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2013年9月30日 (月)

田川紀久雄日記

身体の調子が悪い。これは季節の変わり目だからではない。早い話が齢のせいであろう。いまの生活から出口が見出せない。
いま私は本物の詩語りを目指して精進をしている。精進をすればするほど難しさがわかってくる。詩というものは意味が摑めないところもある。そこをどのようにして乗り越えていけるのか。全体の流れの中で語ってゆくしかない。どんな仕事でもその道のプロになることは大変なことである。そのうえに日本には職人技という世界がある。芸事なら芸人になるということだ。生半可なことでは芸人にはなれない。人間的にはどうしょうもないが、芸をやらせたら日本一だという人が以前にはいた。もうそのような人達もほとんどいなくなった。いまのテレビのタレントたちはあまりにも酷い。

2013年9月29日 (日)

田川紀久雄日記

このとこと悪夢ばかり見ている。私の周りに誰もいなくなって、どこかの見知らぬ地を彷徨っている。それもスカートを穿いているのだ。奇妙な姿でいる。自分でも情けなくなってくる。夜中の12時頃に一度眼がさめてそれから三時過ぎまで眠れない。この湯夢は3時から4時の間である。四時すぎに起き上がり、いまパソコンの前に座っている。
上野芳久さんの詩で愛するものを失って後の生き方の苦しみを読んでいると、身につまされる。人によってはさっさと忘れてしまう人もいるが、その愛が深ければ深いほど忘れられるものではない。彼の詩集でこのた度の題が『架橋』となっていることの意味は一つの救いでもある。その苦しみから抜け出そうとすればするほど、また逆戻りをしてしまう。詩人にとって詩のあり方は順調ではない。このようなテーマは詩でしか表現できない世界ある。彼の詩一篇一篇にはとても疎かには読めない。だから私は詩語りを試みているのだ。詩語りを通じて彼の世界を再構築してみたい。何故私が詩語りをするのかの一つの意味も見えてくる。宮沢賢治の詩もそうであった。尼崎安四さんの詩もそうである。詩と語ることで再構築が可能なのである。黙読だけでは絶対わからない世界がある。詩はやはり語るべきものである。それも魂の叫びを込めて。

2013年9月28日 (土)

田川紀久雄日記

昨日川崎に出かけたが、途中で腰の具合が悪くなり、途中で帰宅した。用事ができないまま帰宅するなんて始めてだ。運動不足で肥満になりがちだ。銭湯に一週間ぶりにいく。東京だと老人のための銭湯の無料券が配布されているが、川崎にはそのような制度がない。家に風呂がないのでそのような制度が欲しいものだ。消費税が上がれば、銭湯代もまた値上がりするのだろう。いま450円だが二人で行くと900円である。一日の生活費になる。アベノミクスで多くの人たちが泣いている。貧しきものはより貧しくなってゆく。天を見て泣くしかない。
昨夜も途中で起きてしまった。眠れないので『夏目漱石全集』の二巻目を読む(岩波版)。若い時に読んだ書物を再読することでいろいろと考えさせられる。もう次から次へと新しい本を読む必要がない。いまは本を味わって読むことが求められている。ただいまは眼が悪いのでそれほど長い時間読んでいられない。読書は最高の暇つぶしだ。
長谷川忍さんの個人誌2号『街景』を読む。

2013年9月27日 (金)

田川紀久雄日記

今日柏崎原発6・7号機の再稼動申請を行なう。柏崎原発で東電の安全対策に問題が残る。ようは安全よりお金が重要なのだ。住民対する安全が何も確保されていない。いやそれ以前に原発はもうやめてもらいたい。鯨波から見る刈羽原発の建物は大きな不安を感じさせられる。そして原発再稼動には政府の思惑が感じられる。国民の意志と相反する考え方は安倍政権の方針なのだ。柏崎は私の生まれた故郷なのだ。
福島原発はいまなお危険な状態なのだ。プルトニウムが計測されていない。これは発癌性があり極めで毒性の高いものである。発表するのはセシウムだけが報告されている。国民の眼を欺いている。一度原発事故を起すと半永久人体に影響を与え続ける。原発はこの世に必要のないものである。

