無料ブログはココログ

« 2013年7月 | トップページ | 2013年9月 »

2013年8月31日 (土)

田川紀久雄日記

木山捷平著『玉川上水』を読む。いま家にある本を片っ端から読んでいる。太宰治の実家を訪れたのは、泉谷栄さんに案内されていった。あのころ栄さんもわりと元気であった。いまはお互いが病に犯されている。もう二度と弘前には行くことがないだろう。彼にはいろいろとお世話になった。
今日で八月もやっと終わった。

2013年8月30日 (金)

田川紀久雄日記

今日猛暑日になるという。この暑さは」これで最後なのだろうか。
『嶺・39号』の原稿が入稿する。坂井信夫さんのお陰でとても助かっている。今月はいろいろと出費がかさんだ。ガスコンロや台所の流し台を取り替えたりした。それに電気代もクーラーの使用で割合かかってしまった。
妹の病気も心配だ。眼に見えないお金が出て行く。ああ、詩語りの出前があれば助かるのだが……。そして12月頃には私の詩集も上梓したい。
詩誌受贈『柵・選集』

2013年8月29日 (木)

田川紀久雄日記

消費税の聴き取りが行なわれているが、茶番劇のように思えてしょうがない。なにしろ消費税を何しろあげていかなければ、福祉政策が成り立たなくなるのだから。といって消費税の全部が福祉に使われるわけでもない。まずいまの日本国は火の車である。福島原発と同じ状態である。だからと言って貧しき人達を置いて簡単に値上げしてよいかというものでもない。今年の十月からはいろいろと値上げが始まる。収入も上がらないのに、物価や消費税が上がるだけでは国民は干上がってしまう。ここにきめ細かい対策が求められる。
このところ気分が落ち込んでいる。やはり不眠が続いているせいかも知れない。それでも昨日詩を一篇(不安な影)書いた。書くことで精神的な安定が求められるからだ。これからも温暖化されてゆくのだろう。これは豊かさをもとめてきた人間への警告なのだ。

2013年8月28日 (水)

田川紀久雄日記

妹がまた入院をした。八月が危ないといわれていたが、とても心配だ。私は何も出来ない。
詩人の哀しさが迫ってくるだけだ。この哀しさを大切にして生きて行くことが精一杯な生き方しかできない。
佐藤忠良著『つぶれた帽子』を読む。

2013年8月27日 (火)

田川紀久雄日記

昨日詩を書いた「語れる歓び」という題である。これは上野芳久詩集についてである。公園で天に向けて語っている姿を描いた。出口が塞がれていても生きようとする姿を描きたかった。被災にあった人たちに対しても、生きてゆく夢を見出してゆきたいからだ。何処にもライブがなくても語りの稽古にひたすら精進をしていたい。津波の被害にあった場所にはいけない。出来れば子供達に語りを聴かせたいと思っても、何処からも話がない。でもいま私が公園で語りの稽古をしていることは、苦しみ哀しんでいる人達に向けて語りを行なっている。そのことで充分である。この生き方の中で詩語りが間違いなく成長してゆけるのである。冬の寒さに耐えてこそ春が迎えられるように……。苦しみのなかにこそ幸せが隠されているのかもしれない。

2013年8月26日 (月)

田川紀久雄日記

いまの世の中で孤立化されている人達が増えている。だれも友達がなく一日中部屋に閉じこもっている。そういう私も相棒のほか誰とも会話がない。だからと言ってそれほど孤独ではない。やりたいことが沢山あるからだ。人が生きることはやはり何かを生み出す作業をすることではなかろうか。それは何でもよい。ゲームに熱中して時間を潰すなんて最低なことだ。
みんなでなんとか世の中を良くしようと思う気持ちが失せているような気がする。それは選挙に如実に現れている。いい加減な安泰など返って自分達を不幸にしていることもある。マルクス以後世の中を変える大きな思想は生まれていない。資本主義も末期的な状態でありながら、それを乗り越えていく思想が生まれない。相変わらず世の中では戦争が行なわれている。みんなが幸せになれる思想はないものなのだろうか。人間にとっての業がいつも躓きのもとになる。自分さえよければという考えがあまりにも蔓延しすぎている。いま個々にとっての宗教観を深めて行くときなのかも知れない。

