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2013年6月30日 (日)

田川紀久雄日記

多くの人は、人に誉められることを期待している。それは批判されるよりは気持ちがいいからだ。でもこれ、ちょっと可笑しいと思わないかな。批判されると今の人達は直ぐにキレちゃう。これは心が貧弱になっている証拠なのだ。僕だって心が小さいから批判されるのは好きじゃない。でも本当のことを言ってくれる友は嬉しいものだよ。
昔は同人同士が喫茶店でよく論争を行なっていたものだ。いま喫茶店でこのような風景を見かけない。私が二十代のころはみんな熱があったものだ。詩誌だって三号雑誌が多かった。いまもう私は歳をとってので人から批判されるのはちょっときつくなっている。多分私の考え方も随分間違っていることもあると思う。そのような時は、やはり忠告が欲しいとおもう。安倍総理のように身勝手な思考を頑なに維持するようになってはお終いだ。でもかれは一国の総理なのだ。憲法改正や、原発の再稼動などどうみても可笑しい。それに少しも耳を傾けようとしないのは問題がある。国民は選挙ででしかその評価ができない。後は私のように独り言を呟いていくしかない。一番大切なことは、やはりもっと話し合うことだと思う。いまの世の中はこの話し合うことを避けている。
今の詩人達は、詩集が送られてきても何の反応をしめさない。無関心になっているのかもしれない。一番いけないことは無関心でなかろうか。政治にも文学にも私はつねに関心をもって接していたい。

2013年6月29日 (土)

田川紀久雄日記

妹のことで学園から電話がある。来月の八日に学園でこれからの話し合いを行なうことに決める。非常に身体や精神が重く感じられる。
昨夜もほとんど眠れなかったが、夢で電車に乗っていてどんどんお客が振り落とされてゆく。これは今の日本そのものだ。正規雇用されない人達は、この社会から零れ落ちていく。明日が保証されない世の中である。若者達のホームレスも増えている。預金も年金もない生き方はやはり生きていてとてもひんどい。生活保護法も廃案になってしまった。また困窮者保護の法律も消えた。おんぼろの家があるというだけで生活保護が受けられない。今のところはまだ自分の仕事をしたいから生活保護は受けたくはない。受ければ詩人としての生き方ができなくなる。いま詩語りを極めることで未来に繋げてゆきたい。
人の心に豊かさを与えられる語りを行ないたい。いまそのために必死になって精進をしている。自作詩を心の底から語れるようになることだ。真の吟遊詩人を目指して生きていたい。

2013年6月28日 (金)

田川紀久雄日記

関西電力はMOX燃料を20体もフランスに発注し、そしてすべて搬入する。国民感情を無視して原発政策が推し進められている。どこかが狂い始めている。
公明党は96条維持と、原発ゼロを公約。これで自民党の暴走をいくらかでも食い止められるのかもしれない。といっても自民党と一緒に政権を担ってゆく。参議院選挙では、共産党に入れるしかないのだろうか。選挙の棄権だけはしたくない。体質的にいって私は共産党が好きではない。
詩で解りやすい詩がいいというのも問題だ。難解な詩を否定するのもどうかと思う。大切なのはその詩人の心の叫びの問題なのだ。簡単に難解の詩を否定すうr詩人がいるが、いかがなものかと思う。良い詩は難解でもよい。要はその詩人の受け止め方に問題がある。本来詩というものは難解なものなのかもしれない。だから私の詩集には、詩集という言葉をはずした。私は、書きたいものだけを描いてゆくという立場に立っているだけだ。書きたいものがなければ詩などは書かないだろう。それが上手く書けるかどうかは別として。詩だけが魂の叫びを奏でられるものと思っている。そこには詩の技術とかはそれほど問題にしない。技術は所詮技術だけのものでしかない。いくら暗喩や比喩を使ってもどうにもなるものではない。

漉林書房の本の注文はハガキでお願いします。
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2013年6月27日 (木)

田川紀久雄日記

電力九社が原発ゼロを否定した。人間のいのちより企業の利益だけが目標なのだ。これが資本主義の掟なのだろうか。われわれはこの資本主義の理念を否定できる論理を身につけなくてはならない。そして今の共産主義もそれほど変らない。まさに人間の欲望そのものの丸出しである。
いま妊娠をすると会社は肩たたきをするという。これでは安心して子供が産めない。嫌がらせがひどいという。まったく人間性が感じられない世の中である。参議院でも大事な法案が流れてしまう。国会議員は、国民の幸せなどすこしも考えていない。ひたすら選挙に当選することだけだ。
参議院選挙で自・公が圧勝したら、憲法改正が行なわれてしまう。戦争を知らない世代の人達が、コミックのように勝手に軍備を増大化してしまう。自衛隊の戦車を見ると、世界一の性能を誇る。DVDでも売れているという。軍備は遊びではない。人を殺す道具以外の何物でもない。いのちの大切さをどのようにして詩で描いていけばよいのか? とても困難であるがそれを追求して行かなければならない。私にできることは詩を語るしかない。しかしその道も今は塞がれている。哀しいという他ない。
村上春樹の『ノルウェイの森』を読み始めている。

