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2012年11月30日 (金)

田川紀久雄日記

自民党だけは政権をとらしたくない。いまの日本を破滅させるだけだ。戦争をしらない世代が国会議員になるのは不安がある。漫画のアトムのよういロボット化した今の工場は、人の影がみえない。それだけ人減らしに役立っている。物が豊かになる反面、失業者が増えている。資本主義の未来は、貧富の差を広げるだけの社会でしかない。いや中国の共産党でも同じことがいえる。会社が生き残るには使い捨ての人を雇わなければ成り立たない。世の中はみんなが幸せになるなんてありえない。物の豊かさだけが幸せではないというしかないのだろうか。精神主義だけでも、この現代社会では生きてゆけない。いま社会保障費だけでも百兆円もいる世の中だ。これでは生活保護費も削られてしまう。そして年金もどうなるのかさえわからない世の中になってゆく。未来の党は子供手当に三十一万円を支給するというがその財源が何処にあるのか。これは小沢さんの意向なのだろうか。でも原発だけは未来の子供達にツケを負わせたくはない。まずはいのちが大切である。詩人だけはせめて精神的な豊かさを求めて生きていたいものだ。今月も今日で終わる。今年もあと一ヶ月だ。

2012年11月29日 (木)

田川紀久雄日記

いま原発阻止でいろんな党が集まることが大切だ。日本の未来のためにも、これ以上原発事故は許されない。関西や九州地区の電気代の値上げは、原発を持続させるための陰謀だ。ドイツでも自然エネルギーで電気代があがっている。この問題は原発から自然エネルギーの移転のためのある期間はやむをえないのではなかろうか。原発への莫大な補助金を、電気代に回せればよいのだが。小沢さんの問題は頭に痛いが、次の国会で原発廃炉の道筋が出来れば、眼をつぶるしかないのかもしれない。
詩語りで大切なのは、詩語りの聲である。この聲は日本人の聲である。それは地聲であって、複式呼吸からでる聲である。日本の芸能の聲はすべてこの聲なのである。この聲を出せるには日々の鍛錬しかない。詩人達はこの聲が出せないから、そのままの聲がよいというのだ。いまの詩人達は、日本語の美しさや、日本の聲の響きなど忘れさってしまったのだろうか。先日テレビで樋口一葉の舞台をやっている人の聲を聴いて驚いた。名前は忘れたが女性であるが、聲が素晴らしかった。幸田弘子さんとは、まったく違う聲である。力強くて美しい聲であった。アナウンサーの聲は、語りにはむかない。聲はある意味での創作でもある。

2012年11月28日 (水)

田川紀久雄日記

卒原発の「未来の党」が立ち上がった。政権は取れなくても、まず原発阻止の受け皿となるだろう。気になるのは「生活が第一の党」の小沢さんである。これはいつもの小沢さんらしい。自分は党主にならない手法も、民主党時代と同じだ。だれもが政権をきたいしていない。あくまでも反原発の受け皿でよい。維新の党よりは期待したい。維新の会の欠点は石原さんの存在である。政党は仁義なき戦いである。国民がどの党に入れるかによって日本の未来がわかる。選挙を棄権してはならない。まず原発の阻止から日本の未来を作ってゆきたい。
詩が書けない。途中まで書いていた詩を放棄してなんとか一篇書けた。詩の言葉が一行も出てこない時は苦しいものだ。書けたのは「群衆の中の孤独」という作品だ。人間がみんな透明人間のように見える。このテーマは古いかもしれないが、いま生きていてそのことが身に染みて感じるからだ。詩人達も詩に対して熱く語る人がいなくなった。詩はその時代の影のようなものなのだ。いま私達はどのように生きて行くべきかを問われている。
歳を取ると身体のあちらこちらが悪くなる。寝るときも足が冷たくなかなか寝付かない。それに肩の痛みも増してくる。そして腰の悪化も気になる。それに金欠病だ。ため息がでるだけだ。

2012年11月27日 (火)

