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2014年1月31日 (金)

田川紀久雄日記

夕方横浜市立病院に行かねばならない。死は避けられないものだが、どう受け止めるのかなかなか迷うとことだ。私たちの世代の人達が一人づつ亡くなっていく。死についていろいろと思考してきたが、どう答えて良いのか見出せない。仏教思想のように「無」と捉えるしかないのだろうか。そうであるから「生」に対して語りかけるのだろう。私の生き方はガムシャラニ生きることが必要だと考える。死に怯えるより生に執着しているほうが、やはり幸せを感じられるからだ。死のときは大往生で行きたいものだ。お酒を飲んで「美味い」と言ってぽっくり死ねれば最高の生き方であろう。
小笠原眞氏から『詩人のポケット』が送られてくる。このエッセイは楽しく読めそうだ。横浜にいく電車の中で読むことにしよう。

2014年1月30日 (木)

田川紀久雄日記

いま私たちが豊かな生活を送っているのも、アジア地域の安い労働力である。いまこの問題が世界的に話題になっている。ようは企業の問題なのだが、平和ということはその影で誰かが犠牲になっていることなのである。正社員の給料やボーナスが良いのは非社員が多く雇っているからである。労働組合はこのアルバイトや非社員に対しては冷たい。まるで宗教のように、その中の入らない人には手を貸してくれない。このような日本のいまの企業の構造では、日本そのものが貧しい国に落ち込んでしまうだろう。アベノミクスではこの貧富の差がどんどん増していくだけだ。
詩集を出すたびにミスがある。パソコンが化ける現象からなのだろうか。そのようなことを出た後に気にしても始まらない。要は語りのテキストが増えていくことが大事なのだ。
明日横浜市立病院に行かねばならない。あと一ヶ月といわれても半年も生きている。妹のことを思うと日々つらい思いで生きている。
詩誌受贈『電電・5号』

2014年1月29日 (水)

田川紀久雄日記

同じ出版社から詩集を出し続けておる詩人がいる。決して名のある出版社からは出そうとしない。そのような詩人を数人知っている。しかし、最近私と近しい人も何故か名のあるところから出版する。当然お金もかかる。それでも出版社の知名度を欲しがる。出来上がった詩集をみると印刷の薄のが多い。眼の悪い私は読む気力がなくなってしまう。
『詩遊・41号』が送られてくる。冨上芳秀さんは本当に詩が好きなのだと思う。「ポエジーを求めて」では詩集を丁寧に読んでいることが解る。なかなか出来ないことだ。
詩人とは詩を書く人というより、人生と真っ向から闘っている人のことではなかろうか。たまたまその人が詩を書いた、ということである。本物の詩人とは生きている間は無名だが時間の流れの中で光り輝いてくる。宮澤賢治さんのような人。いくら知名度があってもなくなった瞬間に忘られてゆく詩人があまりにも多すぎる。
詩誌受贈『詩遊・41号』・『叢生・190号』

2014年1月28日 (火)

田川紀久雄日記

NHK会長発言やそれをかばう官房長官の発言に対して怒りを覚える。日本は相変わらずアジア軽視は変っていない。これでは中国、韓国にたいして本当の意味で侵略戦争の責任を取っていないことになる。それに安倍政権の積極的平和主義についても危険な思想だ。
近代哲学は、経済優先で人間的な内面性の成長に欠けてきた。経済が豊かになれば、みんなが幸福になれるという思想は危険である。それは相手の痛みを受け入れない思想でもあるからだ。この度の都知事選挙でも老人が安心して暮らせる街づくりが見当たらない。いまの日本は誤った方向に傾いている。
新しい詩集『哀しみの渚』に取りかかった。これは多分つらい詩集になるだろう。
今日『遠ざかる風景』が出来上がってくる予定だ。詩としては下手であるが、書かねばいられないテーマである。人間としてそして詩人として最期まで闘い続けることだ。
詩誌『木偶・92号』が送られてきたが、ここには増田幸太郎さんの作品がない。なにか淋しい感じがする。いつも励ましの手紙を頂いていたのに。それに中上哲夫氏の作品もない。詩誌を発行している人の年齢も高齢化しているのでいつ終刊なるかもしれない。操車場も例外ではない。それにしても五年間で80号も出したのだから自分でも驚いてしまう。

2014年1月27日 (月)

