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2013年3月31日 (日)

田川紀久雄日記

岐阜のNさんから電話がきた。Nさんは心を病んでいてつらい生活を送っている。心の病はなかなか治るものではない。時間をかけてゆっくりと治療していくいがいにはない。まっずはあせらないことが大切である。それと周囲の温かい眼差しが必要でもある。私の『慈悲』という本を送ってのお礼で電話をくれたのである。欝のときは人と話すのが良い。話すことでいくらかは心が癒される。とりとめのない話でも良い。問題は聴き手がそれを受け入れてやることが求められる。現代ではみんなが忙しいのでなかなか人の話を聞くことがない。心の病は最初は小さなところから起こるものだ。心に病を起こす人はみんな真面目である。真面目だからこそ人一倍心も傷がつきやすい。大島渚の奥さんの小山さんも鬱病で何度も死を考えたことがあるという。鬱病はほんとうにつらい病なのである。これは社会全体で取り組んでいかないとなかなか直らない。その苦しみの重荷を少しでも肩代わりできるい仕組みが必要なのである。詩や語りで、その重荷をいくらかでも緩和することができるといいなと思う。私はそう思って詩の世界を格闘している。

2013年3月30日 (土)

田川紀久雄日記

主権回復の日などということは沖縄県民にとって屈辱の日である。いまの日本はアメリカの言いなりになっている。原発にしてもTPPにしても何が主権回復といえのか理解が出来ない。私たちは願うのは、ただ一つ平和な世の中である。それは戦争のない世の中である。
四月になるといろんな物価の値上がりが始まる。アベノミクスで二パーセントの物価上昇を狙っているが、下々の人たちは給料も上がらなければ、生活保護費も下げられる。上がるのは物価の値上がりだ。株で儲けている人たちは嬉しいかもしれないが、生活に困窮している人たちには株などまったく縁がない。父親を失った家庭の子供達は大学へ行くことができない。
原発関連で亡くなった人たちが多くいる。昨日金曜日官邸前デモに多数の国民が参加したという。このところ私はあまり眠れない。夜中に眼がさめると朝まで眠れない。私の知り合いにも数人の不眠症の方がいるが、眠れないのは辛いことだ。

2013年3月29日 (金)

田川紀久雄日記

国会は本当に自分勝手だ・国民に税の負担を押し付けていながら、自分達の議員の削減には消極的だ。彼らは何のために議員になったのか解らない。外国では国民のための奉仕活動と捉えている国もある。そこにいくと日本の議員はなになに先生と呼ばれていい気になっている。
いまシャープや富士電機なども定員削減が始まっている。大企業だからといって永久就職などない。まったく未来への保証など何処にも存在しない世の中になっている。こんな不安な時代はなかったのではないのか。犯罪が増えるのも当然のように思える。北朝鮮などは親に捨てられた子供達が乞食のような生活を送っている映像がテレビで流れているが、それを見ると心が痛む。独裁国家の悲惨さが見える。
ネコの餌を買いに川崎に出た。古本屋で「圓生全集・4・5巻」を百円で購入。何故買ったかというと装丁が素晴らしいからだ。昭和36年発行である。紅色の中に万年青の鉢が描かれている。江戸時代に万年青ははやった。それは冬でも青々としているからである。青蛙房はいい本が沢山発行されている。やはりかつては本というものは贅沢なものであった。電子書籍になったらこの本の手触りがなくなってしまう。いまの時代はこのような古い本は誰も読まなくなっている。ないかが淋しい。

2013年3月28日 (木)

田川紀久雄日記

最近FMラジオを昼間聴いている。テレビより面白い。耳から入るから、テレビのようにいい加減な番組は作れない。今テレビは最低な番組ばかりだ。どこのチャンネルをいれてえも同じ顔のタレントがでている。まったく独自性が見られない。なぜお笑い芸人が多いのか。それはギャラが安く使えるからではなかろうか。ようは使い捨てのできる芸人を使用しているからだ。これではテレビ業界は滅びてゆく。
毎日詩語りの稽古をしていると、いろんなものが見えてくる。聲の上達はいくら頭で考えても進歩しない。稽古に打ち込んでこそ何かを摑むことができる。来月『詩と思想』で朗読の特集を組むが、どのようなエッセイが寄せられるのか楽しみだ。この企画は長谷川忍さんである。かつて「詩と思想」でも朗読会を開催したことがあるが、その後しなくなってしまった。企画したらば、どこかの会場を借りて企画をしてもらいたいものだ。もっともっと朗読交流の場も必要ではないのだろうか。詩人で自主的に行なっている人はどのくらいいるのだろうか。いてもほんの数える人しかいないのではなかろうか。
来月千葉の柏で「島村洋二郎展」がある。晩年はすさまじい生き方をした。詳しいことが解ったらまたお知らせいたします。

2013年3月27日 (水)

田川紀久雄日記

アベノミクスノで世の中が騒がしい。ようは物価が値上がりしているだけだ。輸入品の値上がりで生活用品がどんどん高くなってゆく。そして沖縄では、彼らの心を踏みにじる。強引な辺野古埋め立てが行なわれようとしている。札束で何でも解決できると思っている。これは原発誘致の時とおなじ遣り方だ。そのことの為にいま福島の人たちは苦しんでいる。日本の未来の為という甘い言葉でいつも国民は踊らされてきた。いま経済がよくなってきたじゃないかというが、それらは幻想の世界である。憲法の改正には断固反対してゆく覚悟が必要だ。といっても今の与党は、ばらばらの政策でまとまりがない。やはり市民運動を展開してゆくしかなさそうだ。
CDで清水和音のショパンを聴いた。これは凄いとしか言いようがない。一音一音に魂を打ち込んでいる。いままでこんなショパンを聴いたことがなかった。バラードとスケルツォが入っている。語りも一語一語に魂を込めて語らなくてはいけない。音楽は私の心を癒してくれる。

