田川紀久雄日記
『聲のいのち』があと一篇書けば終わる。詩人と聲・テキストの関係をここまで掘り下げたものはないだろう。朗読論では書けない世界を詩の形を借りて書いている。あくまでも理想論かもしれないが、日々の稽古の中から生まれてきたものである。これは『詩人の聲』から外されたことによって生まれたものでもある。そういう意味では天童氏に感謝すべきかもしれない。
詩誌受贈『詩遊・39号』『叢生・187号』
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『聲のいのち』があと一篇書けば終わる。詩人と聲・テキストの関係をここまで掘り下げたものはないだろう。朗読論では書けない世界を詩の形を借りて書いている。あくまでも理想論かもしれないが、日々の稽古の中から生まれてきたものである。これは『詩人の聲』から外されたことによって生まれたものでもある。そういう意味では天童氏に感謝すべきかもしれない。
詩誌受贈『詩遊・39号』『叢生・187号』
昨夜は、ほとんど眠れなかった。相棒のお母さんのの旦那が入院したとの電話が入ったからかもしれない。旦那と私はほとんど年齢が同じだ。人間は七十をすぎると何が起こるか解らない。私は相棒の為にも元気でいる事がなによりも必要なのだ。そのためには歩く訓練もしなければならない。いま語りの稽古を公園で行なっている。そのことは身体的にも良いことである。
詩集受贈『東利行詩集・憑依』
高畑耕治さんのブログに『いのちのひかり』について紹介されている。彼の心の温かさに感謝をする。それと長谷川忍さんからもカンパを頂く。本当に助かる。
詩の聲については、聴き手が感動することが大切なんである。そのために精進が求められている。私は上手い朗読などには関心がない。あくまで心の底から湧きあがってくる聲のみに心が動かされる。それは詩に対しても言えることだ。上手い詩が書けたからそれがどうしたというのだ。詩の教室の優等生が決していい詩人とはいえない。問題は人間存在をすべてを込めて表現しているかどうかではなかろうか。あくまでも自分の心を深めていくことが出来ているかどうかである。絵でもそうであるが上手い絵画より個性的な絵の方が面白いものだ。それは無垢なる境地から生まれてくるもの。子供の絵の面白さは、この無垢性にある。
参議院選挙の最大の問題は、眼の前の幸せ(経済)を求めたことだ。そして未来の子供達に大きなツケを残したことである。いまの日本人は中国とそれほど変らない。何故このような社会になってかといえば、失業率の問題だ。そして正規社員に採用されないことである。貧富の差が拡がっていることである。
憲法改正の問題でも反対すると報道はその人をたたく。これは何であるのか。報道は政府の御用聞きでしかない。原発問題で山本太郎はあることないことまで週刊誌に書かれる。一人で何ができるのかと笑う人間すらいる。大切なのはまず一人で立ち上がることである。その勇気は批難するより誉めてやるべきものである。
『詩と思想・8月号』で近藤摩耶さんが『慈悲』を紹介してくれた。これは編集部にお礼をすべきことかもしれない。いつも私が詩集を上梓するたびに紹介してくれている。近藤さんは「銀河詩手帖」の発行者である。いままで知らなかった。東淵修さんとは仲が良かった。京都のライブの時は私が語る条件に東淵さんを招くことであった。新宿の安田ホールの朗読会には東京の詩人達はほとんど聴きには来なかった。東淵さんが亡くなったとき私は『詩人の聲』で彼の為に追悼ライブを行なった。朗読の世界で尊敬するのは彼だけだ。
やはり夏ばてなのか、身体がだるい。昨日注射で液が漏れてすこし痛かった。看護婦が未熟だと大変なことが起こる。
詩人達の朗読がつまらないのは本気になって打ち込んでいないからだ。なにごとにおいても本気でないものはつまらない。心は楽な生き方の方に流れてゆく。そのような意味でも技術だけ学んでも活きたものにはないえない。本物は習い事では生まれてこない。根性をこめて目指すものに打ち込むことが何かを摑む秘訣だ。それは自己流でもよい。私の語りはまさに自己流である。いまの詩人達は私の詩を認めようとしなくても構わない。書いたものを書いているのだからどのように思われてもよい。いまの時代にはいい加減なものは消えていく。知名度など何の役にも立たない。
