無料ブログはココログ

« 2012年6月 | トップページ | 2012年8月 »

2012年7月31日 (火)

田川紀久雄日記

CTの検査を終えた後に凄い下痢が続いた。体がとても辛かった。そして腰の痛みは一日中つづいた。薬局で「八味地黄丸」を買って飲む。最近尿も近くなってきている。歳のせいにするのではなく、何とか直してゆきたい。
東京電力のビデオ公開も、まったく人を馬鹿にしている。大切なところをすべて隠した公開など意味がない。相変わらず体質は変っていない。
世界的にみても気候の異常は大変なものだ。旱魃、豪雨、確かに温暖化している。昔は35度以上の日が続くことはなかった。お年寄り達は、無理して節電をしないでクーラーを使ってほしい。電力不足は電力会社が原発を再稼動したいための策略である。暑い時は無理をしないでもらいたい。毎日熱中症で亡くなる人が毎日出ている。熱さはまだまだ続く。八月も九月も熱さが続くのだろうか。

2012年7月30日 (月)

田川紀久雄日記

午前10時からCTの検査がある。
昨日の音楽と朗読の会で、相棒の立原道造の語りはギターと一緒に行なった。とても良かった。やはりお客が満席だと、気分ものってくるのだろう。これで、私の病院代がでた。楽しい打ち上げであった。帰宅は11時を回っていた。体力の衰えを感じた。ただ疲れた。
昨日国会周囲をデモと取り囲んだと報道されていた。このうねりを少しも感じない野田総理は、日本の首相にはふさわしくない。身体がおもうように動かないので今日のブログはこれまで。

2012年7月29日 (日)

田川紀久雄日記

詩は本来うたうべき世界である。それが黙読する世界に堕落してしまっている。歌うことによって魂が浄化されていく。私は詩を語るときは、歌うように語るように勤めている。自分の詩でもとてもうたうようには書けていない。現代詩というものは、歌うことを嫌っている。あくまで黙読の世界である。この現代社会は忙しすぎる。聲を出して読む時間がないくらいだ。そして朗読を聴くゆとりもない。散文詩など読んでいると、胸が苦しくなる時もある。いまの詩人達はまったく朗読をする技術を獲得していない。テキストを聲にだして読むことが朗読だと思っている。そこには間や、リズム、メロディーというものがある。歌わなくても読むことの中に当然ふくまれている。大切なのは聴き手の心に届けたいという気持ちが必要だ。テキストを読むことで精一杯だから、聴き手のことを忘れてしまう。ゆとりのない朗読など誰も聴きたくはないものだ。私の詩は、詩として疑問視されるが、語りだすとそこにはまぎれもなく詩を感じる。そこには魂が存在しているからだ。そして大切なのは聲に思想を持たせることだ。散文と違って、意味を追い求めるのではなく、魂の聲を伝えることが優先されている。詩というものは心の叫びでもあるからだ。音楽を聴くように感じる心が大切である。現代人は、テレビ文化に犯されている。自然の聲を拒絶する。人間の自然の聲ほど美しいものはない。そこにはそれなりの精進があって生まれる聲でなければならない。素の聲などかえって聴きずらいものだ。
今日、相棒が西所沢で音楽と朗読の会に招かれている。やはり私が出来ないのは淋しいことだ。

2012年7月28日 (土)

田川紀久雄日記

オリンピックが開会された。友愛に満ちた演出である。スポーツで世界平和を願うことは素晴らしいことだ。でも個々の選手は死に物狂いの闘いの日々であっただろう。選手は簡単には勝てないことを知っている。
『詩と思想・八月号』に小生の詩集「神話の崩壊」が高橋憲二さんによって紹介されていた。そして小川英晴さんが詩集評のなかで瀬戸ひかりさんの『余命宣言』が紹介されている。免疫力を高めてくれるだろう。小川氏が言うように「真実の言葉の持つ力というものがここにある。」と。いま詩で求められているのはこの真実の言葉ではなかろうか。それは単なる生な言葉であるのではない。全存在の痛みを経験した人のみが語れる言葉である。詩の言葉はいのちそのものである。だから朗読する時も、いのちを語る覚悟がなくしては語れないものだ。詩人でそのことを知っている人はほんの僅かしかいない。

2012年7月27日 (金)