田川紀久雄日記

大阪市は文楽の補助金を減額した。伝統芸能を守るのは難しい。いまの人達は伝統文化にたいして無関心である。自分に興味がなければ伝統文化に興味を持とうとしない。学校の教科書にもほとんど取り上げていない。何かの原因でブームにならなければまず関心が向けられない。
詩の朗読だって、まず詩の内容がそれなりにないとダメだ。そして詩人の聲を持たなければ、だれもから無視されてしまう。
生活保護を受けず楽なっている。生活保護法が改正されてから、出来るだけ生活保護を認めない方針になっている。貧富差が拡がっているのに世の中が急に寛容さが消えてしまった。私も将来を思うと欝になる。いま親の介護をしている人達も、親の年金で面倒を見ている人が多い。まず仕事をしていては介護ができない。私も似通って経験をしてきたから、介護との生活の苦しさは身に持ってわかる。だから未来の日本がどうなってゆくのかとても心配だ。まずもっと横の繋がりができる社会を作りたい。孤独になったら本当に不幸になる。やはり助け合う社会を目指して行きたいものだ。

2014年1月26日 (日)

田川紀久雄日記

「NHK新会長の籾井勝人(もみいかつと)氏(70)の就任会見が25日、東京・渋谷の放送センターで開かれ、慰安婦問題への個人的見解として、「今のモラルでは悪いことだが、当時の戦争地域には大体つきものだったと思う。日韓基本条約で国際的に解決している。それをなぜ蒸し返されるのか」と述べ、韓国の対応を疑問視した。NHK会長が慰安婦問題に言及するのは異例。」とインターネットにかかれてある。NHKは政府の言いなりになる組織であったのかと思わせる発言だ。これだからNHKのテレビはつまらなくなっているのだ。民放のくだらないタレントを起用してつまらない番組を放送している。それにNHKのアナウンサーも発音に間違いが多くなった。
詩集の出来上がりが28日頃になる。あと三冊の詩集の原稿が出来上がっている。ガンで亡くなった多くの人達の分まで頑張って生き抜くことが私の勤めである。孔子の『恕』を大切にしていかなければならない。宗教の『慈悲』といくらかニュアンスが異なるが大切な言葉だ。ブッタの教えは宗教というより苦悩を取り除く智恵の教えである。キリストもブッタも生きているときは一冊の書物を書いていない。ひたすら生きる人であった。最近聖書を読みたくなっている。

2014年1月25日 (土)

田川紀久雄日記

ピーター・ラビットの地では。核の廃棄ゴミで子供達の白血病が増えているという。美しい自然が核のゴミで汚染されている。これはよそ事ではない。フクシマモそのうち同じことが起こるのではないかと心配をしてしまう。原発はいま止めないと未来に取り返しのならない事態をひき起こす。眼に見えないだけに、国民はいまのところこの問題に今日がないらしい。都知事選挙でも、いま舛添氏が先頭を走っているが、この選挙は最後までわからない。
詩人としては何も出来ないが、最後まで原発ゼロの闘いをしていかねばならない。そして詩人にできることは詩を書くということだ。デクノボウである以上、今の私にはそれ以上のことが出来ない。そして詩語りを呼んでくれる方がいたら何処にでもいきたい。そのために日々の精進を続けている。

2014年1月24日 (金)

田川紀久雄日記

田中選手がヤンキースに決まった。そのことは歓ばしいことであるが、契約金が7年間で161億円とは驚きだ。はたしてこのようなことでよいのだろうか。普通のスポーツの世界ではとても考えられない。もっとマイナーなスポーツにも光を当てたいものだ。オリンピック行く選手でも自腹を切って参加する人もいる。
これからの世の中で老老介護の問題は何とかしてもらいたい。舛添さんの福祉世界第一は東京から始めて貰いたいものだ。しかし原発問題も大きな問題だ。自民党の推薦ではこの原発問題は舛添さんではうやむやになってしまう。どうのように都民が判断するのか。来月の九日になって見なければ解らない。
常に大切なのは今が良ければという考え方を捨てることだ。つねに未来の子供達にという考え方を持つことである。豊かさもそこそこが良い。どのようにして福祉国家を作り上げていくかということだ。そのためにどう経済政策を打ち出していくかが問われている。いまのアベノミクスは国を滅ぼすだけだ。国債が膨らむだけである。国債を見れば、もうこの国は半分以上沈没している。
ブレンデルのモーツァルトのピアノ協奏曲の20番と24番・指揮マッケラスの演奏は本当に美しい演奏だ。心の疲れを癒してくれる。
詩誌受贈『侃侃・21号』