いま毎日樹木に向かって語りを行なうのが私にとっての生き甲斐になっている。今日も語りが出来た。宇宙に向けて語れる歓びを味わっている。聴き手が誰もいなくても幸せだ。
今日はCTの検査がある。カンパを頂いたお金がすぐに病院代に変ってしまう。
それにこの暑さでクラー代も馬鹿にならない。パートで働いている相棒の賃金は少しも上がらない。上がらないばかりではなく労働条件も悪化している。大企業は賃上げされても底辺で働く者は少しも景気が好転しない。これで消費税が八パーセントになったらどうなるのだろう。パートで働く人にはボーナスなどほとんど出ない。これでは消費が落ちるばかりだ。日本経済は消費税で経済化悪化して行くのではないのか。年金生活者にとっても辛い話だ。
いま佐藤愛子の『血脈』を読んでいる。ある意味で単なる読み物だがこの暑い中で読んでいるのも時間つぶしには最適だ。
今日は午前中病院だ。定期検査である。
世の中はますます貧富の差が拡がってゆく。アベノミクスによってより加速化されている。自分だけがよければという社会を誰が望んでいるのか。日本人は他者を思う心が強かった。それが現在はひとかけらも見当たらない。殺人事件の内容を見れば頷ける。身勝手な事件があまりにも多すぎる。
東海村の村長が引退表明をした。彼は脱原発である。そして副村長は原発s台稼動賛成派である。この引退表明には隠されたものがあるような気がしてならない。安倍政権の強引な原発再稼動が糸を引いているかのように思われてならない。福島では自民党の圧勝が何かを物語っている。
私は最後まで、原発問題詩のテーマにしてゆきたい。これからも人間のあり方を追求してゆきたい。だから詩集もどんどん出してゆきたい。誰からも相手にされなくても自分の生き方を貫いていたい。孤独に追い込まれれば人間はますます強くなってゆくものだ。そして人明かりの語りを目指して生きていたい。
末期ガンになって五年以上生きている人達はどのような生き方をしているのかを調査をしたら面白いと思う。あと半年だねといわれて生きていること事態が不思議なことである。現代医学でも解明が出来ない問題ではなかろうか。私はつねに前向きに生きているだけだ。といっても自分の思い通りに行かないことの方が多いが。七十を過ぎて生きるには、やはり前向きでなければならない。私の周囲でも急に老け込んで身体も悪くなってゆく人が多い。これはやはり生き方そのものに原因があるように思える。それはやはり若い時から何かをやっていることだ。趣味でも良いから二つや三つは持っているべきだ。定年になってから急に何かをやろうとおもってもそれは無理だ。詩などを書いてきた私などは親戚から馬鹿にされてきたが、その馬鹿にされてきたことが末期ガンになってから活かされている。
経済だけを求めている日本は、本当の幸福からは遠ざかっているような気がする。お金は大切であるが、人生の目的は別なところにある。貧しくても幸せであることが大切なのである。生きる目標は大きければ大きいほど良い。経済発展のためには安倍総理は企業優先の雇用を進めようとしている。この参議院選挙の自民党の圧勝は、国民は暗闇の世界に陥れる要因になるのではないかと危惧したくなる。ああ怖ろしいや怖ろしいやである。
いま経済成長という言葉の裏で安倍総理は何を行なおうとしているのか。六十年安保のときも裏側では原発問題を着々と勧めていた。憲法改正と原発の再稼動が着々と動いている。そのなかで、福島原発では汚染水が海に流失していることを東電はやっと認めた。なぜ福島県で自民党が圧勝するのか不思議だ。これでは福島の人達に同情心が薄れてしまう。なぜ原発反対する政党を応援しないのか。山本太郎の当選は原発反対する人達にはある意味で勇気を貰った。まずは一人で闘いが始まる。そのことが大切なのである。
大阪で私の詩を朗読してくれる人がいる。九月には「いのちのひかり」から読んでくださるという。牧瀬かおるさんだ。生きることの意味を問う詩が一人でも多くの人によって語れるを望んでいる。いまの私は人前で語ることが出来ないでいる。無性に寂しい。ボランティアをしてゆきたい。どこでも語れる場所が欲しい。毎日公園で語りの稽古に精進している。樹木に向かって語っている。「今日も語れた。今日も生きた」と一人で呟いて生きている。本気になって詩語りを求めて生きている詩人がいるということが大切なのだ。詩人達に無視され続けてもそのようなことなどどうでも良いことなのだ。大切なことは本物であるかどうなのかということである。