田川紀久雄日記

スペインはパス回しの技術が数段上手いのに、日本が勝ってしまった。スポーツの面白さはこのような状況が起こるところにある。スペインにとっては魔物が住んでいたことになる。あせりと油断が魔物を引き寄せるのだろう。
震災地のゴミの山に、大量のハエや溝鼠が発生している。ゴミの山に対して政府の対応が後手後手になっている。衛生面でも危険な状態である。復興予算も、余り使われてないという。消費税問題より、復興への道の方が優先すべきである。弱者切捨てと同じに感じてしまう。原発で働く下請けの人たちはピンハネをされているという。危険な作業をしているのに酷い話だ。原発で働く人たちに手厚い待遇を与えるべきだ。このような中で再稼動が行なわれてしまったのだ。
山頭火の日記を読み始めたのだが、このどうしょうもない生き方にいささかうんざりしてしまう。なぜ若い頃夢中になって読んだのだろう。山頭火俳句は、確かに魅力がある。一種の麻薬のようなものだ。生きている当人が自分を持て余しているのだから、いたたまれないことはわかる。これは日本人特有の世界かもしれない。詩人とか俳人は、どこか自分をもてあましている人が多い。だから山頭火の存在が大きく感じられるのだろう。
坂本圭さんが、私の日記をよんでくださっている。ありがたいものだ。詩集をいただきながらご返事も書かないでいる。申し訳がない。ほんのり温かい詩が全編を通して感じられる。このほんのりがなかなか書けないものだ。この感覚が新しい抒情なのかもしれない。私の日記をご自由に使ってください。メール有難うございます。

2012年7月26日 (木)

田川紀久雄日記

なでしこのサッカーを観てしまった。2-1で勝ったが、後半に課題が残った。澤はおもったより良い動きであった。生きているうちに何度感動が味わえるのか。女子サッカーは今は華やかに報道されているが、ソフトボールは世界一になってもほとんど報道されない。上野選手の力投はほとんど報道されない。オリンピックに出るかでないかであまりの開きがある。報道されなくても黙々と闘い続けている選手を応援していたいものだ。感動を味わうということは、この黙々と闘い続けている姿ではないのか。
詩の朗読でも、日々努力している人たちがいる。それは聲の力で人を感動させたいからという夢を抱いているからだ。努力している人が報われるという構図は詩の世界にはない。あくまで結果の勝負である。商業詩誌など殆どの人は読まないだろう。詩壇と言っても、ほんの一部の詩人しか消化されない。そして賞というものもその人たちの手に牛耳られている。大きな賞は、一部の詩人達が順番に貰っている。政治の世界よりも酷い世界なのかもしれない。だからと言って誰にも害がないのでこのようなことは無視されているだけだ。
ここ数日「銀河鉄道の夜」を聲をあげて語っている。なかなか面白い。なんとか自分のものにしたいと願っている。いつの日にかライブで語ってみたいものだ。

2012年7月25日 (水)

田川紀久雄日記

詩誌『詩遊・35号』が送られてきた。編集後記で冨上芳秀さんが瀬戸ひかりさんのことを書いている。末期ガンで余命八ヶ月と宣告された。手術されたようだ。私の経験からいうと、末期ガンだと手術も出来ず、抗癌剤治療でその後手術になるのだが、ちょっと不安を感じた。でも彼女は大丈夫なのだろう。この号で「翔太へ」という詩が掲載されている。美しい詩だ。その詩の後半を引用してみる。

まっさらの命
なんて眩しいのだろう
小さな手が動く
小さな足が動く
最初は
一か月間入院して下さいって
言われていたのに
元気だから退院して下さいって
十日で退院になった
ませ返るような緑の木々
今 始まったばかりのその命に
幸せの日々を祈らずにいられない
そして許されるなら
もう少し
君を見守っていてあげたい

これは大病を患った方なら素直に受け入れられる。無垢な祈りの聲を。原体験を素直な気持ちで詩にすることはある意味で凄いことなのである。それは人びとに生きる勇気を与えることにも繋がる。

2012年7月24日 (火)

田川紀久雄日記

原発やオスプレイ問題にたいしても政府は、国民の安全を後回しにしている。まったく国民を守るということに感じては落第だ。これから働くひとが少なくなってゆくという。日本の経済はますます悪化して行くような気がする。その中での消費税の値上げである。貧富の差がどんどん開いていく。収入が増えないのに物価だけがどんどん上がってしまう。
文学はどのように時代と向き合ってゆけばよいのだろう。徹底的に個を描くことが必要になってくるだろう。そして心を癒す文学がどのような形で生まれてくるのだろうか。私が二十歳ごろ世界文学がとても面白かった。出版社から次からつぎへと新しい世界文学が誕生した。毎日心が浮き浮きしていた。文学があのころの私を救ってくれていた。今の私にはそのような面影がない。文学の時代は終焉してしまったのだろうか。その中で、詩を書き続けることの意味はなんなのだろうか。それはやはり個とは何かを見つめていく以外にはないのだろう。全体の中の個。個のなかの全体性をどのように表現していけば良いのだろうか。詩で、身の回りばかり描くのではなく、世界の中心に向けて心を拡げていくことだと思う。詩とが闘いの場である。そして生きることに望みをかけて生きていたい。

2012年7月23日 (月)

