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2014年4月30日 (水)

田川紀久雄日記

国民は、原発再稼働・秘密保護法や憲法9条の改正に過半数以上が反対している。それにも関わらず安倍政権はそれを推し進めようとしている。そして支持率も依然高い。これは私にとって信じがたいことだ。それは野党で政権を任せる党がいないからだろう。民主党のどうしょうもない姿がいまも国民に焼き付いているからだ。
今月は詩を六篇書けた。書けないと思いながら大したものだ。身近な者の死をどのようにして乗り越えられるかが『新しい旅立ち』のテーマである。それは死者と共に生きることではなかろうか。時間がたてば忘れていくという問題では解決したくはない。いのちのあり方として真面目に追及してゆきたい。

2014年4月29日 (火)

田川紀久雄日記

いまの子供たちには未来がない。国そのものが存在るのか怪しい。国の借金があまりにも膨大で福祉政策も切られ、消費税もバカ高くなる。そして貧富の差がますます拡大する。年金で生活もできなくなる。そんな世の中が来るかもしれない。
だから憲法を改正して戦争をやりやすくしようというのか。武器を外国に売り、原発も輸出しようとしている。国内ではカジノを作り、世の中を乱す気でいる。
詩人たちももっと本音で詩を書いてもよいのではないのか。といって説明の詩であってはならない。あくまでも心の叫びでなければならない。そして魂の癒しを求めていくものでありたい。

2014年4月28日 (月)

田川紀久雄日記

山武はいいところだ。もう田植えが始まっていた。蛙の聲も、鷺もいる。都会生活では味わうことのできないものがある。山武森の公園にも行ってみた。都会生活はやはり異常な場所だと痛感する。
『詩と思想・5』に「寄り添う」をあおい満月さんが書評してくださった。「詩と思想」は私の詩集を割りあい取り上げてくれる。ありがたい。取り上げられたからといって反応はまったくない。詩の世界は他者に対して無関心である。コツコツと詩を書いていくことが大切なのだろう。あくまでも自分を信じて生き抜くことが求められている。
「たぶの木・11号」もインターネットで観られます。

2014年4月27日 (日)

田川紀久雄日記

今日は千葉の山武に行く。千葉にある保坂成夫さんの家に私の絵がおいてある。そこに行って絵を撮りに行くためだ。
相棒の勤めている所は一流企業であるがパート社員の時給は上がらないままだ。物価が上がっているのにこれでは生活が苦しくなるばかりだ。連合も言葉だけで非正規社員の時給も上げていきたいと言うが、本気で言っているわけでもない。どんどん貧富の格差が開いていくだけだ。景気の回復どころが、この国は滅亡に向っているとしか思えない。福島原発も本当に廃炉ができるのか信じられない。TPPでもアメリカのいいなりになって行くのではと思うこともある。日本の農家はどのようになってゆくのか不安である。

2014年4月26日 (土)

田川紀久雄日記

『聲を求めて』がやっと出来上がってくる。そして『哀しみの渚』は明日印刷所に入れる。どこまで詩集が上梓していけるか解からないが、できるだけ頑張ってゆきたい。今書いている『新たな旅立ち』も少しづつ書きすすめている。書く事によって自分自身が変化してゆける。あとは語れる場所を捜して行くことだ。それには人との出会いが必要である。
七月ごろには相棒と東日本大震災の地を訪ねてみたいと思っている。

2014年4月25日 (金)

田川紀久雄日記

妹の死によって私の語りにも変化が出てきた。変化というものは自分の努力で直すものと、外的な要因によって変わってくるものがある。体験が思いもよらない効果を生み出す。特に芸能の世界ではよくあることだ。それもつねに精進をしてきたことによって生まれるのである。精進していない者には変化など生まれはしない。どのように変わったかと言葉では言えないが、間違いなく変わってきている。
経験と体験がそのひとの生き方を変えさせてくれる。芸の味というものは、単なる努力だけでは生まれてこないのかもしれない。それに精進をすることによって本物の味がう生みだされてゆくのだろう。人に感動を与える芸は長い時間と忍耐が必要である。

