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2014年5月31日 (土)

田川紀久雄日記

今月は長く感じた。
妹のことでまだまだ書類を出すところがある。でも書き方がよく分らないことがある。ちょっと鬱な気分に落ち込む。役所の文章というものは解からない文章が多い。まるでパソコンの解説書みたいだ。
相棒と私も夜はぐっすり眠れない。とくに昨夜は近所で遅くまで騒いでいた。そのおかげで朝方まで眠れなかった。
妹の死後なんだか身体が抜け殻のような気がする。

2014年5月30日 (金)

田川紀久雄日記

自分の詩は良いのか悪いのか解らない。それを知るには手紙のお礼状の文章によっていくらかは判断がつく。私もそうであるがいろいろと忙しくてなかなか返事が書けないでいる。あくまでも田川紀久雄の世界を書いていくしかない。書き手と読み手が同一であることが詩の世界の始まりである。この狭い世界でも世の中に浸透していくこともある。老後の楽しみになっていればそれでよいと思うこともある。今年もあと二冊詩集を上梓したいと願っている。

2014年5月29日 (木)

田川紀久雄日記

国会の放送を見ていると安倍総理の答弁は答弁になっていない。集団的自衛権はどうみても誤りである。なぜ集団的自衛権に固守するのかわからない。
いまの私は詩人たちの朗読に興味が薄れてきている。私だけが正しいというのではない。お客に聴かせるという意識が足りないからでもある。それは詩そのものに原因があるのかもしれない。詩というものはだいだい自分だけの世界で終わっている。読み手のことなどあまり気にしていない。詩語りの稽古でもどのようにしたらお客の心に言葉が届くのかを考えながら聲を発している。稽古をすればするほどいろいろな問題が湧きあがってくる。悩むことによって語りにも深みが増してくるのかもしれない。それにしても一つの世界を掘り下げていくのは果てしない闘いの連続だ。夜中も途中で目が覚めると語りのことを考えてしまう。

2014年5月28日 (水)

田川紀久雄日記

妹のことで役所との手続きがまだ終わらない。そして埋葬は6月7日に行う予定だ。人間が死ぬにもお金がかかるものだ。いま私が亡くなったら多くの人に迷惑がかかる。それを思うと簡単には死ねない。そのためにも葬儀代や埋葬費を蓄えておかねばならない。
そのためには詩語りを増やしてゆきたい。そしてもっと厳しい精進を行わなければならない。徹底的にお客さまに聴かせる聲と語りを持たねばならない。大変だがそれに向かって生きていたい。

2014年5月27日 (火)

田川紀久雄日記

集団的自衛権は世界平和を壊すものである。今の中国を見ていると集団的自衛権と叫びたくなるだろうが、それは浅はかな思考である。なぜいままで憲法を守ってきたか。それはもう二度と戦争をしたくないという国民の強い意志からであった。向こうが先に手を出したからこちらもやり返したではまるで子供の喧嘩と同じだ。安倍総理はまるで子供と同じ思考力しかないのだろうか。どんななことがあっても戦争を避ける強い信念が感じられない。それは平和的に解決する意思が必要だ。そのためにもまず民間の交流が必要である。お互いの国民の交流こそ求められている。
『詩と思想』は今年の賞が特集されているが、どこか胡散臭い。国民には遠い存在でしかない。現代詩は国民の心からかけ離れたものになっている。私にはまったく賞には関係がないからどうでもよいことなのだがつい言いたくなる。

2014年5月26日 (月)

田川紀久雄日記

私のパソコンが動かない。機会に弱い私にはどうにもならない。
他人の詩集を読んでいると、私のは詩なのかどうなのか解からない。でも私は私なりに書いてゆくしかない。詩集を上梓たあとはとても憂鬱になる。これはいつものことである。

2014年5月25日 (日)