2013年3月26日 (火)

田川紀久雄日記

詩はそれほど読まれるものではない。詩集を上梓したからといって、読まれるものでもない。まして返信なんてまれである。詩人はみんな忙しい。他人の詩集など読んでいる暇もない。それはそうだろう、勝手に送りつけるものだから、返信がなくてあたりまえ。淋しいといえば淋しい。それが現実の世界である。その現実を踏まえて詩集を上梓ていくにはそれなりの覚悟が必要だ。宮澤賢治の『春と修羅』だってほとんど相手になれなかった。要は自分の詩を信じているかどうかである。賞をもとめて詩集を上梓する人もいる。大切なことは、人が読みたくなるものを書かなくてはなかなか読んでもらえない。といって詩はそのような目的で書かれるものでもない。書く人は自分で、また最初の読者は自分である。それでいいではないか。そう思えば他者のことなど気にならない。まず自分を信じて生きていくしかない。それが全てであるのかもしれない。
昨日、三十分ほどで詩が書けた。まるで自然に生まれる。書く歓びが湧いてきた。

橋渡し

この暗闇の中にこそ希望がひそんでいる

絶望こそがいのちの橋渡しになってくれる

だからいまいっぱい悩んでもいい

たくさんの眠れぬ日々を過ごしてきただろう

もうこれ以上哀しみの涙が流れない時もあっただろう

だれかに抱かれたい思いで

夜空に向って祈りもしただろう

祈ろう

碧い空

流れる雲

降りそそぐ太陽の光

波の揺れる音

小鳥たちの囀り

あの世にいる多くの友達

みんなで聲を合わせて歌いたい

虹が私達の心の橋渡しになってくれる

永遠に消えることのない虹を求めて

この闇の中を旅している

生きたい

生きる歓びを感じたい

この苦しみは

私一人だけのものじゃない

いま耐えるのも

この旅の先には

きっと

多くの歓びが

私達を迎えてくれる

信じてもいいのかしら

それぞれの季節があるように

冬の凍えそうな寒さの中で

迎える春のことを思う

そして燃えつく夏の暑さに

それから秋の豊かな大地に

生きている事は

こんな暗闇の中にいても

決して不幸なんて思ってはいけない

生きる希望を持ってさえいれば

かならず長い旅にも終着点がある

いまはまだ旅の途中だと思って……

祈ろう

すべての愛するものに向って

虹の架け橋が

きっとあなたを迎えに

その時まで耐えていたい


詩誌受贈『交野が原・74号』『石の森・166号』

2013年3月25日 (月)

田川紀久雄日記

東日本大震災から二年をすぎると、補助が打ち切られるところが出始めているという。国は今まで何をしてきたかといいたくなる。そして東電の賠償はどうなっているのだろうか。被災にあった人たちの不安は大きい。まだまだ犬や猫達がそのままのになっている。どのようにして被災された人たちと絆を深めていったらよいのだろう。
私は、何も出来ないが、彼らの気持ちを詩に書いていくことだと思う。それを語ってユーチューブで流すことぐらいしか出来ない。心の支援も大切なのだ。詩と語りで寄り添って行くしかできない。文藝とは心の癒すのが目的ではなかろうか。癒しの為の文藝ではなく、本物の世界を描いていくところに本当の癒しが生まれてくると私は信じたい。次のライブでは『慈悲』の前半を語る予定だ。ユーチューブで見る方は、『いのちを語ろう』で検索していただければ見えます。またはDVD『第10回・いのちを語ろう』を求めたい方は1200円でお分けしています。
私の詩語りは独自で切り開いたものだ。誰にも教わってものではない。朗読を学ぶ人たちは朗読教室に通うそうだが、詩の朗読に関してはまったくそのようなことは無意味である。ひたすら聲をだして語ることである。芸術にとって大切なことは個性なのだ。いやそのことが全てであると言っても過言ではない。個性のないものなど何ら価値もないとさえ言える。他者から批判や否定されてもいいではないか。初めから理解されると思うのが間違いである。まずは無心で聲と取り組むことから始めるべきだ。
詩誌受贈『日本未来派・225号』『グッフォー・59号』

2013年3月24日 (日)

田川紀久雄日記

今年の桜は綺麗だ。学校の周囲にある桜を見て心を和ませている。国の目標は、国民が豊かになることにあるのだろうか。ここの豊とはあくまで生活水準が上がるということだろう。その反面どんどん心が空洞化していく。欲望というものは切がない地獄の苦しみを伴う。そのために巷では殺人事件まで起きている。何事も適度というものが大切になってくる。人間にとって一番幸福を感じることは、他者の為に生きている歓びではなかろうか。慈悲という言葉が、すべて無償の行為であるということだ。人に遣ってあげたという心さえあってはならない。人の為に生きようとする心が、自分が生きようとする心でもある。
NさんやSさんから詩集代をいただいた。皆様の温かい気持ちで次の詩集も上梓していけそうだ。私は詩集をある程度売らなければ、詩集など上梓できない。生活にゆとりがあって作っているのではない。生活費を切りつめて何とか詩集が出せるように心がけている。それと印刷を行なっている保坂さんの協力によるところが大きい。私の詩集は町の本屋さんからも購入できます。地方小出版センター扱いと言っていただければ数日で手に入ります。

