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2013年11月30日 (土)

田川紀久雄日記

一日一日が早くすぎてゆく感じがする。いつも同じ繰り返しの日々であるからそう感じるのかもしれない。午前中と午後に一時間ほどの詩語りの稽古をしている。末期ガン以後多くの詩集を上梓してきたお陰で語る作品に飽きることがない。一つひとつの詩集を深めてゆける。これで良いというものは一つもない。語れば語るほど難しさを感じる。そのことよりも聲を撃つことは身体にとても良い。免疫力を高めてくれる。目標を持って生きていることは大切なことだ。一銭にもならない詩の世界でも、そこに生き甲斐を見出せれば幸せなことである。
詩誌受贈『鹿・133号』

2013年11月29日 (金)

田川紀久雄日記

今年の冬は例年より寒いという。また雪の積雪量も多いという。過疎化した村の住民達は大変なであろう。いま寝蒲団も温かいものがあるので助かる。寒いと気持ちまで落ち込んでしまう。
文化人たちが秘密法案に反対していることは詩を書いている私たちにも勇気付けられる。この法案は戦前の世の中に戻ることを意味しているからだ。自由に物が言えない。中国の圧力のせいか知れないが、ここに来て政府のあり方が狂気沙汰になっている。権力を握れば何でも出来ると思っている。アベノミクスの世界は怖ろしい。それを応援する国民も正気の沙汰とは思えない。本当の幸福はお金では買えないことをいまだに理解していない。金だけの自由は国を滅ぼすことになる。
詩集受贈『新沢まや詩集・心音』

2013年11月28日 (木)

田川紀久雄日記

参議院の存在が今の国会で問われているが、野党の聲があまりにも弱い。国民が自民党を選んだのだからなんともいいがたいが情けない。日本の安全を守るためにもアメリカとの関係を深める必要があるのだろう。平和を守ることはいかに困難なことなのか考えさせられる。でも私個人では軍備力の強化は望まない。あくまでも平和外交でと願うだけだ。
ストーカー事件がこのところ多すぎる。もっと厳しい法律があっても良いのではなかろうか。あまりにもエゴ的な持ち主が多い。相手の幸福を考えればストーカーなどできないはずなのに。
いま妹のことを詩で書き続けている。そのうち発表してゆきたい。

2013年11月27日 (水)

田川紀久雄日記

妹の放射線治療がいまだ出来ないでいる。退院したと思ったらまた緊急入院だ。精神的なダメージを受ける。死に近づいている姿を見るのはつらい。
特定秘密法案が衆議院を通過してしまった。多数決の世界では、何が正しいのかは解らない。日本は新たな歴史が始まったのである。嫌な世界が近づいている。
『エッダ グレティルのサガ』という書物の中に「おろかな男はほほえみかけてくる人を、みんな友達と思って、民会に出かけてみてはじめて、自分の見方のいないのに気がつく。」という文章がある。日本人は笑みをかけてくれる人は見方だと勘違いする民族のように感じられる。政治の世界では笑みは危険な代物だということに誰もが気付かない。
詩人としてこれからどう世の中と向き合えば良いのだろうか。辻まことがいま身近な存在として感じられる。私に出来ることはいのちの尊さを語るしかない。

2013年11月26日 (火)

田川紀久雄日記

歯医者で奥歯を抜く。治療は時間がかかるらしい。歯が一本でも抜けると聲がいくらか変る。歯医者でもまたお金がかかりそうだ。生活が苦しいので気分が落ち込んでしまう。
詩の大手(思潮社・他)で詩集を上梓すると値段は割りとかかる。漉林書房の約二倍は取られる。詩人とは知名度がそれほど欲しいのだろうか。出版社名が大切なのではない。あくまで書かれている世界である。上製本を作れば百万円以上かかる。詩人はやはりお金持ちが多いと思われる。
私の詩は詩ではない。でも魂の言葉だ。それで良いのだと思う。詩人達からこんな書き方でよいのだろうかと戸惑いの感想が届く。あまりのも素直すぎると。一般の人達は詩を読んで何が書かれているのか解らないという人の聲が多い。私も理解しがたい詩集に出会う。齢を取ってくると難解な書物はできるだけ敬遠するようになる。だからと言ってただわかりやすいものが良いというとそうでもない。大切なことは心に響いてくるものなら難解であろうとわかりやすいであろうと構わない。詩を読んでいて心に響いてくるものになかなか出会えないということだ。いったい何のために詩を書いているのだろうと問いたくなる。
詩誌受贈『千年樹・56号』

