的作業が営まれているからだろう。この孤独の中から愛の心を紡ぎだしてゆきたい。
市村さんからカンパをいただく。
詩誌受贈『榛名団・12号』
今聲を通じて永遠のいのちを詩として表現しようとしている。これは誰も書いたことのない世界である。毎日聲を撃ちこんでいると何かが観えてくる。仏法でいう悟りの世界かも知れない。悟りは通常いう意味の世界ではない。永遠のいのちのことである。肉体の命ではなく、魂のいのちのことである。いま詩集として書いている「寂静」の世界である。
詩人の聲でもここまで聲を究めている詩人はいない。このことを知りたければ私の「詩語り教室」に参加することだ。理屈ではない。ただ聲に耳を澄まして聴くしかない。
私の今の仕事は詩を通じて聲のあり方を見出してゆくことである。来年の秋ごろには『寂静』を上梓できるだろう。妹が亡くなってから三冊目の詩集と闘っている。
詩人で年金生活者の人が多い。時間もある、そしてある程度のお金を持っている。ある意味では幸せそうだが、なぜか詩を書けなくなっている。詩を書くことは時間やお金などとは無関係なのだろう。いつでも詩が書けると思うと書かないものだ。内なるものがないと作品は生まれてこない。
いま自由な時間がある。だから詩語りの精進に励める。これはありがたいことだ。これは健康によい。
『詩人の聲』に参加している詩人はどのぐらい稽古に励んでいるのだろうか。つねに精進している人は数年先が楽しみだ。地方からの参加者もいる。これは驚くべきことだ。聲を発することは、それだけの魅力があるからだろう。いま私は参加していないが、聴いてみたい詩人がいる。そのことだけでもわくわくする。金欠病の私はなかなか聴きにいけない。まず詩集代を蓄えなければならないからだ。
昨日詩一篇と『新たなる旅立ちの』版下を作った。稽古をしながら何度も手直しを行った。
詩誌受贈『グッフォー・62号』
原発が稼働していなくても充分今年の夏は乗り越えられた。これから太陽光発電も増えてくる。原発は必要性がなくなっているにもかかわらず着々と進めている。イギリスのように国民投票行うのも必要なことかもしれない。それと集団的自衛権も一緒に。今の政治は国民不在の政治が行われている。未来にまったく希望が持てない世の中になっていっている。相棒のようにパートで働いている人は時給があがらない。日々物価が上昇している。うなぎもくじらも何年も食べていない。貧困は辛いものだ。
やっと詩語りの聲も安定してきた。日々の精進の成果なのだろう。これから詩語りの楽しみが増えてくればありがたい。
古書店から日本の古典が消えている。現代人は古典を読む人が少なくなっている。いまが楽しければ良いという方向性にある。本屋に行っても読みたい本がない。これでは本屋がつぶれていくのもしかたがない。本屋にも図書館にも詩集はほとんどおかれていない。それだけ現代人から無視された存在なのだろう。送られてくる詩集を一年間で読んでみて良かったというのは数冊あるかないかである。これはとても寂しいことである。賞をとった詩集でも優れた詩集でないものが多い。人間存在性が稀薄な作品があまりにも多すぎる。個人という存在が薄ぺらになっている。これでは読んでいてもしょうがない。文学作品は存在の苦悩の中からしか生まれてこないものなのだ。いまこの苦しみが足りなさすぎる。
詩誌受贈『あるるかん・30号』
本があまり読めないことは苦痛だ。それは視力が弱ってきて言うからだ。パソコンも長い時間はできない。といって音楽も昔ほど聴かなくなった。集中力の低下が原因である。できれば生の音楽を聴きにいきたい。川崎には素晴らしいホールがあるのに、まだ一度も聴きにいっていない。
いまの報道は知りたいことを教えない。新聞でもテレビでも期待はずればかりだ。これから政府の圧力で自由にものが言えなくなる。怖い社会が近づいている。
詩語り教室を行いたいのだが、誰からも問い合わせがない。今の所、野間さん、坂井さん、そして私だけだ。 良い語りをCD化してゆきたい。まず記録を残すことから始めるしかない。
