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2012年8月31日 (金)

田川紀久雄日記

八月が今日で終るのに、暑さは以前と続く。朝起きると鼻水が出る。風邪をひいたらしい。
『詩と思想』に連載している小川英晴さんの詩集評の前文がなかなか面白い。それははっきりと言いたいことを述べているからだ。たんなる反戦詩を書いても意味を成さないと言う。あくまで詩というものは魂を揺さぶるものでなければならない。それが詩としての美意識なのであろう。朗読も同じだ。テキストを読んでいるだけでは朗読とはいえない。今の殆どの詩人達の朗読は朗読以前である。朗読では詩人の知名度など何の役にも立たない。ただただひたすら聲を出し続けていくしかない。それでも人の心を揺さぶる朗読が出来るかというと、疑問である。しかし、聲を出し続けていれば聲を出していない詩人より数段人に聴かせる朗読に近づいている。いま電子書籍には絵や聲を入れることができると言う。お金があれば出したいものだ。

2012年8月30日 (木)

田川紀久雄日記

南海トラフ想定で七割が津波で犠牲になるという。大変なことである。一万年に一度起こるかどうかといわれても、それが明日かもしれない。川崎の臨港地帯は、あっというもに波に飲み込まれる。逃げる場所がないからだ。七十歳を越えているから、別にこの世には未練がない。死ぬときは死ぬし、生きられれば生きられるだけの話だ。しかし国は対策を取っていかねばならない。日本経済がますます苦しくなっている中では、予算が取りづらい。
国会は首相問責決議が通過したので、国会は空転になってしまった。まったく無責任な国会である。橋本氏は憲法改正を望んでいる以上、私としては維新の会に反対してゆきたい。来年には選挙がある。美味そうな話には毒が盛られているものだ。民主党のように維新の会も同じ道を進むのではなかろうか。私達は平和憲法を守っていかねばならない。二度と戦争がおきるような憲法改正には断固として反対していくしかない。生活が苦しくても平和であることはいかに素晴らしいことか。人間というものは、いつも不平不満をいう生き物なのだ。そんな人間を慈しんで生きていたいものだ。

2012年8月29日 (水)

田川紀久雄日記

野田総理の大飯原発の再稼動の判断が誤った。関西電力は原発がなくても充分にまにあった。国民の節電のお陰で原発再稼動の意味を失った。このことは初めからわかっていたことではないのか。賛成派の圧力に屈しただけの話であったとしか思えない。安全装置ベントの設計ミスも東電の社内テレビ会議映像でもわかった。
東北の水不足は深刻だ。こう雨が降らないとダムの水が無くなる。いま田圃には水が必要な時期なのだ。こう猛暑がつづくと私達の身体もまいってしまう。クーラーもわが家では27度か28度で使用している。来月から電力の値上がりが始まる。家計がもうどうにもならなくなる。精神的にも不安を感じる。公務員の年金者は月に三〇万円を貰っているという。生活が保証されていることはうらやましいが、詩人にとってそれが良いかは問題だ。私の詩は苦しみの中から本当の言葉を見出してゆくのだから、別にそのことを羨むことはない。どんな生活が満ち足りていても人間にはそれだけで幸福になれるものでもない。人の幸福を願うことの中に豊かさが生まれてくる。

2012年8月28日 (火)

田川紀久雄日記

日韓では少しづつ歪み現象が出始めている。冷静になって物事を進めてゆきたいものだ。お互いに憎みあったら何の徳にもならない。経済が冷え込むと一番の被害は庶民である。他国の旗を燃やすなどとは最低の行為だ。川崎は多くの在日の人たちが住んでいる。銭湯にいっても半数は彼らが来ている。皆が助け合って生きて行くことが大切である。民族意識を表面に出さず、人間と人間との付き合いを求めて生きていたい。
学校でも職場でもいじめはなくならない。でも暴力や脅しなどはなってはならない。それはれっきとした犯罪である。犯罪といじめとはまったく違うものだ。人間同士には好き嫌いがある。これはどうしょうもならない。私は威張る人を嫌う。そういう人の側には近寄らないようにしている。普段の生活は人と全くあわない。話し相手は相棒だけだ。それと野良猫たちとの対話である。それでも不自由は感じない。ひたすら詩を書いては、語りの稽古に打ち込んでいる。一日一日が忙しい。
『愛するものへ』の表紙絵を見つける。「良寛さんと子供達の」が押入れから出てきた。あとは資金の調達だけだ。それから相棒のエッセイ集を上梓したいと思っている。なんとか今年中にメドをつけたいものだ。

2012年8月27日 (月)