2013年11月25日 (月)

田川紀久雄日記

世界を見ると悲惨な状況が多すぎる。いまの私たちは戦争がないだけでも幸せだ。でも秘密法案が成立してしまうと、戦争が起こらないとは言い切れなくなる。内戦や戦争ほど悲惨なことはない。その原因は思想の違いや欲望からである。毎日新聞記事でも殺人事件が報道されている。テレビでも事件もののドラマで占められている。今テレビはほとんど観ることがない。
眼の前の出来ることを一つひとつ行なうだけだ。カタツムリのような動きだが、一歩づつ前に進むことができる。
詩の朗読では誰でも生活など出来ないのだから、精進をする人もほとんどいない。でも私の場合、生活は出来ないが、自分の心の中の夢として生きることで精進を続けていられる。私が一生懸命で行なっていることで、これから朗読をやりたいと思う人に勇気付けられていくと思う。大切なのは一歩でも前向きで生きようと思うことだ。
今日は歯医者に行く予定だ。食べるときも聲を出すときも不便である。

2013年11月24日 (日)

田川紀久雄日記

奥歯が抜けてしまった。歯が一本ないと聲の出し方が変るものだ。齢をとってくるといろんなところがダメになってくる。これが老いてきた証しなのだろう。
操車場の校正ゲラを送ってもなかなか戻ってこない。締め切りまであと一週間ある。まあゆっくりと待つしかない。
いまの私は詩人達の世界から遠く離れているような気がする。詩というものは心をテーマにしていることが多いのであるが、その心が受け取れないことが多くある。これは表現のあり方の問題であるのかわからない。それにしても淋しい感じがする。
詩集受贈『藤井章子詩集・文月にはぜる』

2013年11月23日 (土)

田川紀久雄日記

ある詩人から『寄り添う』で人と人が助け合うことはきれいごとすぎると手紙に書かれてあった。でもいまこの時代には寄り添うことが求められている。せめて詩人の心は童心であってもらいたいものだ。末期ガンの経験で寄り添う精神を多くの人たちから学んだのだ。そして東日本大震災でも「絆」(寄り添う)を強く感じられた。これは国家とは無関係な庶民感情である。庶民はささやかなことしか出来ない。このささやかさが大切なのである。詩人に出来ることは夢を描いていくことしかない。美しい作品をかいている詩人はたぶん一番くるしんでいる人かもしれない。作品イコール作家自身なんで思わないでもらいたい。美しい世界を書くことによって苦悩と闘っていることを忘れないで欲しい。
原発のことも東日本大震災のことも詩で書くなという詩人もいる。それはその人の自由である。でも書くなと押し付けることは大きなお世話である。作品としてつまらないものは自然淘汰されてゆく。詩人は自分が書きたいとおもっているものを自由に書いていたいものだ。いまこの自由が秘密法案で潰されようとしている。沈黙と失語だけは避けたいものだ。

2013年11月22日 (金)