田川紀久雄日記

過しやすい夜だったが、今日からまた夏の暑さが戻ってくるという。
オスプレイが今日岩国に上陸する。アメリカにものがいえない日本政府。沖縄の心を無視してオスプレレイが配備されてしまうのだろうか。野田総理は消費税だけに力を入れて後のことはすべて後回しにしてしまっている。連合が消費税に賛成するとは、世も末だ。国民の見方はもう誰もいない。自分のことは自分で守れというのだろうか。
詩誌や詩集などを拾い読みしているが、なかなかすべての詩誌を読むことが出来ない。とくに最近眼が悪いので、薄い字や小さな文字は読めなくなってきている。詩はせめて10ポほどの活字で一段組みにしてもらいたいものだ。小さな文字で二段組では、もうおてを上げるしかない。大きな文字の本が一時話題になったが、いまはそのような話は聞こえてこない。岩波の文庫本でワイド版の本があったが、いまはどこの書店でも置いていない。私はこのワイド版を集めていたが、いは岩波では発行しているのだろうか。いろんな本を処分しているが、このワイド版だけは大切に取っている。
マラーの音楽をベルティーニ指揮で聴いているが、なかなか聴き応えがある。特に第二番の演奏が良い。本はなかなか読めないが、音楽だと寝ながら聴けるので助かる。一日二、三時間聴いている。これでなんとか心のバランスを取っている。

2012年7月22日 (日)

田川紀久雄日記

福島原発処理で、いろんな事柄が次からつぎへと出てくる。線量計に鉛のがバー問題。汚染水の増加の問題。このような状況で大飯原発の4号機が電力を供給始めた。自然エネルギーがどれだけ生み出されているのか。原発がなくても今年の夏は乗り切れるのではないのだろうか。未来への電力事情が曖昧のままでの電気料金の値上げは納得がいかない。東電はあくまで柏崎の原発の稼動を前提にした料金価額だ。
詩集の裏表紙にコード番号を載せるのは、ある意味で汚い。詩集として美しさを失うものである。詩集というものはほとんど売れるものではないのなら、無垢なままの装丁がいい。書店でも詩集はほとんど扱ってくれない。送ってもダンボール箱をあけずに送り返すのが慣わしである。現代詩が読者にとってまったく魅力のないものだからこのようなことになる。詩人達でも一ヶ月に詩集を何冊読むのだろうか。買ってまで読む人は殆どいない。詩誌で詩集評の載せることは大切なことである。「操車場」では行なっていないが、誰か書く人がいれば場所を提供してもいいと思っている。
詩集受贈『林田悠来詩集・晴れ渡る空の下に』

2012年7月21日 (土)

田川紀久雄日記

政府は原発の依存度を15パーセントにしたいようだ。国会議員の中で超党派で反原発を呼びかけている人たちもいる。菅さんその一人だ。野田政権を批判している。昨日の官邸前のデモでも国会議員が参加していたという。国民が聲をあげていく以外に原発を止める手段が今のところない。
昨日日本橋の画廊トモスで野澤義宣さんの個展がおこなわれているのを観にいく。帰り駅の階段が足の痛みで登れなくなってしまった。足が本当に弱っていることを痛感した。出来るだけ友達の個展には行きたいと思っている。だんだん人間関係が薄れていっている。これは時代のせいだけではない。無関心ということはある意味で悪なのである。病を理由に、人に会う機会を失いたくないものだ。

2012年7月20日 (金)

田川紀久雄日記

東電の電気料金の値上げは、欺瞞だらけだ。国民を騙して国は誘導したのである。これだけ国は下げましたと言いたいのだろうが、本当は7パーセント台まで下げられたはずだ。そして何処の電力会社は原発を優先している。世界一高い電気料金を支払うことになる。相棒の収入だけではクーラーも使えない。熱がりな私にクーラーを使わなければ身体が持たない。心ある人たちのカンパで今年の夏もなんとか過されそうだ。
近松と中原中也のテキストを何年か振りで取り組んでいると、以前気付かなかったことが、いくらか解ってくるところがある。数年おきにテキストを取り出して聲をあげることが必要なことを実感する。だから芸は早いうちから身につけることが大切なのだ。言葉を身体に染み付かせることが語りを人に聴かせるためには求められている。詩人達はやたらに新作を読みたがるが、できたら納得のいった作品を聲にのせることだ。私の場合だって新しい詩集を語る場合、最低二ヶ月は毎日聲を上げ続けている。それでも新作を語るのは難しい。不器用な私は人一倍稽古をして並みの稽古になる。美聲の持ち主より、ある面で悪聲の人の方が聲の力を得ることが出来る。それは悪聲ゆえに努力をするからだ。美聲の持ち主は、長年やっていると悪聲の人に負けることが多い。聲はやはり自分の力で創り上げるものである。

2012年7月19日 (木)

田川紀久雄日記

活断層が見つかっても現行の法律では原発を止めることができない。活断層があるかもしれないのに大飯原発4号機は昨日運行してしまった。これでは国民の誰もが原発に対して反対運動をしていかざるをえない。何万年意一回起こるかどうかわからないが、危険なものは危険だというだけだ。昨年の地震津波も一千円に一回だといわれている。その一回が明日かもしれないということである。
詩に原発や震災のことを書いても意味がないという詩人の心には、にんげんとしての温みを感じられない。詩というものはそんなに立派なものなのかといいたくなる。詩人という存在は基本的に反体制のであらねばならない。ヒロシマ・ナガサキの原爆はアメリカによって落とされたものだが、福島原発は自国で招いたものである。ヒロシマ・ナガサキの悲惨な状況をなぜ再認識できないのだろう。九十一歳のカメラマンで福島菊次郎という方がいる。来月から彼の半生を追った映画が上映される。詩人はたった一人になっても一番弱いものへの眼差しを忘れてはならない。詩が何の役になるかという問いは不要である。死者や弱い立場の人の聲を自分の言葉として書くことがいかに大切なことか。詩は金にならない。だからこそ本当のことから眼をそらしてはならない。私はこれからも詩集を上梓してゆく。

