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2012年6月30日 (土)

田川紀久雄日記

金曜日に官邸前で原発反対運動をテレビでほとんど放映しないのはどうしてなのか。昨日も大勢の人たちが集まった。テレビで放映されると集まる人たちが増えることを懸念してなのか。政治の力ではどうにもならないから、国民がパソコンや携帯などで呼びかけて新たな国民運動が始まっている。政治団体などのバックではもう人は集まらない。国民の自由意志で集まってくる。選挙で政治への参加とは別な形で国民の聲を拡げる。小沢問題を見ても、国民の殆どがあきれ果てている。政治そのものには背を向けている。ツイッターなどでの呼びかけは、不満を感じている人たちには参加しやすい運動である。なにしろあくまで自由なのだからだ。絵画の世界でも、東日本大震災に対して何ができるのかというテーマで展覧会があった。詩人達も、このテーマを扱った詩集が上梓された。一人ひとりが今の状況とどのように向き合っていけば良いのか問われている。デモに参加しなくても、それぞれの生き方の中で表現できる。そのことが大切なのではなかろうか。
詩集の代金が送られてきたが、これからはブログに載せないことにする。生活に困っている人たちに配慮したいからである。詩集の謹呈はあくまで私を応援してくれた方へのお礼である。『いのちとの対話』は送料代込み二千円です。読みたい方は御注文を。美しい詩集に仕上がっています。

2012年6月29日 (金)

田川紀久雄日記

四時三十五分にイタリアとドイツのサッカーの前半が終ったところだ。イタリアが二点リードする。見ていて凄いゲームである。後半が始まるまでこのブログを打ちたい。ドイツは公式戦で一度もイタリアに勝っていない。予想ではドイツが有利であった。試合は行なってみないとわからない。スポーツでもここまでくると芸術的である。
私は最近野球にはまったく興味を失った。優れた選手がどんどんアメリカに行ってしまうからだ。昔からあまりスポーツには興味がなかったように思う。といって学問にも興味がなかった。すべてに落ちこぼれであった。それは幼年期代から少年期までほとんど病気であったからだろう。学校に行っても成績も悪く、家で寝ていることが多かった。詩を書き始めたのは普通の詩人達より遅い。本格的に書き始めたのは漉林書房を立ち上げてからだ。そして語りを始めたのも四十歳の半ばを過ぎてからだ。そのような意味で言えば私の私生活はいまが青春時代とも言える。
後半のサッカーが始まった。

2012年6月28日 (木)

田川紀久雄日記

電力会社の株主総会が行なわれたが、脱原発をどこでも拒否された。全国的にも脱原発の国民運動が展開されているというのに。株というものは利益を上げるために購入するのだから、利益に反することには株主は反対する。しかし脱原発がほんとうに利益に反するものだろうか。自然エネルギーは初めはお金がかかるかもしれないが、未来の為ならそれもいたし方がないのではなかろうか。自然エネルギーへの技術は物凄い勢いで進化している。東電総会をテレビで見ていて、原発で避難している人たちは、息どうりを感じただろう。高齢化して行く仮設住宅の人たちの哀しみの顔をみるのはつらい。
『愛するものたちへ』の語りがなかなか上手くいかない。うたうように語れない。気持ちが良い語りはどこかでうたっている気分になれるが、語りの調子が上手くない時は、吃音状態になる。どこかで居心地が悪い。新しい詩集の語りを始めると一ヶ月はこのような状態がつづく。そもそも私の詩は語りには適していないのだろう。なぜなら語りようには詩を書いていないからだ。書きたいように書いているだけだから。そしてリズムより思想的な事柄を優先してしまう。初めから詩を書くことを拒否している。詩という形を借りて詩らしきものを書いている。今の詩人達の詩にそれほど興味が湧かないのもそのへんの事情があるからだろう。私には詩人がどのような思想と向き合った詩を書いているかに興味を注がれる。いかに自分の生き様と闘っているかだ。詩の面白さはそこに尽きると思う。

2012年6月27日 (水)