田川紀久雄日記

昔から朗読はつまらないものであったのか。うまくなろうという貪欲な精神はなかったのか。みんなと同じように朗読をすればよいと思っていたのか。熱のない朗読は聴いていて飽きる。誰にも負けまいとする精神がなければ、聲には成長がない。朗読会でも一人最低二十分ほどできなければ聲は成長していかない。そして全力で行うことが求められる。そうでなければお客は聴いてくれない。ただその場にいるだけである。それはもうお客とは言えない。
詩誌受贈『笛・268号』

2014年5月24日 (土)

田川紀久雄日記

福島原発では、作業員が過酷な状況で働かれている。これではいつまでたっても汚染水問題は解決されない。それに従業員がいなくなるお恐れが出てくる。
物価がどんどん上がっているのに、非正規社員の賃金があがらない。これはどうしてなのか。
今日『哀しみの渚』が出来上がる。まず香典代をいただいた方に送る。印刷も少部数しか刷らなかった。そして「操車場」にかかわっている人たちにしか送れないだろう。私が詩集を上梓する目的は詩語りのテキストとして残しておきたいためである。それと表紙に私の油彩を載せたいからでもある。詩語りの出前の最低条件は、交通費をいただく。年金もない私にとっては交通費の出費は大きい。

2014年5月23日 (金)

田川紀久雄日記

このとことろ温度の差があまり激しく変わるので、身体がついていけない。
昨日『聲を求めて』を語っていて、無心で語ることができた。この無心ということはそれまでひたすらテキストを語り続けていたからできたのだと思った。精進をすることの意味はこの無心の心に近づくためにあったのだ。テキストでも語りやすいのと語りずらいものがある。それをどのようにして克服していくかがこれからのテーマになる。それもひたすらテキストを読み込むことが大切なのだろう。
古賀さんからカンパと松尾さんからはトマトジュースが送られてきた。どちらもありがたい。
詩誌受贈『水盤・13号』

2014年5月22日 (木)

田川紀久雄日記

大飯原発運転を認めない判決が出た。原発の再稼働を認めない私にとっても勇気のある判決であった。福島事故をみれば当然なことである。電力会社や国はこの判決に反対してくるだろう。彼らは国民のいのちなどよりひたすら利益だけを追及している。福島原発事故もまだ本当のことが明らかにされていない。
高橋章さんから手紙と写真が送られてきた。その写真は津波被災地である。「何もかもなくなった町や村の空間は異様までに訴えかけてくるものがありました。」と書かれていた。石巻市の大川小学校の写真には宮沢賢治の雨ニモマケズが書かれた壁画があった。私もできたらここで路上ライブを行いたいものだ。交通費ができたら何としてでもゆきたい。吟遊詩人としても。ギリヤーク尼崎さんのように生きればよいのだ。そのために今は公園で聲を鍛えている。生きた聲をテキストに乗せて語ればよいだけだ。

2014年5月21日 (水)

田川紀久雄日記

昨日の長谷川忍さんの聲は詩人仲間では十分に耐える聲に成長してきている。『詩人の聲』に参加していることはそれなりに意味がある。あとは場数である。でも私に言わせると『詩人の聲』の目指しているものはそのような聲ではない。そのことを彼がどう思うかがこれからの成長の鍵になる。私は聲についてははっきり言っていきたい。そのことは自分の生き方にも影響してくるからだ。詩語りに懸けている私はまず自分自身に厳しくありたい。一時間聲を出すことはなかなか経験ができない。客を聲の渦にまきこむことはそう簡単なことではない。テキストとのかねあいもある。朗読に対してアドバイスができる詩人はそういない。アドバイスができるということはそれなりに詩人の聲が身についていないとできないものだ。印象をいうことができても、どこをどうしたらということまでは言えない。それは経験を積んでこなければアドバイスはできない。

2014年5月20日 (火)