2013年3月23日 (土)

田川紀久雄日記

夜中眠れないので三時に起きてしまった。まぜ眠れないのか原因は解らない。やはり眠れないのは辛いものだ。眠れないのは、私だけではない。福島の人たち、大津波にあった人たちが眠れない日を送ったことだろう。なにも出来ないがせめて心だけは寄り添っていてあげたい。これから世の中はますます変化していく。この流れの中に溺れ死んでしまうかもしれない。でも最後まで詩人として生きていたいと願うだけだ。多くの人たちの心の痛みを何とかして詩で表現していきたい。そしてその解決方法を探り出してゆきたい。詩人は、言葉によってしかできない。そしてそれを語ることぐらいだ。その僅かな世界でも精一杯行なってゆけば、それなりの拓けた世界が見えてくるのかもしれない。
高畑耕治さんが「第10回・いのちを語ろう」をユーチューブで視られるようにしてくれた。この度は宮沢賢治の「青森挽歌」を語った。聲に温みが出てきたように思うが、聴き手はどう思うか知りたいものだ。ライブではお客が少ないが、こうして全国に流されるのはさすが現代に生きている証しである。ユーチューブでいろんな詩人の朗読を聴けたらと思うが、なかなか見あたらないものだ。私たちのように積極的に行動していく以外に世の中は変らない。詩人に出来ることを求めてこれからも生きてゆきたい。

『第10回 いのちを語ろう」が見られます。
田川紀久雄
http://www.youtube.com/watch?v=G_a38_-Iy8Y&feature=youtu.be

坂井のぶこ
http://www.youtube.com/watch?v=HBEUC1o-UtI

野間明子
https://www.youtube.com/watch?feature=player_embedded&v=K_h8rhpYh0w#!

2013年3月22日 (金)

田川紀久雄日記

今日は午前中に胃カメラの検査がある。
桜がもう満開だという。日まくりカレンダーだとまだ梅の花が載っている。私の周辺の小学校や中学校の桜の木は八分咲きである。桜が咲くとやはり心が浮き浮きしてくる。寒さからやっと解放された気分になるからだろう。
飯館村やその他の場所で放射能汚染の除去を行なっても、放射能の量は少しも変らないという。相変わらず高い放射能が検査される。
自民党は発送電分離がどんどん骨抜きにされていっている。これでは自然エネルギーの進展が遅れるばかりだ。東電は相変わらず福島原発停電に対しても旧態のままだ。これで政府は原発の再開の方向に進む姿勢に腹立たしくなるばかりだ。それなのに、国民の怒りがどんどん遠くなってきている。昨日も詩を書いた。書かずにはいられない。
自動車メーカーのボーナスは満額だというが、下請けの工場ではリストラが行なわれている。大企業だけが優先されるいまの安倍政権の政策は、どんどん貧富の差を拡げている。私たちの生活も大変だ。このままだと医療費も払えなくなる。これからどのようにして生きていけばよいのか戸惑うばかりだ。

2013年3月21日 (木)

田川紀久雄日記

沖縄民謡の登川誠仁さんが八十歳でなくなった。登川さんはとてもユーモアのあるかたでとても楽しく聴くことが出来た。私は沖縄よちも奄美大島の島唄の方が好きである。薩摩藩に徹底的に絞られた苦しみを聲の中で唄いあげた。沖縄の人たちは戦後の苦しみを、苦しみとして唄うのではなく、登川さんたちのように茶化して楽しく歌い上げる。
そこの逆にそこに苦しみを感じるのである。戦後はカンカラ三味線までつくりあげてしまった。私はまだ一度も沖縄に行っていない。安倍総理はこのたび主権回復の日を設定するが、その日は沖縄の屈辱の日でもある。沖縄戦はあまりにも悲惨である。そして戦後はアメリカの基地として苦しみを味わってきた。日本全体で沖縄の苦しみを取り入れようとはしない。フクシマの原発でもそうだ。フクシマの人々の苦しみを、他県の人たちは分かち合うことをしない。この日本のエゴイズムとは何であろうか。沖縄には宮城松隆という素晴らしい詩人がいた。漉林書房からも一冊出版している。そして季刊詩誌『あすら』というのがある。辺野古に米軍基地を移転するという話には反対してゆきたい。本土に移すのが沖縄の人たちの苦しみを緩和する方法なのだと思う。美しい海を軍地基地として埋め立てるのには反対だ。今日は登川さんのCDを聴いて過そう。

2013年3月20日 (水)

田川紀久雄日記

Nさんからメールがはいった。いま大変な状況に置かれているらしい。一番大切なのは側に寄り添う人がいたらいいのにと思う。いま病でガンが一番だが、その次にうつ病であるといわれる。このうつ病はなかなか厄介なものだ。好きなことを見つけながらゆっくりと直すしかない。
原発を真に反対してきただろうか。どこかで受け入れて生きていたのではないのだろうか。そう意味では加害者でもあり、被害者でもある。イラク戦争も、日本から自衛隊を派遣してしまった。加害者でもあり、被害者でもあるいまの我々の問題を掘り下げていかなければならない。昨日、この問題を詩にしてみた。安倍政権は、まもなく原発の再稼動を促すかもしれない。私たちは、もし、また福島原発と同じようなことが起きたら、この責任は、全国民にあるといえる。もし次の参議院選挙で自分等が過半数を取ってしまったら大変なことになる。憲法の改正、TPPの参加、そして原発やもんじゅの再稼動に繋がってゆく。いまの中国や北朝鮮を批判している場合ではない。心にしっかりとした思想を持っていないと大きな渦に巻き込まれてしまう。世の中の景気が上昇しているといって浮かれている人間はなさけない。大きな苦しみを抱いて生きている人たちがあまりにも多いことに眼を向けて欲しい。