自民党の圧勝で参議院選挙が終わった。原発や憲法改正が進んで行くだろう。国民は眼の前の生活が楽になることしか考えていない。だから生活者という。これを否定することはできない。この生活者の気持ちを上手く摑んだ党が政治に勝つ。戦前の人になぜ戦争は止められなかったかと問うても意味がない。いまの人達もまったく戦前の人達と変わりがない。共産党が躍進したのもある意味では頷ける。私も共産党に入れたぐらいだから。
私は世の中がどう変っても自分の生き方は変らない。原発と憲法改正には断固反対してゆく。いのちの尊さを訴えていくのが私の仕事なのだから。『いのちのひかり』を上梓しても反応がまったくない。いつものことである。虚しさを感じながら、前に向けて生きていくしかない。数人からお手紙を頂いたことに感謝する。
詩集受贈『高橋馨著・人を訪ねる』
参議院は必要であるかないかの論議がときどきなされる。私は参議院は必要だと思う。これは党派を超えて日本を考える場であらねばならないからだ。しかし、いまの参議院はそのような方向には行っていない。
国民はつねに流れる川のように流れてゆく。基本的には自己中心にものごとを考える。そのような考え方を否定はしないが、原発の問題だけは原発ゼロに持ってゆく方向が必要だといいたい。何回もいうが、未来の子供達には必要のないものだからだ。今日の参議院選挙は、原発を断固反対する党に入れる。
昨日ガス台が壊れそうなので、ヨドバシに相棒と一緒に買いに行く。一万ちょっとで買えると思ったが、ほとんどが二万円以上する。物価が上がっているのだと痛感してしまう。いま私たちは世の中から遠く離れた存在者のように感じる。
いま現代詩を読んでいても、その人の生き様をほとんど感じない。そしてどのようにいま生きているのかさえ視えてこない。私の心を支えてくれる詩に出会うことはめったにない。いま人々は詩に何を求めているのだろう。世間からはまったく無視されている世界である。だからこそ詩人はもっともっと孤独にならなければならない。その中から一つのあかりを灯すことが必要である。それがどんな小さなあかりでも良い。
詩誌受贈『潮流詩派・234号』「
メールに外国から入っているが、私には読めないので困ってしまう。インターネットは世界に交信しているのだと実感する。
明日参議院選挙であるが、自民党が大勝利すればこの日本はまた暗黒の時代に突入する。かつて「暗黒日記」という本がある。小説「安曇野」の中に出てくる。古本屋で手に入れたのだが、どこに行ってのか見当たらない。
東電は幹部に一時金を支払っているが、原発事故で大変な苦しみを味わっている人達に対して問題がある。
未来のことを思うと眠れない日が続く。いや私個人にしても明日がまったくない。詩集など上梓しているが、海で溺れる人のようにただもがいているだけのことだ。現実は溺れる寸前の状態である。年金もない私は相棒の背中につかまってなんとか生きていられる。相棒もパートなので、この物価高では生活が苦しくなるばかりだ。その中で詩集を出すことは並々ならない。できるだけ切りつめられるところは切りつめている。どこまで詩人としてこの世の中と闘って生きていられるのか自分でもわからない。末期ガン宣告を受けた一人の人間がどう生きてゆくかの記録も必要なのかと思う。皆様の温かに励ましのお陰で生きていられる。だから頑張って生きていかねばならない。
詩集というものはそれほど読まれるものではない。だから詩人は、売るというよりも読んでいただけるだけで有り難いと思って謹呈をする。それを送り返す気持ちは私には解らない。送り返した人も詩人である。私も貧乏だから買っていただければ有り難い。それはあくまでも自由である。カンパしていただいた方も数人いる。本当に感謝している。これからは名前を公表しない。送る方に負担をかけたくないからだ。かつて大阪の詩人で振り替え用紙をいれて送ってくる人がいた。大阪の人らしいと思って黙っていた。