田川紀久雄日記

高畑耕治さんのブログに私の詩と山下佳恵さんの詩が紹介されている。そういえば最近の詩集で「愛」を描いている詩が少ない。素直な気持ちで書かないと嫌味が生じてしまう。要はその人の人生観が現れる。高畑さんの詩も少年の気持ちを持っている。「たぶの木」は現代詩で置き忘れられた生そのものの美しさ哀しさを書いている。「たぶの木」は高畑耕治さんのインターネットでも見られる。読みたい方は年間購読料三千円。漉林書房。
『遠ざかる風景』の版下を作成した。「寄り添う」が売れないと次の詩集が上梓できない。なんとしても来年も三冊詩集を上梓したいものだ。この三冊も完成している。消費税が上がると出版も大変になってゆく。いまのCTTの印刷はインクが薄い。やはり従来のアナログで印刷をしたい。詩の場合活字がしっかり印刷できないと何の意味もない。安ければいいというものではない。最近の詩誌をみているとインクが薄いのが多すぎる。
秘密法案に野党が賛成して行くのをみるとやりきれない。もうこの日本がダメだと思ってしまう。株は値上がるし円は100円台を越えていく。経済の力は人間の心をダメにしてゆく。道元さんのいうように貧乏は人生をまっすぐ見つめさせてくれる。詩語りでも命懸けでやっていれば自然に道は開かれるのだと思う。何事も一念で生き抜くことだと思う。

2013年11月21日 (木)

田川紀久雄日記

今日は病院だ。これはいつまで続くのだろう。兄と妹は断崖に佇んでいるようだ。
東電は柏崎原発を再稼動しないと電気料金を値上げすると脅かしている。それに応じるかのように原子力委員は審査を開始した。おかしい話だ。それと最高裁の一票の格差の判決もおかしい。みんなアベノミクスに吸い込まれてゆくように思える。
権力を握るとだれも離したがらない。国を自由に操られるからだろう。国民の為という名目をつければ何でも出来る。民主主義の落とし穴がぱっくりと開いたようね気がしてくる。
詩語りの世界がやっと見え初めてきた。これもひとえに精進のおかげである。語りを行なうことが歓びになってきているからだ。詩の力を借りて生きる歓びを与えられる詩語りをしてゆきたい。いまの私ならそれが出来そうな気がする。

2013年11月20日 (水)

田川紀久雄日記

秘密法案が来週にも衆議院を通過しそうだ。言論の自由に赤信号。国民の知る権利が奪われていく。私はもう齢だからいいけれど、未来の子供達には大きな重荷になる。この国はまた戦前のような自由を奪われた世の中になっていくのだろう。そして老人の住みにくい世の中にもなる。それは経済そのものが破綻していくからだ。年金も下がっていくだろう。それに対し健康保険や介護保険料がどんどん上がってゆく。まともな生活が出来なくなる。大阪で餓死した人が出た。水道を打ち切るときは、民生委員や社会福祉事務所と相談をしてから行なうのは必要だ。水道を止めるということは死ねということと同じである。
寄り添うことが出来ない世の中は不幸そのものだ。貧富の差がどんどん増えてくる。貧しきものに対しての思い遣りを思っていただきたい。詩がどれだけ人々の心を癒してくれるのだろうか。そのためにも朗読の経験を積んで、庶民の前で語れる詩人が増えて欲しいものだ。始めが誰でもが上手くいかない。要はコツコツ行い続けることである。

2013年11月19日 (火)

田川紀久雄日記

福島原発の燃料の取出しが始まっても、この燃料が最終的にどこに行くのかさえ決まっていない。小泉元首相が言うように日本には今のところ何処にも処分する場所がない。やっと始まったといっても何も前には進んでいない。この福島以外に燃料は何処にも移動ができないのではないのか。
この詩語りのユーチューブを見て私の聲に賛同してくれる人がでてきた。録音されたものではなく、実際の聲を聴いてもらいたいものだ。語りの精進をすればするほど語りの難しさに遭遇する。このことが語りを深めることに役立っている。どのような世界でも楽な道などない。聲を撃つ詩人は一人ひとりが独立して行く姿勢が持たねばならないだろう。定年を迎えた詩人が多いのだから精進する時間もたっぷりある。やろうと思えば誰もが聲の力を持てる。それなのに朗読をやろうとする詩人は出てこない。詩を書くことよりも詩をいかに語るかが難しいということなのだろう。聲の力に耐えられる詩が少ないということかもしれない

2013年11月18日 (月)