2014年4月24日 (木)

田川紀久雄日記

『たぶの木・11号』ができた。この詩誌はできるだけ詩人でない方に送っている。詩は詩人のために存在するのではない。人間として生きるために存在している。真に人間として生きるために詩は必要なのである。詩人と付き合っていて感じるのは他人の詩に興味がないということだ。また朗読会でも同じことがいえる。これは年齢のせいではない。ある意味ではそれほど感動する詩に出会うことがない。そして朗読でも聴くに堪えるものが少ないということかもしれない。
『聲を求めて』(詩語り論)が今週にも出来上がってくる。詩人で本気で聲を求めている詩人は少ない。この詩集を上梓しても誰が読んでくれるのか。でも私が三十年近く語りを行ってきて感じていることを書き残しておきたかった。まだまだ語りは未熟だが本当に人に感動を与えられる語りを目指してこれからも精進してゆきたい。ただ聲を出して読むのが朗読と思っている詩人がまだ多い。そしてマイクがないとできない詩人もまだ多い。俳優や聲優たちの聲で詩を聴きたいとは思わない。詩は詩人でしか語れない世界がある。それは魂の聲なのだ。

2014年4月23日 (水)

田川紀久雄日記

政府は残業代ゼロを打ち出した。アメリカでは富裕層だけの町ができている。世の中はますます末期的な状況になっていく。福祉社会が削られていく。能力主義だけの社会になったら人間としてもこの地球に住めなくなってゆく。韓国船の沈没も利益主義が生み出した。この事故は人災である。どこの国もおかしくなりつつある。マネー資本主義の現状なのだろう。
今私は年金もないもないが、決して不幸な生き方はしていない。生きる希望をもって生きている。金がなくても心が豊かでいたい。それは哀しみを愛にかえられる生命力である。それを実行できるのが私にとっては詩語りの世界である。
貞松瑩子さんに電話をする。大変な状況で生きているが、彼女も歌を書くことによって生き抜いている。近いうちに会う予定だ。
詩誌受贈『和・149号』

2014年4月22日 (火)

田川紀久雄日記

昨日の「詩人の聲」で紫圭子さんの聲の成長は想像を超えたものを感じた。これは天童大人氏の企画のたまものである。かれの「詩人の聲」に参加していて、幾人かの詩人が聲というものを自覚しているのかわからないが、紫さんは間違いなく聲を自分のものにしている。あとは彼女自身の聲に味が出てくれば何も言うことはない。そのためにもひたすら聲を撃ち続けるしかない。現在の詩人たちの朗読会は、聲というものに何も期待ができない。お客に感動を与える意識すらない。昨日は聴きに行って良かった。紫さんクラスの詩人が五人いれば、いまの朗読の世界も変わってくる。
木村和夫詩集『青景色蛙御殿』が私としてはなかなかの詩集であると感じた。詩は詩人たちのために存在しているのではない。この詩集は生きるひとたちのためにある。だから詩人で賞などなんの意味もない。賞を取りたがっている詩人の詩はつまらない。詩は無垢ほど素晴らしい。詩はまず素朴で純粋でありたいものだ。私の家に木村東介氏の色紙が部屋に飾ってあるが、純粋、素朴・稚拙という言葉が書かれている。長谷川利行を世に送り出した人である。あと私の部屋に飾られてあるものは山本陽子の絵である。それと私の油彩画である。

2014年4月21日 (月)