2014年1月23日 (木)

田川紀久雄日記

昨日「絶望の中で」を書く。これで『復活』を書き終わった。今月は随分詩を書いた。私は自分の魂を追い求めているのだろうと思う。だからどのように読まれてもまた無視されても気にしない。
都知事選は私には投票権がないが、とても興味深い。原発を国だけに任せてしまえば、どんどん再稼動してしまう。ここが舛添さんの原発に対する思考の弱さだ。でもバランス的には最高である。しかし都民は原発を自分の問題としてどれだけ考えているのか問われてもいる。
アベノミクスは近いうちに崩れていくのではないかと思う。この物価高と消費税の値上がりで国民は耐え切れないのではと思うからだ。給料の値上がりは全体のほんの一部だからだ。アルバイトや零細企業にとってはとうてい賃上げは期待が出来ない。それに年金生活者に対する対策もないままだ。ただ貧富の差を招くだけである。
詩人クラブで詩の講座があるが、朗読は教えられるものではない。ひたすら聲を撃ち込むことである。このような講座からは、何も学ぶことがないだろう。あるのは個々の実践だけである。

2014年1月22日 (水)

田川紀久雄日記

ものを書く人はどうしても本で部屋が一杯になってくる。相棒から何とかしてといわれても、なかなか整理が出来ない。買わない読まないことが一番良いのだろうが、それができないから本が溜まってくる。いま古書店で百円か二百円で読みたい本が買える時代だ。月に千円で読みたい本が買える。これでは古書店はどんどん潰れていくだろう。それに私は詩誌の発行や詩集を年に三冊も上梓しているのだから、部屋が本で溢れるのも当然な成り行きになる。他の詩人達は本をどのように保存しているのだろうか。本を処分することは自分の心から何かが失われていく気がする。
眼がわるいせかいま読書をする時間が少なくなってきている。そのぶん詩を書く時間を多くとっている。自分と向き合う時間は心が豊かになる。しかしその反面孤独を感じる。そしれは書く時間自分が生きてきた年月を振り返ることが多くなったからである。詩を書くことはやはりいのちを凝視すること以外のなにものでもない。浮かんでくる言葉を網ですくい取っているようなものだ。いま言葉が愛おしく感じる。だから詩語りの稽古も楽しく感じるのだろう。

2014年1月21日 (火)

田川紀久雄日記

なぜ政府は辺野古移設を強行するのだろうか。これでは住民の感情をかえって悪化させるだけだ。一度自然を壊してしまうと二度と取り戻せない。なぜかやりきれない。
指揮者のクラウディオ・アバド氏が亡くなる。八十歳である。私はマラーの演奏が心に残る。
妹の身体が本当に悪い。もう歩行も困難になってきた。昨夜は妹のことを考えるとほとんど眠れなかった。ただ見守るしかない。でもよくここまで持ち続けた。これはある意味での奇跡だ。

2014年1月20日 (月)

田川紀久雄日記

金子秀夫さんから卜部昭二さんがなくなったという連絡が入った。でもいつなくなったのかは解らないという。彼との付き合いは長いが、10年ぐらい前から交友が途絶えた。それはかれの詩人としてのあり方に疑問を持ったからだ。詩人というものはつねに素朴でいたいものだ。彼はもっと奥さんを大切にすべきであった。
辺野古埋立反対派の議員が勝った。安倍さんはすべてお金で解決すると思っている。沖縄はいまだ植民地である。アメリカは中国と戦争する気はない。だから別に沖縄の基地は必要がないのではと思う。日本を守るという名義で政治・経済にも圧力をかけている。安倍総理は中国・韓国との友好を求めなければならないのに、靖国を参拝してしまった。この積極的平和主義が秘密法案や憲法改正に繋がっている。経済主義は国を滅ぼすことになる。これは資本主義の最後のあがきである。国民の願いは安心した生活が送れることである。そして富みの分配である。このままだと貧富の差がどんどんますばかりだ。
昨日『魂の聲は』を書いた。詩人は哀しみを描くことによって希望を見出してゆくものだ。