詩集を上梓するのは誰もが大変な思いでおこなっている。地方出版センターでも十冊が売れればよいほうだ。みんな生活を切りつめて出版している。だから読んでいただけるだけで有り難い。その上お礼状の手紙や批評がいただけると涙がでるほど嬉しいものだ。
私の詩のテーマの一つとして「寄り添う」ことを描いている。静かな気持ちでえ寄り添っていただけると嬉しいものだ。
いじめがなくならない。いまの詩人達にも思いやりのある心が薄れているような気がする。私は批評は書かないが、心にうつ詩にであうと生きていてよかったと思う。最近上野芳久詩集『架橋』を何度も読んでいる。この作品のほとんどが坂井信夫氏が発行している「索通信」に掲載されていたものである。そして好きな詩はできるだけ聲をあげて読むことにしている。お礼状は書かないかったが、それはそれで良いと思っている。私は送られてきた詩集は、一様眼を通している。ぜったい送り返すことはしない。なぜならば、多くの詩集によって私の書く詩も成長して行くからだ。まずは詩に寄り添って生きていたい。
この度の参議院選挙で原発問題が話題にならないのが不思議である。日本人は自分の身に降りかからない問題には興味を示さない傾向がある。それは想像力の欠如そのものである。いま風力では日本の技術が高く評価されている。海上風力は、この狭い日本にとっては必要とされる。いまの自民党の方向性は戦前の体制に向かっている。アベノミクスという言葉に騙されてはならない。いま平和を願う心こそ一番求められている。
詩の言葉もそうであるが、言葉そのものの重さが軽んじられている。必死に言葉を書いていても、何の手ごたえもない。この虚しさはいったいなんなのだろうか。まるでゴミ箱に捨てられてゆくかのようだ。といって詩人である以上、この言葉を持ってこの世界を深く掘り下げてゆきたいものだ。
朗読・朗唱・詩語りにいのちを懸けてきた詩人達はほとんど報われていない。詩人達からも相手にされない。この日本の文化は不思議なものだ。ある意味では畸形な文化と言うしかない。
詩誌受贈『東国・145号』『交野が原・74号』
今日は午前中病院だ。
このブログは、あくまで個人的な日記である。日記を公開するというのも変なはなしである。末期ガンと宣告された男のお話として書いている。
ある人に『いのちのひかり』を謹呈したら、本も開くことなく送り返されてきた。私は買っていただきたくて送ってはいない。カンパをしてくださる方にはありがたくいただいている。でもこちらから買ってくださいとは一度もお願いはしていない。あくまで閑な時にでも読んでいただければと思っている。謹呈したものを送り返すその気持ちが理解できない。読みたくないのならゴミ箱にでも捨ててもかまわない。
詩人という人間は、気が小さいものだ。そして赤ん坊のように我儘なところがある。送り返されるのはこのたびが初めてだ。割合親しい人だけに心が痛む。これは失礼としか言いようがない。こんなにも詩集を出しすぎるのが気に喰わないのかもしれない。末期ガンを宣告されたら、誰だって必死に生きようとする。免疫力を高めるためにも我武者羅に生きていたい。いつ死んでもいいように。それまでは自分の生と闘って生きていたい。送り返すことは私の生き方を否定しているようにも受け取られる。昨日は嫌な一日であった。村上春樹の小説に『東京奇譚集』がある。まさに他人にとってはどうでも良いことであるが、奇妙な話である。ただそれだけのことだろう。
安倍総理は九条を改正すると明言した。この日本はいままでの平和をすべてかなぐり捨ててしまう。何故国民はこんなにおとなしくしていられるのか。ここまでくると狂気としかいえない。国民はこの猛暑のお陰で頭が朦朧としまうのか。来週の選挙でその結果が判明する。
私はこれからもいのちを守る詩語りを行ない続けるだけだ。私の詩語りに興味ある方はユーチューブを観てください。
高畑耕治さんから『いのちのひかり』のことでいちばん最初に電話をいただいた。「たぶの木」は八月二十日が締切日だ。次はどのような作品が集まるのか楽しみだ。この「たぶの木」は評判がよい。部数は少ないが、読みたい方は高畑耕治さんのインターネットでも読めるようにしてある。詩というものは、なんと素晴らしいものなのかを感じとれる詩誌である。人の心の哀しさに寄り添っている。自分に寄り添うのではなく、他者の心に寄り添うことの必要性をこの詩誌にはある。詩の力は非力である。だからこそ愛(かな)しみを唄い続けなければならない。そしてそれを語り続けることを目指してゆきたい。