2013年9月26日 (木)

田川紀久雄日記

高須賀」優さんの展覧会の案内状がきた。その中で「描き続けなければ、描きつづけることはできない」と書いてある。また野澤義宣さんの個展の案内も来た。「僕も死ぬまで生きる。描きつづけます。」と書かれてあった。
詩人は画家のように個展を開かないが、個展の代わりとして詩集を上梓することである。絵を描いていたころ、個展は年に数回行なっていた。ほとんど企画であったので生活も助かった。川崎に越して来てからは、絵を描く場所がないので絵のほうは中止している。その代わり詩語りライブや詩集も年に2,3回上梓している。そのような意味では私は恵まれている。いつまでもこのようなことは続けられるものではないが、可能な限り行なってゆきたい。そのためには日々必死になって闘っていかなければならない。
妹がまた入院した。近いうちにまた病院に行かねばならない。母のときもそうであったが、ガン患者を見るのは辛い。なぜ私だけがガンから生還が出来たのだろう。やらなければならない仕事があるからだろう。来年は詩語りライブを増やしてゆきたい。

2013年9月25日 (水)

田川紀久雄日記

いろんなことを考えてほとんど眠れなかった。考えてもどうにもならないのにと思っても考え込んでしまう。鬱状態なのだろう。
詩人の朗読を聴いていると、本当に語りたい詩を朗読しているのか疑問に思うときがある。本当に語りたいのだという気持ちが聴き手に伝わってこないことが多い。朗読する情熱が感じられない。いやいやながら朗読をしているのではないかと思うときもある。
詩を書けばその作品は残るが、いくら朗読をしても何も残らない。だからこそ命懸けでそれと向き合っていなければ聴き手に何の感銘も与えることできない。語り手と聴き手が今という時空の中で感動することが出来れば、まさに幸せな世界をつかむことができる。これは多分この世の中でもっちも素晴らしいことなのだろう。そのことの為に日々の闘いがある。より稽古で苦しむことがそれを可能にしてくれる。苦しみ悩みのないところでは何事も成長しない。
私は死ぬ瞬間まで詩を書くことと、詩語りの夢は捨てたくはない。そのためにこそ何とか生活の糧になる仕事をしていかねば……。

2013年9月24日 (火)

田川紀久雄日記

詩というものは毎回優れた作品が書けるものではない。書くことの中からしか良い作品が生まれてくる。昨日も一篇の詩を書いた。私は頭で書く詩はあまり好きではない。心に残る詩は、その人の生き方と密接なつながりを持っている。今の日本の社会からはなかなか優れた詩は生まれにくい。ピカソの絵だって本当に優れたものは少ない。何万点も描くから優れたものが生まれてくる。詩でも書いて書きまくることが大切である。年に四編だけなんて詩人ではない。詩は発表するために書くのではない、あくまで書きたいから書くのでなければならない。
詩誌が送られてきても印刷が薄いものが多くなっている。眼の悪い私には読みづらい。詩はまず読みやすい活字と印刷が大切である。詩というものは味わう文化でもある。印刷技術もどんどん発達しているが、それが綺麗に印刷することより、安く早く印刷するようになってきている。詩というものは絵と同じに贅沢なものである。それは心を豊かにするものだから。
詩誌受贈『グッフォー60号』

2013年9月23日 (月)

田川紀久雄日記

今の日本人は少し頭がおかしくなっている。オリンピックにしても冷静さが失われている。以前石原都知事はオリンピックを誘致したら、東京は多くの森林を作るといったが、いまの猪瀬都知事は何もそのことに触れていわない。それに批判精神が希薄になっている。何をいってもダメなのだから、という気持ちがこの国をダメにしてしまう。憲法の問題は国民が一人ひとりの強い平和への意志が求められている。戦後一度も戦争をしなかった憲法は優れたものである。兵隊にとられる心配もない世の中であった。本当の平和のありがたさを問い直す時期に来ている。平和とは相手を思いやるこころである。確かに平和ボケになっているのかもしれない。
相棒も私も私たちの未来に対して不安を感じている。何としてでも生活の道を見出さなければ好きなことも出来なくなる。こう物価が上昇していけば相棒のパートでは生活が出来なくなる。まず私が前向きな生き方を求めていかねばならない。まず詩語りは趣味であったはならない。お客に聴かせる力を持たなくてはならない。そして営業を……。愛と平和を求めて生きてゆきたい。