2013年8月25日 (日)

田川紀久雄日記

もうこの日本は崩壊しているのかもしれない。福島原発と同じことが起こっているのだろう。アベノミクスは生命としての最後のあがきなのかも知れない。この日本を救済するには百八十度思考を回転する必要がある。TPP交渉だって失敗するだろう。消費税を上げるのになぜ医療費負担まであげる必要があるのか。いまの国会議員は外国視察に出向いているが、このようなムダな費用はあっさりと認めてしまう。まったく国民を馬鹿にしている。震災の復興が進まない日本。哀しいね。
上野芳久さんの『架橋』もだんだん詩語りの世界になりつつある。このところ毎日聲をあげている。未来を求めて必死に生きている世界がある。いまの世の中で本当に信じられる世界を見出してゆきたいものだ。

2013年8月24日 (土)

田川紀久雄日記

一度書いた詩を聲を出して読むと、その詩の持つリズムがわかる。このことは大切なことである。詩にとってリズムは重要な問題である。眼を言葉を追うのと、聲を出して言葉を追うのとでは雲泥の差がある。送られてくる詩集で良いのかなと思って朗読してみると、どうにもならないものが割りに多い。つまり言葉が観念のまま表記されているからだと思う。優しい言葉だから良いというのではない。言葉がその人の肉体にどれだけ食い込んだところから出ているかということである。言葉は遊びとしても使われる。私はあまり遊びとして使わない。それはあくまでもリズムとして使う場合がある。
私は知らないメールを開かない。メールからウィルスが入り込むからだ。パソコンの扱うのが不器用なもので何かがおきたら困るからだ。
昨日伊藤芳博氏から、励ましのハガキが送られてきた。彼は多治見に住んでいる。暑いところだ。加藤正義さんのお墓まいりに行ったことがある。ときどき加藤さんのぐい飲みでお酒を飲んでいる。処暑がすぎたのに相変わらずの暑さだ。
今月の「操車場」に原稿はあと一人だけだ。

2013年8月23日 (金)

田川紀久雄日記

藤圭子が自殺した。あの聲はどくどくなものであった。父親が浪曲師、母が三味線。低音が素晴らしいが高音が伸びのある聲であった。彼女はあまりにも孤独でありすぎたのだろう。何かまた一つの時代が終ったような気がしてしまう。
詩の朗読でも魂の底から吹き上げてくる聲を出せる詩人は皆無である。聲というものは天性なものかもしれない。いま上野芳久さんの『架橋』を少しづつ語りを始めているが、やっと詩のリズムが視えてきた。彼の孤独感は生きようとする闘いのものであることに私は共感するのだと思う。隣人を愛することは、詩を語ってゆくことの中で見出してゆきたい。
いま世界中が異常気象だ。これは自然現象というよりも、人間が生み出した環境破壊に原因があるのかもしれない。人間とはいかに愚かな生き物なのだろう。エジプトやシリアも人間の愚かさを痛感させられる。いまの日本も危うい世界になろうとしている。
福島原発も水漏れ対策が解決の見通したたないでいる。国の危機に国は立ち上がろうとしない。海に流れ出した放射能物質を魚たちが取り入れ、その魚を私たちの食卓にあがる。TPPでも私たちの生活は破壊されてゆくのではなかろうか。医療や食べものがどうなってゆくのかとても心配だ。

2013年8月22日 (木)