田川紀久雄日記

また鬱的表情が現れてきた。気が沈みがちだ。何かいい方法はないのだろうか。音楽を聴きながら心を癒そうと思っていても集中力がない。ここ数日本を読む気力も湧いてこない。まるで断崖に佇んでいる気分だ。
私は世の中の流れから取り残されている。なにかが空回りをしている。世界が悪い方法に向かっているからだ。なぜ人々が寄り添うことが出来ないんだろう。この悪に中心が経済問題だ。経済が人間の持つ倫理観を破壊している。安倍政権の支持率がまた上がった。いまの国民はエゴがむき出しになっている。自分さえよければという思考が強い。中国人を非難している場合じゃない。心の温まるものが欲しい。何も出来ない虚しさに襲われている。もっと生きる強さを持てたい。

2013年11月17日 (日)

田川紀久雄日記

昨夜大きな地震があった。いま何が起きても不思議ではない世の中だ。夢ではいろんな夢を見た。シベリア抑留者の夢も出てきた。それに替え玉事件も夢の中であった。夢というものはかならず生きてきた過去の中に鍵がある。生きていて不安なことが多すぎる。
『哀しみを越えて』の詩語りを行なっていて、自分自身が泣いてしまった。このようなことは初めてだ。詩というものはだいだい自分を中心にして書かれているもので、それを他者に共感されることはなかなか難しい。自分が感動したものは大抵ダメな作品が多いといわれている。この度の詩集『寄り添う』も数人の人から返事がきただけである・それはそれでよい。他者から返信を貰いために詩をかいてきたのではないからだ。宮澤賢治ですら『春と修羅』を上梓して苦い思いをしたのだから。もう次の詩集を上梓したいと思っている。一年に四冊ほどは出してゆきたい。これは病気なのだろうか。生きていることがそもそもが病なのだといえる。

2013年11月16日 (土)

田川紀久雄日記

都電・バス・地下鉄まで六月から賃上げになる。パートで生活を維持している人達は、生活そのものが破滅する。お年よりは介護保険の値上げがある。アベノミクスは弱者いじめ以外の何物でもない。消費税がまだ上がっていないのに、なにもかもが少しづつ値上がりを始めている。
それに特定秘密保護法安は、悪法いがいのなにものでもない。これはアメリカとの関係があるのだろう。新大使としてケネディ大統領の長女キョロラインさんが日本にやってきたが、そう簡単に喜べる話ではない。TPPにしても日本は厳しい立場に追い込まれるのではなかろうか。国民は黙って見守るしかないのか。いま日本は若者達が結婚できる世の中を作ることである。しかし今の現実ではますます結婚する若者達が減ってゆく。それは未来が築けないからだろう。
とうとうUさんの個展にはいけなかった。妹のことやらで精神的にゆとりがなかったからだ。だんだん人との交流が少なくなってゆく。これも淋しいものだ。

2013年11月15日 (金)

田川紀久雄日記

古いパソコンが壊れてしまった。メールが出てこないのだ。操車場の書き手にDVDで原稿を送ってもらうしかなさそうだ。いまの新しいパスコンでもメールがうまくできない。なぜなのか私には解からない。パソコンもどんどん進化して行くので機械音痴な私にはこの新技術にはついてゆけない。そういえば野間明子さんのパソコンもメールが出来なくなったと言ってきた。
時代の進歩は確かに豊かさをもたらしている。しかしその反面何かが失われてゆく感じがしてならない。
来年の秋に上梓する予定の詩集『哀しみを越えて』の校正を行う。そして公園で聲を撃ってみた。この作品は妹のことを書き始めているので、ちょっと哀しくなる。いまの『寄り添う』の本が少しでも売れたら次の詩集を出したい。「操車場」や「たぶの木」の人たちには詩集を買っていただいた。仲間は本当にありがたい。しかし仲間が詩集を上梓しても私は買うことができない。誠に申し訳がないと思っている。年金も収入も無い私にはどうする事も出来ない。僅かな収入でも詩集を作るためには貯めておくしかない。本当に自分勝手な人間だと思っている。まあ哀しき人間なのだ。末期ガンになっても生かされているには、もっと自分の生き方に徹せよとい神様から言われているような気がする。そして哀しみと愛をもっと沢山描いてゆけと言われている。出来たら詩語りライブの仕事が欲しい。いまのその道が閉ざされている。そのことがとても残念である。