2013年6月26日 (水)

田川紀久雄日記

詩の言葉は、深い井戸からくみ出す水のようなものなのかも知れない。地下水は何年も何年もかかって生み出されるもの。詩人のことばは、その人の人生の長さに匹敵するのかもしれない。それは神や仏の言葉なのかもしれない。経済が豊かになってゆくと、詩人達は井戸から水をくみ出すことを忘れてしまう。安易に水道水やペットボトルで間に合わせてしまう。ここに今の詩人たちの言葉が空虚になっている要因がある。
詩人の聲も、また同じことが言える。聲というものも長い時間をかけて作られてゆくものである。テクストを聲にだして読んだからと言って朗読や語りになるものではない。日々の精進があって初めて聲が聲として生きられるのである。
詩も朗読も、心に染み渡るものを求めていきたい。世間でちやほやされても、その人が亡くなれば誰も振り返るものがいない。自分にとって大切なものだけを求めて生きていれば充分だ。女性詩人で、山本陽子と麻生知子が凄い詩人だと思う。でももうこの世にはいない。

2013年6月25日 (火)

田川紀久雄日記

「いのちの籠・24号」は読み応えのある詩誌になっている。堀場清子さんの詩には時の長さの中に歴史の重さを感じさせる作品になっている。まるで長編小説を読んだような感じにさせてくれる。
このところ詩が書けないでいる。パソコンの前に座ってただじっとしているだけだ。書きたいと思いながらも一字も言葉が浮かんでこない。詩というものは闇の奥からこちらに言葉が向かってこないと書けないものらしい。その間はじっと待っているしか何もできない。
「いのちのひかり」の予約を高畑さんと山下さんからあった。なにか申し訳がないような気がする。でも私はいただけるものならすべて受け取っている。それは詩集を出したいからだ。詩集は売れないと解っていても何とか印刷代は回収したいと願っている。そうしなければ次の詩集が出せないからだ。
詩というものは、書くものではなく、生まれてくるものだと思っている。生まれてきたものはそれなりの形にして世に送り出したい。その人が生きてきた年月の集積が詩の一篇の中に集約されている。そのことは大倉元さんの詩集「祖谷」を読んでも感じられる。高畑さんのこの前のブログの詩にも感じられた。詩というものは書き手にとってかけがえないもなのだ。だから感銘を受ける詩にであうと嬉しくなる。心が温かくなる。

2013年6月24日 (月)

田川紀久雄日記

都議選挙は自・公が圧勝である。日本人は眼の前のことしか考えないようだ。このままだと参議院選挙も自・公で決まってしまうのだろうか。原発ゼロと憲法改正反対の願いはと通らないのだろうか。いまの世の中は思想なき時代だ。経済だけが一人歩きしている。他者のことより自分だけがという考え方だ。この風潮はバブルがはじけたあたりから始めっていたのだろう。
詩人はこの世の幸を求めながらひたすら詩を書いてゆくしかない。この世が地獄に落ちようが愛を信じて生きていたいものだ。そのためにも詩語りをしてゆかねばならない。しかし、何処にもそれを行なう場が失われている。いま公園で『寄り添う』を語り続けている。これは『いのちのひかり』のあとに出す詩集である。聲を出しながら細かいところを手直しを行なっている。一ヶ月ぐらい語り続けると、やっと人前で語ってもそれなりの語りができる。つねに一時間は語れる体力を維持することに日々努力していかなければならない。人と同じことをやっていては、なにごとも達成することなど出来ない。人より何倍もの努力が求められている。この困難との闘いこそ生きている意味がそこに隠されている。
今日野間明子詩集『耳として』の発送を行なう。

2013年6月23日 (日)

田川紀久雄日記

ポーランドは一度原発を途中まで作り、それを放棄した国である。その国に原発を売り込む安倍総理のあり方に、日本人である私は憤りを感じる。ヒロシマ・ナガサキ・フクシマの経験した国が、原発を他国に売り込むなんて情けない。福島はまだ原発事故は何も解決していない。いまでも色々な事故が起きている。ポーランド人も原発に反対している人が90パーセントにものぼる。なぜ自然エネルギーの技術を売り込まないのか。安倍総理は三菱との関係があるからなのだろうか。
新エネルギー太陽電池でシャープは新しい技術を開発したという。日本はメガソーラーで低コストの発電も可能になっている。原発はもう過去の物なのだ。
富士山が世界遺産に決定した。それも三保の松原も同時にだ。これは奇跡に近い。これはロビー活動が功を奏したとしか言いようがない。
坂井のぶこ詩集も今日保坂氏に版下を送る。あり金が底についた。これから先のことは何も考えないようにしている。あまりにも無謀な生き方だ。これが末期ガンを宣告された人間の生き様なのだろう。生きていられることが一番の宝なのだから。生きていれば、やることは沢山ある。いま語りの世界も見えてきた。俳優(わざおぎ)の世界である。新しいいのちの再生が語りそのものになってゆく。