田川紀久雄日記

七十歳からの医療費負担が二割になるという。ほとんど収入のない私には大変なことだ。CTや胃カメラの検査が定期的にある。そして毎月の血液検査。収入の少ない人にはいままで通りにしてもらいたいものだ。じわりじわりとあらゆるものが値上がりしている。これで消費税が上がってしまったら、もう生活は出来なくなる。
安倍政権はブルドーザーで貧困層を潰しにかかっている。国の借金だって、国債を発行して日銀が買い取るなんてはあってはならないことを行なっている。それに福島原発問題にしても、東電の手では負えない事態になっているのにも係わらず、国は全面的に手を貸してはいない。相変わらず原発再稼動の方に眼を向けている。
昨日詩を書く。『戦争はまだ終わっていない』アジアへの侵略は、アジアの人達にどれほどの苦しみを与えたか。沖縄での米軍との関係を見ただけでも解る。それ以上の苦痛を与えたのである。自由・平等を奪うことの苦しみは計り知れない。
『はだいのゲン』の閲覧問題が起きているが、文部省の意見は情けないものだ。表現の自由を奪うことにもなりかけない。なぜ本当のことを隠そうとするのだろう。子供たちの心に戦争の虚しさを知るチャンスなのに、それに蓋をするとは情けない。

2013年8月21日 (水)

田川紀久雄日記

いつまで続くこの暑さといいたくなる。定年を終えた人達は何を目指して生きているのだろう。詩人の人達も、それほど詩も書かずに過している。社会に縛られていた時はあれもしたい、これもしたいと思っていたはずだ。だが実際自由の身になると何もかもが失しなったかのようになってしまう人が多い。私は末期ガンを宣告された時、もし生きられるのら、自分の生をもっと凝視して詩を書いたり、語りを行なって生きたいと思った。いまそれを目指して生きている。そう意味で末期ガンになったことは私にとって幸いしている。宣告された時は、言葉で言い表されない苦痛を味わったが。
こうして生きていられるのも多くの人達の声援があるからだ。だからいま苦しみ悩んでいる人達に詩を通じて何かを伝えてゆきたい。いま読まれなくても詩集という形で残していけばと思っている。詩人というものは生きている間は報われることがない。そのようなことより、ただ詩を書いてゆくことが大切なのである。

2013年8月20日 (火)

田川紀久雄日記

昨日詩一篇「哀しみを越えて」を書いた。私の詩は愛を深めていけるのかを手探りで書いている。ときどき「聖書」を全部読んでみようかと思う気持ちもあるが、読みやすい聖書が手に入らないものかと思う。
詩語りの稽古もこのところ午前中しか行なっていない。午後からの暑さに身体がついていけないからだ。
「たぶの木・7号」が出来上がる。今回も高畑耕治さんの詩が良い。部数が少ないので詩人達にはあまり送れない。どうしても読みたい方は年間購読料3000円を。いまのところ一名の方から購読料を頂いている。収入のない私には出来るだけ出費を押さえている。
昨日、詩集の感想文とカンパを古賀博文さんから頂いた。ありがたい。

2013年8月19日 (月)

田川紀久雄日記

昨日の川崎詩人会で丸山あつしさんが自由民主党の「日本国憲法改正草案」のコピーを持ってきてその話をした。これはまるで戦前の憲法の戻るかのようだ。言論の自由がなくなる。いまでも本当のところ言論が弾圧されつつある。私のブログにも魔の手が近づいている。
憲法第一条で現行では天皇は、日本国の象徴であり…が改正案だと天皇は。日本国の元首であり…に変っている。この改正案はインターネットでも見れる。
日本の今の憲法はアメリカ側だけの押し付けで生まれたものではない。日本の学者たちも協力して生まれたものである。この憲法は世界のどこの国にもない平和をまもる憲法である。ある意味では世界遺産にあたえする。それれを守ることがいまの日本人の勤めである。
詩人は戦争のことよりも愛を伝えるものでありたい。そして哀しみや苦しみを癒す人でありたい。それが詩語りで出来るのかを私は真剣に追い求めている。

2013年8月18日 (日)

