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2014年6月30日 (月)

田川紀久雄日記

いま詩の持つ力が弱まっている。何を書いても豆腐に釘を打つような気がしてならない。強烈な個性を持たないとすべてのものからはね返されてしまう。山本陽子のような詩がこの時代にたちむかえる詩であることを痛感する。
戦前も詩人たちはあの戦争の渦に巻き込まれていった。またいまあのときと同じ状況になりつつある。だから私はいのちの尊さを詩語りを通じて語ってゆきたい。それも生半可なかなりではなく人の心をゆさぶる詩語りを行いたい。
操車場の印刷は遅れそうだ。
禾の中の詩で山本みち子さんの「さみしいカラス」がとてもよかった。
詩誌受贈『禾・28号』

2014年6月29日 (日)

田川紀久雄日記

『たぶの木・12号』インターネットで観られます。妹が亡くなった以後の詩を載せています。
昨日詩人クラブの詩画展を見に出かけた。そこで詩の朗読会があった。小川さんに言われて突如語ることになった。『いのちのひかり』になかの「千年杉」を語ることにした。私ははじめに私のは朗読ではないといった。私のは詩語りであると。この詩はどこかで語りたかった。今私の中で詩語りの車輪が動き出したのだ。聴いている人たちはまず私の聲に驚いた。そして圧倒的なスケールの大きな語りができた。私の一聲でその会場の雰囲気が変わった。これも妹と共に語れたおかげだ。これからも詩語りの素晴らしさを世の中に広げてゆきたい。本物の詩語りをしなければ、いつまでたっても詩の朗読は社会から見放されてしまう。吟遊詩人のように生きてゆきたい。

2014年6月28日 (土)

yo田川紀久雄日記

聲の精進を続けていれば、自分自身を変えていけると思う。芸を深めることによって自分が自分らしくなれる。いま生きるために支えになってくれるものを持っていないと鬱的状態に陥りやすくなる。
公明党も権力の甘い蜜には弱いものだ。福祉・平和を守るべき党が権力にのまれていくとあわれな状況になる。日蓮聖人は権力と最後まで戦い続けてきた。公明党は創価学会が基盤にある。日蓮の思想がどこにも生かされていない。知識だけの日蓮ではひたすら堕落していくだけだ。いま庶民がもとめる政治はどこにも存在しない。鬱的状態の人間が増加するだけだ。
安倍というたった一人の人間によってこの日本はまた戦前の世の中に変わろうとしている。武力では本当の意味で日本を守ることができない。武力は日本を破滅させるだけだ。苦しむのはつねに庶民である。戦争の経験の世代の人たちは、歴史を学んでほしいものだ。
詩誌受贈『いのちの籠・27号』

2014年6月27日 (金)

田川紀久雄日記

六年ぶりに格差が広がったという。アベノミクスの影響である。安倍総理は弱者のことなど何も考えていない。税金はあがるし、物価も上がるし弱者はどのように暮らしていけばよいのか戸惑うばかりだ。
このところ詩を書いていても、それが詩なのか自分でもわからない。でも私にとっては詩なのだ。自分が求めて世界を書いていければそれでよいのかもしれない。詩は語ることでその詩が良いのか悪いのかがわかる。それは長年語り続けているとわかるものだ。聲とはまさにいのちそのものである。それ以外のなにものでもない。

2014年6月26日 (木)

田川紀久雄日記

今日も午前中病院にいく。
昨日夕張メロンを相棒が買ってきた。九百円である。やはり夕張メロンは美味しいものだ。普段なら二千円もする。めったに食べられるものではない。
右目の調子がやはり悪い。本もあまり読めなくなっている。気分的には落ち込んでいる。法華経をまた少しづつ読んでいる。これは詩語り論に使えるからだ。そして詩の世界にも取り入れてゆきたい。

2014年6月25日 (水)

田川紀久雄日記

今日午前中、病院である。
女性への差別は底が深い。そして非正規社員の扱いも想像を絶するものがある。企業が有利な方にどんどん進んでいる。残業代ゼロが日本中を蔓延するのではなかろうか。企業が戦国時代なのだから生き残りために必死なのだろう。世の中はますます住みづらくなる。
「たぶの木・12号」印刷を行う。途中でプリンターがおかしくなる。ヨドバシに行ってみてもらわないとだめだろう。
身体がとてもだるい。これは天気のせいかもしれない。

2014年6月24日 (火)

田川紀久雄日記

TさんとSさんから詩集代やカンパをいただいた。とてもありがたい。
沖縄の人たちの痛みは想像を絶するものがある。四人に一人が亡くなった。あの戦争の教訓は生かされない。安倍総理の平和論は凶器の平和論でしかない。
いま詩でこの問題を描くのはとても困難である。個人の痛みとして描かなければ単なる言葉の記号で終わってしまう。どのようにして詩人は言葉と向き合っていくかが問われている。