2013年6月22日 (土)

田川紀久雄日記

このままだと参議院選挙で自民党が勝ちそうだ。そうなると憲法改正と、原発の再稼動が進む。選挙に行かないことは国民としての義務を否定することになる。この日本の国の為にも憲法改正・原発再開の反対をして行くことである。
アベノミクスで生活に困っている日とあっちが増えている。物価が上昇しても賃金が上がらないままだ。その上消費税の値上がりが待っている。何かが狂い始めてきている。原発再開で歓ぶのは地元の人達だ。反対したが生活には再開が必要だと思っている住民が多い。これは国民に責任を負わせることは出来ない。国全体の問題である。それを解決するのが選挙であると思う。いまの時代には思想というものがどんどん希薄になっていっている。思想より生活の言葉の方が重みがある時代だ。いま世界を見渡してみても、貧困で喘いでいる人達が何億人もいる。そして内戦で難民になっている人達も多数いる。日本ではこの難民をほとんど受け入れていない。眼をつぶって生きていいれば、日本はとても住みやすいのかも知れない。他者の苦しみを自分の心に引き入れていかないと、平和憲法を勝ち取ってはいけなくなる。哀しみを共に出来る世の中になっていきたいものだ。

2013年6月21日 (金)

田川紀久雄日記

中国は影の銀行によって滅びてしまうのではなかろうか。共産主義と資本主義との混合の社会の危うしさが浮き彫りになっている。共産主義も資本主義も人間の社会にとってはどちらも歪んだ社会でしかない。
1Q84の第三巻を読み始めた。村上春樹は物語作家なんだろう。前作の「海辺のカフカ」も層であったように。一度読み始めると最後まで読まされてしまう。途中でくだらないと思いながらもやめられない。第四巻はまだ手に入らないのでいったん三巻で読むのを止めておくしかない。
坂井のぶこ詩集も来月には印刷所に入れられそうだ。相棒は麻生知子を毎日語っているが、横で聴いて彼女の詩集はいいなと感ずる。麻生知子をまとめて録画したいと考えている。秋あたりからライブという形式ではなく、録画の為の場を設けたいと思っている。これも高畑耕治さんがユーチューブの制作をしてくれるからである。「たぶの木・6号」も高畑さんのブログで見られます。
ガンも怖いが、糖尿病も怖い。糖尿病で足のむくみが出ているかもしれないと皮膚科でいわれた。

2013年6月20日 (木)

田川紀久雄日記

今日は病院だ。皮膚科と内科の検査である。
昨日島村直子さんから、カンパを頂く。これで病院費が払える。毎月が綱渡りの生活である。足腰が弱っている。もっと運動をしなければならない。相棒に迷惑をかけないためにももっと自分なりに努力をしなければと思っている。
詩語りの出前があれば、いくらかでも生活が楽になるのだが、いまのところ仕事はないも入ってこない。本当に語りを行ないたい。その思いはつねに熱く抱いていたい。そのことで日々の精進も持続が出来るからだ。かつて東淵修さんに励まされたこともある。今は、語りに(朗読)に懸けている若い人達の励みになれば、私の生き方も無駄ではないと思う。この小さな詩の世界でも、真剣になって生きている人がいる。誰にも認められなくてもかまわない。大切なのは生き方そのものなのだから。
大倉元さんから詩集「祖谷」が送られてきた。まったく見知らぬ人である。わたしより四歳ほど歳うえだ。素朴でたんたんと詩が綴られている。なかなか読んでいて心が和む。詩にとって知名度など何の関係もない。あくまでも作品だけが全てである。いかにして人の心に届くものが描かれるかである。詩を技術で書いているうちはまだまだ詩を書いているとはいえない。

2013年6月19日 (水)

田川紀久雄日記

いま二十代の若者の自殺が増加しているという。全体では減少しているのだが。若者達の自殺の原因は就職がないことらしい。いま何処でもなかなか正規社員の雇用が少ない。いとどアルバイトにつくとなかなか正規社員の口にはありつけない。これによって収入の格差が拡がってしまう。経営者の都合が良いように仕組まれている。バイトでも都心と地方では大きな賃金の格差がある。未来の設計図が永遠に築くことが出来ない。若者達に未来が築けない社会は不幸である。アベノミクスは大企業の救済には良いが、人間の個人個人の幸せには無関心である。政治というものはつねに全体だけが問題であるからも知れない。社会制度だけが厳しくなっている。
「たぶの木・6号」が出来る。高畑さんも山下さんのゲストの神谷さんもいい作品だ。詩は人の心に響く作品を書いて、初めて評価されるものである。詩は豆腐に釘を刺すようなものかもしれないが、それでも何らかの生きる歓びを感じるものを表現したいものだ。
私は末期ガンの宣告以後、貪欲な気持ちで詩と取り組んできた。生きられていることの意味をつねに表現し続けていたいからだ。無意味な生に落ち込みたくはない。詩はほんの小さな世界でもあるが、その小さな世界につねに灯火をともし続けたい。そのためにも「操車場」「たぶの木」は年間購読料をお願いしている。確実に一人ひとりの手に届くように……。