田川紀久雄日記

今回の衆議院選挙の行方がまったく見えてこない。まず原発ゼロを目指す政党の団結が必要だ。日本の将来をちゃんと決めることが求められている。自然エネルギーで経済を蘇生することだと思う。被災地の風景を見ても、政府は何もしてこなかった。あの寒々とした風景が拡がっている。復興という言葉だけが先行して、実態がついていかない。復興が進まなければ、経済も立ち直らない。宮城県で選挙に出ようとしている議員の聲は虚しく感じる。何もしてこない議員がいくら復興の言葉を投げかけてもどうにもならない。
シングルマザーたちの苦しみは何とか成らないものか。子供達があまりにも惨めだ。昼夜働いても十六万円しかならないという。家賃を払って、生活費を引くと子供達の学費が一銭ものこらない。今の行政は個人個人の状況を見ようとしない。法律で決められたことしかしない。貧富の差があまりにも開きすぎている。私達も相棒の収入だけでは毎月赤字である。詩語りライブで医療費を賄いたいと思っても、聴きに来てくれるひとが少ない。いくら良い語りができてもある意味で虚しさを感じる。毎回聴きに来る人に本当に感謝をしている。今の私達は語りの上達を目指していくしかない。他の詩人達の朗読とは比べようのない世界を築いていきたい。血を吐きながらでも闘い続けることしかない。

2012年11月26日 (月)

田川紀久雄日記

急に原因不明の欝に襲われる。時々このようなことが起きる。最近眼が悪く、本が読めないせいかも知れない。『詩と思想』の中で詩集評で小川英晴さんの序文は的を得ている。でも詩の雑誌を読むと欝になる。文学というものは、楽しく夢を与えてくれるものと思っていたら、その逆であった。詩人は心の病を抱えている人たちが書いているのだから、当然詩を読むとしんどくなる。それは私もいえるだろう。欝の原因は、詩がまったく書けない。言葉が一字も浮かんでこない。パソコンのまえに一時間も座り続ける。書きたいことが言葉にならない。
世の中は訳の分からない事件が頻繁に起きている。テレビをみても事件物が圧倒的に多い。もっと人間性豊かなドラマがないものか。これではテレビ離れするのも当然だ。原発地区で働く作業員は大変な苦労をしている。何の保証もないまま働かされている。早く原発をすべて廃棄にしてもらいたい。そのこと自体お金と時間が計り知れないほどかかる。自民党はいままで原発を容認してきた責任を省みない。また嫌な世の中になるのだろうか。欝になるのもいたし方がない。

2012年11月25日 (日)

田川紀久雄日記

語りには精神的にも語ることの楽しみを身につけなければならない。昨日のNHK杯のフギュアの女子を見ていて浅田真央さんはまるで滑る楽しさを感じさせなかった。ただ技術的に滑ろうとしているだけである。生命力を感じさせなければ、どんなに優勝しても喝采はできない。技術は大切であるが、それ以上大切なものがある。そのことを昨日のフギュアから感じた。安藤のフギュアが今年も見れないのが残念だ。
自民党の政権公約は、とても国民としては受けがたいものだ。また自民党が政権奪還したら世の中はどうなるのか。ある意味では狂気の世界としか言えない。憲法九条を守らなければならない。平和であることは、まず戦争をしないということである。維新の会も駄目だ。暴走老人がいては政治はめちゃくちゃになってしまう。こんなに政策が合わない党はない。どこの党にも入れる気がしなくなってくる。でも選挙は放棄したくはない。
いま自然エネルギーへの開発がすざましいものがある。まだまだ世界的にも日本は遅れているが、国がもっと後押しすれば、素晴らしいものが生み出せる。沖縄のある島では深海用水を利用した電気発電も生まれようとしている。自然を活かすことがこれからの世の中には必要である。

2012年11月24日 (土)

田川紀久雄日記

だんだん寒くなる。暖房費もかかるので、昨日は蒲団の中にもぐって過した。暖房費ぐらい稼ぎたいものだ。暮れになれば訳の分からない金が出て行く。忘年会もできそうもない。だんだん人付き合いが減っていく。
昨日相棒のライブは上手くいった。それなりの世界を作っていけると良いのだが。家庭的な雰囲気でできたのがよかったのだろう。私も「いのち」について語れる場が欲しいものだ。
数日前に古本屋(近代書房)で「杜甫私記・1」を百円で手に入れた。この本は以前から欲しかった。かつて神田の古本屋で全巻で三万円で売りに出されていた。杜甫の詩はいつ読んでも心が慰められる。詩の本質がそこにはあるからだ。現代詩が失われたものがすべてある。野暮ったいがそこには「生きる」そのことが書かれている。当時杜甫でも愚痴っぽいと批難されていた。詩は言葉だけが詩ではない。詩はやはり心の問題なのだ。どう生きたかを詩の形式の中で書き留めることが大切ではなかろうか。詩らしき詩には、どこか大切なものが失われている。本当の詩は現代詩という場には見当たらない。それはたんなる流行という範疇の中で詩を語っているにすぎない。新しい詩などは直ぐに古くなる。真の改革は、生きていることの中にある。自己を偽らないで、生きることしかない。