2013年3月19日 (火)

田川紀久雄日記

今年は春の嵐が何度もやって来る。おんぼろのわが家はまるで舟が揺れるような感じだ。毎日のようの「南海トラフ」の記事が報道されている。人間の死など、余り気にしていてもしょうがない。できるだけ生きている今を大切にすることが大切である。でも政府にはそれに備える対策だけはしてもらいたい。いまだ東日本大震災の復興がなかなか出来ない現状をみると、あまり政府にも期待ができない。
私は一度死んだと同じような(末期ガン)体験した人間は、いつどんなことがあっても受け入れる覚悟は出来ている。人生など長生きしたからと言ってそんないいことはないものだ。大事なのは今を精一杯生きることだけだ。そして仲の良い友達を沢山作ることだと思う。
詩で感動するのは、その人が絶望の淵でいかに闘っていたかということである。その闘い方が壮絶であればあるほど、読者は引き込まれてゆく。不幸が、多くの人の心を癒してくれる。なんともいえない皮肉な作用だ。そして不幸がその人の内面を豊にしてくれる。先日ライブで、お客から質問を受け入れた。これは人生の生き方の問題であったが、なかなか好評であった。説法という形式があるが、詩話という形式でいろんなことを話してみたいものだ。まだまだ私には残されている仕事があるらしい。

2013年3月18日 (月)

田川紀久雄日記

詩人の朗読は、詩と同じように世間からまったく相手にされていない。それは相手が悪いのではなく、詩人が世間という枠から外れているからだろう。要は自己満足がたの詩人が多いということなのかもしれない。大切なのは眼に視えないが、その眼に視えぬ他者に寄り添う心が求められている。多くの人たちの心は疲れ癒すを求めている。といって癒しさを全面に押し出すと、それは嫌味になってしまう。巷には、癒しの絵画、癒しの詩などというコピーが流れている。そういうものはたいていインチキものが多い。大切なのは、本物の絵であり、本物の詩なのだ。私は本物の絵と本物の朗読を求めている。その道はととえも困難な道でもある。高畑耕治さんのお力を借りてユー・チューブでこの度の『いのちを語ろう』が流される。世の中に、詩文化を拡げるには、まず詩人自身の努力が求められている。それと応援してくれる人たちの存在である。それ以上に詩人の生き方の問題が問われている。私はますます心が若くなってゆく。常に夢を追い求めて生きていたい。

2013年3月17日 (日)

田川紀久雄日記

昨日のライブは、それぞれの特徴のある聲であった。でも本当のところまだまだお客の心をつかむところまで行っていない。お客は、高畑さん、松田さん、林さんの三人であった。松田さんからカンパを頂いた。
今朝三時に起きてしまった。それから珈琲を飲みながら二階堂晃子詩集『悲しみの向こうに』を読む。この詩集は高畑耕治さんから貸してもらったものだ。詩というものは本当に書きたいものを書けば、人の心に訴えかけてくるものだ。詩が上手いとか下手だとかそう論じている間は、いつまでたっても本物の詩というものが解らないでいる。彼女は双葉町の詩人である。やはり経験の重さは、想像で書くのと違って迫力がある。詩で表現することによって心の叫びが伝わってくる。詩というものはそのようなものなのだ。ここでは詩が優れているとかどうとかはまったく問題ではない。私は直接に原発事故や、大震災にあったのではない。それでもやはり私も書かずにいられないので『神話の崩壊』という詩集を上梓した。ある詩人からはそんなものなど書いても何にもならないよ、といわれた。その詩人には二度と私の詩集を贈呈しないことにした。被災地にライブや冊子を売っていくらかでもカンパができた。詩というものは本当に書きたいものだけを書けばよいものなのだ。そのためには高畑さんがいうように愛(かなしみ)が必要なのだ。相手の哀しみを心から受け取れる詩人でありたいものだ。

2013年3月16日 (土)

田川紀久雄日記

初めて麻布十番に行った。今年に入って一番の遠出である。やはり身体が疲れる。でも外出しなければ家に閉じこもったままの生活者になってしまう。高須賀優さんの個展は面白かった。空き缶とか、看板の板とか、ドラム缶に絵を描く。本当に自由気侭に描く。それも素朴であることがいい。もしできたらテーマを掘り下げて描いたらもっと魅力のある絵になってゆくだろう。その帰りに「あべちゃん」という焼き鳥の店に入って、モツ煮込み定食をたべる。なかなか美味しい。夕方に帰宅する。十番ギャラリーの空間は詩語りに適している。それは天井が高いということと、コンクリートであるが反響がすくない。一回いくらぐらいかかるかとオナーに尋ねると五万円ほどだという。私の財力では無理だ。ギャラリーの手伝いをしている夫人のお父さんが宮沢賢治の生徒だったという。これには驚いた。なんとか宮澤賢治を語ることが出来ないものかと思った。外出することによって人の輪が拡がってゆく。やはり人に会うことが自分の世界を拡げる事にもなる。
今日は詩語りライブの日だ。『第十回 いのちを語ろう』で「青森挽歌」を私は語る。まだ一回も一人でこれを語っていない。いつもは相棒と『青森挽歌+銀河鉄道の夜』である。きょうは何人ぐらいの人が集まってくれるのだろうか。
昨日地方小出版センターから『慈悲』の注文が入った。さっそく十冊を発送した。今の私の生活は詩集の売り上げと、ライブの収入がいくらかの助けになっている。