2012年7月18日 (水)

田川紀久雄日記

昨日ある詩人からハガキが送られてきた。「津波によってふいと命を消滅させることには鎮魂の思いを抱くだけです。だからといって、その思いを詩に書けば、作者にとっても、死者にとっても、何かの力になるとか役にたつとは思えず、ただ茫然としているだけです。」
詩というものは誰かの役に立つとかどうかは、初めから考えてものです。ハガキを送ってくれた人の詩でも、人の役に立つのが詩と思って書いているとはとうてい思えない。書かねばならない衝動が詩の原点なのです。詩にとって一番大切なのが、書かなければならない衝動が詩を書かせるのです。私には死も生の一部だという思いがあるのです。それは末期ガンの経験から得たものです。いのちと向き合う形で、津波での死者の扱ったのです。人の役に立つから書くのではなく、自分の生を見つめるために書いているのです。
最近このようなお便りが増えています。最近の詩からは魂の叫び聲が聴かれなくなりました。とても淋しいことです。
大飯原発の再稼動がなくても電力が賄える。昨日の暑さでも電力の余力が10パーセントもあった。野田政権では初めから原発の再稼動がありきの方針だから困ったものだ。国民から意見を聞く会も、その場のしのぎの対策でしかない。まやかしの聴取会にかすぎない。

2012年7月17日 (火)

田川紀久雄日記

昨日、フジテレビでアナウンサーたちと野田総理との対話は虚しいものだ。質問に対して抽象的な答えばかりで中味のない答弁であった。こんなくだらない企画をしたテレビ局に疑問を感じる。
大津のいじめは犯罪である。犯罪と虐めとはまったく違う。先生も教育委員会も、いじめを認めなかったのだ。こんな先生に相談しても解決などできない。いじめをうけていた少年には無念の思いであっただろう。あんけーとにははっきりといじめが書かれていたのに、気付かなかったということは責任逃れのなにものでもない。
野田総理の再稼動の安全性も国民がいう安全とはまったく違う。国民のいのちを預かるものが、再稼動ありきの原発では国民は納得しないのが当然である。その聲に少しも耳を傾けないから、反対運動が広がっている。こんな野田総理には国民はいのちを託せない。経団連の方に視線を向けている以上、はやく解散すべきである。
詩語りの仕事が入らなくても、日々の稽古は大切である。いつ仕事が入り込んでもできるように準備しているのがたいせつである。もし永遠に仕事がなくても、今というときを真剣になって生きることが私の生き方である。曽根崎心中と中原中也の稽古をこの夏は取り組もうと思っている。

2012年7月16日 (月)

田川紀久雄日記

今日代々木で反原発集会が行なわれる。政治ではどうにもならないなら、国民の一人ひとりが行動するしかない。それも自分なりに行なえばよい。私は詩と語ることで行なっている。私の身体ではとてもデモへの参加は不可能だ。ライブの翌日はほとんど寝てすごしてしまった。
今放射能の汚染は太平洋全体に拡がっている。日本政府はこのことを認めようとはしないだろう。福島で生まれてくる子供の中にダン症の人がいるという。放射能と因果関係は国は絶対認めないだろうが、一人や二人ではない。眼に見えぬ事態が妊婦の中で起こっているのかもしれない。福島の原発事故は人災であるといわれているが、その責任は誰一人とて取るものはいない。それは原発を安全だと思い込んできた国民にも責任はある。それ以上原発を安全神話に創り上げてきた東電や国の責任は重い。その責任を取るものがいないから、また再稼動が始まった。
いまの詩人達には、日本語の聲の出し方がまったく知らない人が多い。日本語が美しいといっても、聲でそれが表現されない限り意味が半減されてしまう。観念として意識されても身体として受け取れない以上は日本語の美しさはどんどん消えていくだけだ。詩人達の詩は黙読だけで十分だと思っている人たちは、本当の詩の心までは行き着くことがない。頭の中だけの空論だ。それがいまの現代詩でもある。眼から入ってくる言葉などはほんの一部である。その一部だけをあれこれ評論していては詩のいのちまで辿り着かない。ことばはいのちを持った生き物である。

2012年7月15日 (日)