インドでは原発を二十基も作る予定をしている。日本はこれに手を貸してはならない。人間の手に負えない代物を作ることだけは行なわないで欲しい。これは科学者の傲慢としかいえない。
この暑さは昭和初期の四倍だという。単なる温暖化ではない。やはり異常としか言いようがない。
『詩人の聲』がこの秋に1000回に達する。いまのわたしには関係がないが、これは凄いことである。どれだけ聲に対する認識が詩人達に影響を与えたか。ほとんどの詩人達は詩人の聲に無関心である。これは聲を発する詩人一人ひとりの問題でもある。真に詩人の聲に目覚める詩人が何人生まれたかが問題である。でも自作詩を一時間語ることは詩人にとっては大きなことだ。そういう意味ではこの『詩人の聲』の企画は大きな意味を持つ。巷で行なわれている朗読とはまったく異なっている。天童氏は朗唱で私は詩語りである。共通点は聲の認識である。違う点も幾つか或る。それはそれで良いのではと思う。彼は詩語りを否定するが、私は彼の朗唱はそれなりに受け入れている。私は『詩人の聲』には参加することがないが、それなりにこの企画は応援していたい。いま必要なのは本気で詩人の聲を獲得する詩人が増えることだからだ。縄張り争いのような小さな根性では、いまの詩の世界を切り崩せない。
いま新しい詩集のために『聲のいのち』を書いている。これを発表すると詩人からますます嫌われていくだろう。なぜなら本当のことを書いているからだ。末期ガンである私は、言いたいことをどんどん詩にしてゆくことしかない。最後まで闘う詩人でありたい。
三時に眼がさめてしまった。一度眼がさめるともう寝ることができない。これもこ歳の生なのかもしれない。
外での語りの稽古は辛い。特に午後からの稽古は長くできない。こんなに続く暑さは初めてだ。例年並みなどという言葉は死語である。学校でも冷房が入っていない。クラーを入れる予算がないのだろう。私の住んでいる周辺では古いアパートが多い。これらの住人にはほとんどクラーが取り付けられていない。田島地区は貧困層が多いので、この暑さを思うと心配だ。参議院選挙の宣伝カーも一台もやってこない。そういえば昨日蝉の鳴き聲を聴いた。何かが狂っているとしか思えない。
部屋の整理をしていかなければならない。CD(クラシック)を処分したいと思っている。どこかの施設で欲しい方がいないものか。いまCDを売ってもほとんど値がつかない。ゴミとして処分するのも気が進まない。物が増えるといろいろと面倒なことが起こる。
詩誌受贈『あるるかん・29号』
とうとうパソコンが壊れてしまった。物にはすべて寿命がある。とくに家電品は壊れやすくできている。いま使用しているのは相棒が使っている物だ。他人のパソコンは使いずらい。
福島原発周辺ではネズミやイノシシが増えている。自然形態が変わってしまった。これでももう住民は戻れる可能性が失われてしまうのではなかろうか。汚染水の問題にしても、海にながれだしている可能性は大である。何も状況は変わっていない。それなのに原発再稼働の動きはもう始まっている。政治的にもあいまいなまま放置している。
この猛暑はいつまで続くのだろうか。免疫力が低下するのを防がねばならない。炎天下の下では語りの稽古もできない。といってもこれは自然現象なのだからどうにもならない。普通の夏に戻れば、また稽古が出来るだろう。いまは読書に耽っているのがよい。このところ随分村上春樹の小説を読んでいる。
本当にこの暑さは異常だ。いつまで続くのか。
『いのちのひかり』の発送の第一弾が終わる。あとはひたすらこの作品を語っていくだけだ。
詩というものは、数人の理解者がいればそれで充分だ。大切なことは、本当に書きたいものを書いてきたかということだ。自己の全存在からそれが生まれて来たものかを検証して行くだけだ。検証するということは語っていくことでもある。
この暑さで野菜が値上がりしている。ということは農家の人達が困っているということである。いろんな物価の値上がりで、にっちもさっちも行かなくなりつつある。世の中が歪み始めている。いやきしみ始めているといった方がよい。弱者がどんどん切り捨てられていく。詩人である私はそれらの人達に詩を通して対話を続けていたい。