聲は生まれながら個性を持った人がいる。私の聲は特徴もない。それを努力することでいまの聲が出来上がった。才能のない人間が一つの世界に挑むことは並大抵の努力では成功などしない。その努力を支える何物かを持っていないと、その努力も長続きをしない。七十過ぎても努力を続けることはとてもひんどいことである。私は新しい詩集を上梓することによってなんとか詩語りの稽古に励んでいられる。
東日本大地震から三年半過ぎたのに、復興はなかなか進まない。それはオリンピックが東京で開催されるからだ。働き手が東京に集まって、地方の人がいなくなっているからだ。それに物の値が上がりすぎている。はたしてオリンピックを東京に誘致したことが良かったのか疑問だ。アベノミクスも破綻していくだろう。それは国民感情を無視した政策だからだ。それにしても野党はどうなっているのだ。国民の期待を背負える野党はなかなか生まれてこない。これは国民一人一人の問題でもある。経済性ばかり求めて大切なことを忘れているからだ。
今日午前中は病院。
このところうつ状態だ。虚しさを感じている。ときどきこのような状態になる。時間が経つうちに治るだろう。
中正敏さんが六月八日に亡くなっていたことを知らなかった。「柵・5号」で知った。何回かお会いしている。辛い人生を送った。冥福を祈る。
昨日詩集の題名の『寂静』という詩を書いた。このところ死者への想いを書いているので精神的に疲れている。生きるものへの応援歌を書かなければと思いながらも、いまは鎮魂歌を書いてしまう。
『天空を舞う』のテキストを初めて語った。この詩集は来年の五月ごろには上梓したい。まずは資金を貯めることだ。詩語りの稽古を続けていくにも新しいテキストが生まれるのは楽しいものだ。語り込むことでまた新しい詩が生まれてくるからだ。
聲というものは常に鍛えていないと聲は衰えていく。聲も生きている。だから朗読をする詩人は日々の精進が要求される。いくら精進をしてもなかなか進歩しないものだ。進歩は眼に見えない。それと大切なのは人生の生き方が求められている。暇つぶしに朗読をと考えている詩人は聴く者を不幸にする。人に聴いてもらえる朗読はそんなに甘いものではない。日々精進をしている詩人の聲を聴いてみたいものだ。
『新たなる旅立ち』のUSBが消えてしまった。パソコンは何が起こるか解からない。また新たに作成する。新詩集の詩が進み始めた。死者との対話を描いている。なかなか難しいテーマである。
毎日道元の『正法眼蔵』を読んでいるがなかなか進まない。慌てずゆっくりと読み進めてゆきたい。仏法は宗教ではない。一つの生き方のありようなのだと思う。だからお寺は必要はない。お寺は修行する場である。でも今のお寺はお経を唱えてなんぼの世界である。
今日から『天空を舞う』の詩語りに入る。新しい詩集を語るのは楽しいものだ。この詩集は来年の六月頃に上梓したい。妹が亡くなってから二冊目の詩集になる。
こう円安もなると、輸出も輸入も日本の経済に打撃を与える。庶民の暮らしはますます苦しくなるばかりだ。それでもアベノミクスは強気だ。
今年は詩集五冊も上梓する。これは異常なことなのだろう。それだけ詩を書いている。そして普通の人が一冊出す分で私は五冊できるからだ。大事なのはなにより詩を書くことである。書くことによって自分が何を求めているのかが分かってくる。詩はまず自分のためにあることに気付く。これは末期ガンを宣告されたこともある。生きている内が花なのだということ。死ぬ前に出来ることは遣っておくことだ。これが今の私の生き方の方針である。もう何も失うものがないのだから自分に徹して生き抜くことである。
詩誌受贈『獅子座・21号』
パソコンで困るのが、文字化けである。これはパソコンをやらない人には理解ができない。特に古いパソコンでは予想がつかないことが起こる。注意していてもこれはなかなか防げない。
詩集評を読んでいても、仲間同士を取り上げている詩誌が多い。無名の詩人たちでも優れている作品を書いている人が多くいる。詩の世界はあまりにも狭すぎるのでどうしても仲間褒めが多くなりがちになる。何を基準にして読んだら良いのか解らなくなる。大切なのは自分の眼である。そのためにも多くの詩を読むことが必要なのだが、実際は難しい。人の朗読も多くの人の聲を聴きたいが、実際は無理な話だ。せめてできることは同人の作品は丁寧に読んでゆきたいものだ。いま私は眼が悪くなってきているから細かい字や薄い文字の詩誌は読めない。まだまだ読みたい本があるのになかなか読めないでいる。