田川紀久雄日記

詩の朗読は、魂の叫びでもあることを忘れてはならない。だからと言って大聲を出せば良いと言うものでもない。大切なのは聴き手にいかにして聲を届けるかということだ。そのためには丁寧にテキストを語ることが求められる。ある人は練習などしない方がよいという。そのような意見を言うのは、聴き手に対して馬鹿にしていることになる。スポーツでも演劇でもなんでも、人の心を掴むのはひたすら努力を続けているものだけが感動を与えられる人になれる。ましてお金を取って朗読をするならば、なおさら自己に厳しい人にならなければならない。血をにじむ努力をしてもなかなかお客を満足できない世界が詩の朗読の世界である。それだけ朗読は難しい世界である。いまでも人前にたって聲をあげることが怖い。
『いのちを語ろう』を聴きに来てくれたお客に心からお礼を申し上げたい。次回は古典をかたってみたい。坂井のぶこは『源氏物語』そして私は『曽根崎心中』それも原文そのままで。ただ自作詩がだけ朗読するのでは能がない。朗読を鍛えるには、古典に挑戦することも必要である。日本語美しさ、日本人の聲の出し方を見つめていくことも大切なことである。現代人は西洋的な息の使い方で、日本古来の複式呼吸が出来ない人が多い。日本語の美しさを地聲である。いまではこの地聲という意味も知らない。無理に喉から聲を出そうとするから、聲が潰れたり長時間聲が出せない。昨日は初めての方も来て頂いた。
松田光正さんからカンパをいただいた。彼はいま小説を書いているという。どのような作品を書いているのだろうか。諫川正臣さんからシシトウうを送ってきてくれた。

2012年7月14日 (土)

田川紀久雄日記

朝方、激しい雨が降っている。天気予報によれば九時ごろには晴れるとのことだ。ライブの時に晴れればありがたい。詩語りで無理にお客を集めないことが持続していくには大切なことだ。定期的に行なっていくことが大切なことである。詩人であっても朗読を聴くことが嫌いな人が多くいる。それはお客のせいではなく、いままで詩人達が朗読に対していい加減であったからだ。詩人会で行なわれる朗読がそうだ。ここでは知名度だけが先行される。要は権力主義的な世界が蔓延している。朗読の世界ではそのようなことが罷り通ること事態が異常なことなのだ。努力して聲に磨きをかけているものを応援していかねばならない。しかし、詩の世界である以上、詩そのものがそげれていることが求められている。テキストと聲とが融合して初めて詩の朗読が成立する。どちらか一方が欠けては詩人の朗読にならない。
金曜日の官邸前での原発反対運動の数を新聞でもテレビでも言わない。これはお祭であってはならない。どのように個人個人が原発反対を意思表示して行くかである。「原子力基本法」の改定によって戦力に利用される可能性がでてきている。いまの民主党の政策は、いままでの安全をなしくずしにしようとしている。それが大飯原発でもある。私達は本当の平和を勝ち取るまでは永久革命を続けていかねばならない。そのためにままずいのちの大切さをどのように分かち合っていくのかが問われている。今日ライブで『いのちとの対話』を語る。いのちのことを語ることで、私は私なりの原発反対運動をおこなってゆく。ようはたった一人の反乱が大切なのである。時間のある方は是非一度私の語りを聴いていただきたいものだ。そして高畑耕治さんの聲も、されから坂井のぶこさんの聲も。

2012年7月13日 (金)

田川紀久雄日記

大津市のいじめ問題では教員の姿勢にあきれ果てる。教育委員会も無責任な態度だ。学校の先生は昔も今もかわらない。自分の都合主義者の集団である。昔は学校に誰でもが自由に入れた。虐めをみれば大人たちは注意したものだが、いま学校は密室と同じ世界である。外部から眼の届かない世界である。学校の先生達はあまりにも忙しい過ぎるのではなかろうか。その忙しいさの中で教育という根本問題を忘れてしまった。大津市のいじめは虐めという範疇を越えたものだ。先生の誰もがそれに気付かなかったというのはとても信じられない。いじめと犯罪とは違う。この問題は事件なのである。
原発の問題にしても、見て見ぬ振りをする大人たちが増えている。福島の人たちの痛みを感じない人たちは大津市の教員と同じではなかろうか。原発はいらないとはっきり言っていくべきだ。これはいのちの問題をどのようにして受け止めるかということである。福島の第一原子力発電所で働いている人たちも苦労も大変である。下請けのその下の下請けで働く人たちはいくらの手取りを貰っているのだろうか。東電が支払っているその何分の一しかもらえないのだろう。何もしないものが利益を上げているのではないだろうか。これもいじめの一種だと思える。正式に社員になれないアルバイト従業員の待遇もある種のいじめにはいる。この日本の経済はいじめによって成り立っているといっても過言ではない。相棒の仕事を見ていても酷いとおもってしまう。庶民は黙って黙々と働いている。政治家は国民の生活が第一という前に、本当の国民の暮らしを凝視してもらいたい。言葉だけでいうなら誰でも出来る。政治とはそれを実行に移す場所である。

2012年7月12日 (木)