田川紀久雄日記

人はそれぞれの考え方が違う。みんな違っていい。しかし根本的に違うと話し合っていても疲れる。所詮井戸端会議なのだから、むきになって話し合うのも可笑しなものだ。人と人との話し合いはとても難しい。私はツイッターをしないが、竹島問題でも若者達が過激なことを言っているらしい。感情論的な話には私は興味がない。韓国と日本はお互いに助け合っていかねばならない。
いま地球規模で温暖化で破壊が進んでいる。少しも地球が平和な時がない。どこかでつねに戦争が行なわれている。不幸にあうのはつねに子供や貧しい人たちだ。そのような情況の中で、日本は平和的でありすぎる。他者の苦しみを受け入れる精神力に欠けているのではなかろうか。現代詩を見ても、思いやりのある詩があまりにも少なすぎる。詩そのものに豊かさが欠けている。賞に入るような詩を目指して書いている現代詩には私はついていけない。詩人達の生活が貧しいなんて今は考えられない。現代詩詩人会や日本詩人会の会員になりたがっている詩人が多い。日本の詩はひたすら堕落して言っているのではないのか。人に感動を与えない詩が大手を振って街中を歩いている。苦しみ悩んでいる人たちに寄り添って生きることが大切なのではなかろうか。
いま高畑耕治さんのブログに近代詩について書かれている。みんな温かい詩ばかりだ。今日は大木実さんの詩が載せてある。このような詩を読むと心がほっとする。

2012年8月26日 (日)

田川紀久雄日記

今日は川崎詩人会でがある。
詩の朗読で、テキストを聴かせるのではなく、そのテキストの心を聴かせられる詩人になりたいものだ。それにはひたすら精進しかない。だから朗読には唄うように読むということが言われている。詩歌というものはそもそも歌なのだ。心の歌であるべきである。立原道造や中原中也の詩を読むと歌うような気持ちで語れる。しかし現代詩になると、唄うようには読めない。この唄うような詩をひたすら排除してきた。つねに活字だけが大手を振って罷り通っている。読んでいても途中で胸が苦しくなることがある
H賞を取った詩でも読むに耐えないものがある。詩人にとって賞などいったい何の価値があるというのだろう。ひいて言えばお金が入ることぐらいだ。だから私もときたま応募するのだが、すべて転げ落ちてしまう。詩集を上梓するにはお金がいる。そのためにはやはり賞を欲しいと思ってしまう。
オリンピックはメダルを取ることが目標になっているが、あくまでスポーツをやる楽しみを観るものに伝えてもらいたい。詩も賞にはいることが目標ではなく、書くことの楽しみを味わってもらいたいものだ。そして読者に詩の心を伝えられる詩人になってゆくことが大切なのである。

2012年8月25日 (土)

田川紀久雄日記

I氏の身体が相当悪いらしい。手紙をもらっても私にはどうすることも出来ない。私と同じ歳である。生きていることはとても辛いだろう。奥さんが大変だと思う。生きようとする意思があれば、いろいろとやってやることができるが、生そのものを諦めたら何もできない。
ガン患者も自殺する人が多くいると聴くが、その気持ちも解らないではないが、最期まで生きようという気持ちは持ってもらいたいものだ。カトリックは自殺をすることを拒否している。キリストのように最後まで苦しみ抜くことが大切なためなのだろうか。私は末期ガンの宣告を受けて身体的にも苦しい中でも死のことは一瞬たりとも考えたことはなかった。いま私の周囲で多くの人たちが病と闘っている。頑張ってくれともいえない。ただ黙って見守るしかないのだろう。末期ガン者は、誰とも会うことを嫌がる。死は生の一部であるという考えが私にはある。ただ素直に受け入れていくしかない。いま生きているうちにやれることは全部やっておきたい。だから詩集代のメドがたては次の詩集を印刷所に回す用意が出来ている。詩語りライブは、お客が来るかどうかを危惧しない。誰も来なくても行なってゆきたい。ビデオに残しておきたい。最後まで闘う姿勢で生きていたいと願う。次のライブは九月十五日である。身体が何とか動けるうちにしか出来ないのだから、語りの世界を深めてゆきたい。

2012年8月24日 (金)

田川紀久雄日記

NHKで市川猿之助四代目の放送を観たが、歌舞伎は確かに面白い。中車は、まだまだ歌舞伎になっていない。経験を積んでいくしかない。肩に力が入りすぎている。猿之助は踊りが上手い。これからどんどん伸びていける。とても楽しみだ。それに対して詩の朗読はなさけない。人に負けまいという競争意識が希薄だ。どれだけ一日に稽古の時間を割いているのだろう。ライブを行なうにはテキストは百回以上読み込む必要がある。何人がこれをクリアしている詩人がいるのだろうか。まずはひたすら聲をあげるしかない。汗水を流してこそ、人に聴いてもらえる聲ができるのだ。
橋本さんは文楽に対してあまりにも厳しい。大阪フィルもそうだが予算をどんどん削ってしまう。もう少し文化に対して温かい思いやりを求めたい。どんなにもがいても利益に繋がらないものもある。でもその文化があることによってその国の豊かさが図れるのではなかろうか。
詩の世界はすべて個人の持ち出しで詩歌の世界が守られている。それは少数の人間かもしれないが、人間にとって必要だからこそ維持されている。一行の言葉によって人は救われることもある。詩はいのちの音なのだ。そのことを忘れないでもらいたい。

2012年8月23日 (木)