2014年6月23日 (月)

田川紀久雄日記

今戦前の雰囲気に似ているといわれる。でもそのことを知っている世代の人はほとんどなくなっている。戦争をしない世代の人たちである。それでも集団的自衛権に反対する人たちは過半数を超えている。
7月30日ネパールの音楽家たちと横浜のドルヒィーで朗読に参加する。これは金子秀夫さんの企画である。これからはいろんなところで詩語りを披露してゆきたい。詩の素晴らしさを紹介するのも詩語りの仕事である。できるだけ前向きになって生きていたい。

2014年6月22日 (日)

田川紀久雄日記

今日は、川崎詩人会がある。
詩の才能を高めるには、心の痛みをたっぷり味わうことではなかろうか。それだけでは詩の華は咲かない。あとはだれより詩を書く力である。多作も必要な条件である。ピカソの絵だって二万点あるといわれているが、その中で本人が気に入っているのはそれほどない。いかに無駄なものを書くことも大切なことかもしれない。
詩の朗読だって、日々の精進だけなのだ。私は聲が出ませんなどといっても始まらない。一語一語に心をこめて聲を発すればよい。聲というものは、大聲だけがいいのではない。大切なのは聲のいのちである。聲にいのちが宿る聲を発すればよいことなのである。そのためには精進しかない。精進が楽しくやれるかがその人の才能なのだろう。
詩集受贈『水野照子詩集・ひこうき雲』

2014年6月21日 (土)

田川紀久雄日記

昨夜は木村東助さんの夢を見た。ここときどき夢の中に出てくる。色紙に書かれた言葉が身近に感ずるようになっている。
いま詩人の眼も心眼を失っている。詩らしい詩は読んでいても退屈だけだ。理屈で説明しても詩がわかるものではない。詩は心で感じるものである。絵も同じことがいえる。純粋・素朴さを感じないと駄目である。詩とか絵は心がときめかないと存在の価値がない。なににも囚われずに物を観る眼が必要である。片目が見えにくくなっているいま、無垢なものに心がひかれる。
詩誌受贈「柵・4号』
詩集受贈『本田和也詩集・どこにもいない』

2014年6月20日 (金)

田川紀久雄日記

国民保険のことで市役所に相談にいくと、生活保護を受けていない人は免除にはならないという。まったく相手にしてくれない。年金もない私には保険料などとても払えない。介護保険・健康保険などの支払いは大変だ。
大手企業には法人税の引き下げを行うが、貧乏人には手厳しい態度である。携帯にも税をかける話がでている。貧富の格差がものすごい。貧しい家庭の人たちは子供にも大きな影響が出ている。主婦も働きにでないと生活が出来なくなっている。ゆとりのない生活が蔓延している。残業代もゼロになる時代がやってくるかもしれない。企業だけが生き残りの時代になりつつある。資本論をもういちど読み直してみたい。

2014年6月19日 (木)

田川紀久雄日記

右目が見えにくくなっている。長い原稿を打つのはつらい。これは糖尿病のせいかもしれない。
消費税が上がったのに介護が破綻していくのななぜなのか。消費税がどこかに使われているのではないかと疑いたくなる。貧乏人にとっては生活がひたすら大変になってゆくだけだ。安倍総理は一万円を支給するといっていたがあの話はどうなったのだろうか。給料が上がったのは大手企業だけであとはほとんど上がってはいない。そして来年には消費税が10パーセントになる。ますます住みづらい世の中になってゆくだけだ。
詩誌『鷭・4号』

2014年6月18日 (水)

田川紀久雄日記

福島のゴミ問題も、解決策はどこにもない。最終処分所などこの日本にはない。成果は金で解決すると思っているのだろう。それがこのたびの石原環境大臣の発言である。こんなことで東京オリンピックが成功するのだろうか。被災地は言葉だけの問題のような気がする。
物価は値上がりをしている。収入が増えないアルバイトでは、日々の生活が苦しくなってきている。安倍政権の暴走は止まらない。この日本はどうなってしまうのだろう。
それより私には足腰を鍛えなければならない。昨日も銭湯でまた転んでしまった。怪我をしなかったからよかった。

2014年6月17日 (火)

田川紀久雄日記

認知症の介護で世の中は大変なことが起きている。国は経済を優先させるためにどんどん福祉が切り捨てになってゆく。高齢社会を迎えてどうにもならない状況になっている。そして年金生活者の生活の重荷も大きくなりつつある。年金のない私はどうなってゆくのか不安でたまらない。
詩はこれからの社会に対してどうしていけな良いのだろうか。哀しみと愛を強く書いていくしかないのだろうか。語りも心を豊かにしてくれる語りをしたいものだ。