田川紀久雄日記

高畑耕治さんのブログに詩集『いのちとの対話』について書いていただいた。とてもよい解説になっている。時間のある方は彼のブログを開いてみてください。絵や詩の解説は、とても難しい。大切なのは、じっくりと作品を味わうことしかない。詩の場合は、黙読もよいが聲を出して読んでみることもお勧めする。絵画でも幼児期の絵を面白いが、教育を受けた時から絵はつまらなくなる。では詩の場合はどうなのだろう。私は児童詩を余り読まないからなんともいえないが、童謡などをには心打たれるものがある。大人が子供の心になって書く詩には面白いもが多いと思う。無垢な気持になって書くことに感動が生まれるのだろう。それは絵にもいえる。現代詩でも無垢な気持ちで詩と向き合えば、もっと多くの人たちに読まれる詩が生まれてくる。詩も読まれてなんぼの世界である。この詩は凄いといっても誰にも読まれなければ意味がなくなる。だが、誰にでも解れば良いというものでもない。あくまでそれが詩として成立しているかということが問われなければならない。ここで言う詩とはないかということは永久革命と同じことでもある。つねに詩とは何かを詩人は問いながら詩を書いているのだろう。そこが児童詩と現代詩の違いなのかもしれない。本当は詩人達も裸の気持ちで詩と向き合うことが求められているのだと思う。誰だって裸の自分を見せるのは照れくさいものだ。そこを突き破る精神を持つことから詩と向き合うと素晴らしい詩が生まれてくるはずだ。私はそのような世界を求めて詩を見つめていたい。

2012年7月11日 (水)

田川紀久雄日記

将来の原発問題で経団連は、あくまで原発促進を取っている。原発ありきの考え方は変らないようだ。原発政策は電力の発電より、防衛の為の原発なのだ。いつでも原爆を作る体制を維持しておきたいだけである。原発に対する国民的議論は形だけのものになる。
大阪の橋本さんは野田政権を褒めていた。この人の考え方は究極にところ信じられない。つねにないかにぶれる傾向がある。維新の会など、初めから私は信じない。所詮素人集団である。
アメイシング・グレイスという歌がある。本田美奈子さんと新垣勉さんのを聞き比べてみたが、新垣勉さんの方が聲の温もりを感じる。本田美奈子さんも素晴らしい。ライブのビデオを観ていると感動を覚える。詩の朗読はなぜ感動がないのか。昨夜そのことを考えていると眠れなかった。歌うと読むとの違いなのだろうか。詩人の聲にはやはり多くの問題点がある。言葉に魂を乗せてゆくことが苦手なようだ。
詩誌「光芒」の詩集評で私の詩集『鎮魂歌』を取り上げてくれた。真面目な詩集評である。
小笠原眞さんより、温かい手紙とカンパを戴く。そして島村直子さん、新保哲夫からもカンパを戴く。新保哲夫さんは操車場の参加を次号より休稿させてもらうとのこと。今までの参加を有り難く思う。高橋馨さんの原稿が届く。

2012年7月10日 (火)

田川紀久雄日記

国民の悲痛の聲はいつの世にも受け入れられない。
鹿児島県知事選挙で原発賛成派が勝利をしてしまう。原発反対だけでは選挙には勝てないものだ。ここでいう安全を確認した上で原発というが、この安全という言葉の意味が国民には飲み込めない。いまの大飯原発でも、国の言う安全とは、国民が抱いている安全とは余りにもかけ離れている。復興税をとっておきながら、被災地にはほとんど回っていない。国が真剣になって復興に取り組んでいるのか疑問になってくる。仮設住宅に住んでいる人たちの映像をみると、国に対して怒りを覚える。仙台の街には復興で流れたお金で飲みまくっている人たちがいるという。原発や津波の被災地での苦しみの聲が、国に届いていないのかと思ってしまう。
窓際にあるアサガヲがぐんぐん伸びている。コーヤもそれなりの収穫があった。まいにち水をやるたびに歓びを感じる。このささやかな歓びを味わうことが出来ることで何とか生きていられる。
ギャラリーf分の1の舘野さんから、カンパをいただいた。これで安心してCTの検査が受けられる。そして佐野カオリさんから、さくらんぼをいただいた。本当にありがたい。

2012年7月 9日 (月)

田川紀久雄日記

福島の原発にはそもそも初めから欠陥原発をアメリカから買わされたという話もある。そして設計図も見当たらないという。以前からこのことが言われていたが、本当のことを知りたいものだ。いまの日本には原発がなければ電力が賄えないのだろうか。自然エネルギーの開発が凄い。この開発に国が本気になって後押しをすれば、原発はいらなくなる。そして送電線が自由に使えれば、電気力金も安くなるはずだ。中国や北朝鮮への抑止力のために原発から作られるプルトニウムが必要なだけである。平和利用といいながら実は原爆を作る施設が欲しかっただけなのだろう。そのためには今もなお安全詩話を作り続けていなければならない。矛盾だらけと知りながら政府は、原発政策を取り続けている。
福島の子供達の作文を読む聲には、説得力のある聲だ。震災にあった宮城県の子供達の作文を読む聲にも胸が打たれる。現実の重さを子供達の作文にある。そのためにそれを読む聲にも迫力が聴き手に迫ってくる。ここには技術といういい加減な領域は入ってこない。詩を読む原点に、この子供達のような真剣さが感じられない。詩の言葉が現実から乖離しているからだろう。
石川逸子さんより『風のたより』が送られてくる。お手紙に励ましの言葉が書かれていた。そして次号には「詩語り」の出前を紹介してくれるという。ありがたい。