2012年11月23日 (金)

田川紀久雄日記

何もかもが反対だという党にも疑問を感じる。ようはそれをどのようにして具体化するかということが問われなければ日本の未来はない。原発の問題はとことん話し合ってもらいたいものだ。フランスでも原発廃炉の問題でなかなか解決できないでいる。いったい核ゴミの処理方法が見出せない。だから運転を続けるでは困る。日本の福島原発の廃炉までの過程がどのようになるのか見当もつかない。原発を続ければこれからも核ゴミが増えていく。それを処理する能力をまだ人類は見出していない。核問題は人類にとって最大の問題だ。経済問題よりも優先なのに、今の政治には本気でこの問題に取り組める政党がない。まず原発を止めることから始めなければならない。そのことは間違いないことなのだ。そして福祉問題にどのように取り組んでくれるのか。いま政治家同士で争っているときではない。日本は半分沈没しかけている。
詩人は、ひたすら魂を掘り下げていかなければ成らない。魂を支えられる詩人になりたい。そしてそれを語れる詩人を目指してゆきたい。『慈悲』の版下完成した。しかし上梓するお金がない。詩集が売れないのだ。今日相棒が出前語りがある。なぜ私にはお呼びがかからないのか。

朗読に興味ある方が『第八回 いのちを語ろう』のDVDを見ていただきたい。頒価千円です。漉林書房まで。

2012年11月22日 (木)

田川紀久雄日記

安倍総理は国防軍の設立を考えている。戦争を知らない世代の政治家は一対何を考えだすのか解らない。国を強くするのと軍備を高めるのとは違う問題だ。中国や韓国が日本を必要とすることが友好的な政治関係を結ぶことになる。軍備力の強化は何の役にも立たない。これはこの前の太平洋戦争をみれば誰でも解ることだ。そしてヒロシマ・ナガサキの悲劇が起こった。大切なのは平和憲法を守ることである。国民の一人ひとりがそのことを考えてもらいたい。
マルインスキー劇場版の《白鳥の湖》はとても良い。指揮がゲルギエフだ。いろんな白鳥の湖をみているが、どれも良い。バレエはDVDで見るしか今のところない。いまは手軽に見れる。そしてオペラもDVDで見れる。しかし、日本人のバレーやオペラのDVDがないのだろう。いま日本人のオペラも面白くなっている。芸術は人の心を豊かにしてくれる。詩の朗読も心を豊かにするものだが、いまの詩人の朗読を聴いているとかえって詩が嫌いになってしまうことがある。芸を高める心がないと、卑しいものになってしまう。何事にも向上心が大切だ。

2012年11月21日 (水)

田川紀久雄日記

政治不信に落ち込んでいる。衆議院選挙は浮動票が次会の政権を決める。かつての二大政党は完全に消え去ってしまった。それは決められない政治を生み出してしまったからだ。ただの権力争いを生み出しただけだ。犬と猿の関係と言っても、動物は犬と猿とでも仲の良いものもいる。政策の一致をしないまま政党を組むなどとはいままで考えられないことだった。国民はどの党にいれるのか迷うだろう。まずは原発ゼロと向き合う政党をその場合選んでもらいたい。TPP問題にはいまのところ私もよくわからない。農業の問題をどのように解決したらよいのか。福島は農業離れが増えているという。汚染された土地では農業ができない。放射能を取り除く技術が生まれないものか。それにしても原発で働いている作業員は大変な思いで働いている。国民の一人ひとりの痛みを感じる人が政治家にと思う。そのような人がみあたらない。政治家になるとみんな変身してしまう。
詩語りはやればやるほど難しくなってくる。次回に宮澤賢治の詩を語ろうと思っているのだが、なかなか上手くいかない。もう何年も語っているのに。

2012年11月20日 (火)