2014年6月16日 (月)

田川紀久雄日記

高畑耕治さんから長編詩が届いた。意欲的な作品を「たぶの木」の掲載ができる。
だんだん暑くなってきている。身体がなかなか追いついていけない。今日は野沢さんの個展を京橋まで観に行く予定だ。
友達は大切にしなくてはならない。彼の作品を見るたびに歓びを感じる。すぐれた画家や詩人たちを応援することは大切なことだ。いま人間同士の交際も浅くなっている。詩語りライブをしてもなかなか人は聴きに来てはくれない。だからこそ誰よりも良い語りをおこないたい。

2014年6月15日 (日)

田川紀久雄日記

疲労がまだ取れない。それでも詩を一篇仕上げる。
世界中がおかしくなっている。それだけ貧しい人たちが多いということだろう。ブラジルでも家賃が払えなくテントで暮らしっている人がいる。
サッカーどころではないのだろう。このサッカーの異常な雰囲気は危険だ。その間に集団的自衛権が成立していきそうだ。もっともっと平和について話し合うべきだのに、安倍政権はその反対のことばかり強調している。だんだん嫌な世の中になってゆく。

2014年6月14日 (土)

田川紀久雄日記

昨夜、東上線で人身事故で帰宅が12時を過ぎてしまった。家に帰るまで五時間近くもかかってしまった。今日はとても身体が辛い。
昨夜はお客に聴いていただける詩語りができた。やはり人前で行えるのはうれしいものだ。

2014年6月13日 (金)

田川紀久雄日記

昨夜もあまり眠れなかった。床に入ると目がぱっちと開いてしまうのだ。眠れないのは辛いものだ。
久しぶりのライブがある。良い語りを行いたい。詩は聲だけではない。テキストの意味を含めた全体のバランスである。何を語りたいのか、そのためにはどのようにして聲を撃っていくかである。語りの場所が与えられたことはうれしい。夕方の天気が心配だが、すべて天に任せるしかない。
ここ数日ビデオカメラを探しているのだが見つからない。どこにしまいこんだのか思い出さない。部屋の中はいらないものが多すぎるのだろう。

2014年6月12日 (木)

田川紀久雄日記

梅雨が入った途端に本当に雨の日が多い。気分的にも落ち込んでしまう。
津坂治男さんからあたたかいお便りをいただいた。最後にお会いしたのは岐阜であったかかどうかは思い出せない。いつも津坂さんには励まされているような気がする。
このところ人と会うことがほとんどない。友達の個展にもいかなければと思いながら出不精になっている。大切なことはやはり友と会うことである。「たぶの木」もたまにが集まって話し合いたいたものだ。外にでることも身体に良いのだから。いま足腰を鍛えようと思って少しでも体を動かしている。

2014年6月11日 (水)

田川紀久雄日記

集団的自衛権をなぜ自民党は急ぐのか。もっと国民が納得する方法で論じられるべき問題である。いま公明党に張ってもらいたい。ここには国民が不在なのだ。戦争をする国に入るのではなく、平和を守り戦争をしない国になる方が大切である。
野間明子さんの原稿が入る。操車場も100号を越えたら隔月刊にしたい。「たぶの木」の締め切りは二〇日である。昨日やっと一篇の詩が書けた。一篇書くのに一週間もかかることがある。かつてのようにすぐに書けることがなくなった。

2014年6月10日 (火)

田川紀久雄日記

放射能に汚染された福島の人たちは本当に帰郷できるのだろうか。同じ国民なのに悲痛に襲われている人たちがいる。詩を書いたり語ったりしてもどうにもならないが、寄り添う心を失ってはならない。寄り添うことで原発に対して怒りを感じる。そして再稼働には反対をして行ける。一時の経済が豊かになってもそれはあくまでも一時なのである。私たちはつねに本当の豊かさを求めていかなければならない。
詩語りもそうである。人の心に感動を与えられるものを求めていなければならない。だから精進は大切なのである。

2014年6月 9日 (月)

田川紀久雄日記

いま野党の存在感がまったく感じられない。これでは安倍政権の思うがままになってしまう。平和を考えるのに片方の手に武器を持って論じるのは関心ができない。戦争や戦後の苦しみがいま感じる人たちがいなくなっている。東日本大震災も忘れかけている。
十三日のライブは『遠ざかる風景』を語る。語らねければならない。詩人の叫びに意味を持たせたい。なぜ語るのかをここ数日考え続けてきた。これからは語れる場所があればどこでも行いたいものだ。