田川紀久雄日記

今日は長谷川忍さんの『詩人の聲』ライブがある。できる限り行くことにしている。一度はちゃんと聞いてみたかった。どのような姿勢で聲と向き合っているのか確かめたい。
「美味しんぼ」の批判はいかがなものか。国はあわてて批判している姿勢がおかしい。やはりちゃんとした議論が求められている。確かに鼻血を出した人がいる。あれだけ放射能が出ていて何もなかったというのもおかしい。いまでも汚染水が大量に漏れ出している。安倍総理の汚染水は大丈夫ですは、完全に崩れ去っている。そのことに対して総理は一言も言わない。そのことの方が問題である。
六月十三日にライブの仕事が入った。場所は東村山である。本当にありがたい。愛の谺を響かせたい。時間もたっぷりもらえる。『聲を求めて』で詩人たちから批判が多かった。気が滅入っていたがライブの仕事でその気分も消えた。
今月も順調に詩が書けている。書くことは苦しいが書くことで見えてくるものがある。どう妹の死を乗り越え詩語りを行ってゆくかがテーマになっている。自分の生き方を探ることは今の私には必要なことだ。今週には『哀しみの渚』も出来上がってくるだろう。今年あと二冊の詩集を上梓したい。そのためにも資金が欲しい。

2014年5月19日 (月)

田川紀久雄日記

詩語りの稽古をしていてもなかなか満足のいくことがない。逆に言えば満足のいくような語りの稽古では進歩がないのかもしれない。あれが駄目だ、これも駄目だと言いながら前に向かって進むのがよいのだろう。つねに考える場を与えてくれるからだ。詩でもうまく書けたと思うと、人からはつまらないといわれることが多い。自己満足には客観性が伴っていないからだ。何事も精進をすればするほど迷いが生じるものだ。迷いが起こるうちは進歩をしているのかもしれない。満足すれば進歩はなくなる。最後は徹底的に下手になってゆく。それでよいのかもしれない。大切なのは誰とも違った世界を築くことである。個性を磨くということに尽きる。

2014年5月18日 (日)

田川紀久雄日記

かつてアジアの平和という言葉で侵略戦争が始まった。今度は世界平和という言葉で大きな戦争に巻き込まれていきそうだ。憲法を勝手な解釈でゆがめることは許されるべきものではない。そして世の中はますます貧富の差が増すばかりだ。
私は詩人だから詩集を上梓し、それを語っていくしか能はない。豆腐に釘をさすものかもしれないが、それでもおこなっていくだけだ。
昨日はYさんとSさんから詩集代をいただいた。言葉に甘えていただく。次の詩集代に使わさせてもらう。
詩誌受贈『海・89号』

2014年5月17日 (土)

田川紀久雄日記

相棒がワイド版岩波文庫で『断腸亭日乗』上・下を買ってくる。眼も悪い私にはありがたい。いまこのワイド版がほとんど手に入らない。今本はなるべく処分しているが、このワイド版だけは残しておきたい。
一つの道を究めることは大変なことだ。中途半端な気持ちではできない。人との誤解もある。すべてのものに耐えて生きていかなければならない。でもつねに平常心を持っていなければならない。人はできるだけ楽な生き方を求めがちになる。派閥の中で生きるのは人間をダメにする。あくまで一人で闘い生きてゆくことがに意味がある。と言って一人だけで生きているのではない。先人の中から学ぶことが多い、私には良寛さんの生き方がある意味で心を支えてくれている。そして多くの書物が私の心を豊かにしてくれている。詩では杜甫の詩にかえってゆく。もうそれほど本は読めない。かつて読んだ本を再読していることが多い。心を豊かにしてくれる書物以外あまり本を読まない。あとは詩語りの稽古に時間を当てて過ごしている。齢をとればあまりなんでもできないものだ。できることを一つづつ行うしかない。特にガン患者である私にとってはそんない無理ができない。生きていられる歓びを見出していきていたい。

2014年5月16日 (金)