2014年1月19日 (日)

田川紀久雄日記

いま作家でも印税で食べられる人はほとんどいないという。それは本の流通のあり方に問題があるからだ。名の知らない本など書店に置いてもだれも手に取る人がいない。すぐ返品されてしまう。詩などはまず書店に置いてもらえない。売れなければ一週間で返品だ。いま個人の本屋さんは経営が成り立たない。街をあるいていでも個人の本屋さんなど見ない。欲しい本はインターネットで手に入れる人が増えている。芥川賞や直木賞を取ってからといって安心などできない。次作が売れなければ、原稿依頼もなくなる。厳しい世の中である。文化そのものが衰退して行く。質の良い本よりまずは売れなければ話にならない。売れることが善であって売れなければ悪になる。変な世の中である。これが資本主義の実態でもある。
今の人達は魂を掘り下げるのが苦手である。いや魂という言葉を聴いただけで逃げてしまうのではないか。それに自分で価値判断が出来ない人が多い。絵を見ても詩を読んでも何を基準にしてよいのか解らない。素直な気持ちで自分に問うことがない。ただ「わからない」という言葉ですべてを決め付けてしまう。存在そのものが薄っぺらな人間になっている。ただただ経済に踊らされている。安倍政権をこのような人達で支持率が上がっているのだろう。
人は相手の幸せを願う心が失ったらお終いだ。詩人はひたすら詩を書くことだ。それも魂を掘り下げていくことである。無名であることに誇りを持って生きていたい。

2014年1月18日 (土)

田川紀久雄日記

『詩人会議・2月号』で相棒の『浜川崎から・Ⅱ』を佐々木洋一さんが詩集評で紹介していた。相棒の詩は詩人でない人たちから大きな反響があった。私たちは詩人に向かって詩を書かない。真剣に生きようとしている人達と共に生きている詩を書いているだけだ。だからこそ詩を語って行かねばならない。
政府の政策は国民を騙して危ない世界に導いていこうとしている。秘密法案や原発再稼動など、内容は酷いものだ。それに東電の体制はあまりにも酷い。ただの金の亡者でしかない。このような電力会社が原発に携わること事態がおかしい。国民の安全など二の次であることは昔も今も変らない。
日本の国民もだれもが金の亡者になろうとしている。富を分かち合うことをしない。資本主義で一番悪い方向に向かっている。これはいまの中国の共産主義に類似してきている。安倍政権は独裁国家を目指しているかのように思えてくる。愛と慈悲の心がない政治には国民は離れていくしかない。いまこのことを詩にしている詩人が何人いるのか? 私はいのちの明かりを求めて生きていたい。

2014年1月17日 (金)

田川紀久雄日記

今日、阪神・淡路大震災が起きて19年目にあたる。時のたつのがとても早い。あの時はダイエーのトラックが走っていたのが記憶の底に残っている。まず、黙祷、そして合掌。
自民党のエネルギー基本計画が都知事選で一月の閣議決定が先延ばしになる。大物議員が都知事選に出馬しないと安倍政権の原発再稼動を止めることが出来ない。あとは国民がどう判断してゆくかだけだ。
政治家は自分の任期のときだけ経済がよければとしか考えていない。任期が終わればあとのことなど知らないというのが政治家の姿勢なのだ。世界中の経済が発展すればますます温暖化が進む。昨日の北京ではP2・5が最高であった。これからは経済競争より、地球を守る政策が求められている。北極の氷の半分は溶けているという。白熊もこのままだと絶滅してしまう。経済の豊かさよりも心の豊かさを求めていくことが世界平和に繋がる。戦後からずっと日本は経済だけの豊かさを求めてきた。その陰で人間の心も貧しくなってきている。
私の詩は下手糞だが、心のある詩を書いてゆきたい。そして心のある語りを目指して努力してゆきたい。
詩誌受贈『潮流詩派・236号』

2014年1月16日 (木)