田川紀久雄日記

原発はゼロに国民の多数が望んでいる。誰もが福島の原発事故を見ればそう思うのがあたりまえだ。それにウソばかりついてきた東電の姿勢に対して国民は怒りを覚えている。2030年まで原発ゼロは遅すぎる。ドイツのようにすばやく行なうべきだ。そのためには一日も早く送電線問題を解決すべきだ。要は電力関係者がやる気がないのだ。
野田総理にはまったく哲学がない。自己がない人間が総理をやっている国は不幸だ。日本は経済力だけで未来を繋ごうという発想は時代遅れである。それは貧富の差を広げていくだけだ。生活保護を本当に受けたい人たちがなかなか受けられないでいる。憲法には誰でも人間らしく生きる権利があるとうたわれている。好きで貧乏している人などいない。それにはそれなりの理由があったはずだ。
ここ数日激しい欝に襲われている。ときどき欝が襲ってくる。その欝の原因は、自分が存在していることに対してなのだ。何をしても出口が見えてこない。耐えられない存在に対していらだつだけだ。
萩原朔太郎の詩を一篇「つめたきもの生れ/その歯はみづにながれ/その手はみづにながれ/潮さし行方もしらにながるるものを/浅瀬をふみてわが呼ばへば、/貝は遠音にこたふ。(貝)

2012年8月22日 (水)

田川紀久雄日記

昨日は本当に暑かった。今月この暑さは続くという。北極の氷も相当溶けてしまった。世界中環境破壊がなされているのだろう。物質的豊かさはこの地球をダメにして行くだけだ。いまブータンでも若者達が便利さを求めて価値観が変ってきているという。一度この豊かさを味わうと、まるで悪魔に取り付かれたように変貌してしまう。電車にのってもメールや情報を追い求めている人たちが目立つ。なにか私には虚しく感じてしまう。この情報だってほとんどが中味のないものだろう。これでは本が読まれなくなるのは当然だ。地方の本屋がどんどん潰れていくのがわかる。
南相馬沖のアイナメに過去最大のセシウムが検出される。事故から一年五ヶ月も経っているのにいまだ深刻な汚染が続いている。福島県周辺の魚を食べるのに不安を感じてしまう。今の子供達が大人になってからガンの発症率が高まるのではなかろうか。国は決して下bb発事故との因果関係を認めないだろう。いまでもガンは二人に一人の割合で発症しているのだから。私達が原発の再稼動を許さないように世論を高めていく以外にない。政府も野党も本気になって原発問題に取り組んでいない。つねに曖昧なまま放置している。自然エネルギーの促進を加速させてもらいたいものだ。
保坂さんと野間さんの原稿が入った。保坂さんの短歌は「紫陽花革命」である。

2012年8月21日 (火)

田川紀久雄日記

今日また病院だ。
放射能の除染がどこまで進んでいるのだろう。眼にみえない放射のだけに心配だ。保坂さんが新潟に行った時、彼の家の周辺でも放射能の影響があったという。熱さも喉元を過ぎれば忘れる、という諺のように、福島から離れて住んでいる私達は遠い昔話のようになっている。あの昨日の銀座のパレードをテレビのニュースで観ると馬鹿げた風景に感じられた。そのエネルギーがあれば、もっと原発にたいしても関心を持ってもらいたいものだ。なにしろいのちに関わる問題なのだか。
思潮社の現代詩文庫を読んでいると、詩らしい詩を書いているのだなと痛感するが、いまこの時代のうねりの中で果たしてどれだけ価値があるのかと問えば、はななだ疑問を感じてしまう。詩らしい詩を書いていることによって、その時代から背を向けていたのではないのかと、感じるところもある。文藝はその時代に寄り添って行かねばならない。そしてつねに人間と何か、生きるとは何かを追求していかねばならない。そしてそれを越えて人間存在の美しさを求めていかねばならない。本当に大変なことだ。

2012年8月20日 (月)

田川紀久雄日記

川崎ではどこに行っても子供の数が多い。人口が減っているというのに、この街ではそのようなことは感じない。建て売り住宅もすぐに売れてしまう。やはり労働者の街だと感ずる。私の住んでいる田島地区や桜本周辺は昔はガラが悪かったが、今は安心して歩ける街になっている。でも私はコリアン商店街にまだ一度も食事にいっていない。なんとなくまだ入りずらい。竹島問題で一部の人たちが感情的になっている。極端な反日的な運動はテレビで観ていつもいやな気分になる。なんとか仲良くやっていけないものなのか。まずはお互いを理解しあうことしかない。かつてのアジア侵略がいまなお緒をひている。このことは忘れてはならないが、なんとか前向きになって人間として対等に向き合って生きたいものだ。
妹の出血が増しているという。そのためにか精神的に不安なのだ。といって私にはどうすることも出来ない。身体的な病は医師しか治せない。ただ見守ることしかないのだろうか。私の体の調子も決していいといえない状態だ。横浜からの帰りには腰の痛みに耐えながら帰宅した。

2012年8月19日 (日)