田川紀久雄日記

福島では放射線量料が増えているという。野田総理は以前福島原発事故は収束したといってが何をもって言ったかは不明だ。これは国民を騙したとか言いようがない。第一原発からは相変わらず放射能がでている。それが風に乗って運ばれる。除染もほとんど出来ないでいる。まして森林などはどうするのだろうか。福島の人たちの不安を思うと胸が痛む。
それと仮設住宅でケーアにあっている人たちに精神的苦しみがあるという。些細な問題でもそれにあたる人たちには大きな精神的負担がのしかかる。人間の感情とはとても厄介な問題なのだ。仮設住宅に一年以上も住んでいればいろんな不満がでてくるのも当然だ。そして国は復興費を復興と関係のないところにばら撒いている。被災に会った人たちの心をむしりとっている。その挙句衆議院選挙だ。なんて身勝手な国なのだろうか。国会議員なんてもういらないと叫びたくなる。経済優先ということはまた公共事業を増やすということになる。苦しむのは国民だけだ。とくに低所得の人たちの苦しみははかりがたいものがある。世界的にみても貧富の差は広がるばかりだ。政治は誰もためにあるのか? いまこそ真剣に政治を見つめていかなければならないときである。

2012年11月19日 (月)

田川紀久雄日記

ライブの映像が綺麗に撮れた。「いのちを語ろう」を宣伝するためにも、頒価千円で発売をきめる。ここには、村上昭夫詩集『動物哀歌』や麻生知子詩集の『からまつの林のための試行』の語りが入っている。詩のいのちである心の叫びが入っている。高畑耕治さんの『小さな島・・・』も地球そのものの痛みへの叫びだ。詩はもっともっと語れるべきである。それも鍛えられた詩人の聲で。どこにもない詩人の聲がこのVDVから聴くことが出来る。朗読の嫌いな詩人も一度は聴く価値がある。お客が来ないのなら、こちらから売り込んでいくしかない。DVDは手書きであるが、語りは天下一品だ。田川紀久雄の最後の闘いの記録である。
食料の安全データの殆どが黒塗りで伏せられている。ガンとの因果関係を隠すためではなかろうか。安全であるといわれるほど疑わしく思えてならない。そのためにも一日でも早く原発ゼロを目指していかなければならない。いのちを守るということはいかに困難なのか。この度の衆議院選挙はこのことを国民に突きつけられている。政治が権力の為に利用されることは許しては成らない。

DVDの注文は漉林書房まで。メールでも受け付けています。(送料込みで千円
)です。

2012年11月18日 (日)

田川紀久雄日記

維新の会と太陽の党で合流。しかし残念なことは脱原発が消えてしまったことだ。しかし国民の過半数は脱原発を望んでいる。国民の感情を裏切り政策では政権をとるのは無理だ。選挙権を放棄しては駄目だ。原発ゼロの政党に一票を入れてもらいたいものだ。
昨日は雨であったがお客は四人来てくれた。ありがたい。高畑さん、野間さん、山岸さん、松田さん。昨日の野間さんの朗読はとてもよかった。昔の聲に戻りつつある。ことしのライブは終わった。来年は一月の第三土曜日に第九回をおこなう。辛抱強く行なってゆくしかない。ビデオをうまく売っていたら、千円ほどで発売したい。語りの宣伝してゆきたい。
Iさん、Mさんんからカンパを頂く。Iさんは朗読が上手いのに、やめている。とても残念だ。CDも出して活発に朗読を行っていたのに。

2012年11月17日 (土)

田川紀久雄日記

いま政治で問われていること、それは原発ゼロである。自然エネルギーで雇用を増やしていくことだ。日本の技術力はいま問われている。大量生産や大量消費の時代は終ったのではなかろうか。日本の電気メーカーの事業の失敗は、先が読めなかったことだ。人に優しいものを生み出すことが求められている。
今日はライブだが、朝から雨が降るという。お客が来るのだろうか心配だが、自分の仕事をするだけだ。最近「詩語り日記」をつけ始めている。どこにも発表予定がないので、いいたいことが自由に言える。書いていても気分が良い。これは誰も書かない日記だ。
昨日あゆかわのぼるさんから送られてきた「日本海詩人・38・39号」に舛谷静枝子さんの作品にこころが引かれた。「いのち」「ノラ猫に餌を与えるな」である。あゆかわさんは積極的に朗読を行う人である。時々泉谷明さんと一緒に行なうこともある。地方には一人や二人は朗読がすきな詩人がいるものだ。かれはCDも出している。秋田の人なので、聴きにいくことができない。一度は聴いてみたいものだ。
詩誌受贈『柵・312号」「日本海詩人」
詩集受贈『芳賀章内詩集・宙吊りの都市』

2012年11月16日 (金)