2012年7月 8日 (日)

田川紀久雄日記

詩の朗読は誰の為に読んでいるのだろうか。詩人達の朗読を聴いて誰もが感じることではなかろうか。この問題をもって深めていけば、誰の為に人は生きているのかに通じてくる。朗読論を書く詩人は少ないが、その中で秋山基夫が「詩行論」(思潮社)の中に収められている。彼とはだいたい同年輩であるから、私が経験してきた世界にほぼ近い。でも私はオーラル派の朗読にはまったく興味がなかった。レコードなどを聴いてそう感じた。秋元さんのビデオを買ったこともある。でもこのオーラル派の朗読運動は、詩の世界では大きな意義のあることだった。その後高田馬場の喫茶店で朗読の自由参加が始まった。そしてオープン・マイクがはやった。いまはどうなっているのか解らない。私が聴いた限り、聴くに与えしないものばかりだ。そして天童氏の企画する朗読が始まるのだが、その中から、私を唸らせる詩人の聲が出てくるのだろうか。私が聴いた限り誰の為に朗読をしているのか、はっきりとした聲を聴いたことがない。そのことは当然私自身にも問われている問題である。詩人同士がお互いの朗読を切磋琢磨して行くことが必要なのだと思う。競争意識のないところでは聲の力は伸びてこない。お客の為にどれだけ努力したかが、聲を聴いた瞬間に解ってしまう。聲は生き物だ。いい加減な気持ちでは聲を出すことが出来ない。詩人にしか出来ない語りをしたいものだ。

2012年7月 7日 (土)

田川紀久雄日記

テレビでもほとんど報道されていない。原子力規制委員会設置法のことである。この法案はほとんど審議されないで「安全保障に資する」という条項が加えられた。これは核兵器開発を容認するということである。原発の再稼動は電力不足という口実にして、この核開発の道を勧めることにあるのではなかろうか。自・公・民だけで勝手に法案を通過させていく現状を見るにつけ恐ろしさを感じてしまう。この先憲法の改正が待っているとしたら、ますます日々の生き方に無力感を覚えてしまう。
詩人は無力であるのならば、言いたいことだけは言った方が良い。言論の自由を武器にして闘うしかない。しかし、詩人である以上作品はただの言葉の垂れ流しであってはならない。大切なのは人に感動を与えられる作品を創り上げることである。つまり自己を深く掘り下げていく作業を続けていく以外にはない。
詩集を上梓しても、本当に送りたい人は数人しかいない。長い時間をかけて読み手を捜してゆくしかない。できるのなら詩人以外の人に読んでもらいたい。

2012年7月 6日 (金)

田川紀久雄日記

病院で検査の結果、30日にCTを行なうことになった。ガンは検査とお金のかかる病だ。そしてガン以外の病が出てくる。表面が元気そうに見えるが、身体がだんだん衰えていくのが解る。前向きに生きていかないと本当にダメになってしまう。公園での語りの稽古もしんどくなってきている。でも見果てぬ夢に向かって生きていかねばならない。
超党派で原発問題に取り組んでいるが、電力会社は、原発廃炉の意見に耳を傾けようとはしない。国会の原子力委員会の報告でも原発は人災であったという。人災ならば、当然責任者は裁きを受けなければならないにも関わらず、誰一人として責任を取る者がいない。東電は国営化になったにもかかわらず、国民を無視した経営態度にはあきれ果ててしまう。電気料金が上がれば、私のような者は、クーラーも使えなくなってしまう。
東日本大震災の復興は、なかなか進まない。港周辺は来年にならないと建物が建てられないという。商売している人たちも狭い仮店舗での営業は不便なものである。国はまるで他人事とのように、積極的に復興を進める気がない。消費税を上げる熱があるならば、なぜ復興にそれだけのエネルギーを野田総理は使わないのか。
詩人である私は、東日本大震災で苦しんでいる人たちの心に何とか応援をしてゆきたいと思っている。直接的には応援が出来ないが、間接的に出来ることをやってゆきたい。ガンと闘っている私は、詩語りを通じでいのちを語り続けてゆきたい。そしていのちとの問いを詩集でまとめてゆきたい。そのためにも、『いのちとの対話』の詩集の購読をお願い申し上げます。次の詩集『愛するものへ』を上梓するために……。

2012年7月 5日 (木)