田川紀久雄日記

昨日の朝、テレビを見ていたら、消費税反対に局からの圧力が感じられた。テレビ局の解説委員が反対に対しての批判めいたことを言っていた。やはりテレビ局にも国の圧力があるのかと思わせる。昨日は本当の茶番劇だ。今日の朝刊では消費税の値上げでいかに国民が苦しむかを載せている。少数意見は、政治には通用しない。
放射能のゴミ問題が今大変なのだ。そして仮設住宅に住んでいる人たちも、いつまでこのままにしておくのだろう。時の流れの中で忘れ去られてしまう。今週の金曜日も官邸前で大きなデモが計画されている。名もなき民衆が今出来る限りの意思証明でもある。私はデモに参加しないが、心から声援を送りたい。今私が出来ることは、公園で聲を上げて語ることぐらいだ。次回の詩集『愛するものへ』を語り始めた。いろんな詩の形で詩を語ってゆきたい。魂明(たまあかり)を語ることで、苦しみ哀しむいのちに応援していたい。だから本物の語りの世界を目指して邁進していく以外にはない。詩集を何千回と語る中で、自然な語りの世界に近づけるようになってゆきたい。風の音や、波の音のように心を豊にしてゆける聲を求めて生きてゆきたい。
詩誌受贈『光芒・69号』

2012年6月26日 (火)

田川紀久雄日記

詩集は操車場と一緒に送る予定だ。送料を何とかして抑えないと生活が苦しくなる。出来るだけ売りたいものだ。次の詩集の資金を作る必要があるからだ。小川さんなどは親にも詩集を売りつけたのだから、たいしたものだ。
消費税は今日で決まるのだろう。野田総理は自民党と公明との罠に嵌ってしまった。民主党潰しの罠である。だれもが消費税を反対しているわけではない。やるべきことをしなで消費税だけを決めるやり方に批判している。福祉政策を勧めるにも予算が必要なのは誰もが解っている。高齢化していく社会に対して国民全体で支えあっていかなければならない。だからと言って低所得者の生活をないがしろにして良いというのでは困る。せめて食料品だけでも無税にしてもらいたい。
七月一日に「詩と思想」40周年記念会があるが、行くのをどうしようとかと迷っていた。高畑さんから電話で一緒に行きませんかと誘いを受けた。腰の痛みがなければ行くことにした。彼はひたすら愛(かな)をうたい続ける詩人だ。幸せだから愛をうたうとは限らない。本当に辛い思いをした人でないと愛はうたえないものだ。いま私は思想的にどこまで愛を掘り下げた詩が書けるのかを試みている。私の書いているものが詩なのかさえ私には解らない。『慈悲』という詩集も三分の一を書き上げた。いのちについて書けば書くほど辛い世界が見えてくる。まるで無限地獄に落とされていくようだ。これでは夜も眠れなくなるのもいたし方がない。

2012年6月25日 (月)

田川紀久雄日記

最近の詩誌の印刷が薄くなっている。それはデジタル印刷かが進んでいるからだ。8ポの二段組の活字などは私の眼では読めない。詩人達の年齢も高齢化しているのだから8ポ組は何とか避けられないのだろうか。何のために発表しているのか意味が解らなくなる。その点電子書籍は、活字の大きさが自由に変化してくれる。でもいまのところ私は電子書籍を買う気持ちはない。詩誌はこのような状況だとますます読まれなくなるだろう。
ブログも毎日書くことに意味がある。ブログを開いても何も書かれていないと淋しく感じてしまう。たった一行でもよいから書いてもらいたい。「今日も何とか生きられたとか」でも良いから。何事も毎日持続することがいかに大切であるか。一日を大切に過している人は、それなりの仕事をしている。朗読の上手い下手はこの日々の生き方で決まる。才能などたかが知れている。下手であるから努力をする。上手い人よりも下手の人の方が進歩するものだ。
今日相棒の給料日だ。今月は生活費が大幅に赤字であった。節約していても出て行くものは止めることが出来ない。物価がいくらかづつ値上がりしている。食料品は放射能のことを思うと不安に陥る。安全だという言葉にはどこか信用が出来なくなっている。汚染された土壌をどこに処分するというのだろう。柏市の土壌汚染は他人事ではない。
詩誌受贈『榛名団・3号』