2013年6月18日 (火)

田川紀久雄日記

安倍総理の外交政策を、共産・社民が「死の商人」と批判をしている。我々も安倍総理の政策を止めることが出来ない。それは未来永劫その責任は国民の一人ひとりに背負わされてゆく。それはアジア侵略を行なった戦前の日本のツケが今なお背負わされていることにでも解る。特にヒロシマ・ナガサキの悲惨を請け負いながら、そして福島原発事故を惹き起こしたことは、核に対しての日本人の認識不足から生まれたことである。それは想像力の欠如からきている。喉もとをすぎれば熱さを忘れる、という諺どうりである。日々想像力を補って生きていかないと、本当に地球は滅びていくしかない。
私の作品を朗読なさってくれている、牧瀬かおるさんから、万華鏡を送っていただいた。とても美しい世界である。私の詩が一人でも多くの方々に朗読されていくことは有り難いことだ。詩の賞を頂くことよりも数百番嬉しいことである。詩はお金にならないのだから著者権をこえて語れてゆくればと思う。それは一様、著者に承諾をえるのが前提であるが。私の詩作品は、誰もが朗読をしても自由である。詩誌『いのちの籠』では誰でも自由に朗読をとうたっている。詩というものは誰でもが自由に口ずさむことが出来ることが良い社会を生み出してゆく。それは、現代詩から「現」という言葉をはずして行く作業でもある。詩が本来の心の詩(うた)に帰えることを意味するからだ。詩はもっと自由を求めて人の心に響く世界をつねに求めていたい。

新しいユーチューブが見られます。
宮澤賢治「青森挽歌+銀河鉄道の夜」。田川紀久雄&坂井のぶこ「いのちを語る」詩語りライブ1

http://youtu.be/CosPsKEvPQ4

宮澤賢治「青森挽歌+銀河鉄道の夜」。田川紀久雄&坂井のぶこ「いのちを語る」詩語りライブ2

http://youtu.be/YXNWB9Td9Cs

島村洋二郎「五線譜の詩集から」1。詩語り:田川紀久雄・坂井のぶこ

http://youtu.be/zKUPKOViAio

島村洋二郎「五線譜の詩集から」2。田川紀久雄・坂井のぶこ 詩語り
http://youtu.be/gVC5tjKN4Ww

2013年6月17日 (月)

田川紀久雄日記

老人も若者も、自己中の人が増えている。これは今の社会に要因があるのかもしれない。フェイスブックやツイッター・ブログなどは、一方的な発信である。このような現象が自己中を生み出している。しかし老人達はこれらのITに係わっていないにも係わらず自己中が増えているのは、何故なのだろう。こういう私もブログを一方的に書き連ねている。そしてそう上活字化までしている。
詩人たちも、他人の詩に対して無関心になっている。自分の詩だけが誉められたいという、まるで幼児的な性格の詩人が増加している。それは社会性を失って現象なのかもしれない。詩集を発行してもまるで豆腐に釘を打っているかのようだ。社会人から見て詩など取るに足らないものとしか見られていない。詩人同士が集まってもほとんど詩の話はしない。世の中か空白化していっている。こうなると政治家は自分勝手ことを始める。維新の会の橋本氏のように慰安婦問題でも相手の心を汲み取ることがない。自分の都合の良い論理を展開してゆく。いま何が本当に大切なのかさえ問われなくなっている。高齢化が進む中でどんどん取り残されてゆく老人が増えていくだけだ。まずは相手を労わる心を取り戻したいものだ。相手の言葉に耳を傾けることがいま一番求められているような気がする。
詩誌受贈『かち・8号』

2013年6月16日 (日)

田川紀久雄日記

1Q84の二巻目を読んでいるが、読んでいてなんとなく馬鹿馬鹿しいような気がしてくる。それでいて先が読みたくなる。ここにはまったく人間そのものが描かれていない。現代はそれだけ人間の存在を描きにくくなっているのだろうか。私としては久しぶりの長編小説を読む。
野間明子詩集が出来上がる。とてもいい詩集だ。操車場でも一番詩そのものを書いている。詩語りの場所を失っているのがいま一番辛い。ビデオで自分の詩集の詩語りを残しておきたいと思っている。だから日々自作詩を語り続けている。
今日は川崎詩人会がある。丸山さんは茨城から毎回出てくる。大変だ。
原発が七月には、大飯原発と高浜原発が再開されようとしている。これは歴史的に見ても許されるものではない。日本の技術力によって自然エネルギー開発に向かって方が良いはずだ。いまなお福島原発事故でつらい生活を送っている人達が大勢いる。原発を再開すればどんどん核ゴミが増すばかりだ。この狭くて、地震大国では、核ゴミを処分する場所は何処にもない。安倍総理は、原発の売り込みに外交政策にやっきになっている。国民の望む政治からどんどん離れていく。これでいまなお支持率が高いのは、国民の愚かさだともいえる。本当の幸せを見つけに詩人達は旅に出ようではなかろうか。それが詩の世界でもあるのからだ。