田川紀久雄日記

将来の生活がとても不安だ。そのことを考えると欝になる。詩語りでは食べられないが、いま私ができることはこの道しかない。どんな小さな針の穴であったとしても、それを通さない以上先がない。この困難な道は私しかできるものはいない。
私はお金を払ってまで詩語りはしたくない。これは自分が生きるための仕事だと思っている。
未知の世界を切り開く人は想像を絶する困難な生き方をする。この困難こそが人間を成長させる鍵でもある。絶望の階段を登ることが出来れば、新しい世界が開かれてくるものだろう。
もうすぐ詩集『遠ざかる風景』も出来上がってくる。今私の詩集も質が少しづつ良くなってきている。それは自作詩をなんども語っているからだ。詩集は上梓して終わるのではなく、上梓したところから始まるのである。多分詩人でも自分の詩集を何百回と読んだことなどないだろう。上梓してそれを送って終わるのが普通である。何のために詩集を上梓するのか。ただ人に読んでもらいたいためなのか? よく解らない。そうではあるまい。自分が成長するためにあるのではないのか。夏までには『詩語り論・聲を求めて』を上梓したいものだ。そのためにも詩集をできれば買っていただきたいものだ。

2014年1月15日 (水)

田川紀久雄日記

細川さんの都知事選の出馬は良いことである。入るかどうかは選挙を行なってみなければ解らない。安倍政権の狂気的な原発依存病に対していくらかは有効性がある。原発は最終的には国が決めることである。でも細川さんの出馬がなければ、安倍政権はどんどん死の商人になってゆく。経済発展のためなら許されるという考えである。この日本は経済大国を目指してどんどん自然を破壊してきた。原発事故は自国だけの問題ではない。地球の破壊に繋がってゆく。昨年福島に会津電力が設立された。これは福島の人達の電力である。水の豊富な福島は電力を作り、それを他県に売り込むことで福島が豊かになってゆく。
国民が原発を本当に考えるきっかけになってくれれば都知事選は大きな意味をもつ。新しいエネルギーつくりこそ未来の日本を作ってゆくのではなかろうか。東電は消費税値上げでに二百円上げるつもりでいる。原発がないとこうなるんだという脅しである。政府はあらゆる手を使って原発ゼロを妨害してくるのではなかろうか。大切なのは正しい論理なのだ

2014年1月14日 (火)

田川紀久雄日記

三田洋さんのブログで、山下佳恵さんの『海の熟語』が紹介されている。とても温かい文章である。ブログでもこのような仕事が出来るのだと痛感した。詩誌に載せるだけが批評ではない。知名度のある詩人だけを掲載する新聞や詩誌などにない自由な紹介文は読んでいても気持ちが良いものだ。
最近特に眼が悪くなっている。パソコンを打つのもときどき眼が痛む。これは糖尿病のせいかも知れない。文章が二重に見えたりする。食事もそれほど取っていないのだが、なかなか痩せない。

2014年1月13日 (月)

田川紀久雄日記

今日成人式である。私が二十歳の頃、まだのほほんとして生きていた。新宿や渋谷でジャズや名曲喫茶でたむろしていた。取り立てて何になりのか目標などなかった。それでも何とか生きられた時代であった。詩を書くことは何かに追われるようにして書き始めたのかもしれない。テーマを持って書き始めたのはやはり末期ガンの宣告を受けた時からである。そのような意味で言えばとても遅れてきた詩人であるといえる。いまも新人のように感じだ。
昨日も詩のテーマとしてはどうなのかと思われる詩を書いた。それは安倍総理が述べる積極的平和論批判である。これはいのちに係わる問題だからだ。詩人として詩らしい詩を書く必要がない。戦争に通じる道は断じて批判することがいのちを守る人間としての義務でもあるからだ。原発問題も同じことである。精一杯生きる道を塞ぐものは許してはならない。どんな不幸であってもまず精一杯生きることである。苦しみや哀しみが付随する。だから哀しみや苦しみを書いてゆかざるをえない。生きることは生との闘いである。まずは懸命に生きることから人生は始まると思う。

2014年1月12日 (日)

田川紀久雄日記

昨日古書店で『土橋治重詩全集』を百円で買った。詩の価値とはこのようなものなのか? 全集をつくるのはまず身内の人達がある程度の資金をださないと出来ない。普通の詩人達にはとても全集を上梓することは不可能だ。漉林書房でも『山本陽子全集・全四巻』と『亀岡新一全集』を出版した。しかし個人詩集はそう簡単には売れない。
詩人は生きているうちに詩集を出さなければまず死後には無理である。だから私は出来るだけお金をかけないで作っている。
末期ガンで生き残れるのは5千分の1であるといわれる。私は4999人のいのちの分、仕事をしなければならないのだ。生きられているいのちを無駄にはできない。東日本大震災で亡くなった行ったひとたちのいのちのことを考えないではいられない。だからひたすら鎮魂の詩を書いてきたのだろう。そしてK公園でそれを語り続けている。風邪もいくらか良くなってきている。昨日から語りの稽古の
再開を始めた。まずは一人のいのちから物事は始まる。