2012年6月24日 (日)

田川紀久雄日記

かつて二大政党を期待した時期があったが、こうねじれ国会が続くと二大政党の悪い面ばかリが出てしまってどうにもならない。連立政権になれば、小数者の意見が切り捨てられてゆく。どのようにあるべきかますますわからなくなってゆく。
詩の世界は政治から一番遠い世界に位置づけられているが、一人の人間の叫び聲としては大切な世界である。全人類を相手にしても個人として守らなければならないものがある。ランボーやボードレールが今も読まれる意味が解るような気がする。
日本の詩人でいま読んでみたいと思う詩人に千家元麿がいるが、私の家には彼の詩集がない。どうして読みたいかと問われても答えられないが、なんとなく読んでみたくなったまでだ。個々の詩人の全詩集が電子書籍に出版されると有り難いと思う。分厚い本は部屋に置けないからだ。
どのような世界でも一流になるには、大変な努力が隠されているものだ。昨日テレビで女子サッカーの歴史が放映されていた。世界一になれたのも偶然ではない。それなりの長い年月との闘いがあったからだ。歴代の監督やサッカー協会の応援がなければ、いまの女子サッカーはなかった。それに比べ詩の朗読の世界は、孤立無援の世界だ。まず個人の力のレベルアップが一番最初に求められている。ぬるま湯の世界からは何も生まれてこない。今日も聲をあげて生きていこう。

2012年6月23日 (土)

田川紀久雄日記

今日詩集『いのちとの対話』が上がってくる。発行日は八月であるが、個人的な都合で早めにした。別に生き急ぎをしているわけではない。発送費の問題でゆっくりと送りたいからである。売り上げの中から何とか経費を出して生きたい。
ガンとの闘いの中で、よくもこれだけの詩集を上梓してきたものだ。ガンになって書くことに目覚めたのかもしれない。人間というものは、いつ死んでも可笑しくない生き物である。病が原因で死になるのではなく、この前の大震災のようなこともある。それに交通事故の死も多い。日常の中でもつねに死が隣に存在している。いかに一日一日を大切に生きていかないと取り返しのつかないものになってしまう。ガンになってから、のんびりとして生きてはいられない。今日出来ることは今日中にやっておくという考えが私の中に根付いてしまったようだ。
相棒は昨日朗読の打ち合わせに所沢までいった。帰宅は10時を過ぎていた。私が出来ないことはなんとなく淋しく感じた。
「詩人の聲」という中に二つの意味がある。それはまず聲そのものの問題である。詩人達は聲をだすことが苦手な人たちが多い。そしてもう一つの聲とは、作品のメッセージをいかに聴き手に伝えるかということである。この二つをクリアできないと、聴き手には聲が届かない。詩人達の朗読を聴いていても、何を読んでいるのかさえ解らないことが多い。つねき基本的な積み重ねが求められている。基本的な努力を精進してゆけば詩人の聲として通用するようになってゆくだろう。ただ精進するしか道はない。

2012年6月22日 (金)

田川紀久雄日記

詩を書こうと思って、机に向かっても何も言葉が浮かんでこない。このような日が数日続くと精神的に苦しい。調子が良いときは机に向かっているだけで言葉が次から次へと浮かんでくるのに。詩を書くことはある意味でとても厄介なことなのだ。詩人というものはこの苦行に耐えられるものだけが生き残っていけるのだろう。詩として読者を引き込むものが書けるかどうかは、常にテーマを追っていないとその場限りの詩しか生まれない。魂の斧で言葉を掘り下げていかないと、誰にも相手にされないものになっていく。詩集を手にとってみても、なかなか心に響いてくる詩集に出会うことが少ない。
いま外はどしゃぶりの雨だ。各地が六月としては一番雨の量が多いという。ここ数年天候が大いに変化している。温暖化の影響なのだろう。これは天災というより人災であろう。大量生産で大量消費の時代では当然起こりうることが起きているまでだ。福島原発事故では電力会社が想定外だというが、津波は初めから想定されていたにも関わらず、無視続けてきた。それを想定外というのは、無責任の何物でもない。原発の再稼動で事故が起きても、想定外というのだろうか。どこまで無責任で政治を動かしていくのか。この度の消費税でも弱者切捨ての消費税の値上げである。大手会社のリストラが進んでいるというのにますます不安な時代になってゆく。