2013年9月22日 (日)

田川紀久雄日記

昨夜の夢は、ホタルが飛び交う、そして鶴が池のほとりにいる。お彼岸でこんな夢を見たのだろうか。
村上春樹著『神の子どたちはみな踊る』を読む。家にある本を読んでいる。
昨夜バングラデシュの洪水の映像を見たが、温暖化の影響は物凄い勢いで進んでいる。資本主義はたんなる消費文化にかすぎない。今の私たちの生活はあまりにも醜いものだ。オリンピックでますます消費が高まっていく。そのあげく温暖化が進む。消費文化は他者の痛みを汲み取らない社会である。世界では食料に苦しんでいる民が多くいる。日本の気候もだんだん熱帯化に向かっている。今週に、また台風が来るという。
いまの日本人を見ていると、神や仏から見放された存在者のように思う。みんなで助け合う精神が消えかけている。アベノミクスでますます貧富の差が拡げられていく。被災地に対して絆運動がいつの間にか消えかけている。生きていることが辛く感じる。

2013年9月21日 (土)

田川紀久雄日記

今日宮澤賢治の没後80年。いま宮澤賢治はどのように読まれているのだろう。一般的には「雨ニモマケズ」的な印象ではなかろうか。それは敗北者の思想なのだ。私も見果てぬ夢を追いかけている。それは私たちの詩語りが世に受け入れられる夢である。でも消極的な生き方ではない。つねに夢に向かって闘っている。努力家でもある。多分今の詩人の中では一番詩語りに研鑽しているのではなかろうか。詩人の世界は仲間同士の狭い世界で成立している。朗読には詩人の知名度など無関係なのだ。といっても詩人達は無名な人など相手にはしてくれない。それでも黙々と自分の生き方を求めていくのが本物の詩人の姿である。
やっと『季節めぐり』を書き上げた。もうすぐ一冊にまとめられる分量になる。今年中にはもう一冊詩集を上梓したい。本の小部数でよい。謹呈する詩人もあまりいない。自分の思い出として残しておきたいだけになっている。できればそれらの詩集を語っていけたらと思うだけだ。今日公園で宮沢賢治の詩を語ろう。生誕百年のときは花巻に行って碑のある場所で相棒と語った。

2013年9月20日 (金)

田川紀久雄日記

昨夜中秋の月を見ていたら、突然雷が三回も光った。雲が一つもないのに。テレビでも何もいっていない。不思議な現象を見たのだろうか。それからしばらくしたら地震を感じた。
二日まえから『季節めぐり」という詩を書いているのだが、なかなかまとまらないでいる。このところ妹に関する詩を書いている。
安倍総理は福島原発の5号機・6号機の廃炉要請をした。廃炉にすると思っていたが、まだ東電では決めていなかったのだ。安倍総理はオリンピックを睨んで世界にアピールするために使われた感じだ。オリンピックという言葉で国民は踊らされている。以前の万博と同じだ。私はこのような催し物には一切興味が引かない。日露戦争のときのお祭り騒ぎのように感じてならない。
上野芳久さんお『架橋』の語りを行なっているが、行なうたびに何かを感じる。詩というものは言葉で説明は出来ないが、感じることによって詩の面白さが解る。これは理屈ではない。詩というものは聲を出して何度も読むことで詩の深さを味わうことが出来る。一度ぐらいの黙読では詩を味わうことは出来ない。そのような意味で詩は音楽に近い。
詩集受贈『甲田四郎詩集・送信』

2013年9月19日 (木)