田川紀久雄日記

昨日の夕方、秋らしい風が吹いていた。やはりお盆をすぎると気分的にも秋が近づいていることを感じる。
今日は川崎詩人会の例会日である。どこの会でも、出席しない人はいるものだ。これは高齢化の問題もあるかもしれない。高齢化になればこそ積極的な生き方を求めたいものだ。
上野芳久詩集『架橋』の詩語りの版下(14ポの大きさ)を作成した。眼で読むのとは違った感触をうける。私もそうであるが癒しや希望を求めていても、実存する私と言葉の関係でどうしてもズレが生じてしまう。だからこそ新しい詩を求めていくのだろう。詩人は言葉を求める旅人である。高畑耕治さんの詩も語ってみたいと思っている。いま同時代に生きている詩人の詩を語ることは大切な仕事である。しかし、語る場所がないのだ。せめて録画できる場所を見つけたいものだ。そしてユーチューブで流せればと思ったりする。自分だけの幸福を求めていては虚しいものだ。他者の幸福を求めることにこの詩語りが生かせることを願うしかない。隣人を愛してゆくことの意味を詩でもうしばらく追求してゆきたい。それが私の九条を守る闘いになればと思う。抽象的な思考は何も生み出さない。まず自分に出来ることを求めて行くべきだ。

2013年8月17日 (土)

田川紀久雄日記

猛暑なのにもう秋の虫が鳴いている。お盆休みでどこの行楽地も人手一杯であった。お父さん達は大変であっただろう。私は何処にも出かけないで相変わらず詩語りの稽古を続けていた。といっても午後からは公園ではあまり暑くてできなかったが。語りの境地がいままでとはいくらか変化している。ライブを行なっていないことによって逆により深い世界を追求するようになっている。
グールドのモーツァルトのピアノソナタを聴いている。ピアノの音が美しい。テンポのとり方が誰とも違っている。かれはバッハもモーツァルトも変らない。これでは確かに演奏会用ではない。私の語りもライブ用でなくて言いのだ。私は私の語りしか出来ない。大切なのはテキストをより深く掘り下げて語ることである。聲はそのために必要な道具なのだ。この暑いときはクーラーをいれた部屋でピアノ曲を聴いていると心が落ち着く。
いつになったら秋の風が吹いてくるのだろうか。暑さ寒さはお彼岸までと言うから、もうしばらく待つしかなさそうだ。

2013年8月16日 (金)

田川紀久雄日記

藤沢周平著『白き瓶』を読み始める。副題に長塚節とある。私は明治時代に生まれた作家達の生き方を知らなすぎる。現代文学は戦前と戦後とではまったく違っている。できれば古典文学を読みたいのだが、なかなかできないでいる。昨日、本居宣長の新潮社版を二百円で購入した。
最近の詩誌は印刷は薄くなっている。薄いものは私の眼では読めない。どんどんデジタル化された印刷物が増えている。電子書籍を購入したいが私にはそんなゆとりがない。僅かづつでもお金を貯めて次の詩集をだしてゆきたい。詩集三冊分があるが、それがいつ上梓できるかわからない。それでいてもう四冊目の詩集を書き始めている。詩集を買っていただいたには感謝しています。それにカンパをしていただいた方にも。
昨日上野芳久さんの詩語り用テキストを作る。これは字が大きくしたものである。大きい字でないと読めないからだ。新しく打ち込むことによって文体のリズムを摑むためでもある。しかし何処で読めるのかまったく見通しがない。涼しくなったら稽古を始めたいと思っている。

2013年8月15日 (木)