2012年6月21日 (木)

田川紀久雄日記

昨日のボクシングは凄かった。井岡も八重樫も素晴らしい選手だ。
今日は夏至だ。昼間の時間が一番長い。窓際にあるゴウヤが風で元気がないようだ。植物は愛情を持って育てないと育たないものだ。これは人間同士にも言える。
私は詩語り馬鹿といわれる人間になりたい。聲の力で人の心を癒される人になりたいものだ。といっても巷で行なわれている媚びた癒しの聲であってはならない。あくまでの魂の聲で人の心に溶け込んでいくことだ。そういう強い心がなければ、詩語りなどできない。
何の世界でもそうだがプロとアマチヤとでは天と地の差がある。それは技術の問題ではなく、生き方そのものの差なのである。日々の生き方がプチとアマチヤの差を拡げてゆくだけだ。プロボクシングでも、なかなか生活費を稼ぐことができない。むかし喫茶店をやっていた時、王子にあるボクシングジムの人たちが来てくれていた。日本チャンピョンですらまともに飯が食べられない。プロといっても世間で言う派手な世界とは縁がない。大切なことは生き方の問題だけだ。誰にも負けない練習量だけは自慢したい。まずプロ意識をもつには、その場所から始めなければならない。ひたすら精進の世界である。詩人達の中に何人プロ意識を持った朗読を行う人がいるのだろうか。そのような詩人が出てこなければ、詩の朗読は世の中に受け入れられることがないだろう。

2012年6月20日 (水)

田川紀久雄日記

台風四号が関東地方を襲った。昨夜は風が激しく、家が壊れるような感じだった。おんぼろのわが家は地震や台風などがあると、不安を感じてしまう。今週中に台風五号が来るという。すさまじい風の音でやはり眠れなかった。
民主党の合同会議でも執行部に押し切られる。消費税法案が決まったと同じだ。国民にはなんだかやりきれない思いがする。国会議員は本当に国民の代表なのだろうか。あまりにも国民の意識とかけ離れているような気がしてしまう。若者達が無力感になるのもそれなりに理解ができる。
末期ガンを宣告されてからの詩集を通読していると、やはり書いていて良かったと思う。ガンとの闘い方や生き方が描かれているからだ。詩としてはどうかと思うが、それを越えたものがある。書くことでまだまだ追い求めていく世界が拡がってゆく。書く行為とは、真実の世界を切り開くことではなかろうか。愛というテーマにしても、深みを増していける。エゴ的な愛についての考察が求められている。ただ単なるヒューマン的な愛だけでは、愛を語れないからだ。個人にとって本当の愛の概念とはなんだろう。いま「慈悲」という詩集にとりくんでいる。この作品はエゴ的な愛を掘り下げてみたいと思っている。

2012年6月19日 (火)

田川紀久雄日記

昨日は蒸し暑かった。操車場62号のTさんのエッセイだけを印刷する。プリンターの印刷が速度が遅いので、決まったページから印刷を行なう。野間明子さんの原稿がメールで届く。月刊で発行するには、なるべく早い原稿の入稿がありがたい。
今年の夏はできるだけクーラーを控えたいものだ。それは電気代の支払いが大変だからである。電気代の値上がりは、生活費を圧迫するからだ。いまでも苦しいのに、これ以上苦しくなったらとおもうと欝になる。
東京都で原発の是非と問う会議が開かれたが否決された。自民党と、公明との否決で決着がついた。保守勢力は原発賛成派なのだ。日本の国の変革は難しい。なぜ自然エネルギーの開発に積極的になれないのだろう。国民の努力だけでは、どうしても限界がある。国力をあげて自然エネルギー問題と取り組まなければ、日本の未来がない。技術は日々進歩している。
読みやすい詩集が送られてきた。内容も私にとっては好きなテーマである。いのちとの関わりを素直な視線から描かれている。高田真さんの詩集だ。題名は『花族』である。装丁は山本萠さんである。A5の変型判で、手に持ちやすい。高田さんを知ったのは、水道橋近くの「しろうとくろうと」という喫茶店である。店主は安藤さんといって、脚本家である。いまはその喫茶店のもなくなった。そこで詩語りを何度かやらしていただいたことがある。詩人会議の人たちは、なぜか私達を冷たい目で見ていたような気がする。彼らは仲間意識がつよいのかもしれない。単独者である私達は、どこにいっても孤立してしまう。