田川紀久雄の詩集は、本屋さんに、地方小出版センター扱えといえば、数日に手に入れられます。

2013年3月16日(土)『第10回・いのちを語ろう』
田川紀久雄 『青森挽歌』『田川紀久雄詩集「慈悲」より』
坂井のぶこ 『麻生知子詩集より』「坂井のぶこ詩集より」
野間明子  『自作詩』
東鶴堂ギャラリー (鶴見) 京浜急行鶴見徒歩1分
料金 2000円
時間 午後1時40分会場 開演2時より
問い合わせ 詩語り倶楽部044‐366‐4658
予約先着25名様まで

2013年3月15日 (金)

田川紀久雄日記

雨が降るたびに少しづつ温かくなっていく。桜ももう咲きそうだ。今年は花粉が多くて何処にも桜を見にいけそうもない。
今日は高須賀優さんの絵の個展を麻布十番ギャラリーに見に行く予定だ。応援したい人のものは出来るだけ出かけてゆきたい。そうしないと川崎から外に出て行けなくなってしまう。私ももう一度油彩を描きたいのだが、描く場所がない。せめて詩を沢山書くことしかない。昨日も『無垢な眸』という詩を書いた。わりと楽しく読める詩だ。こんなスピードで書いていたら一ヶ月で一冊の詩集が出来てしまう。何しろ言葉が湧き出てくるのだから、書かずにはいられなくなってしまう。詩というものは、書けるとき書いておかないと、突然に何もかけなくなることもある。散文なら毎日こつこつ書くことが秘訣なのだが、詩はそのように行っていられない。詩の言葉は、書いておかないと直ぐに消えてどったかに行ってしまう。人間の記憶なんていい加減なものだから、カメラのようにすぐにシャッターを切ることだ。
中村不二夫さんから温かいお手紙とカンパを頂いた。そして詩誌『焔・95号』の詩誌評に『たぶの木・創刊号』を長谷川忍さんが紹介してくれた。

2013年3月16日(土)『第10回・いのちを語ろう』
田川紀久雄 『青森挽歌』『田川紀久雄詩集「慈悲」より』
坂井のぶこ 『麻生知子詩集より』「坂井のぶこ詩集より」
野間明子  『自作詩』
東鶴堂ギャラリー (鶴見) 京浜急行鶴見徒歩1分
料金 2000円
時間 午後1時40分会場 開演2時より
問い合わせ 詩語り倶楽部044‐366‐4658
予約先着25名様まで

2013年3月14日 (木)

田川紀久雄日記

円安で儲かる会社にはボーナスが出るが、中小企業などは、そのようなゆとりなどない。自動車メーカーは円安で利益がボーナスにまわせる。世の中にますます豊かさの格差が広がるだけだ。年金生活者にとっては、年金が減らされる。この矛盾はどうにかならないものか。TPPの参加で農業分野は酷い打撃を受けかねない。いまのところ何も見通せない。自民党議員のなかであれほど参加拒否していた議員も参議員選挙を睨んで、安倍政権の中に飲まれて行ってしまった。国会議員は、国民のことより、自分のことしか考えないのだ。このまま行けば日本は滅びるだけだ。ということは国民が一番苦しむことになる。赤字大国に陥るということである。貧乏人は死ねということになりかねない。ほんとうに嫌な世の中になってゆく。
故郷に帰れない人たちのことを思うと心が苦しい。詩人は一番哀しんでいる人たちに声援を送りたいと願っている。その道がなかなか視えてこない。慈悲のこころとはあらゆることに対して無償の精神でいられることである。そのことによって多くの温かいいのちを得ることが出来る。
小笠原眞さんから原稿が来た。それとカンパも頂いた

高畑耕治さんのブログに私の詩集『慈悲』を丁寧に紹介してくれた。彼のブログを見て欲しい。いつも高畑氏には感謝。

2013年3月16日(土)『第10回・いのちを語ろう』
田川紀久雄 『青森挽歌』『田川紀久雄詩集「慈悲」より』
坂井のぶこ 『麻生知子詩集より』「坂井のぶこ詩集より」
野間明子  『自作詩』
東鶴堂ギャラリー (鶴見) 京浜急行鶴見徒歩1分
料金 2000円
時間 午後1時40分会場 開演2時より
問い合わせ 詩語り倶楽部044‐366‐4658
予約先着25名様まで

2013年3月13日 (水)

田川紀久雄日記

詩誌が送られてくるのは有り難いが、最近の詩誌の印刷が薄いので眼の悪い私などは読むのに苦労する。安く印刷代を抑えようとするので。デジタル印刷にして仕舞うからだ。確かにデジタル印刷は安く仕上がる。でも詩を読む側からすると、やはりちゃんとした印刷でないと読む気になれない。詩文化は安いからといって安易な印刷では困る。安くするのなら、「操車場」や「たぶの木」のように手作り印刷の方が良い。部数は少ないが、別に大量に刷ったからといって、読んでもらえないような詩誌を作ってもいたし方がない。中に活字が悪く読むのに耐え難い物すらある。
私もそうであるが、人間というものは所詮自分勝手な生き物だ。ときどき自分の存在自体に嫌気が指すこともある。わたしはテレビで福島原発二十キロ以内の取り残された生き物の眼を見ると哀しさが込み上げてくる。人間とともにいきていたものを見捨ててしまう。あの事故以前は家族同様な存在であった。仮設住宅だから動物は飼ってはならない。人間だけの都合で決められては生き物はあまりにも無残だ。本当に人間は罪深きものと痛感してしまう。だからいま私は野良猫たちを可愛がっている。昨日は『人間の哀しさよりも』という詩を書いた。書かずにはいられなかった。三日間連続に詩を書いている。書くことで怒りを鎮めていくしかない。