田川紀久雄日記

このところ朝晩が寒い。まだ冬物の衣類がはなせない。
今日は梅崎幸吉さんの個展と紫圭子さんの詩人の聲を聴きに行く予定た。
昨日の川崎詩人会はいつもの常連の人たちが集まった。福田美鈴さんも久しぶりに参加した。福田さんからはカンパをいただいた。ありがたい。そして私の七月十九日のライブも決まる。
昨日NHKで「原発廃炉への四十年」を観る。本当に四十年で廃炉ができるのか疑問だ。でも現場で働く人たちは大変である。何も見通しがないのに再稼働が始まろうとしている。次に原発事故が起きたら日本は終りになる。運命共同体と言われてもこまる。なんとしても再稼働をとめたい。

2014年4月20日 (日)

田川紀久雄日記

今日は川崎詩人会がある。そして歯医者にもいかねばならない。歯が一本抜けると語りにも影響する。
詩人たちの中からそろそろプロ級の語り手が生まれてきてもよさそうなものだが、なかなか真剣になって聲と向き合っている人が出てこない。
明日、紫圭子さんの聲を聴きに行くがどこまで成長しているのかが楽しみだ。聴かせるには聲の力も大切だが、詩の表現力もためされる。この両方がそろわないと聴き手には感動が与えられない。それと自分の力で会場を作ることに努力をしなければだめだということだ。なかなかお客は集まらないが、それを実行することによって内面の聲が変わってくる。聲にも二通りがある。表の聲と、内なる聲があるということだ。
武器の輸出は恐ろしいことだ。いったい安倍総理は何を考えているのか。人を殺す武器を外国に売り出すことは今の平和憲法では許されない。勝手な一個人の考えで行をとする安倍総理の思想は危険なものである。ただ経済だけを考えて行うことは人間としてやってはならないことである。マネー資本主義は国を潰すはめにおちいる。
イラクに自衛隊を派遣したが、その中で二九人が自殺している。命の恐怖を感じたのだろう。戦争への道は断じて避けることが政治家の務めである。憲法を改正することは政治家としてやってはならないことなのに。九条の意味は世界平和の道でもある。
詩誌受贈『みえ現代詩・93号』

2014年4月19日 (土)

田川紀久雄日記

今年の夏の電力は足りそうなのに原発を推進するのは変な話だ。六ヶ村では核燃料棒は満杯である。いま日本のどこにも核燃料棒を保管する場所がない。このままだと永久に六ヶ村にとどまることになる。狂気沙汰としか言いようがない。最終処分所などどこにもない。それなのに安倍総理は原発の再稼働を行う。アジア全体を見ても日本は贅沢な国である。それなりに生きていける。一番恐ろしいのは原発事故である。この平和な生活がすべて壊されてしまう。福島原発事故を見れば誰でもがわかることだ。もう経済優先社会は必要がない。これからはみんなが助け合う社会が求められている。
原発や東日本大震災のことを私が書くと東北の人たちからは冷たい目で見られる。何も経験もしていないくせに書くなと言われているかのようだ。哀しみや苦しみは分かち合うことが求められている。詩の世界は縄張り意識がまだ強い。詩の世界はもっと自由でありたい。

2014年4月18日 (金)

田川紀久雄日記

昨日は夜中の一時に目が覚めて、バッハの平均律を聴いていた。目が覚めると二度と眠りにつくことができない。これは不眠症なのだろうか。
これから詩の方向性が見えてこない。どのようなテーマで書いていけばよいのだろうか。昨日も一篇書いたが、作品として良いのか悪いのかまったくわからない。しかし書き続けていく中で観えてくるものがあるのだろう。
『聲を求めて』が二十五日に出来上がるとのことだ。それが出来上がれば『哀しみの渚』を印刷に入れられる。
このところまた昔のような聲が戻りつつある。公園で稽古を続けているので、どれぐらいの聲なのかわからないが、それなりの聲は出ているはずだ。産業道路に面しているので車の騒音が入り込む。部屋で聲の練習をしている人とは聲の大きさが当然違っているはずだ。騒音に負けない聲で語っているからだ。
今日は相棒の誕生日だ。

田川紀久雄日記

2014年4月17日 (木)