2012年6月18日 (月)

田川紀久雄日記

昨夜はほとんど眠れなかった。疲れすぎると逆に眠れないものだ。
いまガンを告知されてからの詩集の語りの稽古をしている。『見果てぬ夢』『生命の旅だち』は、私が思っていたよりも、死について考えていたことに新たに思い知らされた。自分としてはそれほど深刻に受け止めていなかったつもりでも、言葉にして表現すると、それなりに真剣に受け止めていた。テキストをひたすら読み込むことが、語りの上達に繋がってゆく。このたわいない繰り返しが語りの聲を深めていくのだろう。
今月中に『いのちとの対話』の詩集が出来上がる。表紙はカラー印刷をした。ハガキに使用していた絵を使った。
川崎詩人会の例会は、いつも集まる人たちが出席した。「新しい風」のも毎回作品を発表できている。相棒はエッセイを載せている。印刷は丸山あつし氏が担当している。彼は七月から茨城に越していく。私と同じように年金がない。大変な生き方を強いられてゆく。個人個人が平坦な日常の中に、濁流の飲まれている。東日本大震災から、身の回りでも思いもよらいないことが次から次へと起きている。歳を取ってからの心配ごとはやはり精神的に辛いものがある。逃げようと思っても、逃げられないなら、その問題と真っ向から挑んでいくしかない。その中で詩を書く意味が明確に生まれてくるのだろう。

2012年6月17日 (日)

田川紀久雄日記

今日は川崎詩人会の例会日だ。
軽々しい野田首相の大飯原発再稼動の発言にはあきれ果てる。国民の過半数以上の人たちが反対しているにも関わらず、経団連の圧力に屈してしまった。民主党を潰したと同じことだ。国民を最後まで裏切って政権を維持している。なさけない党だ。
健康保険の請求書が届いた。とても毎月私の生活費では払いきれない。病院通いをしている私には健康保険がなければどうにもならない。それに介護保険も取られている。歳を取ってゆくと身体のあちらこちらが悪くなってくる。腰の悪い私はどうしても運動不足になっている。糖尿病も併発している。もっと身体を痩せねばならないのに、なかんか体重が減らない。末期ガンになったときは体重が75キロから43キロまで激減したのに、今はもとの体重に戻ってしまった。語りをするためにもあと15キロは痩せたいと思っている。別に贅沢な食事をしているわけでもないのに、少しも痩せることが出来ない。これもやはり運動不足のせいなのだろう。
梅雨のためか、こう雨が降り続くと公園に行って語りの稽古もできない。部屋の中では小さな聲でしかできない。小さな聲での稽古も大切なことだ。テキストを何度も読むことで、テキストから解放されてゆく。そして心の内部に浸透してゆける。つねに前に向かって生き続けようとする意志が求められている。

2012年6月16日 (土)