2014年6月 8日 (日)

田川紀久雄日記

妹の法要も終わり気分も落ち着いた。あとは語りの世界に打ち込んでいけばよい。法要の間は晴れて富士山がきれいに見れた。妹が62歳で父の死も62歳であった。母は58歳で亡くなったのだ。50代で亡くなるのは早すぎた。
「操車場・87号」の髙橋渉二さんのエッセイと上野芳久さんの原稿が入った。

2014年6月 7日 (土)

田川紀久雄日記

今日納棺をおこないに行く。これで重荷もいくらか軽くなる。それにしてもMから入金がない。お金がかかるのに。
昨日NHKで藤間藤子の至芸を観た。荻江節もよかった。日本人の聲がある。日本語は日本人の聲で発音しないとしっくりしない。腹で語ることのできる詩人はいない。
夜眠れないので久しぶりにリヒテルの平均律を聴いた。リヒテルも毎日六時間の稽古をしていたという。精進こそが芸の基本なのだ。ライブでは良い語りを行いたい。

2014年6月 6日 (金)

田川紀久雄日記

こんどの詩集『哀しみの渚』は思ったよりも好評だ。この詩集は運命のいたずらによって生まれたものだ。私の詩は自分の生き方の中からしか書けない。ある意味では不器用である。そして詩という領域からもはみ出している。詩は自分にとっての鏡なのだ。
毎日精進していて詩の語りが深まってゆくことを感じる。人に生きる歓びを与えたい。昨日ブーラムスの第四番を二人の指揮者で聴き比べをした。感動は音と音との綿密なるつながりを感じる方が聴いていて感動を覚える。詩の語りも一語一語とのつながりを明確することによって聴き手に感動を伝えられる。そのためにはただ語ること以外にない。語りの中でつねに考えながら語ることである。

2014年6月 5日 (木)

田川紀久雄日記

あおい書店でデリダの『声の現象』と『言葉にのって』を購入する。文庫本でも千円以上もする。こお本は高橋馨さんから紹介されたものだ。パロールとエクリチュールの問題だが、詩語りの場合はどちらかの問題というのではない。語りといってもパロールでもない。エクリチュールに近いかもしれないがエクリチュールでもない。これは第三の世界である。他者に向かって聲を発しているのだからパロールに近い世界だがパロールとは言い切れない。デリダの著書に『死を与える』というのがある。それも手に入れて読んでみたい。

2014年6月 4日 (水)

田川紀久雄日記

集団的自衛権より戦争をしない世界をなぜ考えないのだろうか。いまの安倍総理はそんなに戦争をしたいのかと疑われてもいたしかたがない。平和がいかに素晴らしいものかを考えていた方が楽しい。
私は詩という世界で詩の語りの素晴らしさを追及してゆきたい。そこには生きている歓びを感じるような聲を作り上げたい。そしてテキストを深く読み込む思考力を身に着けてゆきたい。詩という小さな世界から平和を問うことが私の務めである。そのためにも愚直でいきていたい。
「操車場・85号」の発送が終わる。それと『哀しみの渚』も一緒に送る。

2014年6月 3日 (火)

田川紀久雄日記

消費税が上がって以来、毎月赤字が出ている。日々苦しい生活が続いている。自動車を製造している会社はボーナスが百万円以上支給されるという。非正規社員との格差がどんどん広がるだけだ。
このところ鬱的状態が続いている。
詩誌受贈『詩的現代・9号』

2014年6月 2日 (月)

田川紀久雄日記

昨日『夢の扉』をテレビで観ていた。そのなかで「愚守」という言葉が出てきた。研究者とか芸人は、一つの道を守り抜くことが大切である。芽が出なくてもやりにく根性が求められる。これは詩語りでも同じことだ。愚直な心が夢の扉を開けてくれる。そして何にもとらわれずに自分の世界を切り拓くことが求められている。前に進もうとするからいっぱい迷うのだろう。迷いは進歩している証なのかもしれない。
詩誌受贈『叢生・192号』

2014年6月 1日 (日)

田川紀久雄日記

昨日はメールの画面が出なくなってしまった。しかたなくヨドバシで直してもらう。
語りの稽古をすればするほどわからなくなってくる。詩の言葉をお客に伝えることはとても困難である。そこをどうしてお客に届けるかが大きな問題でもある。そこのところを意識しながら聲を発していくしかない。稽古の中でそれをつかみ取るしかないのだろう。ライブを行うことはどうしたらお客に詩を届けられるを考えてしまう。やはりライブすることは必要なのだ。お客と向き合う言葉や聲が求められているからだ。苦しむことの中からしか問題は解決しないのだ。

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