2013年11月14日 (木)

田川紀久雄日記

詩というものはやさしい言葉でどれだけ深い意味が表現ができるかというところに面白さがある。難解な言葉で中味のない表現こそ救いようがない。詩人はなぜ難しい言葉を使いたがるのだろう。他人の詩を読むのは、こんな詩が書けたらいいなという思いで読むことが多い。暇つぶしの為に詩を読む人間なぞいない。心が癒されたり、表現の素晴らしさに共感したりしたいものだ。でもそのような詩になかなか出会うことがない。自分の詩だって他人が読め同じことを思うのだろう。人に読んでもらえる詩などなかなか書けないものだ。詩を朗読することによってそのことが明確になる。朗読の必要性は聴き手にどのように届くのかが解るからだ。『寄り添う』を送った方から眼で読むのと、聲を出して読むのとでは違うものだというお手紙を貰った。詩人は書いたものを一度聲にだしてから発表することも大切なことだと思う。私は文章の推敲は聲を出して行なう。できるだけ読者に届く言葉を書きたいからだ。
妹の身体は、新しい治療を試みてみると医師が言うが身体に大きな負担がかかるかもしれない。妹も私と同じようにしぶとく生きている。

2013年11月13日 (水)

田川紀久雄日記

操車場79号の原稿の集まりが早い。あの二人だけである。この度は高橋渉二さんのエッセイが長いので、私の日記は掲載できないかもしれない。というのは40ページ近くになると今の私の体力では無理だからだ。コピーだけでも二日、製本でまる一日かかる。手つくりでの製作には限度があるからだ。
今日は午後から横浜市立病院に行かねばならない。妹の担当医師が話があるという。今年持つかどうかもわからない状況である。日々重さが私の心に襲い掛かっている。この恐ろしさから逃れるためには詩を書くしかない。
山形詩人83号のあとがきで詩誌を発送してもほとんど反応がないと書いてある。これはどこも同じかもしれない。そして詩集の返礼を書かない理由を三つ挙げている。ここではそれを載せない。それは誰もがそうだと思うからだ。詩を書くことは、発表していく同じことだと私は思う。だから返礼など当てにしていない。虚しいといえばそれまでであるがこれはやもうえないことだ。
詩誌受贈『山形詩人83号』「ERA・1号』

2013年11月12日 (火)

田川紀久雄日記

やはり詩集のお礼の返事がくることは有り難い。捨てたはずのものが返ってきた気持ちだ。それなのに私は詩集の返事をほとんど書かない。何故か書けないのである。要は自分勝手な人間なのかもしれない。反省してもこれは直りそうもない。
原発ゼロを叫ぶ団体に嫌がらせのメールを送りつけるという記事が新聞に載っていたが、これは悪質なことだ。そして今日は原発ゼロへ共闘という見出しで一面に載っている。「細川・小泉元首相『国民運動を』。原発ゼロは国民運動として展開しない以上安部政権での原発再稼動は止めることができない。この世で何が一番たいせつかというと『いのち』なのである。この地球上にいるすべてのいのちを守るということだ。そして助け合う心が求められている。それでも人の心の哀しみや苦しみをなかなか癒したり救うことが出来ない。だから私は詩を書かずにはいられないのだ。いま心を癒してくれる詩を沢山読みたいのだが、本当のところ私の心を癒してくれるものになかなか出会うことができない。それだけ個人個人の哀しみや苦しみに格差があるからだろう。詩の世界はやはり深淵の世界である。

2013年11月11日 (月)