2014年1月11日 (土)

田川紀久雄日記

『通販生活』の新年号の「ネコマンガ」が消えた。この雑誌の中身が薄くなったような気がする。いまの時代の中に飲まれていってしまいそうだ。
細川さんの「原発ゼロ」と舛添さんの「介護」のどちらを都民は選択するのだろうか。もう報道では細川たたきが始まっている。民主主義である以上決めるのは民である。選挙というものは戦ってみないと解らないことが多い。
自民党運動方針案から『不戦の誓い』が消されている。その言葉に代えて「積極的平和主義」に置き換えられている。やはりいまの自民党はイノシシのように危ないものに突進している。
人間の欲望を考えると共産主義より資本主義国家の方が有利である。欲望を考える以上どちらも危険な思想であることには変わりがない。宗教ではこの問題は解決できない。いま日高敏隆さんの考え方に私は引かれる。自然そのものを人間の勝手な思考で破壊しないことだ。豊かさを求めていながら、その豊かさの根底を覆させている。開発という名目でどんどん地球の終末を早めているだけだと思う。問題は地球人口の多ささである。この狭い日本でも一億二千万人もいる。それも老人がどんどん増え続けている。この老人問題をどのように支えていくのかさえ対策がなされていない。
詩人できることは哀しみを見つめていく以外にない。その哀しみを愛に変える魔法の言葉を探すことしかなさそうだ。

2014年1月10日 (金)

田川紀久雄日記

地震国トルコに原発を売り込むアベノミクス政策にはやりきれない思いがする。汚染水対策すら満足に出来ないでいる。福島原発が四〇年後に解決するなんてとても思えない。いまの日本人はどうかしている。自分達が幸せならどうでもよいという思想が先行しているような気がする。そして今の人達は他人に無関心でありすぎる。これは教育問題にも原因がある。そして携帯でのゲームの普及も大きな原因かもしれない。安倍政権には都合が良いのかもしれないが、いま本気になってこの国の未来を考えていかなければならない。刹那的な生き方は虚しいものだ。
今度の都知事選は、細川さんがでるとかでないとか言われているが、是非参戦してもらいたいものだ。原発セロを掲げている小泉と連合で出れば原発ゼロ政策に強い関心を国民が持つだろう。この選挙は都民が決めるのだから私には何も言うことはないが、国民の原発ゼロに対する意識が見えてくる。原発ゼロだけが東京都の問題ではない、あくまでも東京都の為になる政策が望ましいのだろう。
オリンピックも自然エネルギーで賄える都市であってもらいたいと願うだけだ。
超高速鉄道のリニヤも原発一機分の電量を消費するという。

2014年1月 9日 (木)

田川紀久雄日記

今日も病院だ。新年のせいか病院は混み合っている。
風邪で聲が出ない。それを無理に聲をだして詩を読むと、まったく別な詩に感じてしまう。二、三篇読んでみたが嫌気がさしてきた。気分が滅入ってしまった。やはり健康でないと語りの稽古も出来ない。

2014年1月 8日 (水)

田川紀久雄日記

今日と明日は病院だ。
咳と鼻水が凄い。このような風邪は初めてだ。麦門冬湯を買う。語りの稽古が出来ないと何か不安になる。
福島の瓦礫処理は遅れている。このままだと除染したゴミの集積場になってしまうのでは。福島の未来図がまったく見えてこない。汚染水も解決ができない。時の経過の中で国民から忘れられてゆく。諸物価の沸騰でパートで働く人たちは大変である。子供がいる家庭では仕事を二箇所抱えて働らく人達がいる。これで国民が豊かになれるのだろうか。資本主義の破綻でしかない。資本主義はあくまで競争社会である。国を維持するには福祉問題を無視しては成り立たない。これからは老人が急増していく。もうそれほどの豊かさは必要ではない。みんなが安心して生きられる社会が必要である。
操車場の原稿が入ってきている。

2014年1月 7日 (火)

