田川紀久雄日記
小説やエッセイを読むときは、それなりの楽しみを求めるが、詩では、楽しみというよりも、心の豊かさを求めているのではなかろうか。杜甫の詩などは、杜甫そのものの人生に共鳴したりする。そしてその人生から生まれる言葉の豊かさやに驚かされる。その人の生き様が見えない詩には、心が動かされないものだ。中原中也の詩でも同じことが言える。生き様を感じさせる詩とは、どうしても同時代に受け入れられない。それは詩壇的な詩の世界とは無縁だからだ。心に打つ詩は、いつも隠れて存在している。人知れず野の花のように。
昨日の野田総理の大飯原発についての話は、原発の安全性から程遠い話であった。大飯原発の近くには活断層があるというのに、何を持って安全だというのだろう。そして核のゴミをどのようにして処分していくのかさえメドが経たないでいる。まして総理が責任を持つといわれても、どうのように責任を持つのかさえあいまいだ。福島原発でさえ責任を国は取っていない。福島の人たちの苦しみを無視したこの度の野田総理の発言にはあきれ果ててしまう。経済界の言うなりに発言したまでだ。詩人はまだまだ悲しみの歌を唄わなければならない。一番弱い人の眼でどれだけ物が見られるかが詩人のテーマである。絶望の淵に佇むのが詩人のあり方なのだろう。その中から美しい詩を求めてゆきたいものだ。
詩誌受贈『あすら・28号』
詩誌受贈『佐々木薫詩集・ディープ・サマー』
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