田川紀久雄日記

だんだん詩人同士の付き合いもなくなってきている。近くて遠い存在者のようだ。若いときのように何でも話し合える友がいない。これは老人になると誰でもが感じることかもしれない。老人が頑固になってゆくのも頷ける。
中小企業は消費税が上がると大変だ。商店は潰れるところもあるだろう。パート社員の時給も上げることが出来ない。安倍総理は五兆円をばら撒くという。何のために消費税を上げるのか意味が解らない。年間二百万円以下の所得者に一万円をというが、消費税やもろもろの物価の値上げで年間八万円を出て行く。
昨日久しぶりに『鎮魂歌』を語った。被災地で一度は語ってみたいと思っていたが、とうとう出来なかった。インターネットと調べると『鎮魂歌』の英語版が出ている。何だかよく解らない。英語はまったく読めない。というのは私はアメリカに負けたという意識が少年時代から強く持っていて、そのために英語はほとんど学ばなかった。英語よりフランス語に力を入れていたが、今はそのフランス語も読めなくなっている。
未来に対して不安を感じながらも、いまだ詩語りで何とかしたいと夢を繋いで生きている。ゆっくりと歩いていくしかないようだ。

2013年9月18日 (水)

田川紀久雄日記

みのもんた問題で週刊誌がたたいている。ほんとうに週刊誌はくだらない。みのもんたの原発問題での功績は大きい。原発推進派の嫌がらせではなかろうか。親は子供の責任をどこまで償うかは私には解らないが、基本的には親と子とは別な人格であるから、ある年齢になったら親の責任は必要以上問い詰めることは止めるべきである。
生活保護減額は不当ではないのか。これは憲法違反にあたいする。いま物価はあがったり消費税の上乗せで生活が大変なのに保護費を削減しなければならないのか。国はほんとうに弱いもの虐めばかりだ。それに対していま高級マンションが馬鹿売れである。貧富の差がどんどん拡がっている。わが家でも相棒の給料日まで生活費は底をついている。生活の困窮は不眠症の原因の一つにもなる。
やっと秋らしくなった。語りの稽古にも力を入れていきたい。詩の朗読は本当に難しい。難しいから何とかしたいと思う。批判するのは簡単だが、本当に人に聴かせる朗読が出来るかというと誰もできない。安藤鶴夫著『雨の日』を読んでいる。芸の向上をつねに目指していないと芸などはすぐに錆び付いてしまう。一日でも怠ると生きている気がしなくなる。私は一日二時間ほど聲を打ち込んでいる。でもなかなか思うようにはいかない。大きなホールでも何度もマイクなしでライブをやってきた。

2013年9月17日 (火)

田川紀久雄日記

安倍総理の人気がまた上がった。世の中はどのようになっているのか。かつて田中正造が国民はこまったもんだと嘆いた気持ちが良く解る。国民とは一番だいじなのは自分である。そこが基本なのだ。オリンピックで経済効果があがればそれだけで浮かれてしまう。消費税が上がるのに、それにはそれほど反対しない。しょうがないという感情程度だ。汚染水問題はどうなるのだろう。昨日の大雨で一部の汚染水が海に流れ出している。
昨日は激しい下痢に苦しんだ。昨日は敬老の日であった。
老人が日本人口の四割が老人だという。老老介護の問題はなんとか解決してもらいたい。消費税を社会福祉に全部使ってもらいたい。消費税という言葉でなく福祉税とすべきだ。福祉税なら私も賛成する。福祉を守るには25パーセントの消費税が必要と言われている。この日本は何処へむかっているのかさっぱり眼に視えてこない。

2013年9月16日 (月)