田川紀久雄日記

昨年末に渋谷区宮下公園でホームレスを締め出していた。その中には身体の弱い人もいた。これがアベノミクスの正体である。これは東京都だけの問題ではない。怒りをかんじてしまう。
今の私は何も出来ないでいる。自分自身の生活すら出来ていない。詩人であるから言葉を深めていくことの中でなんとか対処してゆきたい。年賀状も一枚も出していない。それは詩集を作るために一銭でも欲しいからだ。人間としてもだんだん崩れてきている。無能者であることに徹して生きるしかない。偽善者と罵られてもよい。
今日は七草である。相棒が朝食に作ってくれた。風邪が一向に治らない。昨日詩『相棒とネコと私』を書いた。

2014年1月 6日 (月)

田川紀久雄日記

今日から仕事始めの人が多いだろう。私のところは相棒は元旦から仕事に出かけた。そして私はいつものように語りの稽古を二時間ほど行なった。貧乏暇なしの生活だ。年金生活者や無収入に近い人達にとって四月にあがる消費税は大変な重荷になる。それにしても物価が高騰しているので日々の暮らしも辛い。経済の発展には光と影がある。これでもっと貧富の差が拡げられていく。つましくても人間らしい生き方をして行くほうが幸せの有り難さを身に染みる。
物書きはつねに闇を背負い込んでいる。その闇を食いつぶしながら物を書いていく以外に何も出来ない。その闇を凝視する眼を失った時、物が書けなくなる。だから物書きにとって貧しい生活は、それほど苦にならない。世の中はマイナスにいる方が世の中がよく見える。昔から詩人は貧乏であった。この貧乏詩人が少なくなった。そのために詩の深みが消えてきている。病と貧乏は詩人の特権であった。それを失ったら、ただの人になる。哀しみを愛に変えるのが詩人の仕事でもあった。
今日は小寒である。私は完全に風邪を引いてしまった。鼻水と咳が止まらない。
詩誌受贈『環・148号』

2014年1月 5日 (日)

田川紀久雄日記

日本人としての思いやりは、相手の心を思いやることではなかったのか。それのおもいやりの心を駄目にしてのは安倍総理である。中国や韓国への思いやる心を靖国参拝ですべてをダメにしてしまった。A級戦犯を靖国からどこかへやればよいと民主党の議員は言うが、それだけで問題が簡単に片付くものでもない。神道は本来相手の霊も祭るものであった。相手を敬う心が神道にあったが、この靖国にはまったくその形跡がない。明治以後、軍国主義の歪んだ神道を作り上げてしまった。伊勢神宮や出雲大社に多くの人達が行くのは、古代の太陽神からすべての神々受け入れる大きな心の故郷を感じさせるからではなかろうか。私は神道についてあまり解らないが、神道というとどうしても嫌なイメージがつきまとっている。それは靖国神社の存在であった。
日本は諸外国と仲良くして行く以外には道はないのである。そして一番身近な韓国、中国とは心を尽くしておもてなしの心で付き合うしかない。表面状の言葉だけのおもてなしなど必要ではない。日常普段の寄り添う心があれでそれで充分である。別にあらためておもてなしの言葉なのいらない。

2014年1月 4日 (土)

田川紀久雄日記

このところ私は無能者のように感じてならない。宗教を信じている人達にとってもそのことを強く感じている人達がいる。個人の力ではどうにもならないことが多い。ただ事態を見守る以外なにもできない。私はいのちについてたくさん書いてきた。それはあくまで自分のいのちであった。末期ガンの人が自然治癒力で直るのは5000人に一人だといわれている。あとの4999人は亡くなってしまう。この六年間で多くのガンでなくなっていった人を見てきた。医師でも治せないものを詩人ある私が治せるわけもない。妹のことでいまはただ見守るしかない状態だ。仏教では生・老・病・死というものはどうすることも出来ないものであると説かれている。だれもが平等に訪れてくる。だから私は生きている者に対していのちを語ってきた。自然治癒力を身につける方法としてだ。あの東日本大震災は私にとっても大ショックであった。思いもよらない多くの死者がでた。だから『鎮魂歌』という詩集も上梓した。
5000人の中の一人として生きることの中で必死にいのちの明かりを求めてきたともいえる。そしてそれに答えられる聲を求めて詩語りに精進してきた。詩を通して一人でも多くの人と寄り添うことを願ってきた。末期がんを宣告されて六年になる。日々の緊張感がときどき崩れそうになる。それを何とか食いとどめようとして詩集を次から次へと上梓している。しかしライブを行なう場がいまだに何処にもない。いま虚しさが襲いかかろうとしている。この虚しさを断ち切るための力をどのようにして得るのか解らないが、それを追い求めて生きていくしかない。その中から詩が生まれてくるのだろう。昨日『復活』という題の詩を書いた。