田川紀久雄日記

今日は妹に会いに横浜までいかなければならない。
このごろ夜中に何度も起きてつらい。医師に言わせれば、もう歳なのだからといわれる。そして検査が行なわれる。私は漢方の八味地黄丸を買って飲んでいる。漢方代で月に何万円も使う。語りの稽古が出来るようにするのはやはりお金がかかるものだ。毎日稽古をすることによって聲の力が維持できる。ちょっとでも疎かにすると聲の調子が狂ってしまう。健康でいられることは一番の財産だ。
八月いっぱいこの暑さが続くという。CO2の排出を抑えなくてはならない。電気自動車の普及を伸ばして生きたいものだ。温暖化のために秋刀魚も取れないという。日本の近海から魚が少なくなっている。昔は小田原の鯵すしが美味しかったが、今では韓国か輸入しているという。魚屋さんを覗いても同じような魚ばかり並んでいる。今年の夏はうなぎを食べにも行けそうがない。こんなに暑いせいかなんだかんだと財布からお金が逃げていく。矢向の温泉にでも行きたいと思っていてもなかなかいけない。わが家から三十分ほどでいけるのに……。

2012年8月18日 (土)

田川紀久雄日記

詩とは何かと質問したら、無限の答えが返ってくるだろう。私はいのちのあり方だけを見つめていたいものだ。詩らしきものを書いているだけである。それが詩であるかどうかは問わない。ものの考え方がどんどん変化している。だから変ってはならないものを見つめていた方が気が楽だ。読み手が詩かどうかを決めればよいことなのだ。百人の詩を読めば百人全部が違った詩を書く。詩と言う物はそのようなものなのだ。だれが正解ということはない。宮澤賢治の「雨ニモマケズ」をあれは詩ではないという人もいれば、あれは紛れもなく詩だという人もいる。あくまでも読み手の心の問題なのだ。べつに白黒をつける必要もない。私は魂の告白は詩の領域にはいるものと思っている。それが詩の形式を取らなくても。いのちというものは形式で捕らえられないものだからだ。そんなものはたわごとに過ぎないといわれればそれまでかもしれないが、それもいたし方がない。
残暑といいながら暑さは増してくる。皆様も身体に気をつけてお過ごしください。詩は心の良薬であることは確かなことですよ。元気でいることが一番の幸福なのですから。

2012年8月17日 (金)

田川紀久雄日記

日本政府は外交問題になるといつも曖昧な態度を取る。文化交流を深めていくしかない。お互いを理解し合える社会を作ることだ。私達は政治家ではない。相手を尊重しあうことから始めるしかないのだろう。
『嶺』の仕事が入った。もう20周年だ。早いものだ。私はこの仕事で随分助かった。末期ガンになってから出版の仕事が急減してしまった。ほとんど無収入状態に落ち込んでしまった。身体が思うようにならないことはやはり辛いことである。なんとか生きる術を見つけ出したいものだ。川崎詩人会の丸山さんのことを思うと心配だ。お互い年金がない。地方に越して印刷の仕事があるのだろうか。川崎詩人会の「新しい風」の制作をしていただいている。本当に生き抜く事は大変だと痛感する。
詩を書くことは自分の苦しみを越えた地点で作品と向き合っていきたいものだ。苦しいから苦しいと書いても何もならない。作品化するということは才能も必要だが、それ以上に自己と向き合う姿勢が求められるのではなかろうか。この苦しみをプラス思考することで生き抜く歓びを見つけ出したいものだ。

2012年8月16日 (木)

田川紀久雄日記

いまお年寄り達が戦争体験を話し始めている。死ぬ前に言っておきたいことがあるのだ。それは二度と戦争をしないためにだ。原発事故の模様の本当のことを東電は公開すべきだ。原発賛成派にとっては、蟻がたかる蜜のようなものなのだ。まだまだ天下りがいる。これらに使われるお金は国民の税金である。彼らは国が潰れても平気な顔をしている。それもすべて電気代の上乗せされている。
いま書き始めた『いのちのひかり』は自伝的な要素が入り込んでくる。思わぬ方向に進んでいる。詩は待っていては作品を深められない。発表するしないに関わらず、書くことだ。書くことで作品は進化してゆく。つねに書き続ける姿勢が大切なのだ。書くことで見えなかった世界が見えてくるものである。詩誌の発表のときだけ書くような詩人は怠惰だ。詩はお金にならない。だから本当の世界を書いてゆける。何を書いても誰も何も言わない。書きたいことをどんどん書いてゆくことが求められている。インターネットで発表している詩人も多いと聴く。
今月は下痢が続いている。昨夜も今日にお腹が痛くなり何度もトイレにいった。クーラーの温度設定は28度にしている。それほど冷えているわけではない。この下痢はケーラーのせいかもしれない。熱帯夜では、やはりクーラーをいれないと眠れない。外の風にはそれでも秋が風が混ざってきているような気がする。

2012年8月15日 (水)