2013年3月16日(土)『第10回・いのちを語ろう』
田川紀久雄 『青森挽歌』『田川紀久雄詩集「慈悲」より』
坂井のぶこ 『麻生知子詩集より』「坂井のぶこ詩集より」
野間明子  『自作詩』
東鶴堂ギャラリー (鶴見) 京浜急行鶴見徒歩1分
料金 2000円
時間 午後1時40分会場 開演2時より
問い合わせ 詩語り倶楽部044‐366‐4658
予約先着25名様まで

2013年3月12日 (火)

田川紀久雄日記

テレビの特番を見ても一番大切なものが抜けているような気がする。詩人の眼とはいったい何なのか。詩の眼でやはりこの原発や大震災のことを書かなければならないのではないのか。詩人達が現代詩にうつつを抜かすしている間に、本当に書かなければならないテーマを避けているような気がする。それは詩人の賞を見ても解る。誰も読まないものが賞に選ばれている。
いま私は書かなければならないテーマに取り掛かっている。昨日『救われぬ魂』という詩を書き上げた。詩でしか書けない世界がある。詩というのは世間で言われている詩ではない。いのちそのものを詩と呼びたい。末期ガンの宣告をうけてからずっとこのいのちと向き合ってきたが、やっとそのものの本体と格闘するところまでやってきた。このことは詩語りへの精進も大きな力があったと思う。次の『たぶの木』が楽しみだ。高畑耕治さんが追い求めている愛の世界を注目していきたい。

2013年3月16日(土)『第10回・いのちを語ろう』
田川紀久雄 『青森挽歌』『田川紀久雄詩集「慈悲」より』
坂井のぶこ 『麻生知子詩集より』「坂井のぶこ詩集より」
野間明子  『自作詩』
東鶴堂ギャラリー (鶴見) 京浜急行鶴見徒歩1分
料金 2000円
時間 午後1時40分会場 開演2時より
問い合わせ 詩語り倶楽部044‐366‐4658
予約先着25名様まで

2013年3月11日 (月)

田川紀久雄日記

今日で東日本大震災からちょうど二年目を向かえた。少しも進まない復興。いったい復興の予算はどこに消えていったのか。そして表に出ない苦しみに耐えている人々の聲を詩にしてゆきたい。昨日新しい詩集の為に一篇の詩を書いた。「遠ざかる風景」これから半年をかけて書き続けていきたい。この苦難のなかに一つのひかりを見つけたいものだ。
昨日は原発ゼロ運動で国会周辺でデモが行なわれた。足腰の悪いわたしは参加ができないが、心だけは参加していた。詩集を売って次の『いのちのひかり』を上梓したいものだ。詩を書くことにいのちを注ぎ込んでいくこと、いまの私が出来る精一杯のことだ。そして詩語りを二月に一回の割合で行い続けることである。三月十六日のライブには、鎮魂を込めて宮沢賢治の『青森挽歌』を語る。一人でも多くの人に聴いてもらいたい。

2013年3月16日(土)『第10回・いのちを語ろう』
田川紀久雄 『青森挽歌』『田川紀久雄詩集「慈悲」より』
坂井のぶこ 『麻生知子詩集より』「坂井のぶこ詩集より」
野間明子  『自作詩』
東鶴堂ギャラリー (鶴見) 京浜急行鶴見徒歩1分
料金 2000円
時間 午後1時40分会場 開演2時より
問い合わせ 詩語り倶楽部044‐366‐4658
予約先着25名様まで

2013年3月10日 (日)

田川紀久雄日記

昨日のNHKテレビの福島原発事故を見ていると、いかに安全神話を信じていたかがわかる。いまなお安倍政権は安全が確保できたら再稼動を行なうといっている。何が安全という問いを抜きにした安全でしかない。それは以前の安全神話とほとんど変らないものだ。昨日は原発ゼロ反対運動が行なわれた。ドイツでは電気代が値上げしても脱原発の方針をすすめていくと報道がある。
花粉症にかかったらしい。鼻づまりがして夜中に何度も起きてしまった。たしかにことしの杉花粉は多い。それと急に温度が上がったので体調がおかしい。なにしろ身体がだるい。東京は暑くても北海道では猛吹雪だという。まだまだ東北は春が遠い。
上野芳久著の『田中恭吉』を七月堂から購入する。

2013年3月 9日 (土)

田川紀久雄日記

もう東日本大地震から二年近くなるというのに、何も変っていない。かえって悪くなっているようにさえ思える。原発事故だって収束したわけではない。いまなお事故は進行中なのである。そして放射能の影響は十年後から現れてくるといわれている。福島の昆虫にはもう異常な現象が起きている。アブラムシやシジミチョウなどに遺伝子が壊されたものが沢山見つかっている。川崎に住んでいると、もう遠い話のようにさえ思えてくる。ときどき塩浜操車場には瓦礫の貨物列車が運ばれてきている。しかし福島の瓦礫は放射能が高いために何も出来ないままである。東電の責任はどうなっているのだろう。二年をすぎれば福島の人たちの補助金も打ち切られるという。このような悲惨な状況下に国民が置かれているのに、原発の再稼動を安倍政権は押し勧めようとしている。円安で浮かれている人々がいるが、恥ずかしい限りだ。
数人の人たちから詩集代が送られてきている。ありがたい。ここでは名前を控えさせてもらう。私の心の中にしっかりと受け止めさせてもらいます。
詩集受贈『鹿・130号』