田川紀久雄日記

台風18号が関東に接近中。
昨日詩が書けた「新しい世界へ」。詩が書けないときは精神的のも不安定になる。と言って常に詩のことばかり考えているわけでもない。自分の生き方に迷いを感じるときに詩が書けることもある。私の場合書くことによって考えると言った方がよい。書くということは抽象的な世界を具体的な世界に転換することであるからだ。言葉というものはつねに具体的な世界に近づけてくれる。だから書くことによって精神的にも安定するのだろう。
原発が全部停止した。今年の猛暑でも電力は充分足りた。原発の再稼動など必要はない。何故危険なリスクを負っても原発を再稼動したがるのだろう。これからは自然エネルギーでやっていけるはず。安倍総理が外国に売り込むためなのか。まさに死の商人としかいいようがない。安倍総理の原発に関する認識の低さにはあきれ果てる。汚染水問題にしてもオリンピック誘致のためウソをつく。オリンピックは福島の住民が戻れる状況を作ることに意味があるのではないか。被災地の人達の復興をなくしてはオリンピックは何の意味もない。アスリートたちはより復興の願いを強く持ってもらいたい。オリンピックは平和の祭典であることを忘れないで貰いたい。

2013年9月15日 (日)

田川紀久雄日記

詩とは何だろう。言葉の遊びなのだろうか。書く人それぞれの意見もあるだろう。私の場合は、生きることを探る手段として詩を書いている。末期ガン宣告以前と以後とでは大きく変った。いまの私は自分が書いているものが詩であるかないかは分からない。詩という形を借りて生き方を追求している。だから私の著書には詩集という言葉を外している。いまは数人の人に読んでもらえればよいと思っている。
詩語りに行き詰まっていたが、昨日の稽古で何かを見つけたような気がした。このことをいま詩に書いているが、なかなか出来上がらないでいる。ただひたすら語ることに徹すること目指してゆきたい。そのためにはもがきながら聲を天に向けて打ち込んでいる。苦しみ悩むことが多ければ多いほど何かを見出せる。聲を出しつづけ、思考し、そして詩の形を借りて言葉にしていく。これがいまの私の詩を生み出している。
今年は妹のことがどうなるのかわからないのでライブは行なわない。時間が許す限り語りの世界を精進して行くだけだ。いまは本当に詩を語ってみたいと思う気持ちが強くなっている。いつか上野芳久さんの詩も語ってみたい。そして高畑さんの詩も。

2013年9月14日 (土)

田川紀久雄日記

福島原発の近くで牛が飼われている。放射能に汚染された牧草を食べているが、政府はそれを禁止することをいっていた。牛を生かすことによって、放射能の影響を調べるには最適であると飼い主は説明である。確かに政府は都合の悪いものはすべてないものにしたがる。牛にとって生きることは良いことなのか私にはなんとも言えないが、世界でも類のない貴重な資料になることは間違いがない。人体の放射能もちゃんと調べていない。できれば放射能の影響などないことにしたい。汚染水問題とおなじことを政府は言いたいのだ。牛は六五〇頭もいるそして新しく生まれた牛もいる。二〇〇〇頭近い牛が処分されている。政府は経済発展をするためには犠牲など構っていられないというのだろう。日本の公害問題を見れば昔も今も少しも変っていない。
私たちが作ってきた国は、常に権力者の為のものである。それも一握りの権力である。詩人はこのことに眼をつぶってはダメである。かつて詩人のほとんどが愛国詩(戦争協力詩)を書いてきたようになってしまう。
詩の読者など数人いればよい。だから自分の世界を構築することを求めていくしかない。

2013年9月13日 (金)

田川紀久雄日記

消費税が予定通りに決まる。それも社会保障費にはそれほど使われない。アベノミクスに利用されてしまう。国民は自民党に票をいれたが、その結果裏切られる。アベノミクスはオリンピックまで食い物にしてしまう。政府はそのうえ『秘密保護法案』の成立をもくろんでいる。国民の眼をオリンピック向かわせている間に憲法改正まで行なってしまいそうだ。経済という言葉を餌に国民の自由を奪ってしまう。
こんな世の中は嫌だといっても、この世の中からは逃げられない。弱い立場の人達に対して優しく付き合って生きていたい。生きる歓びを感じられる詩を一篇でも書きたいものだ。昨日『迷路の中で』という詩を書いたが、私はいま大きな穴に落ち込んでしまっている。詩語りに自信を失いかけている。そこから何とか立ち上がりたいと必死にもがいている。この苦しみはきっと語りを行なうために必要な時期なのだろう。本気になって苦しみを味わうしかない。