田川紀久雄日記

安倍総理の猿芝居みた。憲法の重さをあんなに簡単に押しのける総理などそこの世界にもいない。スイスは何かあるたびに国民投票が行われる。いま国民は本当の幸せとは何か、平和とはなにかを考えていかねばならない。
『聲を求めて』でも相変わらず詩人たちから非難の手紙が届く。竹本住大夫が今月で引退をする。豊竹山城少掾の弟子になる。山城少掾の聲は温かみある聲であった。子供たちに何人もなくなってゆく中でひたすら愛の聲を求めていった。この住太夫さんも山城さんと同じく芸の厳しさを壮絶なものがあった。かつてテレビで弟子に教える映像が流れた。それを見ていて弟子は大変だなと思ってが、それが弟子に対する愛情であった。いつも「人間性」を口にしていた。私も妹の死によって聲に慈悲の心と寄り添う愛おしさを込めた聲を作り上げたい。詩人たちの朗読会もお金を取る。それならばそれだけの聲との闘いが求められる。一所懸命でやっているのだら批判してもらっては困るという。一所懸命やるのは当たり前のことである。
この度の『聲を求めては』聴き手に対しての愛を求めてでもある。愛とは自分に対して厳しく生き抜くことでもある。詩人たちからますます私の存在は疎んじられていくだろう。そして孤独感がこの私を育成してくれるのだろう。
詩誌受贈『風鐸・4号』『野の草など・31号』

2014年5月15日 (木)

田川紀久雄日記

午前中は病院に行く。
朗読に興味のない方には、まったく読んでもわからないという意見が多かった。いまの詩人たちは興味のないものには、無視して通り過ごしてゆく。これは詩人だけに限ったことではない。これでは人間としての魅力も失われてゆくことになる。逆な言い方をすると、いままで詩人の朗読そのものが退屈なものでしかなかったということだ。聲にそれほど興味のない人たちが朗読をするのだから当然といえる。私が嘆いてもいまの詩人たちの朗読は変わっていくとも思えない。私は私の道をゆくしかない。

2014年5月14日 (水)

田川紀久雄日記

詩の世界は、個人的なテーマを掘り下げていくことで、普遍的な世界に導かれてゆくことがある。徹底的に個人を描くことはある意味では必要なことである。いま私は詩語りを自分の詩のテーマにしている。詩を語りたいう人は私だけではない。かならずどこかに私とおなじような生き方をしている人がいるはずだ。朗読に興味のない人にはまったくつまらない詩集であろう。誰かのために役立つから詩を書いているのではない。まずは自分が生きるために書いている。詩人という存存在者は、生きているときはほとんど評価されないものだ。個人的に真剣になって生きていることが大切なのである。
いま書き続けている『新たな旅立ち』は妹の死を乗り越えてどのようにして詩語りを深めていくかがテーマになっている。そのことによって詩語りの世界が深まっていければと思っている精進だけでは、どうしても限界がある。精神的に深めるためにはやはり詩を書くことが求められている。この旅の『聲を求めて』はほとんど反響がない。それはそれでよいのだ。私にとっては大切な詩集であることに意味がある。この詩集を上梓したことによって詩語りの世界が前に向かって進められるからだ。道元の『学道用心集』を読んでいても私の生き方に誤りはないと感じる。

2014年5月13日 (火)

田川紀久雄日記

消費税が上がっても景気はほとんど変わらないというが、低所得者にとっては大変な問題なのだ。生活には欠かせないものがある。その欠かせないものまで削ったら生きてはいけない。そのギリギリなところで生きている。政府は近いうちに10パーセントにするのだろう。なぜ非正規社員の時給が上がらないのだろう。大企業の利益は非正規社員を多く雇っているからだ。低所得者にはだれも見向きもしない。マネー資本主義の実態がここにある。
小笠原眞さんからいつものようにカンパをいただく。そして紫圭子さんからはありがたい手紙をいただく。「詩人の聲」に参加している人たちにはぜひ『聲を求めて』を読んでもらいたい。一人ひとりが吟遊詩人になってもらいたい。

2014年5月12日 (月)