田川紀久雄日記

今日終戦記念日である。
小林信彦著『ぼくたちの好きな戦争』を途中まで読む。戦争をパロディ化した小説である。文体が私には気に入らない。
ここ二日で詩を二篇書いた。書けるときはどんどん書くことが大切である。田川紀久雄の世界が明確化されていく。書き続けることによってしか生まれてこない世界がある。だから生きていてよかったと思う。生きることは辛いがそのぶん書くことが楽しくなってくる。語りだってそうだ。まいにち精進しているからこそ深い世界を聲で表現できるようになってゆく。私にとって一日一日が大切である。
これからの若者達は不幸な時代を迎える。生半可な生き方ではどんどん世の中から蹴っ飛ばされていく。非正規社員が増えていく。大企業の都合のよい社会になりそうだ。それに憲法問題や原発問題がどうなってゆくのか。いまの学校教育では明治からの歴史を教えていない。政府はなにかを隠そうとしているような気がする。戦争を知らない世代だからこそ、ちゃんと明治以後の歴史を学ばなくてはならない。
私も川崎空襲にであった。あの悲惨な光景は二度と繰り返してはならない。そして憲法改正には反対してゆくことである。

2013年8月14日 (水)

田川紀久雄日記

いつまで続くのだろうこの熱帯夜は。クーラーを入れっぱなしにすると気持ちが悪くなる。身体の調子が悪い。電力不足とはいわないのだから、原発がなくても電力は賄えるということだ。
詩をどんどん書けば、書きたい世界が沸いてくる。芸能やスポーツでも練習がなにより大切なように、詩でもひたすら書くことが大切なのである。掘り下げるものがなくなったら、その人はそのとき書く意味も失う。要は才能が切れたことになる。技術など何の役にも立たない。詩誌も詩集も、私の心に打つものがないとページを開く気になれない。再読したいと思う詩集などほとんどないが上野芳久詩集の『架橋』は三度ほど読んだ。それは私が求めている世界と近い場所にあるからだ。かれの詩集の評判はどうなのか解らないが私にとっては大切な詩集である。それだけで良いのだと思う。世の中の評判など当てにはならない。ようは自分がどう感動したかが重要なことである。いまの詩人達はほとんどが馴れ合いの世界で成立している。私の詩集だってほとんど無視されている。そのようなことはどうでも良い。書きたいものがあるうちは誇りをもって生きていたい。いま私はライブがしたいだけだ。

2013年8月13日 (火)

田川紀久雄日記

新しい詩集に向けて出発である。『哀しみを乗り越えて』という題だ。絶望から希望への道を見出してゆきたい。絶望に浸っていては何も生み出せない。言葉でいうのは容易いがそれを見出すには大変な苦労がある。詩もある意味で想像の文学である。原体験を踏まえながら希望の道を見出してゆきたい。
本当に暑い。身体がついていけない。妹が数日入院した。心配である。

2013年8月12日 (月)

田川紀久雄日記

アメリカとの関係で原発政策は外されないのだ。これは沖縄の基地問題と同じことでもある。これに立ち向かえるのは国民一人ひとりの心の問題である。ヒロシマに原発を作らせなかったように。
昨日は本当に暑かった。家から一歩も出なかった。それでも暑い。それに夜は眠れない。公園に語りの稽古にはでれない。
『聲を求めて』の詩集をすべて書き終わる。これは詩語り論になっている。これで詩集三冊分が完成している。いまのところ資金がないので出版はできない。
「たぶの木・7号」も編集がおわった。

2013年8月11日 (日)

田川紀久雄日記

アベノミクスと引き換えに日本の借金は1000兆円を越してしまった。それを修正するためにはまず消費税の値上げ、そして社会福祉の切捨てである。これでいまの国民は生活が良くなったという人達が五十五パーセントもいる。なぜ本質を国民は見ないのだろう。
詩集をいくら上梓しても社会的に評価されないのはやはり辛いものを感じる。出来るだけ気にしてはいないのだが、こうも反応がないとある意味ではなさけなく思ってしまう。基本的には書きたいものを書いているのだからしかたがないと思う詩しかない。詩壇など気にしていたら、良い詩はかけないだろう。社会から見放された詩壇など何の魅力もない。井の中の蛙である。宮澤」賢治だって詩壇となんの関りも無い。詩のことより生きることが優先された。生きることは他者をどのようにして幸福に導くかを真剣になって追い求めていた。このような考え方は現代詩からは考えられないことだ。不思議なことに中村不二夫さんがいろいろと私を応援してくれている。かれには感謝をする。