田川紀久雄日記

二時ごろ目が覚めるともう眠りにつくことができない。人は数時間眠れれば生活には支障がないといわれている。齢をとればそう睡眠時間も必要がないのかもしれない。
いま一気に詩を書くことができない。数行ずつしか書けない。だから一篇書くのに数日かかることが多い。それでも妹が亡くなってから三篇の詩ができた。
今平和がなし崩しになろうとしてる。アベノミクスによって憲法まで変わってゆく。この問題を詩の中に取り入れて書いてゆきたい。といって観念的になっては詩として成立しない。どのようにしたら詩として成立していくかを考える。詩というものは常に今という時を生きて、それを描いていかねばならないものでもある。詩は個人的なものであっても発表することは社会性を担うことになる。
Mさんから香典をいただいた。いろいろと支払いがある。本当にありがたい。
詩誌受贈『焔・99号』

2014年4月16日 (水)

田川紀久雄日記

東京新聞によれば千葉の白井市は「憲法・原発集会拒否も」と一面トップに記載されている。このことは神戸市や長野県の千曲市にも広がっている。これは自分で自分の首を絞めているようなものだ。
アベノミクスは刹那的な対策を行おうとしているだけだ。その中で小泉・細川氏らは「自然エネルギー」法人設立しようとしている。このことは大切なことだ。やはり安倍政権に対立勢力が生まれてこなければいまの世の中は真っ暗になってしまう。刹那的対策は国の赤字を増すだけの対策なのだ。これは国民の一人一人が原発ゼロにしようという気持ちがなければ本当に原発はなくならない。
「たぶの木・11号」の原稿がそろった。今回はページが薄いが作品は粒ぞろいだ。できれば一度みんなで集まって話し合いたいものだ。私の詩は『哀しみの渚』からの作品を載せた。

2014年4月15日 (火)

田川紀久雄日記

役所の書類は意味が解らないことが多い。妹のことで提出しなければならないものがあるが、わからないことだらけだ。原発の賠償請求も複雑な書類で書けない人が多くいたと聞くが、確かに書類とは一般の人たちにはわからない言葉が頻繁に出てくる。身近に相談できる人がいないと鬱になる。私も書類のことで眠れない。
パソコンの操作もわからないことが多い。横文字に弱い私にはうまくパソコンが動かせない。ユ-チューブに入れるのもわからない。いまだメールの仕方もわからない状態だ。版下を作成したものが消えたりする。新しいパソコンでメールが開かないわからないことだらけだ。私たちの年代ではいまだパソコンを使わず手書きで原稿を書いている人が多い。機種が新しくなるたびに複雑になってゆくような気がする。便利であることは、逆に非常に不便でもある。
『聲を求めて』が二〇日ごろに出来上がってくる。そうすれば川崎詩人会にも持って行けそうだ。それが終われば『哀しみの渚』を印刷所に入れられる。
いま詩がなかなか書けないが、詩を書き進めることでこの困難な状況を越えていきたい。どう妹の死を越えて作品が書けるのだろうか。これからは多くの人たちに会っていきたいものだ。

2014年4月14日 (月)

田川紀久雄日記

ふっとした瞬間に落ち込んで立ち上がれない時がある。季節の移り変われにうまく乗れないためかもしれない。やはり生きていることはとてもしんどいことだ。それでも前に進んでいかなければならない。
安倍政権の支持者が50パーセントもいる。個々の政策には反対している人が多くいるにもかかわらず人気が高いのは不思議だ。経済と政治を分けて思考しているためなのかもしれない。野党をみても政権を担える政党が存在していないことが大きな原因なのだろう。だからと言って次から次へと憲法まで変えようとする姿勢は断じて許しがたい。
いま人と会うことがほとんどない。外に出て行かなければと思うだけだ。
天童大人氏に電話を入れる。紫圭子さんのライブの予約をする。21日に梅崎幸吉さんの個展が目白で行われる。その帰りになら駒込によれるからだ。できるだけ気持ちを前に向けて生きて行かなければならない。