2014年1月 3日 (金)

田川紀久雄日記

いま少しづつではあるが、人間を取り戻す詩が出始めている。それは心が言葉に寄り添うということでもある。そのことは今の時代が求めていることなのかもしれない。この時代から取り残されている詩人達が心の叫びとして詩と向き合っているからだ。芸術至上主義は大切ではあるが、それだけでは人の心をつかむことはできない。本当の自己をさらけ出すことも必要なのだ。みんなが同じことを求める必要もないし、要は徹底的に自己の存在を深めていくしかない。
閣僚が靖国参拝に出かけるが、彼らは悲惨なめにあって国民の痛みを汲み取る能力がまったくない。天皇陛下も参拝しない靖国なぜ行くのか、歴史認識に欠けた国会議員がいることは哀しいことだ。学校でも明治以後の歴史をほとんど教えていない。今の若い人達の中には戦争があったことすら知らない。そして朝鮮・中国大陸で何があったのかをちゃんと教えるべきである。満洲に渡った民間の人達が引揚げるときの悲惨な出来事を知っているのは私たちの世代までだ。私たちにとっての国家とは何か。それは平和を守ることではあるまいか。この平和を守ることがいかに難しいことか。安倍政権はこの平和をも守るということで積極的平和論を推し進めている。そして憲法改正まで視野に置いている。私たちはこの平和を守ることは憲法改正に断固として反対していくことである。そして秘密法案もなくす運動をしていかねばならない。それと原発ゼロを求めて生きることがいま生きていることへの証しにもなる。

2014年1月 2日 (木)

田川紀久雄日記

今年は嫌な年になりそうだ。安倍総理の言動を見ていると、ほんとうにこの国はダメになってしまう。金の力は怖ろしいものだ。金のためなら心を売ってまでということになりそうだ。中国や韓国からこの日本は排除されてしまう。まだ戦争そのものが終わっていなかったように思われる。相手の心を理解しない総理では、とうてい平和な国作りは無理だ。積極的平和論は軍備の拡充に繋がっていく。安倍総理を援護する人達の言葉は虚しく感じるだけだ。維新の会も情けない。消費税が上がってもどれだけ福祉に使われるのか解ったものではない。消費税といわずに福祉税にすべきである。福祉以外に使えないようにするべきだ。この国を守るのは国民一人ひとりの思考力である。でも株の値上がりで浮かれている国民ではこの国は沈没するしかないだろう。ノアの箱舟でも見つけなければならなくなってきた。
高畑耕治さんからCOAL SACK77号が送られてきた。彼の詩『ゆき、愛(かな)しいみの』はまるで音楽そのもののような響きの言葉でつづられている。この響きは心の癒しに繋がってゆく。ブログでも言葉の響きに書かれているが、それが作品として実ってきている。「たぶの木・9号」での長編詩はそれを証明している。高畑さんのブログで「たぶの木」が読めます興味のある方はブログを開いてみてください。

2014年1月 1日 (水)

田川紀久雄日記

みなさまあけましておめでとうございます。今年よい年でありますよう祈ります。
まず最初に一月一日発行の冨上芳秀詩集『真言の座』が届きました。この詩集は一篇一篇が短いが中味が濃い詩集に仕上がっています。一篇読んだだけでも長編小説を丸ごと読んだ気分にさせられる。詩という世界でここまで構築させるのは凄いといわざるを得ない。
今年は私の詩集が二月で上梓予定。そして上野芳久詩集が五月に上梓予定。三月には高橋馨さんが文庫本が出る。これはエッセイ集である。操車場もだんだん面白くなってきた。
昨日操車場80号の執筆者に送ることが出来た。残りは三日すぎごろに送る予定。
これからもよろしくお願いいたします。元気で生きられることがなによりの幸せです。
詩集受贈『冨上芳秀詩集『真言の座』

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