田川紀久雄日記
インターネットで読む活字は、情報として眼を通すだけのものである。紙に書かれた活字とはどこかで識別している。パソコンでは活字を味わうというゆとりがない。ブログでもパソコンで読むのと印刷された文字で読むのとではかなり印象が異なる。私のこの日記も『操車場』で活字化している。一ヶ月まること読めるのは、ある意味で読書したという感じになる。パソコンではただ情報としてしか認識されない。パソコンで詩を公開しても、さらに活字(詩誌)などで公開しないと作者の思いが通じないこともある。これは電子書籍でもいえるのかもしれない。私たち世代の人間は書物に深い思いが強いからかもしれない。書く行為をうまく伝えるには、いろんな方法がある。詩の場合はやはり詩集ではなかろうかと思う。そして聲を出して読むことも大切な要素になってくる。パソコンでは活字を味わうという感覚になれない。だから私はブログに詩を載せないでいる。情報として読まれたくないからだ。詩は味わうものと考えているからだ。
詩語りもなかなか上手くならないが、持続こそ一つの力になってゆく。持続することによってその人の味が生まれてくる。あきらめない気持ちこそが生きる上で大切なことだと思っている。
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