田川紀久雄日記

今日は終戦記念日だ。戦争をして得をする国などない。戦争はいのちの否定以外の何ものでもない。領土問題では日本政府の対応に問題がある。いま日本の政府は国民を守ることができない。それは外交だけの問題ではなく。原発問題にしても同じだ。東電の150時間の映像を国民に公開すべきだ。いかに安全対策がなされていなかったかが問われていくべきだ。大飯原発の再稼動だって、本当に安全対策がなされているかといわれれば、福島のときとおなじような状態になるだろう。核は人間の力を超えている。そこにはいくら安全だといわれても、もう誰もが信用しない。つまり原発はもういらないということだ。今年の夏の電量消費量は再稼動しなくてもよかったのではないだろうか。それなのに経団連は原発の再開を望んでいる。
国会が解散しても、もうどこの党にもいれたくない。だからと言って放棄もできない。まず国会議員を半分にしてもらいたい。選挙の時はまずその人間を見極めることしかできない。現実にはそのことも難しい状況だ。
詩を何度も読み込んでいる人は少ないだろう。でも朗読をするためには何回も繰り返して稽古をしなければならない。宮澤賢治や中原中也などは百回以上読み込んでいる。読むたびに何かを発見する。詩という物はやはり繰り返して読むことで、面白みを発見するものだ。黙読では味わえない醍醐味がある。
詩誌受贈『砧・46号』

2012年8月14日 (火)

田川紀久雄日記

四時半には朝焼けが綺麗だった。朝焼けの時は雨が降るという。
原発事故でヤマトシジミチョウに目や羽に異常がでている。人体には影響がないというが本当だろうか。幼児達が大人になったとき本当になんでもないといえるのだろうか。体内被曝はそのときは何でもないが何十年後には影響がでてくるものだ。もっと強く放射能のことは国に対して言っていくべきだ。
やっと窓側のアサガオが毎日咲き出した。窓を開けてみていると心が和むものだ。花のいのちは短いが、精一杯咲いて散ってゆく。大切なのは精一杯生きるということだ。そのことによって死も受け入れられてゆくのだろう。
新たな詩集に向けて船出した。題は『いのちのひかり』である。宮沢賢治が「銀河鉄道の夜」で本当の幸福を求めていこう、と叫んだことばの意味はやはり賢治にとっては書き続けることであった。詩人は書くことの中でしかみんなの幸福を願うしかない。物質的な豊かさではなく、心の豊かさを求めるのが詩人の勤めである。いろんな詩があってもいい。でも詩人一人ひとりが何を求めて書いているのかをちゃんと明確にしていくことが必要なのだ。はやく次の詩集を上梓したいがまだお金が足りない。生活を切りつめて何とか今年中には出したいものだ。もう部数はそれほどいらない。

2012年8月13日 (月)

田川紀久雄日記

オリンピックは終ったが、この次はパラリンピックが行なわれる。国の予算を増やしてもらいたいものだ。大きな夢と感動を与える。努力しても報われないこともある。それは敗北ではない。努力した分だけ大きなものを掴んだはずだ。参加した全員に拍手を送りたい。
高畑さんが作品を送ってくれた。ありがたい。それに保坂さんも作品を送ってくれるという。読書の秋にふさわしい操車場64号ができそうだ。
天然ガスが新しい技術によって開発されている。原発に頼らなくても電力が賄えるようになるかもしれない。それと自然エネルギーの開発がもっと進められると良いのだが。それにしても電気代が世界一高いとは情けない。九月から東京電力が値上げする。消費税と電気代の値上げて零細企業は廃業に追い込まれる。国はこの零細企業の救済に手を差し伸べてもらいたい。リストラされたら、どこにも働く場所を失ってしまう。それより日本の誇る技術力が低下してしまう。宇宙部門でもこの零細企業がどれだけ技術を提供してきたことか。浜川崎周辺でも電灯もつけず仕事をしているところがある。従業員三人ほどで働いている。日本の工業はこの零細企業によって支えられている。
詩の世界だって商業詩誌で支えられているのではなく、同人詩誌で詩の世界が存在している。このネットワークは凄いパワーを持っている。本当に誰もが読みたくなる詩誌を目指して行きたいものだ。操車場はそのような詩誌を目指してゆきたい。

2012年8月12日 (日)

田川紀久雄日記

昨日教育テレビの地球ドラマチックでポーランド兵と熊との友情を描いたものを見たが、心が打たれた。その後でショパンのバラードを聴いた。
浜川崎に飼い猫が捨てられている。とても可愛いのだが狭い我が家にはつれて帰れない。心が痛む。福島原発でも二十キロ以内の動物は連れって帰れなかった。飼い主たちはどれほど悲しかっただろう。なんとかもっと動物に対しての支援が出来ないものなのか。
女子のバレーボールが韓国に圧勝した。これで銅メダルが決まる。この度のオリンピックの女子は凄い。今の日本は女性の方が強くなっている。
詩人達の朗読もなぜか男より女性の方が多い。朗読教室をみても殆どが女性だ。子供達に本を読み聴かせようという気持ちから始めた人たちもいる。でも詩を読み聴かせる人は少ないものだ。詩ではそれほど子供達に読み聴かせる作品がないのだろうか。私は高畑耕治さんの作品など子供達に聴かせたいものだと思う。聲の豊かさは、子供達の心に愛と豊かさを与ええるものだ。詩の朗読は難しいが、やるだけの価値はある。聲はいのちの表現なのだ。
穂谷さんからモモが送られてくる。とても美味しい桃である。