2013年6月15日 (土)

田川紀久雄日記

「たぶの木・6号」の版下が出来上がる。この度は全員が良い作品だ。本当にまとまりのある詩誌になってきた。手作りで部数は少ないが、納得のいく詩誌だ。現代詩という言葉から現という言葉を排除した純粋な詩誌である。人間のための人間による詩誌といえる。仲間が集まってお祝いをしたい気持ちである。
パソコンとプリンターが繋がらなくなった。これには困った。私の詩集を作るためにプリンターを買う金はない。コピー機はもう一台あるからコピーをするには困らないのだがやはりパソコンと連動しないのはやはり仕事に差し障る。
憲法の改正が超党派で進められている。これは国民の存在をないがしろにするものだ。まさに戦前の軍国国家に戻る様子を見せている。昨日は憲法改正の反対の講演が上智大学で行なわれた。アベノミクスで浮かれているときではない。かつて六十年安保騒動の時、原発建設の会議が行なわれていた。あの安保騒動のドサクサにまぎれて。戦争のない国作りに私たちは命懸けで闘ってゆかねばならない。詩人の仕事ではなかなかどうにもならないが、聲をあげていくことはできる。口を噤んだらお終いだ。「たぶの木」がいのちを守る砦でもある。政治的なことはいわなくでも、人への愛情のある眼差しで詩を作り出している。購読者を増やして部数も増やしてゆきたい。

2013年6月14日 (金)

田川紀久雄日記

昨日に株に暴落と円高は、日本の経済が本物でない証拠である。あくまでもギャンブルなのである。日銀のあり方にも問題がある。権力におもねる姿勢は国民にとって嫌な感じを受ける。これで消費税が間違いなく上がったら国民生活は大変になる。アベノミクスの強引なあり方にはいつか破綻するだろう。いま日本を支えているのが非正規社員たちである。ボーナスも涙金しかもらえない。そしていつ解雇されるかわからない。これが正常な社会といえるのだろうか。経済が国際化になるに従って労働条件が悪くなる。無職の私がこのようなことを言ってもあまり意味がない。それでも世の中が変になってゆくのを見るのは耐え難いものである。
笠井嗣夫さんからカンパを頂いた。いまの私たちの世代は親の介護で大変なのである。私の周囲に何人かの人達は介護で疲れている。いま老老介護でいろんな問題が起きている。親の介護で会社を辞めていく人も多い。介護保険のあり方も問題になっている。安倍政権は社会福祉の切捨てがあるのではないのか。膨大な赤字を解消するにはこの福祉政策の切捨てが一番手っ取り早いからだ。つまり弱いものいじめが起きるかもしれない。嫌な世の中になりそうだ。

2013年6月13日 (木)

田川紀久雄日記

株を一度も持ったことがないので、株にはまったく興味がない。でも株というものは素人が手を出すものではない。主婦たちが割合と株で利益を得ているという話をよく聞くが、実際は解らないものだ。損をしたときは黙っているからだ。所詮ヘソクリで運用しているのだから、誰にも文句がいえない。
今日は旧暦で五月五日である。つまり端午の節句というわけだ。日本列島は三十度以上の猛暑である。関東地方は別である。六月の半ばで三十五度を越すことがあっただろうか。新潟の高田も三五度以上の暑さであった。今年は水不足になる恐れがある。自然相手の農家は大変だろう。
ギリシャは、公務員の削減で大変である。日本もギリシャのようになりかねない。何しろ国の借金は膨大である。実態はもう国が滅びかけているのだ。アベノミクスはそれを何とか隠そうと企てているのだが、経済の実態があまりにも貧弱である。円安でなんとか誤魔化そうとしているだけだ。その挙句、原発を外国に輸出しようとしている。アメリカでは原子炉が廃棄になり、三菱の欠陥製品が暴露された。その設備を外国に売り込もうとしているのだろうか。安倍総理の経済外交は危険な話だ。元日銀の幹部がアベノミクスはギャンブルだといっている。国民はこのギャンブルにうまく乗せられているのではなかろうか。何とか参議院選挙を勝ち抜くための罠である。

2013年6月12日 (水)