2014年4月13日 (日)

田川紀久雄日記

昨日語りをやっていていつもより数倍もの聲がでた。これは妹と一緒なって語っているからと思われる。やっと7妹と一緒に語りの旅に出ていける。七月十九日に『哀しみの渚』のライブを行う予定だ。そのためにも足しの筋力をつけていかねばならない。足腰が丈夫でないと聲もでない。
上野芳久詩集『夜明け』が送られてきた。この詩集は妻が亡くなってから一人で心の旅に出た時から書かれている。私も妹が逝ってからどのように詩を書いていけばよいのか迷っていた。だからこの詩集はとても参考になる。いやそれより上野さんの心の痛みを痛感できる。そしてこの旅もいま「操車場」で発表している詩を見るとその凄さに驚く。そして哀しみを深めるということはこのようなことかと共感してしまう。
井原修さんからは『裏町談義拾遺』が送られてくる。これで裏町シリーズが終わる。それは信州日報社が倒産したからだ。地方の新聞社はどこも経理が厳しい。
里山資本主義を自分なりに切り開いてゆきたい。そのためには横のつながりを求めていかなければならない。まずいろんな人に会うことから始めなければならない。語りを通じて何ができるのかを追い求めなければならない。

2014年4月12日 (土)

田川紀久雄日記

エネルギー計画閣議決定される。原発ゼロ放棄。これは時代に反した行為である。気狂い沙汰としかいいようがない。自然エネルギーも縮小されている。国民はこれをとめることができない。何かがおかしい。できることは生活を変えていくことしかない。マネー資本主義から里山資本主義にできるところから行うことだと思う。いまの日銀の緩和政策では、国債の赤字が膨張するだけだ。黒田総裁は、日本を潰そうとしている。未来の日本をどのようにしていくかのビジョンがまったくない。今さえよければという刹那主義のように思えてしょうがない。
肉聲の語りにとって一人ひとりとに愛の心を伝えることが私に残された仕事だ。これは里山資本主義に一致する。数人の会場で温みのある語りを行えれば充分だ。そのような場所を見出してゆきたい。交通費さえいただければどこにでも行きたい。五人から十人程度でよい。そうすれば中身の濃い語りができる。いま哀しんでいる時ではない。闘いが待っている。

2014年4月11日 (金)

田川紀久雄日記

『里山資本主義』を』読み始めた。日本では木材で電力をという話をほとんど聞くことがなかったが、オーストリアの木材で電力を生み出すシステムはなかなか興味深い。日本はオーストリアに似通っている。森林の多い国土である。どこの山も荒れている。ほとんど手入れがなされていない。原子力発電など必要はない。小さな発電所を地域ごとで生み出せればと思う。日本は自然に恵まれた国である。
アルヴォ・ベルトの音楽を最近聴いている。昨日は「タブラ・ラサ」を聴く。現代音楽と言ってもとても聴きやすい。そして宗教的でもある。心を癒すには最適でもある。やはり相変わらず不眠症が続いている。このようなときは音楽を聴くのがよい。詩でいやしの言葉が書ければよいのだが、なかなか難しい。
急に暖かくなったり寒くなったりするので身体の調子のバランスをとるのが難しい。

2014年4月10日 (木)