2012年8月11日 (土)

田川紀久雄日記

竹島問題で、日本の対応が悪い。外交問題はいつも弱腰だ。日本の政治の不安定さがやはり問題なのだ。国には国民を守る能力がまったく欠如しているとしか言いようがない。
男子サッカーも韓国に負けてしまった。内容も悪い。これはスポーツだけの問題ではなく、詩人達の朗読に対する意識の低さにもいえる。これは個人の問題だけでは解決しきれないものだ。朗読の意識を高めるには、朗読者たちを応援する意識を持たねばならない。詩人という存在者は、他者に無関心なところがある。私も二十数年間行なっていて、そのことはいつも痛感している。聴き手は詩人達の朗読はつまらないものであると思い込んでいる。そのような考え方が蔓延っている以上、詩人の朗読は少しも向上はしないだろう。ただひたすら活字だけをもとめている世界は虚しいものを感じてしまう。ある意味での心を閉塞した状態である。外に心が拓かれないまま自己満足の世界でいる。詩誌にしたって作品を発表するが、他人の詩を読まない人が多い。できるだけ他者との関わりを持ちたくないという気持ちなのだろう。文藝とは他者を悦ばしたり癒したりするものだ。現代詩はそのようなものを感じ取ることの出来る作品はほんの一部しかない。優れた作品とはいったいどのようなことなのか。人の心を揺さぶるものがあるかないかではなかろうか。大切なのはやはり豊かな心ではないのだろかと思う。身体が悪ければ医者に観てもらうしかない。そして心が悩んでいる時、芸術の世界が救いの手を差し伸べてくれる。そのような世界を求めて生きていたい。

2012年8月10日 (金)

田川紀久雄日記

なでしこアメリカに2‐1で敗れる。最後まで観てしまった。よく闘った。内容的に観てもアメリカに引けを取らない。
消費税が参議院を通過してしまった。中小企業が大変になる。弱いものいじめの何者でもない。倒産する企業も増えるだろう。収入の殆どない私には、腰をなんとか直して、語りにせいを出さねばならない。生活保護を受ければ詩的活動は出来なくなる。
昨日『愛するものへ』の版下を作成した。印刷代がまだたりないので、印刷所には入れられない。その次の『慈悲』という詩集も書き終えた。まだまだいのちについて掘り下げていかねばならない。
このところ毎日マラーの「大地の歌」をいろんなCDで聴いている。やっとこの曲の良さがわかるようになってきた。今まで出ているCDのすべてを聴いてみたいものだ。
詩の語りも丁寧に語ることを求めていかねばならない。一語一語を大切に語ることで詩のもつ豊かさを引き出してゆきたい。なにごとも努力をしなければ、自分のものにはならない。人に認められることではなく、自分自身を精進してゆくことが大切なのだ。
秋葉長榮さんから年間購読料と詩集代が送られてきた。ありがたい。感謝。

2012年8月 9日 (木)

田川紀久雄日記

マニラでは豪雨で市内の八〇パーセントが水で溢れているという。そしてアメリカでは旱魃で農作物に被害が拡大している。これも温暖化のせいだろうか。小麦やもろもろのものが値上がりするだろう。 日本経済にも大きな被害が出る。このような状況の中で国会はあいかわらず茶番劇をやっている。やはり消費税は今はやるべきではない。世界経済の動向を見極めてから行なうべきだ。たしかにいつかは消費税を上げねばならない。
野田総理は福島原発の収束宣言をしたが、いまなお立ち入りの出来ない箇所が多数ある。いまなお危険な状態であることは変わりがない。原発での平和利用などはない。すべて幻想の世界である。自然エネルギー産業で雇用を増やしていくことが求められている。大企業でもリストラが行なわれる時代だ。本当に安心して働ける世の中にしたいものだ。パートで働く人たちの労働条件があまりにも悪い。いつ解雇になるのか心配の中で働いている。そして労働賃金も最低だ。なんら保証もない中で働かされている。正社員との格差は大きい。人格的にも認められていない。いじめの世界は学校の中だけではない。何処の世界にもいじめが存在している。暴力といじめとは別なものだ。暴力は犯罪なのだ。いまの学校の先生達は何かを隠そうとしている。私も先生に対しては苦い経験がある。落ちこぼれ人間に対する軽蔑意識を中学時代背負い続けていた。いまも先生に対しての怨みはある。

2012年8月 8日 (水)