2013年8月10日 (土)

田川紀久雄日記

最近ほとんどテレビを観なくなった。どうでもよい番組ばかりだ。NHKでもくだらないタレントを使っている。それにアナウンサーの質も低下している。テレビを観なくなったお陰で本が読める。一億白痴化になりつつある。それと携帯が人間の存在を脅かしている。科学の進歩は人間をダメにしている。楽に生きようとすることは、本当の人生の楽しみを低下させている。
文学の世界でも面白ければ良いという考え方は、誤った思考である。いまの若者達は思想書や哲学などよまなくなっているのではないのか。自分の力で物事を考える能力がなくなりつつある。原発の問題にしても、経済の問題にしても時の流れに反発する能力がない。間違っていることを大きな聲でいわない。誰も彼も同じような人間に作られてゆく。これでは知能をもたないロボットと同じだ。
詩でも人間の存在そのものを問う詩が少なくなっている。詩という言葉に惑わされている。言葉が遊ぶ道具に使われていることが多い。上野芳久さんが、また詩を送ってきた。彼の詩は失われた存在の核をどのようにしたら取り戻せるかを追求している。これは私のテーマにも近いものがある。どのようにして存在の核を取り戻せるか、読むたびにひかれる。いま一番惹かれる詩人である。
「たぶの木」の原稿もあと一人が来れば編集もできる。この詩誌は詩人達にはほとんど送っていない。詩の関係ない人に読んでもらいたいと思って発行している。いま世の中にないが一番訴えたいのかを手探りで求めている。
高畑耕治さんのブログに野間明子詩集『耳として』が紹介されている。野間晴子詩集が多くの人に読まれることを望んでいる。漉林書房から七月に発売されている。地方小出版センターでも扱っています。

2013年8月 9日 (金)

田川紀久雄日記

本当に暑い。暑いとしかいいようがない。
ヒロシマ・ナガサキに投下した原爆を作った場所が、いまなお放射能汚染されているという。その放射能汚染を取り除くには四十年もかかるという。福島原発も本当に四十年で放射能を除去できるのだろうか。汚染水が海に垂れ流しにされている現状をみると、東電や国の政策に対して疑問を感じる。
日銀の黒田総裁は、景気は上向きだというが、彼の言葉にはまったく信用性がない。彼はただ国の借金を増やしただけではないのか。パートで働いている人たちの生活がいかに苦しいのか理解していない。働く条件がますます悪くなっている。大企業の利益は円安になったためである。別に商品が多く売れたわけでもない。実質は何も変ってはいない。
私たち貧しきものの聲をどのように受け取ってくれるのか、それが政治家の仕事である。ただ批判しているだけではない。私は詩を通じて寄り添う世の中を見つめている。暗闇の世界からいかにしてひかりのある世界を取り戻せるのかを追い求めている。そしてそれを語り続けている。末期ガンを宣告された詩人がいのちがけでひかりの世界を求めている。そしていのちがけの聲を発している。詩語りの出前を行なっています。お問い合わせは漉林書房まで。
詩集受贈『林美佐子・鹿ヶ谷かぼちゃ』

2013年8月 8日 (木)

田川紀久雄日記

原発事故以後どれだけの放射能の影響が身体に及ぼしているのか、ほとんど資料がない。それに精神的な披露で亡くなっている人たちがいる。原発事故で誰も亡くなっていないといったバカな国会議員もいた。いまの国会議員は国民を守ることをしない。ただ国民を痛みつけるだけだ。あいかわらず党内の権力争いを繰り返している。
汚染水問題でも、どこまで防げるのかわからない。東電はかつて汚染水は海には流れていないと言ってきた。その責任はだれも取らない。電気料金にその工事費を上乗せていくだけだ。原発事故が収束しない以上、都民の電気料金は値上がりしていく。
今日から猛暑が一週間も続くという。電気代も今月は大変だ。
この暑さにも負けずに語りの稽古だけは続けている。せめて夢だけを追いかけていたい。