田川紀久雄日記

パソコンの調子があまりよくない。ときどきインターネットの画面が出なくなる。そしてブログも打てなくなる。機械が古いせいかも知れない。
大企業だけが利益あ上げている。中小企業は赤字のところが多い。これはアベノミクスの欠陥である。大企業のボーナスは前年度より多い。しかし社員でない人たちは本の涙金しか支給されない。これではますます貧富の差が大きくなってゆく。これは歪んだ社会である。いまなんでも値上がりをしている。
庶民の台所は苦しい。今年の夏が長く続けば電気代も大変だ。暑さもかっての熱さではない。普段が猛暑になっている。じわじわ嫌な世の中になっている。全てを生活を節約してなんとか詩集を上梓している。人様の生活をうらやまない。人は人、自分は自分という考えに徹していくしかない。貧乏を楽しんで生きることも一つの生き方である。しかしこの貧富の差が大きくなれば世の中はきな臭くなる。憲法改正だけは阻止しなければならない。戦後一度も戦争らしきものがなかったことはいまの平和憲法のお陰である。力では何も解決しない。とくに資源のない日本では他国との平和的交渉が大切である。今の平和憲法で、領土問題も解決できるはず。その道を見出すのが政治家の役目であるはず。安倍政権の方針は危険な方向に舵を取ろうとしている。小さな幸せを積み重ねていくことが大切なのである。

2013年6月11日 (火)

田川紀久雄日記

夜中一時ごろに眼がさめると。朝まで眠れないまま過してしまう。これはなかなか辛いものだ。私の周囲にも不眠症の方がいるが、どうして夜中を過しているのだろうか。ある人は睡眠薬を医師からもらっているという。相棒も私と一緒に眠れないといっている。相棒は床の中で本を読んでいたりする。でも私は眼が悪いので薄くらい所では読書は無理である。
村上春樹の1Q84は、眼の悪い私でも引き込まれて読ませてくれる。詩とはまったく違う世界である。詩は面白く書かなければ駄目だという詩人がいるが、詩というものはあくまで個人の叫びが求められている。面白いとかは問題ではない。
昨日『いのちのひかり』を印刷所に送る。本になることによってこの作品が、一応完結する。数ヶ月かけて一つのテーマを書き上げたという歓びを感じられる。手元に原稿があるうちはいつまでたっても未完成である。直せばいくらでもあるが、どこまで手を入れるかが解らない。手を入れたからしが画良くなるというものでもない。そこが小説とは違うところだ。私も子供のころは読字障害であったように思う。まったく活字を寄せ付けない。それが二〇歳近くまでも続いた。村上春樹の小説を読んでいて、読字障害を知った。
詩誌受贈『雲と戸・21号』

2013年6月10日 (月)

田川紀久雄日記

自民党の憲法改正案だと、「国民」のことばを「国」にするらしい。国民より国が優先する。これはまさに戦前の思考復活以外の何物でもない。国民は国の犠牲になる。その象徴が戦争である。そして国民は全て番号で認識されてゆく。そこには当然自由が奪われ、言論の自由も規制されてゆくだろう。いまでもブログは誰かに監視されているかのような気がする。原発関係のブログを視ようとすると、パソコンが動かなくなることがある。
「操車場73号」で長谷川忍さんの作品に「長谷川さんの「ものがたりに」迫力をかんじました。狂気、負の部分、裸体…… 大正末期~昭和初期のエネルギーを感じました。」と津坂治男さんから感想を頂きました。詩人達からはほとんど無視されている「操車場」ですがこのような手紙を頂くと本当にありがたい。それに冨上芳秀さんの連載も読まれている。
津坂さんから送られてきた『中二が見たあの日』は津市大空襲を描いたものだ。どうしても語り継がなければならないものは、誰もが一つや二つはあるものだ。それは貴重な国民の財産にでもある。
詩誌受贈『みえ現代詩・90号』『中二が見たあの日』

2013年6月 9日 (日)

田川紀久雄日記

村上春樹の小説『1Q84』を読み始める。巧妙に罠を仕掛けた小説だ。私は彼の小説には好き嫌いがある。どれもよいというのではない。でも小説を読むのは久しぶりだ。この第一巻は代々木上原の古書店で安く買ってのが始まりである。相棒が夢中で読んでいるのでこちらもつられて読むはめになった。
「たぶの木・6号」の原稿が高畑耕治さんと崎本恵さんのが入った。崎本恵さんはゲストである。この「たぶの木」は小さな詩誌であるが、心の温もりを感じる世界を構築してゆきたい。年間購読料1800円(送料込み)です。できるだけ購読者を増やしてゆきたい。「操車場」の原稿は植木信子さんと高橋馨さんのが送られてきました。そして私の詩集『いのちのひかり』は今週に印刷所に入れる予定です。精一杯人生を豊にしてゆきたいと願っています。あとは詩語りの出来る場所があればと思うだけです。世の中はなかなか上手く行かないものです。

2013年6月 8日 (土)