田川紀久雄日記

詩誌『すてむ・53号』で川島洋氏が『「非詩宣言」を巡めぐって』というエッセイを載せている。会田綱雄や宮澤賢治が、実は自分達の書いているのは詩ではないと述べていることを書いているのだが、自分の人生体験や思想を詩の形を書いていると、やはり詩を書いているという意識が薄れるものだ。実は私も詩を書いているという意識が薄くなっている。できれば詩集という言葉を外したいと思っている。あくまで詩の形式を借りた思想詩なのだからだ。この号に載っている水島英己氏の詩は、まさにそのものを感じさせるが、一連の詩のテーマが詩という形式に流れてゆくと、急に言葉が軽くなる。しかし詩としての美しさは表現されてくる。徹底的に思想詩として詩を追求すると、どうしても詩の旋律が崩れてしまう。ここで問題にされるのは『書く』という意識のあり方である。現代詩があまり言葉の概念だけで詩を追求して行くと、誰も読まない一人がっての世界に落ち込んでしまっている。自分の思想を深めていくことを拒否して詩を書いているのならば、それは本来の言葉の意味を放棄してしまう。詩というものは魂の叫びが基本になっていると思う。宮沢賢治の詩はまさに魂の叫びなのだ。魂の叫びを濾過してゆくとそこに本当の詩が開けてくるのかもしれないが、そこまで行くのが大変なのだ。私はまだまだ詩と呼ばれるものから程遠い世界で言葉を書き続けなければならない。
詩集代金を、YさんとUさんからいただいた。感謝いたします。

2012年8月 7日 (火)

田川紀久雄日記

昨日はヒロシマ原爆投下の日であった。NHKテレビで『黒い雨』を観る。原爆症の認定は二十キロ圏内だけでは無理だ。風の流れや、黒い雨などでガンになった人たちが多い。水俣病も離島の人たちは認定を受けられていない。線を引いてそれからはみ出るものは認定しないという国の基準は可笑しなものだ。いま私の住んでいる川崎でも喘息患者が増えている。私も喘息ぎみである。
私の詩語りも、身体の強化と、改善のために始めたものだ。そのことが末期ガンを宣告されても、乗り越えられた理由の一つに上げられる。それは夢を持つということだ。人を感動させたいという夢がいまも心の中で燃えている。しかし、現実はなかなか思うようにいかない。私にできることは、絶対諦めないことである。悪聲でも努力すれば、それなりに聲が出来るものだ。詩は活字だけで読んでいると、大事なものを見落としてしまう。聲をあげて読むことによって、詩のもつ味が見えてくるものだ。同じ詩を何度も繰り返して朗読することで、活字では味わえない面白さを感じる。暑い中で稽古をするのは大変であるが、身体を鍛えると思うとそれに耐えて行なわなければならない。
武井まゆみさんからカンパをいただく。
詩誌受贈『すても・53号』

2012年8月 6日 (月)

田川紀久雄日記

熱帯夜で寝苦しい夜が続いている。夜中に何度も起きて寝たのかどうだかわからない気分だ。玄関前に植えたアサガオが今年はなかなか咲かない。ゴウヤはもうそろそろお終いだ。暑さがまだまだ続くというのに、今年は上手くいかない。相棒はせっせと水を毎朝あげていたにもかかわらず残念だ。でもハチやその他の虫などがやってきた。植物があるとやはり自然らしさを感じる。
「慈悲」という詩集がそろそろ書き終わるところまで来た。しかし問題はますます複雑になっている。書く行為と、生でいきている人間との関係が見えなくなってしまっている。慈悲とは他者との関係性の問題なのに、その糸が絡まってしまっている。個人の存在がますます孤独化してゆく。書く行為は慈悲から離れた行為なのかもしれに。言葉では何も解決が出来ない。この問題を次の詩集のテーマとして残ってしまっている。一冊一冊と詩集を上梓することによって個の問題を追及して行くしかない。書くことの虚しさと当分闘ってゆくしかないのだろう。

2012年8月 5日 (日)

田川紀久雄日記

遠藤周作の小説を読み直している。自分の思想を作品化することはなかなか難しい。特に詩の世界では、ちょっと厄介な問題だ。八木重吉の詩はそのような意味でも優れている。最近詩を読んでいても、その人の人柄や思想を感じる詩が少なくなっている。言葉だけが前に出すぎている。
国は原発を15パーセントに誘導しているが、国民はゼロパーセントを望んでいる。福島の原発事故の究明もほとんど手付かずになっている。原発の再稼動など断じてやってはならないことであった。国民の信頼を裏切るだけのことである。それにしても賛成派の圧力は相当なものがある。彼らはいのちの問題として捉えていない。ただ金の問題だけなのだ。いのちとは何かをもっと考えていかねばならない。美しい自然の姿をみると、心が豊かになる。
いま公園では蝉が鳴いている。懸命で鳴いている。詩も死ぬ瞬間まで懸命に叫び続けていたいものだ。詩をつねに書いていないと不安になる。書けない時は心が泣く。何も書けなくなったところから詩が生まれてくるものだ。そう簡単に詩など書けるものではない。どれだけ苦しんでものを書くかということだろう。次の詩集を上梓したいが、金銭が足りない。カンパしてくださる人のお陰で何としても今年中には出したいものだ。出来れば私の油絵を買ってくださる方がいると助かるのだが……。世の中はそう上手くはいかないものだ。