2013年9月12日 (木)

田川紀久雄日記

世の中が景気が良くなったというのはありえない。やけのやんぱちで貯金を下ろして使っただけの話ではなかろうか。国民はわりあい貯金を蓄えているから。パートの賃金が上がったという話は聴いたことがない。株でもうけた人もほんの一部だと思う。政府は着実に消費税の値上げを準備している。庶民の家庭は日々大変になっている。
福島原発の地下水の汚染濃度が高くなっているという。これは安倍総理の安全説とはまったく異なった事実が現れている。昨日で大地震から二年半であったが、被災地は少しも良くはなっていない。仮設住宅はまるで姨捨山を思わせる。オリンピックは、この被災地の人達が幸せにならない以上、それは虚しいものである。ああ心が痛む。詩人達の絶望の聲はいまこそ大切なものになっていってもらいたい。絶望を通してなんらかの明かりを追い求めている。詩人の存在理由はここにある。たった一人になってもこの絶望と真正面から闘いを挑んでいる。私の朋はこのような人達である。
妹のことでここ不眠が続いている。語りが一つの明かりになることを願って精進して生きていたい。そして絶望と闘っている詩人の詩集を語りたい。私にそのような時が来るのだろうか。
詩誌受贈『国鉄詩人・261号』

2013年9月11日 (水)

田川紀久雄日記

病院の医師と話し合う。妹の身体が持っても三月以内という。いつどうなるか解らない状態であることには変らない。学園の先生達に頭が下がる。私もなんとか詩語りで人に勇気づけられる語りをしたいものだ。何のために語りを行なうか詩でそのことを追求している。精進していてもなかなか納得のいく語りができない。生きていることが辛く感じてしまう。
足尾銅山の公害問題も洪水対策に問題を摩り替えてしまった。今度の原発事故もオリンピックで覆い隠そうとしているのではなかろうか。原発事故で避難しているひとたちが25万人以上いるということを忘れてはならない。東京は原発事故の影響はないという言い方は福島の人達にとってやりきれない言い方だろう。電力は東京のために使われていた。オリンピックで有頂天気分を見ると情けなくなる。
詩人は一番弱い人達に眼を向けていなければならない。何も出来なくても、そのような思いを持つことが大切なのである。世の中が狂っているとしか思えない。いやこれは明治以後そうであった。国の発展は国民の犠牲によってしか出来ない。靖国問題もちゃんとして議論がなされるべきである。いつまでうやむやにしておくのか。これで憲法が改正されたら、考えただけでも怖ろしいことだ。

2013年9月10日 (火)

田川紀久雄日記

今日は午後から横浜市立病院にいく。
汚染水問題で安倍総理はひたすら安全性を強調した。これはいままでの原発政策と何ら変らない。原発は安全です。国民も国民だ。汚染水問題はそう甘くはない。福島の漁師達の怒りはおさまらない。仮設住宅に住んでいる人達の聲はあまりに哀しすぎる。日本人には(お・も・い・や・り)の心がといった人がいるが、政治家にはそのような人はいない。
七年後の日本はどのようになっているのか想像ができない。このまま異常気象が続いていけばどうなるのか、そして福島原発にまた何かが起こらないとも限らない。私たちの生活生態が崩れていっている。オリンピックという言葉でこのようなマイナス面を覆い被せようとしている。いまのオリンピックはスポーツというより国の利益のために行なわれている。スポーツの楽しみを忘れている。ひたすら過酷な競技でしかない。負けた人にも大きな拍手をといいたい。

2013年9月 9日 (月)

田川紀久雄日記

夏目漱石の『こころ』を読んでいるが、少しも古さを感じない。二十代の頃に読んだが、いま新たに読み返し見るとその当時視えていなかったものが、視えてくる。古書店で夏目漱石全集は安く売っている。買ってもういちど漱石を読みたくなった。
東京オリンピックが決まったことによって柏崎原発再稼動の可能性が高まった。原発ゼロでオリンピックを行なってもらいたい。そのためには自然エネルギーの開発が求められる。そして福島の人達のことをもっと考えていかねばならない。東京だけが浮かれていたらこの日本は終わりである。