田川紀久雄日記

台風30号がフィリピンを襲う。あの東日本震災と同じ規模の被害である。これからは予想外ということはいえなくなる。この地球そのものが怒っているからだ。日本は地震王国であり台風が多く押し寄せてくる。いま軍備を拡大している時ではない。そして一日は早く原発ゼロを達成していかなければならない。
私たちの暮らしはどうなるのかさえわからない。お互い同士が助け合う社会を作って生きたいものだ。小さな幸福でよい。もう大きな幸福など求めないことだ。心が温まる詩を読みたいものだ。

2013年11月10日 (日)

田川紀久雄日記

精神を安定させるには私にとっては詩を書くことだ。二三日詩を書かないと精神的に不安に陥ってしまう。これは病としかいえない。これは芸術家はだれでもがそうなのだと思う。自分の仕事をつねに追求して行くことが生き甲斐なのだろう。
詩集を上梓してもその後のことは何も気にならなくなった。誰かに誉めてもらおうなんていう気持ちはなくなった。早川さんの言葉ではないが、あげることは捨てることだという言葉で心が救われた。なぜ上梓するかというと、詩を語ってゆきたいからだ。ただそれだけのことだ。いまは人前で語りたいという気持ちは薄れている。K公園で納得のいく語りができることだけを目指している。書きたいものを書きそれを語れることだけで充分だ。あとのことはすべて捨てる気持ちでいればよい。
妹が退院したと思ったら、また入院だ。入院と退院の間がだんだん短くなる。私は先日銭湯といった帰り道急に歩けなくなってしまった。やはり運動不足の為なのだろう。K公園まで歩いていくのではなくオートバイで行っている。ほとんど歩くことをしない。K公園では散歩の訓練はしているが道を歩くのとは違って散歩とはいえないかもしれない。明日からUさんの個展があるがいけるかどうかは解らない。生きる気力だけは強く持っていたい。

2013年11月 9日 (土)

田川紀久雄日記

辻まことの『山の声』の中の絵はどれも素晴らしい。絵そのものが何かを語りかけてくる。現代の画家で絵そのものが語りかけてくるようなものがほとんど観られない。これは技術だけの問題ではない。その画家の生き方の中に答えがある。詩でもまったく同じことが言える。
詩で何が出来るのだろうか? ということよりもどのように人生と向き合いながら生きているのかを問うことが大切である。
季節の変わり目で身体がだるい。今朝は頭の思考がまわらない。

2013年11月 8日 (金)

田川紀久雄日記

久しぶりに『見果てぬ夢』を語ってみたが、あの当時のことが(末期ガン宣告)思い出されてちょっと心が痛んだ。それは、死を覚悟して書かれているからだ。でも詩を書くことであの当時の苦しみに耐えていたともいえる。詩というものはどうしても書かずにはいられない人だけが書くべきである。無理してまで詩を書く必要もないと思う。詩人は食事を取るように詩を書くという行為は同じものである。
今の国会でどんどん悪法案が成立していく。国民の代表である議員達がきめる法案には国民は黙って見守るしかないのか。日本の国民は大きいものに巻かれる習性がある。徹底的に権力と闘うことができない。戦前の詩人達を見れは、だれもが戦争協力詩を書いていった。この度の「秘密保護法案」は戦争への扉を開かせる要因に繋がる。何とかして廃案にさせることをしてゆきたいものだ。官邸前で市民抗議が行なわれたことがせめての救いである。日本はアメリカの植民地であることを感じることが多い。食料のことにしても……。いまのアベノミクスは弱者いじめの何物でもない。現に生活は日々苦しくなってゆくばかりだ。2060年にはこの国は老人だらけになってしまう。消費税もどんどん上がってゆくだろう。老老介護で自殺者も増加していく。あまりにも多くの問題が押し寄せてきている。みんなで助け合う社会を生み出していくしかないのではと思う。

2013年11月 7日 (木)