田川紀久雄日記

昨日上野芳久さんから詩集『さすらい』が送られてくる。この詩集は妻が亡くなった時に制作されたものである。読んでいてとてもさわやかさを感じさせてくれた。まだ落ち込んでいる私の心を慰めてくれた。そして表紙絵にお兄さんの絵がある。とても素晴らしい絵だ。この兄も妻が亡くなる前に逝った。
追悼詩集でつまらないものが多いが、上野芳久さんの詩集は言葉に対する向き合い方が素晴らしい。単なる追悼詩で終わっていない。私も『哀しみの渚』は追悼詩で終わっていない。自己の魂と詩に向き合う姿勢が交差している。詩として成立しないものは発表しない。いのちを掘り下げる作業がないと詩にならないからだ。現代詩のようにやたらに喩や韻を使いたくない。できるだけ誰もが感じる心の表現で書きたい。単純なことばでいかにいのちそのものを表現ができるかが本当の詩なのだ。それは違うという詩人もいる。
新しい詩が書けた。『新たな旅立ち』というタイトルの詩集に向かってこれから闘っていかねばならない。そして詩語りも今までと違った世界をつかみかけている。それは妹と共に語れることだ。人の幸せを求めて語る。生活のためにこれからは他者の詩集も格安で作ってゆきたい。詩集を作りたい方はご相談してください。

2014年4月 9日 (水)

田川紀久雄日記

憲法改正は日本をダメにする。安倍政権は、とんでもない方向に行こうとしている。野党もほとんど賛成している。これでは野党の存在の意味がない。平和を守るということの難しさを痛感する。
仏陀の生涯を仏典で読んでいるが、悟りそのものがわからない。言葉で理解していてもどうにもならない。大切なのは肌でつねに感じなければ悟りの境地にはなれない。生老病死を越える悟りを何とかして掴みたいものだ。妹の死以後そのことばかり思考している。
上野芳久さんの原稿が来た。彼の詩はいつも断崖の淵から立ち上がろうとする意志との闘いを感じる。彼は詩を通じてその世界を追及している。彼は現代詩などどうでもよいというのもうなずける。私も現代詩などという虚しい世界とは付き合っていない。そんな暇はないのだ。誰も読者がいなくても書かなければならないのが詩なのである。詩の原点とはそのような世界でもある。

2014年4月 8日 (火)

田川紀久雄日記

『哀しみの渚』をひたすら語る。語るたびに直しがでてくる。今月中に印刷所に入れる予定だ。そして五月下旬に出来上がる。納骨も五月下旬に行く予定だ。
原発の再稼働も安全というお墨付きで始まる。いままでも安全と言われ続けていたにも関わらず事故が起きたのだ。民衆党も再開には賛成している。もうどこの党にも信用ができない。政党支持者がいなくなるのも当然だが、やはりこれには困る。今の政権を変えられるものがなければ原発をとめることができない。自民党の支持率が上がったという。国民は何を考え何処にいこうとしているのか何も見えてこない。

2014年4月 7日 (月)

田川紀久雄日記

昨日は本当に花冷えであった。
少しづつものが考えられるようになってきた。不思議なことに妹を写したカメラがなくなってしまった。相棒も桜を写した映像が消えてしまった。ときどき異常な現象が起きる。まだ納骨を納めていないからだろうか。五月に行く予定にしている。
やっと「策通信」の版下づくりに取り掛かった。
そしてまた音楽を聴き始めた。

2014年4月 6日 (日)

田川紀久雄日記

今日は歯の治療に行かねばならない。毎日なにかと忙しい。のんびりと一日を過ごすことが出来ない。哀しみを味わう暇がないうちに時が過ぎて行くのだろう。
昨日はHさんから香典を頂いた。「詩人の聲」にも行けずに申し訳がないと思っている。
昨日K学園行く途中に桜が満開に咲いていた。なにか心が慰められたような気がする。
『哀しい渚』を全編語ってみたが、なかなか良い。相棒も良い詩集になるだろうと言ってくれた。早く香典のお返しに制作したい。
詩人にとって死は哀しいと言うよりも、そこから何を感じ何を受取って生に繋いでいくかが問われる。妹の死は私が亡くなった時に終わるのである。だから哀しみを越えた哀しみを味わえばよいのだ。それも微笑みながら。その証が詩集となって誕生するだけだ。どこでも良いから詩語りがしたいものだ。

2014年4月 5日 (土)