田川紀久雄日記

今日は午前中病院だ。検査を行なう。
阿藤智恵さんが二月に柏崎の游文舎で芝居をした。彼女とは巣鴨時代に知り合った。そのころ彼女の名前はトンカチと呼んでいた。彼女の芝居の案内の手紙に、柏崎で「北方文学」を読みましたとある。いつも芝居の案内を送ってもらっているが、一度も見に行っていない。そのうちに行こうと思っている。
「操車場・62号」が明日にも発送が終りそうだ。
ヒッグス粒子をほぼ確認の報道があった。これでまた一つの生命体が解明されてゆく。なぜこの地球に生命が誕生した謎が解るかも知れない。
横浜の三浦投手が150勝した。巨人に勝っての150勝である。横浜でなければもっと勝てていたが、この横浜で投げぬいたことは凄い。

2012年7月 4日 (水)

田川紀久雄日記

国会議員はサラリーマンと同じように、リストラされることに怯えている。国民のために働くという意思がまったく感じられない。民主党が立ちなおすといっても、ここまできてしまっては後は雪崩のように崩壊するだけだ。去るも地獄、留まるも地獄。この付けは国民が背負わなければならない。そのことが民主党議員には少しもわかっていない。
九州では豪雨で被害が出ている。天変地異で国民生活は怯えている。それなのに国会は自分達の生き方だけを騒ぎだてている。鳩山家の遺産相続が四十八億円だそうだ。元総理の鳩山さんが宇宙人なのはいた仕方がないのだろう。国民の悲しさなど理解できるわけがない。明日の生活に怯えている私達にとっては、虚しい世間話にしか過ぎない。
印刷の途中でカラーインキがなくなってしまった。あわててヨドバシまで買いに行った。インク代だけでも一万円以上もかかる。印刷しながらベートーヴェンの弦楽四重奏のラズモフスキーの一番から三番までを聴く。アルバン・ベルク四重奏団。

2012年7月 3日 (火)

田川紀久雄日記

操車場の印刷を始める。今週中にも発送が出来そうだ。そして詩集も一緒に送ることが出来る。
相棒の詩集が「詩人会議・8月号」に佐々木洋一さんが詩集評で紹介してくれた。佐々木さんとは仙台のライブの時にお会いしたことがある。彼の詩は温かみのある詩である。現代詩人の中で好きな詩人の一人だ。
東電の電気料金はいったいどうなっているのだろう。国民には全くわからないことばかりだ。世界一高い電気料金を支払っている。贅沢な電気料金としかいえない。原発の問題も先が何も示されないまま、再稼動を次から次へと行なっていくのだろうか。原発の賞味期限が四十年を六十年にしてしまう。安全という言葉すらあいまいなままだ。国民は政治不信になるばかりだ。国民が原発をノーと言っても、耳を貸さないいまの政権では原発を止めることが出来ない。止められなくてもつねにノーといい続けなくてはならない。
山下佳恵さんからカンパをいただく。

2012年7月 2日 (月)

田川紀久雄日記

スペインとイタリアのサッカーが行なわれている。後半でスペインがいま点を入れたところだ。3-0である。イタリアは苦戦だ。
妹が精神的不安にかられていると学園からの電話が入る。妹にどうにかしてといわれても何もできない。安定剤では副作用が出るので、学園の方も困っている様子だ。今の私もどうにもならない。色々と考えると眠れない。
昨日の「詩と思想」創刊40周年記念会に出席したが、皆さんが老けていた。私も同じように老けているのだろうと思った。皆元気のない様子だ。精神的にも老けているのかと思えた。
いまサッカーは終了した。4-0でスペインが勝利した。
現代詩は、底なしの沼に落ち込んでいるかのように思えた。詩を書こうとあまり、精神性を失っている。和合亮一さんの講演があったが、彼も結局現代詩の呪縛から逃れないでいる。いまの現代詩の中には本当の詩の心が失われている。詩は一人で闘うところに素晴らしさがある。評価されようと思わず、自分の信じる世界を切り開いてゆくことだ。そして出来るだけ一冊でも多く世の中に送り出すことだと思う。

2012年7月 1日 (日)

田川紀久雄日記

福島県内に住む0~7歳の乳幼児約2千人の尿を民間の分析機関「同位体研究所」(横浜市)が測定した結果、141人から放射性セシウムが検出されたことが30日、分かった。うち3人が尿1キログラム当たり10ベクレルを超え、最高は4歳男児の17・5ベクレル。残る138人は10ベクレル以下で最低は0・1ベクレルだった。測定した尿からは、自然界にもともと存在する放射性カリウムも平均で約64ベクレル検出された。唐木英明・東大名誉教授(食品安全)は「カリウムと比べてもセシウムの数値は低く、人体に影響があるレベルではない」とした上で「ただ、どのような経路で取り込まれたのか調べる必要がある」と話している。
インターネットからの引用だ。専門家は人体に影響がないという。福島は放射能の量が増しているという。原発からいまなお放射能が出ているのだから当然のことだろう。二号機の隙間から高濃度の放射能が流れ出ているという。そういう中で大飯原発が今日から再稼動を行なう。無性にやりきれない気持ちだ。
今日、『詩と思想』の40周年記念講演がNHK青山荘で行なわれる。出来たら行く予定である。

« 2012年6月 | トップページ | 2012年8月 »