田川紀久雄日記

「操車場78号」と詩集の発送が終わった。最近は詩集を上梓したからと言って歓びを感じることがない。ただ生きることにつねに真剣でいたいと願うだけだ。五年前に『末期ガン』の宣告を受けた私にとっては生きていられること事態が奇跡なのだ。活かされていることに感謝をし、その上で自分のやりたいことに打ち込んで生きていられれば生きている意味もそれなりに納得できる。ガンで次から次へと亡くなっていった人たちを思えば、いい加減な人生を送りたくはない。生きることがどんなに辛くても生きていられることは幸せなことには間違いない。幸せに生きる生き方を詩を通じて描いていきたいものだ。
地球はまずます温暖化が進んでいる。世界中が経済発展を目指しているいま、この温暖化を止める方法はない。出来れば自然エネルギーの開発を願うだけだ。
福島原発のメルトダウンしたものをどうして取り出すのかその技術さえわかっていない。それなのに四〇年後に収束するなんてどうして言えるのだろうか。本当のところ福島原発の処理はまったく見通しが立っていないのではないのか? 今の自民党の政策は、国を滅ぼす何者でもない。目先の幸せだけを求めている国民になってはならない。未来の子供達の為になる生き方を求めて生きたいものだ。嫌なものは嫌だとはっきり言える国民になりたいものだ。

2013年11月 6日 (水)

田川紀久雄日記

今朝は寒い。もう半袖ではいられない。秋があったのかなかったのか分からない。今年の冬は寒いという。寒いのは身体だけではない。懐もさむい。世の中は景気が上向きなのか私には解らない。相棒の冬のボーナスは雀の涙ほどである。正社員は何十万ともらえるのに非正規社員は二万円程度。この格差は何だといいたい。私はいままで一度もボーナスというものを貰った記憶がない。何時の世でも詩人は貧乏があたりまえ。いま陶淵明を読んでいるが心が救われる。『桃花源の記』の世界にあこがれる。来年は桃の花を見に甲府まで行ってみたいものだ。かつては川崎にも桃畑があった。川崎は果物の産地であった。それは土地に塩分があるので果実に甘味が出るからだ。しかしいまの川崎にはどんどん高層ビルが建ち畑もなくなっている。
今日は『寄り添う』は出来上がってくる。この詩集はちょっと息抜きのような感じがしていたが、語ってみるとなかなかなものだ。書くテーマが決まっていても書き方によってその詩集の面白さが生まれる。どんどん詩集を上梓することによって、語りの稽古にも力は入る。一週間違った詩集を語りこむことが出来る。だから語りにはあきることがない。
詩誌受贈『水盤・12号』
詩集受贈『金堀則夫詩集・畦放』

2013年11月 5日 (火)

田川紀久雄日記

一つのことを極めるにも大変なことだ。特に肉体を通しての世界は年齢やそのときのコンディションもある。スポーツの場合は肉体的も限界がある。詩の朗読にも肉体的な限界があるのだろうか。老いてくると求められるのは味の世界である。すべて余分なものを捨てきった世界があるはずだ。今の私の詩語りはそこまでは行くつくことができない。まだまだ語りの入り口でおたおたしている有様だ。
聲というものは生まれつきなものだが、それを鍛えていけば素晴らしい聲になるかというとそうでもないことがある。一つのものを極めることは簡単な世界ではない。迷うと奈落の底に落ち込んでしまう。そこで求められるのは生命力である。負けてなるものかという闘争心がその底から這い上がらせてくれる。どんな小さな希望でも最後まで捨てないことだ。生きていることはなかなか厄介なことだが、それなりに楽しいものだと思うことが必要である。

2013年11月 4日 (月)

田川紀久雄日記

楽天が日本一になった。マー君は凄い。前日160球投げたのに9回に出てくるなんて信じられない。普通の監督なら止めさせるところなのにマー君の意地なのだろう。これは大震災でなくなって人達の声援がそうさせたのだろう。政治家達は何も出来ない。スポーツの力はもの凄く大きい。勝負事は勝ってナンボの世界である。
私の詩語りの稽古も、一回一回魂を込めて精進をしていかなければならない。魂の聲を作るのはやはり日々の生き方である。これは聴いていただく人の為でもある。人に感動を与えることそれが詩の語りでなければならない。それはひたすら自己との闘いでもある。