この『ブログ』を読んでいる方十名に『いのちのひかり』をプレゼントしたいとおもう。ハガキで申し込んでいただければ贈呈をいたします。あくまでもハガキでお願いします。
『いのちのひかり』が出来上がった。人生の山を一歩一歩登っている感じがする。出版には歓びもあるが虚しさもある。私が求めている世界はもっと高い山である。頂上が雲に隠れて見えない。それを突き破る力はやはり詩語りにある。一人の人間の叫び聲など微々たるものでしかない。この微々たる叫び聲が、生きる原動力なのだ。そしてそれを聴いてくれる人との出会いを求めている。たった一人の隣人を求めて。そのためにはどれだけのエネルギーが必要かということだ。ただ待っているだけでは何も生まれてこない。どこには努力・努力の言葉しかない。他者から叩かれ、打ちのめされながらも立ち向かってゆく姿勢が求められる。いまはこの詩集を売りたい。そして次の詩集の資金が欲しい。できればこの詩集が語れる場が欲しい。それはこれからの闘いだ。
三十五℃が五日間も続く。史上初めてだそうだ。この暑さには本当にまいってしまう。
福島原発問題では、相変わらず東電の言い訳だけだ。電力が必要だから原発の再稼動をというのではない。原発があるからどうしても使用したいと言うだけのことである。原発が必要という人間は想像力の乏しさしかない。柳澤桂子著『母なる大地』を読んでみるといい。私は何度も読み返している。未来の為に何をなすべきかを問うて見るが良い。
こう暑くては頭の回転が停止してしまう。参議院選挙があるというのに、私の住んでいる地域はふだんそのままだ。スピカーの音などは聴こえてこない。公園の横に選挙用ポスターが貼っているだけだ。
フクシマ原発で働いていた吉田元所長がガンで亡くなった。東電は原発事故とは関係がないといっている。冥福を祈るだけだ。日本の原発を海外に売ってはいけない。安倍総理は死の商人としか呼べない。それなのになぜ国民に人気があるのか。経済という当てにならない夢を見せびらかしているにしか過ぎないのに。
フクシマ原発の地下水に大量の放射能が含まれている。本当に海には流れ出ていないというがとても信じられない。毎日ないかが起こっている。それなのに原発再稼動の動きが始まっている。フクシマ・ナガサキの原爆体験は何であったのだろうか。国民の身体の中までこの意味は問われていないのだろうか。原爆被害者の中にも原発を容認する聲があった。平和の為ならやもえないという安易な考え方だ。
いま私は詩で聲について書き続けている。詩語りで闘っている一人の人間としてどうしても書いておきたいからだ。詩のかたちを借りて書いているだけだ。これから本気で詩語りを行ないたいと思っている方に対してのメッセイジーである。私の苦しい闘いの記録でもある。
妹のことで学園側と話し合う。今年の八月が一つの山だという。もう私には何もできない。生・病・老・死は生き物の定め。それを素直に受け入れるしかない。昨日はいろいろ考えてしまってほとんど眠れなかった。
私は私の仕事を真剣になってやっていかねばならない。そのためにも肉体を鍛えなければどうしょうもない。本当に語り伝いたいものを詩集にしていくこと。そして語りを積極的に行なうこと。いままで以上に狂気になって生きねばならない。もうこれ以上失うものは何もない。あとは人明かりの語りを目指して邁進していくだけだ。詩人達から相手にされなくてもよい。山本陽子のように絶望を背負って生きればそれで良いのだ。絶望は真に生きる人にとっては力強い見方である。そこから逃げないこと。そのことが人明かりの原点になりえるからだ。私もあとどれだけ生きられるか解らない。もう何も怖いものなどない。まっすぐに語りの世界を凝視していればよいだけだ。
『いのちのひかり』がもうすぐ出来上がる。次の詩集を作るためにも出来るだけ買っていただけると有り難い。私の詩語りを聴きたい方は何処にでも出向いていきたいと思っています。交通費を払っていただければ、それで充分です。
昨夜は暑かった。冷房を入れないと寝つかれない。気候そのものが変ってしまったのではなかろうか。この嫌な予感は、参議院選挙にも影響するのだろうか。
今日は・妹のことで学園まで行かねばならない。嫌な話し合いで気が重い。人はいつかは亡くなるものである。それをどのようにして受け入れていけばよいのか。妹もガンである。よくもここまで生きられてきたものだ。