2012年8月 4日 (土)

田川紀久雄日記

下痢がなかなか治らない。これも暑さのせいなのだろうか。
九条の会の呼びかけ人の三木睦子さんが亡くなった。これからどうして九条を守ってゆくのか難しい。いのちの尊さを主張する私としても、この問題は詩の中で闘ってゆくしかない。
公明党は原発を四〇年後に廃炉としているが、なさけない党になってしまった。国民の生命を守る党として発足したのがいつの間にか、国民を裏切る党に堕落してしまった。いまの福島の人たちの苦難を少しも考えていない。
死刑廃止論者の私としては、このたび二人が実施されたことは無念だ。人間が人間の命を否定する刑法は間違いだ。被害者側の気持ちは理解するが、相手の死を願っても、解決はされないのである。死刑を求刑するのではなく、百年、二百年の刑を求めるべきだ。
操車場の発送が終った。いつも参加してくれる詩人に感謝の気持ちでいっぱいである。送料代は毎月一万円以上はかかるが、何とかしてこのまま発行を続けてゆきたい。
中村不二夫さんと高橋博子さんからカンパをいただいた。有り難い。
詩誌受贈『叢生・181号』『豹・130号』

2012年8月 3日 (金)

田川紀久雄日記

昨日は病院が込んでいて相当待たされた。病院は疲れるところだ。いろんな箇所が悪くなっている。やはり年齢のせいもある。食事には気をつけなければならない。
野良猫たちは子供を生んでも全部育てる力がない。この暑さでは小さな体で生き抜くことは大変なのだろう。私の知る限りでも、子ネコの数が大分減っている。人間もそうだが、今の時代は生き抜くい時代になっている。介護保険も健康保険もあがっている。収入がほとんどない私の生活はますます苦しくなるばかりだ。操車場の書き手が増えることを望むが、いまのところその可能性もない。出前の詩語りが欲しいものだ。都会でも孤独死がでている。行政の不備がこのような事態を惹き起こしている。
操車場も今週中には発送が出来そうだ。

2012年8月 2日 (木)

田川紀久雄日記

今日は病院だ。いい加減疲れる。検査なので半日はかかる。
テレビでオリンピックの報道が多すぎる。普段のニュースが見たいと思ってもあまりにも少なすぎる。スポーツというものは、強いものが勝つ。負けるということは、精神的にも肉体的にももう一歩何かが足りなかったのだろう。運なんてないのがスポーツである。
大阪のTさんが心臓病で入院した。とても心配だ。私の同じ歳であるが、七十歳になるといろいろと悪いところが出てくる。
私は多くの人に助けられて生きている。だから本気になって詩と取り組んでいる。そいて語りの稽古も続けている。この詩の世界でなんとか恩返しをしてゆきたい。生きていることの哀しさ、歓びなどを追求してゆきたい。「銀河鉄道の夜」で本当の幸福をもとめて行こうという会話があるが、それは辛い物語である。求める人は、決して幸福になれない。不幸の中に幸福が隠されているからだ。幸福な人は幸福など求めない。でもその幸福な人でもやはり心の世界で不幸を背負っている。詩人というものは、この不幸を背負って闘っている人のことを言うのではなかろうか。蓮の花が美しいのは、泥の中で咲いているからでもあろう。現代詩からはこの美しい花を見ることが出来ない。詩のみを求めている以上美しい花は咲かないだろう。本当に読みたい詩を探しに出かけれことも必要だ。高畑耕治さんのブログには、そこの所が書かれている。

2012年8月 1日 (水)

田川紀久雄日記

八月一日は旧暦で六月十四日にあたる。暑さはこれからだ。といっても七月の半ばから猛暑が続いている。クーラーをかけていると身体がだるくなる。調子をとるのが難しい。
保安院たちの安全宣言はとても信じられない。そして地層検査も以前の企業が行なっている。電力会社はいったい何をかんがえているのか市民にはわからない。ひたすら安全より利益が優先する。東電は国が管理することになったが、一会社に、これだけの税金を投入するとはどのようなことなのか。普通の会社ならば倒産している。それなのに彼らにはボーナスも給料も一般並みに支給されている。まるで公務員並の扱いだ。
相棒の詩集や私の詩集は詩人達から評判は良くないが、一般の読者からはとても評判が良い。詩人達の評価は、何を基準しているのか良く解らない。まるで東電並である。詩人内部だけの評価などくだらない。大衆の意見を受け入れるのが嫌いなのだ。この体質は狭い世界で生きている詩人達に問題があるのではなかろうか。もっと人間の健全な姿を見つめなおさなくてはならない。世間が詩人など誰もが相手にしていない。そのためますます狭い世界に閉じこもってしまっている。現代詩を読むことに息苦しさを感じて仕舞っている。もっと誰にでも読まれる詩を求めていくことも大切である。

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