公園で語りの稽古で、天空に向けて聲をあげた。それは死者たちへの祈りでもある。いま生きている者たちに語るといより霊に向けて語り込む技を身に着けたいと思ったからだ。それはいま書き始めた詩集『寂静』に為でもある。それは温かい聲と生を感じる聲を求めてゆきたいからでもある。これから聲を産み出して行けることが楽しみだ。
詩誌受贈『笛・269号』
詩集受贈『伊藤浩子詩集・wanderers』
新しい詩集に取り掛かる。『寂静』というものだ。詩語りの世界を詩を通して深めてゆきたい。最初は「旅人」から始める。まだ最初の出だししか書いていないが楽しみだ。旅といっても巡礼のような旅かもしれない。詩語りもそのようになってゆくだろう。
今回の『野の草など・32号』はなかなか良い。特に寺井青「青い影」は読ませる作品である。鈴木良一「日々の装い」も良かった。良い作品に出合うと嬉しくなる。
詩誌受贈『交野が原・77号』
詩集『天空を舞う』を昨日で書き終わる。丁度一時間以内で語れる。この詩は大川小学校に行ったおかげで書けた。ちょっと書くペースが速すぎる。やはり現地取材が必要だ。
個人的だが誰も私と飲みたいという人がいない。川崎に来て以来一人もいない。これは寂しいものだ。私から誘っても忙しいからと断れてしまう。現代人はなぜ忙しいのだろう。
昨日もなかなか寝れないのでハイドンのピアノソナタを聴いた。ハイドンのピアノソナタは聴いていて楽しい。ラジカセで聴いているのでなんとかちゃんとしたスピカーで聴きたいものだ。それにしても部屋が狭すぎる。
昨日も詩を一篇書いた。『自分の聲を聴く』これは公園でビデオを撮った話である。やはり自分の聲をビデオで聴くのは嫌なものである。自分が聲を出しているときは別な聲に聴こえるからだ。これは誰もが思うことなのだろう。
島村直子さん・小笠原眞さんからカンパをいただいた。そして神尾加代子さんから美味しい江戸の味噌漬けをいただいた。今の私の生活にはとても助かった。
こう物価が高騰していると、スーパーに行っても本日の特売品を見つけて買い物をする。生きづらい世の中になってきた。しかし東日本大震災や原発事故で苦しんでいる人たちを思うと私は幸せだ。彼らの絶望感は計り知れない。これに応えられる聲を生み出したいものだ。
胃の調子が相変わらず悪い。そのためあまり眠れない。季節の変わり目なのかと思ってみる。
メールの返信がわからないので困っている。機械音痴の私への連絡は電話か手紙でお願いしたい。本の注文はハガキでお願いします。
詩集『復活』を印刷所に入れる。十一月に上旬に発売予定。これで今年の詩集は五冊になる。自分でも呆れている。
昨日は公園で初めてビデオを撮る。『哀しみを越えて』全編を語る。いろんな音が入るがそれも楽しいものだ。
錦織圭が決勝へ進む。これは凄いことだ。よき指導者がいることが勝つ秘訣なのだろう。
いまの日本の指導者は国を滅ぼす道を進んでいる。貧富の拡大が未来を暗くしている。軍備費の増額、福島原発の汚染水の問題はどうにもならないところまで来ている。
世の中がだんだん言論の自由に脅えだしてきている。庶民の生活をまったく考えない政策。これがいまのアベノミクスなのだ。そして物価だが進んでいる。そして消費税を10パーセントするという。日銀総裁の黒田は消費税値上げに強気の発言をしている。いま日銀の独自性が全くない。安倍政権の飼い犬でしかない。
詩集へのお礼の手紙はありがたい。数人でもあたたかい手紙がいただけば幸いである。たいていの人は詩集の上梓の多さにあきれている。詩集というものは自分で上梓しなければ誰も手助けをしてくれに。詩集の上梓は、あくまで自分が生きて行くためである。
詩には哲学や宗教性が含まれてこないと面白くない。人生は旅だとすると、どのような生き方を求めて旅をしているのかを知りたいものだ。詩をうまく書ければそれでよいというものではない。人間の生き方が小さくなっていくと、技(知性)で勝負しようとする。