他のパソコンでユーチュウーブを観たら、いま使用しているパソコンとはまるで音が違うのだ。ユーチューブでは語りの聲はうまく再生ができないこともある。私の詩語りを聴きたい方はぜひDVDで観て欲しい。
いま自然エネルギーで電力を作る方法は広がっている。しかし国はほとんど予算をださない。あくまでも原発の再稼動を狙っている。これは狂気沙汰としか言いようがない。この狭い日本では無理な話である。昨日テレビ「夢の扉」で海水を使って電力の発電を放映していた。地域にあった電力の発電方法がある。無駄な復興予算をこの電力の開発に回してもらいたかった。日本は安全な電力作りには可能性がある。それを原発で潰してはならない。
朝の二時に眼がさめて眠れない。仕方がないので本を読んで夜が明けるのを待つ。いまは四時だ。昨夜久しぶりに銭湯に行った。体重が三キロも痩せた。昨日冷房をいれた。今年初めてだ。製本するとき汗が出るのでやもうえない。
昨日テレビで歌舞伎を観たが、玉三郎が良かった。弁慶はひどかった。いまは関西の役者の方が活き活きとしている。詩の語りでも、普通というものはどうにもならない世界なのである。人の心を感動させるには、並大抵のことでは不可能だ。そこには日々の精進があってこそなのである。この世で一番マイナーな朗読の世界。その中でもマイナーなのが詩の朗読である。何とかしてこの流れを変えたい。世の中を変えるには一人で出来るものではない。でも最初の一歩は一人の人間である。一人の人間が前向きに生きることで世の中は変ってゆける。私の詩語りでもなかなか世の中には受け入れられていない。でもこう人間がいるということも大切なのだ。なにごとも諦めたらしれでおしまいである。生きるということは諦めないということが求められている。どこまでできるのか解らないが、いまそれなりに懸命に生きていたい。
昨日は、パソコンの調子が悪かった。機械音痴な私はヨドバシまで行って直してもらう。いろいろとお金がかかるものだ。
今日から「操車場」の印刷に取り掛かる。
報道では自民・公明で過半数をとる勢いだという。何としてでも憲法改正は阻止したいものだ。わたしたちは民主主義だから、国民が選んだ政権に対して批判は出来ても、エジプトのように反旗を翻すことはできない。軍事革命などは絶対に許してはならない。憲法を守るということは、簡単であるようでなかなか難しい。詩では何もできないにしても、出来ないなりに事を運んで行くしかない。あきらめない、そして言葉でもって闘って行く事しかない。イラク派遣も裁判では違憲と判断されても、それを阻止できなかった。イラクの人たちの哀しみや苦しみも私達の責任がある。
つねに戦争に反対し原発ゼロに向けて生きていくしかない。そして人明りの世界を目指して詩活動を行ってゆきたい。
今日参議院選挙公示。私たちは未来の子供達に原発のない国づくりと、戦争をしない日本を目指していかねばならない。この願いを裏切ろうとしているのがいまの安倍政権である。安倍政権にとって都合が良いのだ大企業である。一部の人間だけが得をする社会をめざしているとしか思えない。
私の仕事は、いのちの大切さと人明かりの仕事である。それは詩を語ることで世の中に問うてゆきたい。今年は語りを深かめて行くことだけに集中していきていたい。明日死ぬとしてもいまはひたすら語りを深めるしかない。これは倫理や道徳という問題を越えた世界に変えていかねばならない。いま世の中は何をテーマにしていかねばならないのか迷っている。ひとびとはひたすら経済の豊かさを望んでいる。安倍総理は、国民の弱みを突いてアベノミクスを展開しているだけだ。IT産業はいま誰もが興味をもっているが、そのようなものは所詮虚しいものでしかない。中味がないのだから単なるポーズでしかない。携帯電話を持っていない人間の方が賢いといえる。電波に縛られた人間は哀しい。私は携帯電話を持っているが相棒との連絡以外には使用していない。
保坂さんの体調が少し悪いので、私の詩集が十三日ごろにあがる予定だ。操車場の発行日は八月一日だから、発送が少し遅れてもと思っている。何しろ送料代が一銭もないのだからやもえない。詩人と付き合うのではなく、大勢の人間との交流の中で詩を鍛えてゆきたい。詩は詩人の為にあるのではなく、本当に生きようとしている人の為にある。だから詩人に通用する語りなど行ないたいと思わない。魂に打ち込む聲を求めているだけだ。