2013年3月 8日 (金)

田川紀久雄日記

TPPも国民に知らされていないことが多い安倍内閣に一任と言われても、国民の立場を置き去りにした方向には疑問がある。日本の自然を守ることは大切なことだ。バリー島の棚田は美しい。日本の棚田も美しい。それがTPPで農家が崩壊していけばこれらの風景は失われていくかもしれない。
被災から二年になろうとしているのに、被災地は何も変っていない。心の傷が深まっていくばかりだ。その土地からの人々がどんどん去ってゆく。残された人たちはまるで取り残された孤島のような状態になってゆく。夢がどんどん遠のいてゆく。何とかして彼らの心の傷を詩の言葉を借りて書いてゆきたい。といって被災の経験をしていない者が書いてよいのかどうか問題もある。『いのちのひかり』『寄り添う』の次の詩集のテーマを深めてゆきたい。夢を奪われていく人の哀しみをどのように表現すれば良いのだろうか。詩人として生きることがいま問われているような気がする。
昨日「操車場・70号」と『慈悲』の発送が終えた。詩集を上梓すればするほど哀しみが増してくる。歓びは何もない。人々の哀しみの叫び聲が聴こえて来るばかりだ。だからこそ詩を書き続けるしかない。
詩誌受贈『伏流水・46号』{雲の戸・20号』

2013年3月 7日 (木)

田川紀久雄日記

そろそろ黄砂が日本にやってくる。黄砂とPM2・5が合体すると発ガン性に変化するといわれている。中国は汚職でなかなか汚染を停められないでいる。共産党が消滅するのは時間の問題だ。国が公害を惹き起こしているといっても過言ではない。
被災地の復興が進まないのは、国の責任が大きい。いまだに仮設住宅から抜け出せないでいる。人手が足りないと言い逃れをしているに過ぎない。無人の地域に防波堤の建設が行なわれる。なにか可笑しいと思わないのだろうか。無駄などころには多額のお金が流れ込んでいる。国会議員は口だけ復興だと叫んでいる。でも実際は何も使用としない。それと福島原発は相変わらず酷い状況が続いている。中国の共産党を非難する前に日本の国会に文句を言いたい。衆議院の定員削減問題も、何も前に進む気配がない。彼らは税金泥棒としか言いようがない。安倍政権によって貧富に差がどんどん拡がっている。貧しいものが一生懸命に働いても、非社員であるがために、ボーナスもなければ昇給の見込みもない。あるところでは二か月ことの契約で日々不安の中で生きている。私は毎日怒り狂っている。身体に悪い生活だ。
高畑さんからお手紙を貰う。「操車場・71号」の原稿が高橋馨さんから届く。そして植木信子さんからも原稿が届く。彼女は新潟の長岡の人だ。私が生まれた近くの人でもある。
詩誌受贈『詩的現代・4号』

2013年3月 6日 (水)

田川紀久雄日記

台所の流し台が壊れた。予想しない失費になるそうだ。家もそうとう古いのでこれからお金のかかることが多い。といって収入のほとんどない私には困ることが多い。『嶺』の仕事が入っても右から左にお金は出て行くだけだ。昨夜はいろんな事を考えてなかかなか眠れない夜であった。
詩集の内容に触れたお便りはいまのところ二人きりだ。曽根ヨシさんと佐々木薫さんだけだ。今週中に操車場と一緒に詩集が送れる。詩集を上梓しようという意識が作品を書かせる大きな要因になっていることには間違いがない。それだけでも詩集を出した意味がある。そう思えば反響などどうでもよいとなのだが、やはり何の反応がないとやはり淋しいものだ。また詩語りも、自分の思う語りができればそれで良いのだろう。でもその思う形ができないでいることに苛立ちを覚えたりする。要は自分自身との闘いでしかない。
「操車場」の原稿が集まった。今日から印刷と製本に取り掛かる。全部手仕事で行なう。税務署にも行かなければならない。なにかと忙しい。
詩誌受贈『あすら・31号』

2013年3月 5日 (火)

田川紀久雄日記

最近変な夢を多く見る。いままで行ったことのない所へいく。その場の風景もはっきりしている。では私の中ではまったく記憶にない場所だ。夢とは不思議なものだ。どう説明して良いのか自分自身にも解らない。思いつきで詩を書くならこのようなテーマでも書けるが私は書かない。私は一歩でもいのちの深さを探していたい。詩を深めることは大変なことだ。
北海道での雪の事故は痛ましい。地吹雪は一度も経験したことがないが、あたりがまったく見えなくなる現象は怖ろしいものだ。津軽では地吹雪体験ツアーがあるが、行きたいとは思わない。Iさんのことは心配だが、もう詩誌を送ってくれるなと言われればなんだか哀しい気がしてくる。ガンといいながら毎月詩誌を発行できることがうらやましいのかもしれない。私は毎月詩誌を発行することで、「まだ生きているぞ」と発信している。詩誌や詩集そしてライブなどで病院代を捻出していかねばならない。なにかを遣っていないとすべての道がふさがれてしまう。私にとってはそれらの行為は必死なのだ。命懸けの行為とでも呼びたい。残された人生は詩的な行為の中で埋もれていたい。他人様が何と言おうと私は私の道を行くだけだ。

机の上の空 大沼安史の個人新聞」のブログには福島原発で「毎日、毎週、毎月、毎年、来年の春も再来年の夏も――数十年、数百年……毎時1000万ベクレル!人々を襲いつづけ、環境を汚染してゆく。」と書かれている。