中日の山本昌が四九歳で勝利した。彼が投げる姿はもう他にいない。大きく振り上げて投げる姿は見ていて気持ちが良い。彼は努力の人である。詩の朗読でも、スケールの大きな朗読ができる詩人がいない。いまの時代はそのような詩人は嫌われる。私のような人間は詩の世界に住みづらい。
詩誌受贈『鹿・136号』『あすら・37号』『伏流水通信・51号』
昨日「フワフワ」という霊の詩を書いた。言葉は天から生まれてくるものである。詩人である以上、どんどん詩を書かねばならない。それも内容のある詩を。人から無視されても恐れずに自分の世界を目指していかねばならない。
朗読でお客に聴かせることはなかなか難しい。でも聴かせる技術を持たなければ本当に聴きたいと思う人は出てこない。結局はその詩人の交際範囲の中でしか聴には来ない。仲間同士の朗読会をいくらやっても、そこから新しいものは生まれてこない。真剣に朗読をやっているものが集まって行えばそれなりの刺激もあるだろう。そして朗読に対して話し合うことだ。
「詩語り教室」は朗読の研鑽の場でありたい。十一月から始まる。いま会員を募っている。本当に詩を他者に聴いてもらいたいと思う人が集まってくれればありがたい。
日本の政治はますますおかしくなっていきそうだ。言論の自由がどこまで保たれるのか解からなくなっている。それなのに安倍政権支持率は変わらない。国民が政治に対する認識の甘さに不安を感じる。それは殆どが戦争を知らない世代の人達だからだろう。今回の安倍政権の人事を見ると恐怖さえ感じてしまう。
昨日『鎮魂』という詩を書いた。新しい領域が生まれてきた。これは石巻にいった事が大きく私を変えさせてくれた。そして『天空を舞う』という詩集もあと数篇書けば終わる。詩を書く事で新しい世界が開けて行ける。そして詩を語る事によって自分自身を励ましていられる。ライブ場所はなくても、自分の世界を構築させていきたい。
『みえ現代詩・94号』で津坂治男さんが私の『哀しみの渚』と冨上芳秀さんの『真言の座』を取り上げてくれた。有り難い。津坂さんとはもう三十年の付き合いだ。
今月の「操車場」は早く送ることができた。
レクイエムという言葉の意味は日本語ではないが、挽歌に相当するのではと思う。でも意味は随分違う。挽歌といえば万葉集の相聞歌を思い浮かぶ。そして宮沢賢治の青森挽歌がある。日本場合、愛おしいひとへの想いである。レクイエムは死者全体の祈りが込められている。そこには神に対する祈りが込められている。でも私は相聞歌や宮沢賢治の挽歌詩シリーズ身近に感じて好きだ。
石巻で津波に会った場所にたたずんでいて、祈りの言葉が出てこなかった。可哀想とか哀しいとかでは済まされない。何とかして自作詩で語れるものを作りたい。昨日も詩を書いたが思うようには書けない。でも少しでも語れるものを作りたい。
詩誌受贈『雨季・63号』『タマタマ・25号』
「操車場・88号」の印刷を始める。毎月作品が発表できることはありがたいものだ。何人かの人が読んでくれるかわからないが、大切なことは作品を書いてそれを発表することである。あとは運に任せるしかない。要は他人がどうだとかは気にしないことである。
このところお腹の調子が悪い。
詩誌受贈『詩的現代・10号』『大洋村通信26号』
稲葉真弓さんが亡くなった。すい臓がんである。六四才は早すぎた。かつて銀座のケルビームに出入りしていた。私たちの詩語りも二、三度聴いていただいた。そして『詩人の聲』にも参加していた。
やっと八月が終わった。ここ一週間ばかり涼しく過ごせた。詩語りでも語りやすい詩集とそうではないのがある。語りにくいものでもそれを語れるように努力することも勉強になる。辛抱強く精進していく以外にはない。詩を書くときは語りのために書いてはない。書きたいように自由に書いている。詩は何かのために書くようではつまらないものになってしまう。語りづらいのもあって当然なことである。昨日も詩が一篇書けた。九月中には詩集として纏まる予定だ。
最近のコメント