2013年8月 7日 (水)

田川紀久雄日記

昨日はヒロシマ原爆投下の日であったが、なぜ原発ゼロが出てこないのか。原発は平和利用ではない。いまの福島原発を見れば誰でも解ることだ。いまなお汚染水や放射能が出ている。いまの子供達も六十年後には白血病になる可能性もある。この危険極まりもない原発を再稼動をしようとしている。そして原爆投下はアメリカの誤りであった。
詩という世界は、人にどう評価されようがされまいがどうでも良い世界である。書かなくてならないものであれば、書くことである。別に書くことがないのに書いているようでは止めるべきだ。詩というものは趣味で行なうべきものではない。現世で受け入れられないからといって嘆くことでもない。自分にとって真実を書いていれば、きっと眼に見えないところで受けいれている人達がいるものだ。大切なことは作品を発表して行くことである。

2013年8月 6日 (火)

田川紀久雄日記

佐藤愛子著の『血脈』の(中)を読み終わる。たまにはこのような小説を読むことも良いのだろう。このところ長編小説ばかり読んでいる。
月に詩を五編ほど書けば、四ヶ月で一冊の詩集になってしまう。ということは年に三冊の詩集になる。末期ガンを宣告されてから、生きている間に出来ることはすべてやっておきたいと思うようになった。あれこれ考えることもない。生きていて何も出来ないでいることが一番悪いことだ。といっても永遠に満たされることがない。いくら詩を書いていてもこれで良いというものがない。ある意味では虚無との闘いなのかもしれない。創作の原動力はこの虚無感かもしれない。どこまで虚無と闘えるのか解らないが、少しでも深く掘り下げたものを書いてゆきたい。詩という形式でしか書けない世界がある。読者はそれほどいないにしても書きたい世界がある。大切なのはどういま生きているかということだ。

2013年8月 5日 (月)

田川紀久雄日記

「たぶに木・7号」高畑耕治さんから作品がとどいた。長編詩で素晴らしい詩である。発行者の楽しみは、素晴らしい詩に出会うことである。現代詩の詩誌を見ていると、自分勝手なことばかり書いている詩人が目立つ。他者に対しての思いやりが薄れている。詩を通して何を求めているのか解らないときが多い。朗読を聴いていても、聲を鍛えるわけでもなく、テキストを掘り下げるわけでもなく自己満足型が多い。
今週からまた猛暑になるという。外での語りの稽古もちょっと辛くなってきた。それでも自己を深めるためには続けていかねばならない。よりよい詩語りを目指して努力してゆきたい。
沖縄にオスプレイがどんどん配備されている。このことは悲しいことだ。それは沖縄の人たちの聲を無視して行なわれているからだ。それに対して私は何も出来ない。せめて反対を表明していくしかない。戦争の起こらない国作りに懸命に努力していかねばならない。だから詩人はいのちの大切さを私は詩のテーマにしている。日常の幸せこそが一番の幸せなのである。
大企業はリストラに乗り出している。なぜこのような不安な社会になってしまったのだおるか。日常の幸せが崩れようとしている。

2013年8月 4日 (日)