2013年3月 4日 (月)

田川紀久雄日記

もうすぐ東日本大震災の日がくる。テレビでも色々な特集番組が組まれている。復興という言葉が安易に使われているが、被災地の人たちは思うように復興に向かっていない。原発で住めなくなった人たちの苦しみは計り知れない。川崎に住んでいると、彼らの苦悩のほんの一部でも感じられないで生活を送っている。自民党の原発政策は昔と少しも変らない。まったく反省がないとしか言いようが無い。
一度被災地を訪れてみたいと思うが、足腰の痛みと交通費がないので行けないでいる。もうすぐ二年になる。私が出来たことは数冊の詩集を上梓したことだ。今私は虚しさを痛感しているだけだ。詩の言葉は本当に人の心を癒すことが出来るのだろうか。詩語りを通して何とか人の心に魂の言葉を届けたいと思いながら、少しも出来ていない。それは私のライブには聴き手が集まらないということだ。ユーチューブでライブの映像を流しているが、それは生の聲ではない。人間の心というものは、生の人間に触れ合うことで伝わるものがある。映像はあくまでも情報の一手段でしかない。そのことも大切である。いま出来ることはなんでもしてゆきたい。高畑さんのおかけで映像が流されている。彼のお陰でいろいろ助けられている。
「操車場」の印刷も六日ごろに出来る。発送は九日頃になるだろう。
詩誌受贈『北方文学・68号』

2013年3月 3日 (日)

田川紀久雄日記

昨日のブラジルとの野球を見ていて、スポーツというものはやってみなければわからないものだということを痛感した。所詮人間がやるものであるから、何でも最初からわかっているものはつまらない。やってみなければ解らないから面白いのかもしれない。
谷川俊太郎は好きでも嫌いでもないが、詩人といえば直ぐに出てくるのが谷川さんだ。世間は谷川俊太郎さんだけが詩人と思っている人が多いのではなかろうか。書店にいっても詩のコーナーでは谷川俊太郎の本しか置いていないところが多い。詩の朗読でもすぐに谷川さんが出てくる。今の詩の世界を駄目にしているのは谷川さんではなかろうかと思ってしまう。べつに谷川さんが悪いのではないが。
巷では朗読のライセンスを取って人たちが詩の朗読を行なったりするが、あれは聞いていられないものだ。私は上手いでしょうといった感じでやられては困る。詩の朗読はライセンスを取ることなど何の意味もない。要は魂を語れる詩人でなければならない。小さなホールでもマイクを使って行なう。なんとセンスのない人と思ってしまう。日本の詩の朗読の世界は余りにも次元の低い世界で行なわれている。日本人は有名病が蔓延している以上、なにも期待が持てない。ようは自分の耳で確かめることをしない。まずは生の聲を聴くことからしか何も始まらないということだ。

2013年3月 2日 (土)

田川紀久雄日記

いま被災地でも大型農業がはじまっている。なんの農業の経験の無い人たちが巨大なハウスでアイパットを片手にもって作業を行なう。これはもう農業ではない。大地と何の関りも無い農業を人が愛することが出来るのだろうか。いま何処の工場も見ても人の影さえみえない。全てが自動的に行なわれている。これでは失業が増えていくのは当然だ。日本の未来は人の育たない社会形態になってゆく。
安倍政権ではエネルギー基本計画の計画が行なわれているが、その殆どが推進派になっている。脱原発からどんどん遠くなっていくだけだ。武器三原則も崩されてゆく。戦後日本が守り続けてきた平和の理念がなしくずしになってゆく。明治・大正うまれの人たちがどんどんいなくなってゆく。そしていま国会議員たちは戦争を知らない世代の人たちになっている。ますます生きずらい社会になってゆく。
昨日、上野芳久さんから電話がかかってきた。初めてである。わたしの詩集『慈悲』に対してである。私も彼の詩が好きだ。優れた詩を書く人からの電話は有り難い。作品を感動したとのことである。『慈悲』は「操車場70号」が出来上がったときに送る予定にしている。いまのところ誰も何も言ってくれない。ちょっと淋しい気がしていたところであった。私も他人の詩集について何も言わない方であるから、何も言われなくて当然だと思っている。今の詩の世界は無関心が罷り通っている。だから自分の作品に対しては自信を強く持っていたい。『寄り添う』という詩集の最後の作品も書き終わった。言葉をひたすら打ち込んでいく生き方を徹していきたい。

2013年3月 1日 (金)

田川紀久雄日記

安倍総理は原発の稼動をすすめる方針だ。安全を確認されればというが、原発には安全という言葉は不向きだ。それに核のゴミ問題が何一つ解決されていない。3・11の原発の事故の恐ろしさを思い出さないのだろうか。それに弱者切捨ての方針を打ち出している。最悪の総理である。それなのに不思議に人気が高い。
今月は「操車場」の原稿が集まらない。二月は二十八日でお終いと言うこともあるのだろうか。
三月の聲を聴けば、もうすく春だと思う。田島支所の桜は、ことしももう満開だ。なんという桜なのかわからない。そして姥が森の桜も蕾がつきだした。テレビで曽我の梅林の風景を移していたが、梅の花は満開だ。昨年曽我までいったが、足腰が痛み出し途中で引き返してしまった。ことしは相棒と松田の河津桜を見に行きたいと話しているところだ。それとも館山に花を見に行こうかとも放している。さてどうなるか、お金と私の身体の調子次第だ。世の中の嫌なことを忘れたい。

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