2013年11月 3日 (日)

田川紀久雄日記

楽天のマア君が連勝記録30勝でストップした。勝負事は何が起こるかわからない。私が気になるのは星野の監督の言動である。巨人に勝てると思った言葉の数々である。今日はどちらが勝つのかは予想もつかない。すべて終わってみてからあの時はどうだったかがいえる。プロであるからにはそれぞれ想像を越えた努力を行なっている。その努力があるから観客は銭を払ってまで見に行く。
詩人の世界で朗読のプロは生まれることがない。それはあくまで趣味の段階で終わっているからだ。それに技を磨けというと詩人はそれについて猛反発をする。本当に朗読する楽しみや面白さがわかっていないからだ。特に酷いのがオープンマイクである。審査も何もなくてずぶの素人がマイクの前で行なう。あれはとても聴いていられるものではない。まったくの向上心もなにもない。ただその場限りのもの。それと詩壇で行なわれている朗読の時間の朗読である。詩壇の中に朗読研究の場をつくってもと思うがそのようなことはまったく行なう気がない。いま天童大人の『詩人の聲』だけが自作詩を一時間近く語る場を作っている。この中から社会に通用する聲の持ち主が生まれてくるのか楽しみだ。そのためには真正面から聲と向き合うことだ。そのような詩人を育てることが大切なのである。

2013年11月 2日 (土)

田川紀久雄日記

ホテルの食堂の料理で誤表記と言い訳をしているがあれはまさしく偽装である。こんな言い訳が通るのは日本だけなのかもしれない。
人間は生きる目標を見失うと老いるのが早い。私の知人がここ数年で身体が衰えて車椅子でしか移動ができない。老いは心の問題が大きいことを思い知らされる。詩を書き続けていられるのは、他者にとって何も関係がないが自己にとっては大きな意味がある。といって詩人同士が仲良く話し合うこともない。このことがいまは淋しく思う。
『詩人会議・12』の詩誌評で「操車場・76号」が紹介されている。長谷川忍さんの「花」が良かったと、そして上野芳久さんの『原野』『地煙り』は「厳選された詩語で綿密に構築、リアリティを確立した見事な作品」とある。担当者はおおむら たかし氏である。丁寧に読んでくれている。感謝。この『詩人会議』では何度となく私の詩集も紹介されている。優勝作品を担当されているTさんからは私の詩集『いのちのひかり』を送り返された嫌な思いがある。
詩誌受贈『いのちの籠・25号』{詩人会議・12』

2013年11月 1日 (金)

田川紀久雄日記

昨日の楽天は勝ちたいという意志が巨人より勝っていた。野球は一人で行なうスポーツではない。あくまで一丸となって行なうものである。どちらが優勝するかはわからないが、ここまでよく楽天はやってきたと思う。それも個々の努力があるからだ。何事にも日々の精進がすべてを決めてくれる。
詩人の朗読でも熱い情熱のある朗読を聴きたいものだ。人が批判しても気にしないことだ。自分が目指してるものを常に求めていくこと以外にない。所詮詩の朗読はマイナーなものだからだ。そのためにもまずテキストを忠実に読み込むことから始めなければならない。基礎が出来ていないパフォーマンスなど何の価値もない。そのためにも聲を鍛えることが求められる。聲はウソをつかない。
安倍総理は死の商人になってしまった。原発を外国に売り込むことは、福島事故を起したわが国としてやるべきことではなかった。売り込むのなら自然エネルギー技術であるべきだ。福島や大震災のことを詩で書くのは、あくまで他人事ではないからだ。これは個人の問題なのだ。個人を深く掘り下げてゆけば全体性の問題に突き当たる。初めから全体性が存在するのではない。キリストの愛もそこに意味がある。隣人とどう向き合っていかねばならないのか。難しい問題である。憎しみと愛が入り混じった世界でもあるからだ。そのためにも個人を深く掘り下げることが求められている。中途半端な愛は詩のテーマに相応しくない。

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