田川紀久雄日記

昔ソニーでデンスケという録音機があった。いまでも欲しいと思う。ITでどんどん録音機が変わっていった。七十代の人にとっては懐かしい。簡単で単純な録音機が欲しい。いまのカセットの録音機は雑音が入って録音に向かない。
昨日『聲を求めて』をいつもの公園で語った。今までない語りができた。やはり耐えて努力することによって報われるものがある。本当に人に感動を与えられる詩語りをこれからも求め続けてゆきたい。それにはつねに熱い情熱を持続することが要求されている。この情熱は心の渇きがあって可能になるものでもある。人から無視され続ける。ことも情熱に火をつける要因にもなっている。いまに見ていろという気持ちが必要なのだろう。つまりハングリーな精神がいかに大切かということだろう。
昨日ある人から「操車場」が送り返されてくる。まったく理由がわからないが嫌な気分である。いろんな人がいるからそれは黙って無視するしかない。私も好きな人や嫌いな人がいる。私もアクが強いから人から嫌われることがある。嫌いな人とできるかぎり付き合わないことが心を安定される方法である。人間同士の悩みはできるだけ避けていきたい。

2014年5月11日 (日)

田川紀久雄日記

国民一人当たり806万円の借金になる。いかに国の借金がどんどん膨らんでいるか驚くべきである。これから医療費も値上がりするだろう。貧しいものは病院にかかれなく時代が到来するかもしれない。大企業の税の減税でNPOの税の優遇なくなる話もある。世の中は経済だけの優先で物事が決められてゆく。何事も金だ金だというのは危険な社会を生み出していくことになる。確かにお金は大切なものである。世の中の仕組みを変えていくことが求められている。
詩の朗読会で人を集めるのは至難な業である。私はだから自分の語りの技だけを追い求めている。それをビデオで残してゆきたい。人に感動を与えられる芸ができれば、人は自然に集まってくるものだ。語る人はまず自分自身の芸を深めていく以外には朗読の世界は社会からは受け入れられないだろう。だから身を削る思いで自分と向き合って生きて行く以外にない。一人でも聴き手がいればどこにでも出前をしたい。そして人に読まれる詩を書きたいものだ。

2014年5月10日 (土)

田川紀久雄日記

昨夜は夜中の12時に目が覚めたらその後は眠れなかった。普段ならバッハの平均律を聴けば眠りにつくことができるのに、昨夜は朝まで駄目であった。別に眠れない原因はないのに不思議な夜であった。
冨上芳秀さんから「操車場」の参加費と詩集代をいただく。次の詩集『哀しみの渚』は今月の二十三日ごろに出来上がってくる。この費用の半分は保坂さんが出してくれた。この詩集は妹の香典のお返しに作ったものである。今年中にあと二冊の詩集を上梓したいと思っている。なんとかその費用を稼ぎ出したい。
詩集というものは出そうと思って時に上梓しないとなかなか出せなくなる。詩を語る上でも常に新しい詩集を作ることが大切である。それはつねに語りの新鮮さを保つためでもある。過去の詩集を語り続けていると、味が失われる。それは慣れてしまうからだ。聲を出すことは今生きていることの感覚が大切なのだ。過去の作品はいま書き終えた気落ちを持続することは難しい。詩語りに懸けている私にはつねに新しい詩集が欲しくなる。そのことによって過去の詩集も新鮮さを保つことができる。
私は出版社を営んでいるので、それなりに安くできる。といっても最近は詩集を作りたいという詩人はいない。最近CTTで作る詩集が送られてくるが活字が薄くて読みにくいものが多い。視力が衰えている私にはとても読みにくい。これも時代の流れで致し方がないのかもしれない。

2014年5月 9日 (金)