田川紀久雄日記

今の世の中は他人に対して無関心である。ある意味での自己中心型でもある。他者を思いやる心が失せている。これはいまの社会の反映なのだろう。アベノミクスは、他者の思いやりに欠けた政策以外の何物でもない。世の中は経済だけで変るものではない。
原発のない世の中を作り出すことが必要である。生き物のいのちを無視するような政策以外のないものでもない。安心して生きられることが一番の幸せではなかろうか。一部の人たちだけが幸せな社会は不幸そのものである。
ものを書く行為は、まず自分を見つめることにある。そして世の中と繋がってゆく道を見出す手がかりにもなる。私は他者の幸せを求めて生きていたい。私が世の中と関ることができるのはやはり詩を通してしかない。それがどんなに小さな世界であったとしても、それに身も心も委ねて生きている。いや小さな世界だからこそ意味がある。ほとんど社会からは無視される。語りを行なってもお客が集まらない。まるで存在していないようにしか扱われない。そのことがまた書くことへの意味を深めてくれる。世の中からどんなに冷たくされても、やはり世の中に感謝してゆきたい。八月にできる詩集『いのちのひかり』も、心の底から生きることへのメッセージである。末期ガンの宣告を受けた人間のいのちの言葉でもある。どんなどん底にいてもいきるひかりを求めていたいものだ。予約受付中です。その次の詩集も出したいのでできるだけ買っていただけるとありがたい。

2013年6月 7日 (金)

田川紀久雄日記

詩集の出版数が減っているのではないのだろうか。それは詩人の高齢化に伴うものなのだろうか。どこの詩誌をみてもほとんどが高齢者ばかりだ。早い話が老人倶楽部といっても差支えがない。そこには活気や闘争心が失われている。また詩集を上梓しても出版記念パティーもほとんどなされない。そういう私も一度も出版パティーを行なったことがない。年金生活者の取っては詩集上梓することもパティーに出席することも大変なのだろう。書きたいテーマさえ見つからずなにげなく詩を書いている人達が多い。ますます詩の活力が失せていくばかりだ。まず自分の生命力を高めることを志して行くべきである。そして人と付き合うことが大切なのではなかろうか。
安部総理は原発の再稼動を行なおうとしている。経済の発展には原発が必要と思っている。これは時代に逆らう方向である。いま自然エネルギー問題も話題に上がってこない。中国人のようにお金で人の幸福を買えるとおもっているのと同じだ。アベノミクスは本当の人間の幸福とは反対の方向に向かおうとしている。いまお互いに助け合う社会が求められている。人の幸福は、他者に役立って生きているということが最大の幸福度ではないのだろうか。詩も他者の心にいくらかでも幸せに役立っていければと思うだけだ。

2013年6月 6日 (木)

田川紀久雄日記

昨日のテレビはアホとしかいえない。一日中サッカーの話題で明け暮れていた。テレビそのものの存在が問われる。
安倍総理が十年間で150万円アップ計画を発表した。ますます年金生活者や私のような無収入者は生存の危機にさらされるだけだ。一部の人達だけが裕福になる社会は、まるでいまの中国のようだ。年三パーセントの成長があって可能な数字である。まるで棚から牡丹餅の発想である。アベノミクスとはいったい何なのか。印刷業界は昔のままの価額で行なっている。紙や材料費が上がっても印刷代金は昔のままである。それだから印刷関係はどんどん倒産が増えている。返ってデジタル印刷で印刷代が安くなっている。中小企業では、工賃が上げられないのが現状である。それに大企業がどんどん外国に工場を移して行くから、仕事が減少しているという。アベノミクスは、ある意味での弱いものいじめである。
やっと来週にもわたしの詩集を印刷所に入れられる。いつも保坂さんにはご迷惑をかけている。保坂さんの存在がなければ、漉林書房は成り立たない。詩の大手出版のようには利益がとれない。原価すれすれで運用している。『操車場』も手作りで出版している。それにしてもインク代がかかりすぎる。

2013年6月 5日 (水)

田川紀久雄日記

昨日のサッカーは身が縮まる思いで観ていた。本田が最後に決めたときはさすがだなと思った。何事にも腹が据わっていないと物事が決められないものだ。
昨日操車場の印刷を行なう。一人で印刷と製本を行なうのはきつい。でも自分が決めたことなのでやるしかない。今朝は身体がそこらじゅう痛みを感じる。
井原修さんから、復刻版の『魚族館の女』が送られてくる。二十二歳の時の作品であるが、ある意味で早熟であったと思う。悶々として生きている苦しみが上手く表現されている。私が本格的に詩を書き始めたのが、漉林書房を立ち上げてからだ。そして書きたいテーマがはっきりしたのは、末期ガンの宣告を受けてからだ。そう意味では詩人としては情けない状態であったのだろう。いまは詩らしい詩を書きたいとは思わない。そう意味でも詩人達からは遠い存在である。家からほとんど外にでることはない。まったく孤独庵に閉じこもっている。そして詩語りの精進に励んでいるだけだ。私は読経をする代わりに聲を挙げているのだ。言葉の内奥を視つめるために……。