田川紀久雄日記

「操車場・65号」の発送が終わる。
今年の夏は暑い。ヒロシマ・ナガサキの原爆の日が近づいている。アメリカは原爆投下を正当化しているが、それは受け入れがたいことである。そして原発問題もアメリカとの問題もありなかなかゼロには持っていかれないでいる。
韓国・中国との関係も上手くいかない。その中で安倍政権はどんどん保守化に進んでいる。消費税値上げも決まりそうだ。物価の値上がりも異常だ。いまインターネット依存症が増えているという。どこにいっても携帯でメールを見ている。携帯に取り付かれた人達を見ていると気味が悪い。まるで悪魔に操られているかのようだ。
私はパソコンを使用するのは、ブログを書くときと詩を書くときだけだ。だからいまだにメールの仕方も知らない。
詩語りの録画をしたいと思っているが、なかなか良い場所が見つからない。なんとしても私の詩集の語りを録画してゆきたい。ライブ形式はそれほど必要ではない。いまはそのために、末期ガン以後の詩集を丁寧に語りの稽古を積んでいる。語ってゆきたい世界を語ってゆけばそれで良い。語りは自分自身との闘いでもある。

2013年8月 3日 (土)

田川紀久雄日記

麻生氏のナチス発言は断じて許されることではない。知らない間に行なえばよいというのは、いま始まったことではない。原発も安保反対の裏で行なわれたことだ。いまの野党に力がないからうやむやになってしまう。安倍内閣はちゃくちゃくと憲法改正に取り組んでいる。アベノミクスもこの一貫である。国民は眼の前のことしか関心が湧かない。
アメリカは原子炉の停止が相次いで行なわれている。国民の一人ひとりが原発ゼロに意志表示していけば停められるはずだ。
七十歳以上の国民保険の負担額が一割から二割になるという。(これから七十歳になるひとから)低所得者には重い負担がのしかかってくる。このところの物価の伸び率は異常だ。一日千円以下の生活ではもう不可能になりつつある。詩語りライブの仕事が欲しい。語りで少しでも稼ぎたい。そのためには本物の語り手になることである。
相棒の詩集『浜川崎から・Ⅱ』が出来上がってくる。
詩誌受贈『銀河詩手帖・259号』

2013年8月 2日 (金)

田川紀久雄日記

「操車場75号」原稿が全部集まったので、印刷を行なう。次号に上野芳久さんが参加してくれるという。いまの詩人の中でももっとも好きな詩を書いている。「吊橋」という詩集も心に迫ってくるものがある。彼は謙虚に「私のは現代詩ではない」という。魂そのものを描ける詩人はなかなか少ない。魂そのものを掘り下げることは難しい。これは頭だけで書けるものではない。ようは生き方そのものを問う姿勢がなくてはならない。本当の詩は誰でもが書けるものではない。世間で評判の良い詩など、たかが知れている。
詩を味わうには、やはろ聲を出して読み込むことに尽きる。現代詩は聲に耐えられる詩が本当にあるのだろうか。いや本当に詩人の聲を持った詩人が果たしているのかさえ疑問である。
生きるためには生命力が求められる。何かをやりぬく心の強さが必要だ。いま私はひたすら詩を書き、聲をあげることに全力で勤めている。

2013年8月 1日 (木)

田川紀久雄日記

私の周辺で入院している人が増えている。また猛暑がくるという。私はクーラーのせいか喉がいたい。クーラーのない人たちの生活は大変だ。生活保護費も削減される。子供がいる家族は生きていけるのかが心配だ。そのうえ政府の赤字を減らすために八兆円を計上している。消費税もこの赤字に回されるのではないのだろうか。消費税という言葉よりはっきりと福祉税とすべきである。
円安で利益をあげた企業と、減益に転じた企業がある。このバラつきはいったいどう生活に反映していくのか。貧富のさが拡がるのは眼に視えてわかる。日本の経済が悪くなれば、憲法改正に政府を踏み切るかもしれない。なんとなく戦前の世の中に近づいているような気がする。こんなときだからこそ嫌なものは嫌というべきだ。
福島原発の地下水の汚染は前から解っていたのに、東電はいい加減な報告をしてきた。福島の風評被害は東電に責任がある。なぜ国は厳しく審査をしないのだろう。柏崎原発の再稼動は論理的にいっても無理だ。

« 2013年7月 | トップページ | 2013年9月 »