田川紀久雄日記

人の語り論を批判するのは簡単だが、朗読に対して自分の思想を持っている詩人は本当にいるのだろうか。一般的な朗読を批判するのは、このままで良いのだろうかという気持ちからだ。今だに詩語りという言葉すら知らない人がほとんどだ。朗読とはテキストをただ読めばよいと思い込んでいる詩人がほとんどだからだ。言葉を発するというより撃つという言葉のほうが積極的である。聲に対する意識が撃つのほうが高い。天童大人氏が最初に使われたと思うが、聲に対する問題的としては発するより撃つの方が適格だと私も思うからである。天童大人氏の朗唱と詩語りは違うところもある。それはそれでよい。『詩人の聲』の企画は誰一人として成しえないものである。いまの時代には必要なものなのである。一人でも多くの人が参加して自作詩をたっぷり一時間聲を撃つことは素晴らしい経験になる。この一時間に耐える聲を持つことからテキストと向き合うことが求められている。この『詩人の聲』に参加した人間として貴重な体験をさせもいただいたことに感謝している。
年金がない私はあまり聴きに行けないが、この人はと思う詩人がいれば聴きにゆきたい。今は「詩人の聲」に参加している詩人たちを応援することが求められている。詩人は他人に無関心になったらおしまいだ。かつてこの「詩人の聲」に参加した人たちのDVDを作成していたことがある。これは貴重な資料である。日本詩歌文学館に保存されている。

2014年5月 8日 (木)

田川紀久雄日記

福島原発の汚染水は相変わらず漏れ出している。本気で汚染水対策はなされない。いやできないのかもしれない。東京電力は黒字である。不思議な現象だ。だんだん福島原発の状況が報道されなくなってきている。どのテレビ局も弱腰になっている。
上野芳久さんと冨上芳秀さんの作品が届いた。冨上芳秀さんから坂井信夫さんと高馨さんがよかったとある。冨上芳秀さんは本当に詩集や詩誌を丁寧に読む。私もこのことは学ばなければと思っている。詩人が他人の作品を読まなくなったら詩は誰にも読まれなくなる。いまの詩的状況が危機的な状況である。

2014年5月 7日 (水)

田川紀久雄日記

聲にも心をうつ聲と、なにも感じない聲がある。これは生まれつきなものなのかもしれない。でも努力することによっていくらかは人様に聴いていただける聲を摑むことができる。わたしはそのわずかな可能性を求めて努力している。努力とは時間を惜しまずそれに向けて闘う力のことである。これは一流の選手ならその道を誰もが通る。だれにも相手にされるず黙々と時間と闘う。生に豊かさを与えるのもこの時間を持つことが求められる。普通の言い方をするなら孤独と闘うというのだろう。これを普通に行える人間だけが人の心を摑む人間に成長していける。詩語りの世界を目指して生きて行こう。

2014年5月 6日 (火)

田川紀久雄日記

世の中は二極化がどんどん進んでいる。問題は自分の考えだけを押し付けるからだろう。とことん話し合うことがない。私の考え方も一方的な面が多い。でも基本的なものはいのちを大切にすることに尽きる。
詩人たちはなぜ朗読のことを話し合わないのだろう。まず人前で朗読をするのが恥ずかしいという人が多い。それは致し方がない。無理に朗読をする必要もないからだ。でも聲を出すことで詩も変わってくることは確かなことだ。観念だけで詩を書かなくなる。それは言葉を他者に伝えたいという意識が働くからだろう。そして聲によって書かれた詩が成長することを認識する。詩は書いてそれで終わりではない。詩といえどもつねに生きている。生きていることは成長させてあげなければならない。そのためにはやはり朗読が欠かせないものになる。ただ聲をだしてテキストを読むだけでは駄目である。それでは黙読とそれほど変わらない。問題はそこから一歩前に向かって歩き出すことだ。聲というものを意識しだすと、新しい世界が開けてくる。

2014年5月 5日 (月)