田川紀久雄日記

夢の中に詩の言葉が浮かんできた。まるでなにかのお告げのような気持ちだ。それをそのまま書いた。題は『祈りに寄り添う』である。これは私の代表作になるかもしれない。これはあくまでも夢の世界である。
朝とても寒いので、腰がガックときて少し痛む。病院でも随分待たされたので椅子に腰掛けていても痛かった。
震災や原発の問題で、当事者でない人がそのことに書くと非難されるが、それは可笑しなことだ。人間として考えていかなければならないのに、経験もしないのになぜそのようなことを書くのかと忠告される。経験した事実を記録として書くことは大切である。でも文学は経験だけで書くものではない。あくまでも創作の世界なのだ。被災者の苦しみに寄り添うことも大切なことである。心や魂の問題は、宗教者よりも詩人の仕事ではなかろうか。心や魂は永遠の問題である。決して原発や津波のことを扱っても古くはならない。いつも人の心に問いかけている問題だからだ。末期ガンを経験した私にはどうしてもいのちについて書かなければならない。
明日詩語りライブを行なう。ひとりでも多くの人があつまることを……。

2012年11月15日 (木)

田川紀久雄日記

今日午前中病院だ。もういい加減検査は疲れた。
衆議院ついに解散。次の選挙の焦点は原発ゼロである。自民党のように相変わらず原発政策を推し進める党には入れないことだ。それと経済の発展だろう。いまのままの日本では滅びてしまう。
いま朝の五時半だ。私の家の前に救急車がとまる。前の人が運ばれてゆく。星は美しく輝いている。五時頃人工衛星が飛んでいるのを見る。
昨日『たぶの木』の用紙を買いにヨドバシまでいく。それとブリント用のインクを購入。
森光子さんが九十二歳で亡くなる。とうとう放浪記を見逃してしまった。ここほとんど芝居を見にいっていない。それはお金がないのと、腰が悪いので夜は外にでたくないからだ。巣鴨にいたころは、仲間で芝居をしている人がいたので、わりあい見にいった。
詩誌受贈『山形詩人・79号』

2012年11月14日 (水)

田川紀久雄日記

復興予算額を平野達男復興相は被災地で使った額が解らないという。ということは復興予算額があらゆるところで使われていたかということだ。いまの日本人は他人の心を思いやるやることがなくなっている。それは宗教心を失ってしまったからかもしれない。ひたすら豊かさを求めてきた付けがこのような人の心を作り上げてしまったのだろう。そのことは原発のことでも言える。本気で原発ゼロを考えている人は少ないような気がする。日常生活の近くにプルトニウム蓄えられている。いつでも大量の原爆が生産される体制なのだ。人類最初の被曝国というのに、人間の悲しみを忘れ去っている。
今日は旧暦で十月一日である。昔かは今日から冬の季節に入る。今日は今年一番の寒さだという。
Hさんから詩集代とカンパをいただく。私の身近なひとで、ガンを患ってひとが数人いる。みんないのちについて真剣だ。いのちに対しての応援詩を書いていかなければならない。
石川逸子さんより『哀悼と怒り』と『風のたより・3号』が送られてきた。風のたよりで私達の詩語りを紹介してくださった。ありがたい。

2012年11月13日 (火)

田川紀久雄日記

自作詩を語るよりも他者の詩を語るほうが楽しい。それは何故だろうか? それは詩の心を想像しながらテキストに寄り添うことができるからではなかろうか。それと責任感を強く持てるからだと思う。他者の詩を読むことで人間の心を学んでいけるからでもある。詩の心を語れる語り手に成長してゆきたい。
いまの政治を見ていると情けなくなる。民主党も自民党も国民の生活をまったく考えていない。ひたすら権力争いの何物でもない。物価がどんどん値上がりしているのに収入はじわじわと低くなってきている。これで消費税の値上がりが始まったら、国民の生活はより一層苦しくなる。
『愛するものへ』のお礼状がぽつぽつ届く。青森のKさんからは詩集代とカンパが送られてくる。詩集の表紙絵が褒められることも嬉しい。絵も私にとって詩の一部なのだからだ。人の心を癒す絵を次の詩集にも使いたい。


『愛するものへ』漉林書房 本体2000円(送料込み) 注文はメールでも受け付けております。

2012年11月12日 (月)