七月から電気代やその他がいっせいに値上げをした。貧困層にとっては大打撃である。アベノミクスで世の中がいくらか良くなったなどとは、とうてい思えない。いまEUは失業者が増加しているという。それに洪水の被害もでている。世界はますます混迷していっている。ボウナスが大幅に増えたところはよいが、中小業はあいかわらず立ち上がれないでいる。世の中はだんだん歪みが拡大している。
東電は、柏崎刈羽原発の再稼動申請する。地元の説明もなく行なうことはどても信じがたいものだ。そして憲法改正もネット世論が後押しをしているという。戦争があったことすら知らない世代の人達の心が私には読み取れない。まるでゲーム感覚でものごとを判断してしまう。私が求めている人明かりの思想は古いのだろうか? ただ戸惑うばかりだ。
いま「地域と演劇 弘前劇場の三十年・長谷川孝治」を読んでいる。文章はイマイチだが、考えされることがある。働きながら演劇を行なう。これは小劇場の宿命でもある。詩人達はパソコン一つあれば詩を書くことが出来る。しかし演劇は肉体の作業である。詩人たちの持ち出しなんかどころではない。このエネルギーはなみならぬものがある。私は詩語りを行ない続けていてその大変さが良くわかる。詩を書いて詩集だけを出していればよいのとは違う。そこに肉体表現が加わることによって、詩そのものの世界がまったく違ってくる。ほとんどの詩人には何のことはわからないだろうが……。なにごとにもやっている人間にしか解らないものだ。
詩人は誰に向かって詩を書いているのだろう。ほとんどの詩人は誰に向けて書いているという認識はないのではなかろうか。強いて言えば、詩に向けて書いているのではと思う。朗読だって、テキストに向けて一人相撲をしているように見える。ないかが違っているのではと思う。詩はますます読者から離れていく。そして朗読だって、同じことが言える。
生きていることの中で必要なのは、強烈な個性ではなかろうか。特にもの書く人間にとっては求められている。それが外面的でなくても内面的に求められる。現代人はみんな同じような人間ばかりだ。教育や社会性の中で型に嵌って人間が生み出されている。どこかに狂気性を秘めていないと書き続けることも困難になってしまう。しかたがないから、詩を書いているだけだということになる。もう詩人ではないのに詩人ずらをしてしまう。そこで詩の技術にしがみついてしまう。詩人達の会合に出てみると解るが、誰も詩の話をする人などいない。ひたすらくだらない話で終始している。
眠れない中でくだらないことばかり考えている。そうするとトイレも近くなる。ますます眠れない。
昨日もほとんど眠れなかった。これといって原因があるわけでもない。眠っていないといっても、自然にあるていど寝ているのかもしれない。原因といえば生活苦と妹のことがあげられるかもしれない。相棒のお陰でなんとか生活は出来ている。私は何とかして詩集代(印刷代)を貯めている。最近は本も買わないしCDも買わなくなった。といってもこれも中古品を購入していたのだが、めったに古書店にも行かなくなっている。まあ月に1500円ほど使えばいいほうだ。あとは電話代とインターネット代ぐらいだ。これから物価がどんどん値上がりするのか怖ろしい。また消費税もあがる。なるべく何も考えないようにしている。
いまできたらいろんな芝居を観たいと思う。でもそのようなことは夢の夢の話だ。かつては劇団の人達と付き合っていたが、今は誰もいない。先月は小川英晴さんの招待でフラメンコを観た。やはり舞台はいいものだ。私も詩語りで舞台にあがりたい。板を踏むことはとても素晴らしいことである。自分のエネルギーのすべてをそこにぶつけることが出来るからだ。舞台というものは一つの革命なのだある。詩人の聲もそうであるべきだ。生きている歓びを共に味わうことが目的なのだから。そのために芸人の存在理由がある。詩作品も、そこに感動を呼ぶものがなければ虚しい限りだ。言葉とはいのちの叫びそのものである。
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