田川紀久雄日記

「操車場・84号」の製本が終わる。今日発送ができる。
『聲を求めて』は詩語り論になっているので、詩人たちが読んでもそれほど興味がわかないかもしれない。詩集というものは、上梓たらもうその詩集のことは忘れることが肝心である。そして次の詩集のことを考えればよいのだろう。
『詩人の聲』の参加している詩人たちはどれだけ真剣に聲について考えているのだろうか。「操車場」でも四人が参加している。長谷川忍・野間明子・今は参加していないがかって参加していたのは田川紀久雄・坂井のぶこである。同人であってもほとんど聲について話し合ったことがない。天童大人氏もいうように五人ほどが真剣に『詩人の聲』と向き合っていれば、もう少し変わってくるだろうと思う。聲はそう簡単には変化しないが、聲を出し続ければ変わるものである。それも真剣になって行えばということが前提だが。
朗読や、詩語りを行いたい人には『聲を求めて』は参考になると思う。詩人たちから自分の「朗読論」が生まれてくることが求められている。書くにはそれなりの『聲』に対して日々闘っている詩人でしか書けない。今の詩人たちの聲はお客と向き合っていない。自己満足型が多すぎる。もっともっと聲と闘っていかねばならない。『詩人の聲』はいままで存在していなかった世界だ。これから何人が『聲』の思想を持つことができるのか楽しみだ。『詩人の聲』に参加している詩人がもっと世の中に出て行って聲を発することが求められている。

2014年5月 4日 (日)

田川紀久雄日記

集団的自衛権は、ひとのいのちをほとんど考えていない。戦争というものは単なる人と人との殺し合いでしかない。勝っても負けても何も得をするものがない。いのちをそう軽々しく使ってはならない。テレビ討論会を見ていても虚しさだけが残る。詩人というものはあまのじゃくだから人がいいというものに反対したがる。ちょっと待てよ、それは本当に正しいのかと問いたがる。あくまでも自分の考えで物事を決めていく。世の中から批判されてもそれでいいと思えばそれでよい。頑固な生き方がいまの人たちには少なくなっている。
津坂治男詩集『従容』はとてもよい。人生の重さが伝わってくる。一貫して人への愛のまなざしを感じる。私が尊敬する詩人のひとりである。このような詩集に出会うとほっとする。詩はいいなと思う。

2014年5月 3日 (土)

田川紀久雄日記

私は安倍政権の批判するのは人間のいのちを軽んじているからだ。原発そして武力行使の拡大解釈。経済だけが優先される社会。左翼も右翼も好きではない。なんでも極端すぎるのはこまる。宗教でもそうだ。寛容な世界を望んでいる。いのちを守るということはそんなに簡単なことではない。また人を愛することも大変なことであろう。まずはいのちの尊さをもとめて生きていたい。

2014年5月 2日 (金)

田川紀久雄日記

久しぶりにジャニズ・ジョプリンのイン・コンサートを聴いた。「サマー・タイム」と「ジャニスの祈り」に心がうたれる。まさしく魂の叫びの聲だ。意味がわからなくても心がうたれる。それはやはり聲そのものに魂が宿っているからだ。
五月は一番過ごしやすい季節だ。連休はどこにもでかけない。ひたすら語りの稽古に励むしかない。今月中に『哀しみの渚』ができる予定だ。語りのテキスト詩集ができるとそれだけ嬉しい。書き続けることによって作風にも変化してくる。今書いているものは妹の死によって何かが浄化させていっている。魂の行くへ追っているのもそれなりに楽しいことである。
詩誌受贈『詩遊・42号』『さやうんどう・40号』

2014年5月 1日 (木)

田川紀久雄日記

冨上芳秀さんのところに『操車場・83号』が届いていないとのメールがきた。間違いなく送ってものが届いていないとは不思議だ。
東京新聞に『変質する「平和」』が連載している。今日は「元兵士なりきり証言」が載っている。戦争の無意味さがひしひと感じられる。今の私たちは平和ボケに陥っていることは確かなことだ。いかに平和を守るかということを忘れてもいる。安倍総理の積極的平和論はいかに危険なものか。平和ということの考え方とらえ方が違うといかに恐ろしいことになるか痛感している。

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