田川紀久雄日記

朗読をする楽しみは、作品の世界に入り込めることである。いかにテキストを深く読めるかということだ。一篇の詩が無限に宇宙空間に拡がってゆける。一字一字に魂を込めて語ることによってより自分も豊になっていける。ここには観客などという考えは入り込まない。テキストと語り手が一つになれる歓び以外なにもない。やっとそのような境地になれるところまで来ている。これも日々の精進のお陰である。これはある意味で孤独との闘いでもあった。それは語れる歓びそのものである。次のライブに高畑さんと野間さんが来てくれるという。たった二人だけでも嬉しい。あと数人が来てくれれば会場代が出るのだが、あまり期待しないことだ。
昨日「男の悲哀」という詩を書いた。これは孤独に寄り添うというテーマでもある。上手く書けたのかは解らない。でも詩が書けたことは嬉しい。
原発反対デモが官邸前で行なわれた。日比谷公園にはデモ隊を入れさせてくれない。東京都は原発賛成なのだろうか。それは福島原発の電力を全部使用してきたのだから、反対も出来ないのだろう。石原慎太郎の新党も原発賛成である。東京電力本社前にもデモ隊が集まった。いま、原発反対をしていかないと大変なことになる。福島の人たちの苦しみを受け入れることが原発反対に繋がってゆく。

2012年11月11日 (日)

田川紀久雄日記

詩人でCDを出している人はどれほどいるのだろうか。でも数はほんの一部でしかない。それもほとんど手に入れにくいものばかりだ。漉林書房でも詩人の聲のCDやDVDを集めているが、百枚にはまだ手が届いていない。詩人がライブを行なっても殆どが録音やビデオをとっていない。詩人達は他人との競争意識がまったくと言ってない。つねにマイペースなのだ。ということはそれほど向上心がないとも言える。いまパソコンでCDも簡単に作れるそうだが、わたしもどうしてつくってよいのか解らない。いまのところビデオで制作をしている。
名古屋とか大阪では朗読が盛んに行なわれていると聞くが、東京からは遠いので私には聞くことができない。いまどのような詩人が活躍しているのか情報も入ってこない。手軽に聴けるのはやはりCDしかない。昔はカセットで簡単に録音できたが、最近では機械が複雑になってきていて、私には取り扱いにくくなっている。機械音痴な私は誰か手を貸してくれる人がいないものかと思ってしまう。CD詩集を作成してみたい。
Sさんより詩集代とカンパをいただく。次の詩集代の資金に使ってゆきたい。

2012年11月10日 (土)

田川紀久雄日記

毎年秋になると紅葉を見にどこかに出かけたが、今年は何処にもいけない。近所の公孫樹の葉を見るぐらいだ。一年が経つのは早いものだ。人生に目的を持って生きていないと、虚しさが増してくる。一生懸命に打ち込んでいても、歳を取るにしたがって虚しさがつきまとう。名がないでライブに打ち込んでも人が集まらないのは世の習いである。世間というものはそのようなものなのだ。大事なことは世間の習いに負けてしまったら駄目だと言うことだ。打ち込んでいる仕事には、自己に徹する覚悟が必要である。ここに人間としての価値が生まれてくるからだ。いま知名度のある詩人だって、死んでしまえば直ぐ忘れられる。知名度などは幻の世界でしかない。詩人というものは自分の運命と闘う人のことである。その記録が詩として生まれてくる。
旅ができないので、いま「五木寛之全旅行」をぽつぽつ読んでいる。ライブの仕事でしか地方に行くことしかできない。

2012年11月 9日 (金)

田川紀久雄日記

東京新聞の朝刊に『もんじゅ来年にも再開』とい記事が載っている。原子力機構が高速増殖原子炉を十年運転案もとある。これはプルトニウムのあまりにも大量保存されているからなのだろうが、危険な原子炉を再開するとは気狂い沙汰である。この日本の政治家はいったいどのような精神を持っているのだろうか。ヒロシマ・ナガサキに原爆が落とされた国民の痛みを忘れているしか思えない。
「たぶの木・2号」の原稿が揃う。この号は高畑耕治さんの詩に注目。渾身の力を込めて書かれた作品である。彼のブログに紹介されている詩は、心に染み渡るものばかりだ。詩そのものに寄り添いながら詩を味わっている。本当の詩の読み方だと思う。いまの詩人達は、詩を読んでいても、詩を味わうことを疎かにしてはいまいか。そのためにも、詩を聲に出して読むことを勧めたい。丁寧に心を込めて朗読すれば、眼で読んでいたものと、違った世界が視えてくるはずだ。詩の心を伝えられる語り手になりたいものだ。

2012年11月 8日 (木)