田川紀久雄日記

今日はK学園まで行かねばならない。保護者会があるからだ。
Yさんから香典をいただく。いまお金がいるのでとても助かる。お返しは何もできないが『哀しみの渚』を香典に返しにしたい。昨日校正を行う。今月中に版下を制作したい。
病院などでなかなか落ち着いている時間が持てない。「操車場」もやっと発送が終えた。
世の中がますます右翼化している。教科書問題もそうだし、行政も本当に困窮している人の相談には乗ってくれない。役人根性丸出しだ。
夜中寝むれないのでハイドンのピアノソナタを聴いて過ごした。このままだと不眠症になってしまう。詩もまったく書けなくなった。何とかして身体を立て直さなければならない。詩語りの稽古だけは無理をしても続けていたい。

2014年4月 4日 (金)

田川紀久雄日記

雑用に追われてまだ心のゆとりが持てないでいる。
詩は小説と違って、真に心から感じるものがないと読んでいても虚しさを感じるだけだ。大切なのは魂への問いかけではなかろうか。新聞などで詩が紹介されていても、なぜこのような詩が掲載されているのかと疑いたくなるものばかりだ。知名度とか賞に受賞した詩人だけが取り上げられている。無名でもこの詩は紹介したいというものではないのだ。詩の内容などどうでもよいのだろう。新聞に掲載する意味がまったくないものが多い。
Iさんからも香典を頂いた。彼のお母さんが亡くなった時になにもしなかったのに申し訳がない。
まず「操車場」の仕事をかたずけたい。

2014年4月 3日 (木)

田川紀久雄日記

今日もまた検査で病院に行く。なかなかゆっくりと休むことが出来ない。身体の疲労がたまって行くだけだ。
チリで大地震が起こった。以前もチリで大地震があったが、このようなことは何度も繰り返されるものである。
いまの日本はおかしくなっている。東京オリンピックに向けて都市の形が変わろうとしている。東京にとって大切なのは豊かな自然ではなかろうか。あまりにも緑が少なすぎる。巨大なビルが次から次へと建てられてゆく。松坂屋の跡地も巨大たビルになるという。巨大化に成るということはいつか破裂するということを意味している。
私の持ち物も処分しようと思って居る。CDもどこかに寄付しようと思う。何もない処から生き直したいものだ。そして心の寄り添う事の出来る詩語りをしてゆきたい。身体が自由になったいま出前の仕事も自由にできる。交通費さえ頂ければ何処にで行きます。
SさんとHさんから香典を頂いた。妹への追悼詩集(哀しみの渚)が出来たら贈呈したいと思って居ます。詩集など送りたい人はもうそれほどいない。少部数さえあれば充分だ。

2014年4月 2日 (水)

田川紀久雄日記

今日午前中は病院だ。
日本政府は武器輸出を認める。人を殺す武器をなぜ輸出するのかまったく理解が出来ない。これは日本の未来に向けてもあってはならないことだ。なんとか安倍政権の行き過ぎる政策を歯止めできないものか。
コピー機が故障してしまった。そして歯が抜ける。変なことが起きる。
Tさんから香典をいただく。ありがたい。葬儀代が約50万近くかかった。私も簡単に死ぬことができない。保坂成夫さんから『哀しみの渚』を格安で作ってくれると言う電話をいただいた。できれば夏ごろまで作りたい。

2014年4月 1日 (火)

田川紀久雄日記

ほとんど眠れない。
今日は妹の葬儀を行う。立派な喪服を着て妹を見送りたい。これが私の出来るせめてもの務めである。
今日から消費税があがる。みんなが苦しむことをなぜ行うのか。こう世の中が消費文化になっては、国民の心は不安に煽られるだけだ。物の豊かさだけでは人は幸福にはなれない。あくまで適度の豊かさで充分である。
タモリの「いいとも」が終った。あれはまったく国民を駄目にした番組の一つである。いまのテレビでは本当のことがいえない。いってはならない世界になっている。やはりみのもんたのような人が必要である。TBSの朝の番組もみのもんたの影を一掃してしまった。

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