2013年9月 8日 (日)

田川紀久雄日記

いろんなことを考えていると眠れないものだ。ある意味で私は不眠症なのかもしれない。悩みから逃れる方法は自分の好きなことを行い続けることである。私の場合は詩語りの稽古に打ち込んだり、詩を書くことである。なんとか前向きで生きていたい。昨日『喪服』という詩を書いた。これは二日もかかってしまった。
日銀の黒田総裁の消費税発言は国民を無視したものだ。日本をダメにする一人かもしれない。福祉政策もだんだん弱いものいじめが進んでいく。ようは国の借金があまりにも大きすぎるからだ。老人達が運動できる場を多く作ることが大切である。病気をしないで生きる方法を選択すれば医療費も節約できる。
東京オリンピックの話題で報道は異常だ。もっと福島のことを考えるべきなのに。いまの日本人は頭がどうかしている。いま自分に出来ることは何かを求めていくしかない。どんな小さなことでも行なうことが大切なのである。

2013年9月 7日 (土)

田川紀久雄日記

いま精神的にまいっている。昨日喪服を買いにいく。詩人とは嫌な生きものだ。心の状況を詩にしようとしているからだ。いままであまり妹のことを詩で書くことをしてこなかった。いま書くことで現状を乗り切ろうとしているのかも知れない。エクリチュールとはそのようなものだと思う。高橋馨さんがエクリチュールについて追求してきたことが、私なりにも考えていたからであろう。言葉とは存在の重さに等しいものでなければならない。詩を書く行為というものは存在の重さをどのように書いていくかという問題である。上野芳久さんの詩はそのような意味でとても心にのしかかってくる。だから彼の詩を語ることによって、彼の魂のあり場を確認したいからでもある。
アメリカのシリア攻撃を行なうことは誤りでしかない。ベトナム・イラク・アフガニスタンから何も学んでいない。オバマさんも以前の大統領と少しもかわらない。
いま私たちは福島の人達の苦しみを忘れている。原発には決して安全という言葉はない。原発は一度事故を起せば科学兵器と同じである。本当の平和を求めるのなら、原発ゼロにしていかなければならない。経済優先の世界からいのちが優先な世界を目指していくことが求められている。

2013年9月 6日 (金)

田川紀久雄日記

原発を批判するタレントや国会議員たちは私生活のたわいない話でたたかれている。週刊誌も最低な雑誌になっている。
いまの若者達をただモラルの面から批判しているが、非正規社員の労働条件は最悪である。この問題は根がもっと深いものがある。企業優先だけの社会構造になっている。そこには人間としての存在が認められていない。あくまでも彼らは物なのだ。顔のない人間として存在しているだけだ。世界全体が経済戦争に巻き込まれている中では、利益だけが求められている。人間の小さな喜びや哀しみなど阻害されている。文学という世界はそのことを追求しているのではなかったのであろうか。出版社も売れる本しか作らなくなっている。原稿料で飯が食える作家などほんの一握りしかいない。商売抜きにして発行できるのは自費出版のみである。反響はほんの僅かしかなくても存在理由は大きいものがある。
昨日福田知子さんから温かいお手紙を頂いた。そしてユーチュウーブのことにも触れてくれている。いままで誰一人として私の聲について触れた人はいなかった。詩人の朗読に対して詩人達からも冷たい眼で見られている。哀しい世界である。
詩集受贈『高橋秀明詩集・捨児のウロボロ』
詩誌受贈『詩的現代・6号』
操車場に参加している人の作品を読む。冨上芳秀さんは詩を毎日書いているのだ。高橋馨さんのエッセイも力作である。「生命的なエクリチュールへの転換を描いてみせている。」という彼の言葉にも説得力を感じる。

2013年9月 5日 (木)