田川紀久雄日記

新しい詩集『寄り添う』の第一篇を書く。自分の身体の奥にある言葉を素直に聴くことに勤める。詩は私の脳で書くのではない、書かされて書くというのが本当のところだ。頭で書いている詩は読んでいてもつまらない。だからその詩が良いのか悪いのか私にはわからない。そのような意味で詩は生まれるものであるといえる。作るものではない。生まれるものと、作るものでは天地の差がある。
朗読を数年やったから上手くなるなんていうことはない。そんな甘い世界ではないのだ。行なえば行なうほど難しさは分かってくる。ただ精進するしかない世界なのだ。その怖さが分かり始めたところから朗読が始まる地点なのである。何事も徹底的にこだわることは大切である。聲というものは歳を取ってから聲が出なくなるということはない。聲は神様が与えた一番美しい音である。聲の力は大きな癒しの力を持っている。詩というものは聲の力によって数倍も活字より味わえるものである。自作詩ぐらいちゃんと人に聞かせられる技を身につけてもらいたいものだ。そのことで詩はもって豊かさを増してくる。
今日も大空の下で語りを行なう。私は精一杯生きている。

2012年11月 7日 (水)

田川紀久雄日記

今日の午前中は病院だ。
「操車場66号」の発送終わる。私のブログ日記は都合により一部割愛した。そして詩集も一緒に送れた。67号には髙橋渉二さんの原稿が送られてきた。詩集代をTさんとYさんから頂いた。「たぶの木」も三十冊増刷した。今月にも二号の印刷をおこないたい。これは出来るだけ、詩人でないひとたちによんでもらいたいと願っている。詩を通して生きることへの意味を知ってもらいたいからだ。詩に出来ることとは何かを追求してゆきたい。苦しみや哀しみの中でも前向きに生きる。詩というものはそのような要素を持っている。文学であるから、こうであらねばという考えはない。言葉はいかに生きるために勇気を与えられるものか。いまの詩人達はそのことを忘れているような気がする。
相棒は英語の会話を勉強している。私も一緒にCDを聴いている。簡単な会話ぐらいできるようになりたいものだ。私は英語に昔から反感をもっていた。それは原爆を落とした国の言葉は覚えたくないとおもってきた。そのために英語はまったく解らない。もう戦後という言葉もなくなっているから、ここいらで英語を学ぶのも良いと思うようになっている。天皇制とアメリカにはどうしても嫌な思い出が多い。

2012年11月 6日 (火)

田川紀久雄日記

スタニスラフ・ブーニンのバッハはとてもいい。それは音符に彼の魂が寄り添っているからだと思う。詩の語りも言葉の魂が寄り添っていければ、人の心を揺り動かすことが出来るのではなかろうか。魂の聲を求めていままで語ってきたが、なかなか思うように成らなかった。それは聲の中に魂を込められていなかったからだ。入れたつもりでもどこかで空回りをしていたのだろう。特に自作詩を語るときは、自分の言葉に振り回されていた。いま『愛するものへ』を語っていて、自分の詩は語るために出来ていることに気付いた。聴き手に問いかけてゆける。そう思うと聲をあげていても気楽に感じる。祈りと魂の叫びが一つに溶け合わなければならない。語りの楽しさはこれから始まるのかもしれない。そのためには一回でも多く稽古をすることしかない。テキストとひたすら向き合うことが大切なのだ。謙虚な心で聲と向き合う。私のライブにはお客が集まらない。とても淋しいが、それを乗り越えて闘っていくしかない。本物の詩を語る人間に成長してゆきたい。いま私を支えているのは、そのことしかない。相棒の為にも仕事が取れる語り手になりたい。この苦しみは、自分を成長させてくれるための薬なのだろう。良薬は苦しという言葉がるように……。

2012年11月 5日 (月)

田川紀久雄日記

人間は、何のために生きているのだろうか? 答えようのない問いにいま苦しんでいる。生きていることに意味があるのだと思っていた時期もある。ガンの告知から五年も過ぎると、思いつめていたものが雪が溶けるように消えていく。生きられていることは何と素晴らしいことだ、それだけで充分だ。いったいガンは自分にとって何であったのか。生きながらえてくると、いろんなことを次から次へと考えてしまう。いま私は生に寄り添って生きていることを願っている。詩の作品も、語りの仕事もそのものの自体に寄り添うことに勤めている。語るときも自分の聲に耳を澄ませて語る。そのことで何かが拓けていけそうな気がしてくる。次の詩集のテーマについて考えている。この寄り添う生き方を一冊の詩集に仕上げらればと思っているところだ。
こんどのプリンターはインク量が多く使う。インキ代の負担が重い。好きで行なっているのだから、これぐらいは辛抱しなければならない。生活費をこれ以上切りつめられない。といって掲載費を値上げはできない。参加者が増えれば問題は簡単に解決するのだが。いまは辛抱していくしかない。