2013年6月 4日 (火)

田川紀久雄日記

最近わが家の空を夜中大型のヘリが飛んでゆく。それもまるでオスプレイが飛んでいるような音なのだ。米軍なのか自衛隊機なのかわからない。わたし達の知らないところで何かが行なわれているような気がする。
わたし達はかつて戦前詩の反省から、どう詩がどうあるべきかを考えていた時期もあった。しかし現代詩は、いまという時代をどう批判して行くかが皆目なされていない。ほとんどが詩という言葉の中で溺死しているような気がしてならない。このままでも現代詩は、時代の中に飲まれてゆくばかりだ。抒情詩のあり方にもそれ以上の方向性が見出せないでいる。戦前の詩人達は、ほとんどが戦争協力詩に呑まれていった。今の詩人達でも戦前の詩人達とそれほど変らない精神状態ではないのだろうか。「詩的現代」で「私が詩を書くとき」の特集が組まれているが、なぜ詩的現代が生まれたのか、問いかけすらない。『詩と思想』だって初期の段階では熱い論争が掲載されていた。私が東日本大地震や原発のことを書いて詩集を上梓すると。詩人の中にはそのようなものを書いてもないもならないよという詩人もいた。いま詩誌とは何かが問われているのではないかと思う。確かに詩誌で魅力のある詩誌が少なくなっているのも確かなことだ。

2013年6月 3日 (月)

田川紀久雄日記

台湾で大きな地震があった。小さな島国である日本と同様に原発の問題がやはり心配だ。昨日原発反対運動が東京で行なわれた。東京電力から国会までの行進が行なわれた。
安倍総理はいろんなところに金をばら撒いているが、未来の日本の借金は膨らんで、いつの日にか風船が破裂するようになるのではなかろうか。アベノミクスと騒いでいるが、その陰は大きな亀裂も生まれている。
詩は政治とは関係がそれほどないが、従来の詩という概念からは詩を捉えるのは無意味なような気がする。いま純文学の作家達も、作品を書いているだけでは生活を維持することは無理であるという。エッセイやもろもろのものを書いていかねばならない時代である。要はどう今の時代と向き合って行くかが問われているのだろう。街の中では携帯電話で情報を集めている姿ばかりだ。電車の中でも本を読んでいる人の姿は稀である。活字文化はひたすら情報へ向かって進んでいる。詩や純粋小説など、どんどん世間から離れていくばかりだ。ブログ文化のなかで活字がなんとか生かされているといえる。情報文化をうまく利用していくのも詩文化にも求められているのかもしれない。
詩誌受贈『叢生・186号』

2013年6月 2日 (日)

田川紀久雄日記

昨日は、素晴らしいフラメンコを観た。鍵田真由美さんの踊りには圧倒された。何年ぶりにかフラメンコを観ただろう。長嶺ヤスコさんいらいだ。何事もそうだが、自分の仕事に命懸けで取り組んでいる人のものはいつでも素晴らしく感じる。やはり本物の人間に出会うことがその人の成長に役立つものだ。
いま私は詩の語りで、本物の人に出会うことがない。このことが一番寂しいものだ。一銭にもならない世界であっても、命懸けで取り組んでいればそれは素晴らしいことなのだ。要はその世界が大好きだということがなければ、何事も長続きしないものである。ただ好きだけでは、どうにもならない世界でもある。
代々木上原に初めて降りたが、なかなか素敵なお店が多い。それに坂道が多い。また時期があったら行ってみたい街である。
詩誌受贈『詩的現代・5号』

2013年6月 1日 (土)

田川紀久雄日記

昨日妹のことで学園の先生と話し合う。身体の方も予想している以上に悪い。そこで万が一の場合の話し合いを近いうちに行なうことにした。わたしは妹より先にあの世に行くことだけは避けてきた。それなりに生きてきたつもりだ。
昨日、諫川正臣さんよりお手紙と、切手をいただく。ビデオが途中で切れているのがとても残念。ライブでもう一度撮り直しをしてみたい。と言ってなかなかライブ場が見つからないものだ。坂井のぶこさんの麻生知子詩集をちゃんと録画しておきたい。まだまだしたいことがいっぱいある。麻生知子の詩も孤独の中でエベレストのように聳え立っている。心の温みをいっぱい浴びるような語りをしてゆきたいものだ。詩人たちの朗読を聴いていても、この心の温みを表現できる人はいない。ほとんどの人が言葉の表面だけの表現で終わっている。わたしもやっとこの心の温みを表現できるようになってきた。これも毎日の精進のお陰である。残された人生でどこまで本当の詩の語りができるのか模索してゆきたい。
午後から、「赤いろうそくと人魚」の公演を観に行く予定だ。小川英晴さんの朗読も聴ける。

尼崎安四詩集より。田川紀久雄・詩語りライヴ「第11回いのちを語ろう」が観られます。
http://youtu.be/w9biujrhH1M

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