田川紀久雄日記

今日は定期健診である。午前中は病院である。
昨夜、妹が危ないという電話が入る。近いうちに横浜市立病院に行き担当の医師と話し合いをしなければならない。喪服を買わなければならない。精神的な疲れから激しい下痢をした。
「COAL SACK76号」を高畑耕治さんから送られてくる。『死と愛。たきぎと、ぼたもち、(美しい国、星の王子さま)』長編詩が掲載されてある。童話風な詩の中にシビアな問題提起さがれている。読み応えのある作品に仕上がっている。夜、高畑さんと電話で話し合う。
国は水漏れ対策に国費で行なうという。それは東京オリンピック誘致の為なのだろうか。技術的な問題が論じられていない。ただ予算だけが論じられている。東電は相変わらず柏崎原発の再稼動を勧めている。福島原発が何も解決されていないのに、ひたすら利益だけを追求している。国民のいのちより利益が占有する世の中では資本主義といえどもその企業の存在理由を失っている。やれ切れない世の中だ。
詩誌受贈『COAL SACK76号』鹿・132号』

2013年9月 4日 (水)

田川紀久雄日記

山本太郎議員の私生活を暴露することは何の意味もない。あくまで政治家は政治家としての仕事で評価すべきである。週刊誌もどこからお金を貰ってやっているのだろが、なさけないありさまだ。
最近の新聞もテレビも最悪である。みんな国の圧力に怯えているかのようだ。大正時代の自由がだんだん失われて行った時のような感覚にかられる。
詩人達の関係は、あくまで相手の詩に対する尊敬の念から出発したいものだ。詩人というものはどこか幼児性が残っている。そして自分勝手なことも多い。ある意味では社会性に適合しない。だからこそ、しが画懸けるのではなかろうか。萩原朔太郎、中原中也・宮澤賢治にしてもはっきりいえばまともな人間ではない。欠陥だらけである。詩が生まれる原型というものはそのようなものの中にある。私だって愛をうたいながらも、あり意味でエゴイストである。立派な人間ではない。だからこそ詩を通じて夢を語っているのかもしれない。私は来るものは拒まず、そして去るものは追わない。あくまでも詩がよければすべてが許される世界にいる。一般社会の価値観とは異なる場所で生きている。

2013年9月 3日 (火)

田川紀久雄日記

コピー機が調子が悪い。そろそろ買え変えの時期なのかもしれない。我が家のコピー機は印刷用と使用しているからダメになるのだろう。昔と違って割合安く変える。しかしインクの値が馬鹿高い。
昨日関東でまた竜巻が起きた。九月は一番竜巻の起こる件数が多い。災害に会った人はどんなに辛い思いをしているのだろう。県や国の支援が欲しい。
昨日はモーツァルトのピアノ協奏曲を一日中聴いていた。美しいがあるどこか狂気じみているところがある。

2013年9月 2日 (月)

田川紀久雄日記

東電の水漏れ対策はお粗末すぎる。なぜ東電を日空のように破綻処理をしないのか。それは銀行を潰さないようにしているだけのこと。本気で政府も福島原発に向き合っていない。国が水漏れ対策に行なっても本当に大丈夫なのかという疑念がのこる。
操車場の原稿も集まった。きょうと明日で印刷が出来る。
妹のことも心配だが、まず仕事をこなしていかねばならない。それにこの暑さの中を病院まで行くにはちょっと辛い。
詩誌受贈『笛・265号』

2013年9月 1日 (日)

田川紀久雄日記

他人の詩を読んでいて、この人はどの程度の人生の深みで書いているのかが解る。私の求めている詩は、たんなる詩ではなく、生そのもののあり方を追求している詩なのかもしれない。そのような意味で言えば私は現代詩の読み手ではないのだろう。詩は宗教でもなければ人生論でもない。詩を支えているのは魂のあり方である。誰でもが魂の聲を求めているのだが、なかなか共感するものに出会えない。詩人は何千人いるかもしれないが、この人は本物の詩人だという人になかなか出会えない。そういうお前はどうなのかと問われればまだまだ未熟者ですというよりほかはない。
操車場の原稿がまだ揃わない。印刷ができない。
高畑耕治さんのブログに坂井のぶこ詩集について書いている。涼しくなったら彼と一杯やりたいものだ。

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