2012年11月 4日 (日)

田川紀久雄日記

プリンターを購入。インクは純正しかないのでインク代が大変だ。一年間は安いインクを発売しないという。プリンターの性能は以前より断然良い。これで操車場の印刷も不安がなくなった。
冨上芳秀さんから『詩遊・36号』が送られてきた。彼の詩も不思議な世界を描いてる。これは時代に対しての不安感なのだろうか。そしてエッセイで『ポエジーを求めて 1』を載せている。病院に入院して検査の結果『『冠動脈の動脈硬化が予想以上に進んでいるとのこと。酒も飲めなくなって詩について書こうと思ったとある。詩集に対して教えられることがある。
詩というものはその内容に沿ってじっくりと味わうことが大切なような気がする。私は批評家ではないのだから、詩のそのものを味わうようにして読んでいる。その作者の心に触れるようにしてゆくことがまず求められていると思う。現代人はものごとを味わう感覚が薄れてきているように思える。心に触れる詩に出会うとこちらも嬉しくなる。美味しいワインを飲んでいる気分になれる。

2012年11月 3日 (土)

田川紀久雄日記

プリンターの調子がわるい。速度がでないのだ。使いすぎの為なのかもしれない。これでは印刷ができない。困ったものだ。
大飯原発に活断層が見つかったとしても、原子力委員会は原発を止める権限がないという。、まずは原発を停止することが大切である。核のゴミでも十万年も必要といわれている。古事記ができてからまだ一三〇〇年ほどしか経っていない。だれが十万年も安全だという保証がいえるのか。気狂沙汰としか言いようがない。いかに原発はデタラメな政策である。いのちより経済優先の経済界は救いようのないありさまだ。
世の中は嫌な事件が多すぎる。こころを癒される話題がないものか。かつて文学で私も随分癒されたものだが、この歳になると癒される文学にあまり出会わなくなっている。特に詩の世界では心が打たれるものに出会うことがなかなかできない。これは自戒をこめでである。哀しみは哀しみによって救われるということもある。文学の本質はここにあるのかもしれない。

2012年11月 2日 (金)

田川紀久雄日記

来年の秋に出版予定の『いのちのひかり』を昨日書き上げる。あとは資金集めであるが、これがなかなか難しい。一番良いのが本を買ってもらうことだが、これがなかなか思うようにはいかない。昔から詩集を売ることは大変なことである。小説と違って楽しむものというより味わってもらうものなのだから厄介である。発行部数も少数の為にどうしても値段も高くなってしまう。安いからといって売れるものでもない。そして詩集を置いてくれる書店がほとんどない。商売にならない。ライブに呼んでくれると本が売れるのだが、それも今は途切れてしまっている。いまはそのようなことを考えず、詩を書くことしかない。
世の中がますます不景気になってきている。政府はすこしも経済対策がなされない。家電関係は物凄い赤字がでている。これでは人のこころも荒んでいく。人の心を温められる詩を書きたいものだ。

2012年11月 1日 (木)

田川紀久雄日記

坂井信夫さんの原稿を打っていて、眼の中に黒い点が動くのが見えた。ちょっと不安になった。やはり長くパソコンを打つのはつらい。冨上芳秀さんの原稿も入る。本を読むにも集中力が欠けてしまう。
アルヴォ・ベルトのアルボス(樹)を久しぶりに聴く。ベルトの曲はどれも気持ちよく聴ける。特に眠れない時は最適だ。このところ精神的な不安にかられている。歳を取れば精神的にも豊かになってくるはずなのに、逆に不安にかられる日が増えるだけだ。それはやはり生活に不安を抱えているからだろう。相棒を助けるためにも、稼げる語りの仕事をしたい。そのためには、聴いてよかったという語りができなければ、仕事はこない。歳を取って努力を重ねることの難しさを感じている。でも自分に負けてしまえば、生きている意味を失う。ガンと闘ってきた私が、ここで負けるわけには行かない。もっといのちを見つめなければならない。
今日から十一月だ。今年もあと僅かしかない。時の流れは待ってはくれない。日々の独力が明日という日を築いてくれる。今日も聲をあげることができた。そのような日々でありたい。

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