田川紀久雄日記

昨夜の高橋克也逮捕での異常なまでの報道にはうんざりした。その報道のまに消費税が三党で合意してしまった。そして大飯原発の再稼動が今日にも決定されてしまう。ますます心が落ち込んでいく。無力感だけが日々の生活を包んでしまう。今週は雨続きになりそうだ。
まだまだ大震災と原発事故の問題が解決していない。私自身としても、まだまだ作品化されないままでいる。時の流れがあまりにも速すぎる。なにもかも時の流れに流されてゆく。一箇所に留まることを許されない。なにも検証されることなく心の内部が崩されてしまう。いのちというものをもう一度問いかけてゆくしかない。そして末期ガン以後の詩集を語ることに時間を割いてゆきたい。語り部としては、どの詩集も、それなりに語れるようにして行くことが必要なのだ。過去の作品も今という時間の中に繰り込めるようにして行くこと。一日一冊を詩語りとして精進してゆくこと。私なりの闘い方を求めて生きてゆきたい。この虚しさの中で、跳ね返すエネルギーを見出さねばならない。それはやはり聲を出し続けてゆくしかないということだ。

2012年6月15日 (金)

田川紀久雄日記

今月の生活費が苦しい。消費税があがったら、年金のない私の生活はますます大変になる。詩語りの仕事が欲しいものだ。横浜の万年橋の近くで展覧会を行なった時、画家たちからは詩の朗読はつまらないからと注文が突きつけられたことがあった。でも私達が行なった語りには、賛同してくれた。世の中は、詩人の朗読は毛嫌いされている。いや詩人達からも毛嫌いされている。詩人達の聲は、聴き手には届かないのだ。魂を込めて聲を出していないからだ。MDで宮沢賢治の「青森晩夏+銀河鉄道の夜」を送料込み(五百円)でお分けしている。MDをお持ちの方は是非聴いてもらいたい。そのうちCD化したいと思っているのだが、どうすればよいのか解らない。テープからCD化する装置が通販で売られているが、それを買う費用がない。パソコンでも出来そうなのだが、機械音痴の私のはどうすることも出来ない。何とかして生活費を稼ぐ方法を見つけ出してゆきたい。生活保護をうけると詩活動が出来なくなってしまう。それだけは避けたいものだ。なりふり構わず生きていかねばならない。相棒の為にも何とかしてゆきたいものだ。
詩集受贈『鈴木良一詩集・あやかしの野師』

2012年6月14日 (木)

田川紀久雄日記

増税だけの政局になってしまった。低所得者がますます大変になる世の中だ。国民は政治にたいして無関心になってゆくだろう。でも諦めてはいけない。いうことはどんどんいっていくことが大切なのである。
川崎の多摩川河川敷の土壌からセシウムが二万七千ベルク検出された。予想を遥かに超えた放射能が川崎地区に降り注いでいるのだ。私達はこの放射能に対して何も対処する方法を持っていない。福島原発事故以来何も変っていないのが現状なのだ。二号機の内部がどうなっているのかさえちゃんと調べられていない。なにもかもが暗闇のままの状態である。それなのに大飯原発はまもなく再稼動をする。とてもやりきれない世の中だ。
今出来ることは、自分に与えられた仕事をやるだけだ。詩を書き、そして詩語りを精進してゆくこと。世の中とはなんら関係がないかもしれないが、いのちの叫び聲をあげていくことは必要である。たった一人の叛乱は、世の中を変えていく原動力になるはずだ。いのちの風を世の中に吹き込んでいくこと。
詩集受贈『あゆかわのぼる詩集・荒野にて』

2012年6月13日 (水)

田川紀久雄日記

梅雨に入って、じめじめした日が多くなった。そのためか気分も落ち込んでしまう。一日一日が生きていることにしんどさを感じてしまう。各家の庭先に紫陽花がうつくしく咲き誇っている。前の家の庭先には百合の花が満開だ。梅雨の季節でもこれらの花を眺めているといくらか心が救われる。わが家のゴーヤの枝はどんどん伸びている。成長が昨年のものより早い。
朗読はやはりシンプルなものがいい。私の語りはずいぶん遠まわりをしてきたものだ。それは決して無駄なものではなかったはずだ。他の人たちの朗読とはいくらシンプルに行なっても、別なものである。朗読にとってもっとも大切なのは、心で読む方法である。これは難しい。言葉で説明しても出来るものではない。聲そのものが思うように操れない人にはできない。聲を出しで出してその果てに無の境地になって生まれてくる世界であるからだ。いまの私は人に聴かせたいというより、その境地に目指して闘っていることに生き甲斐を感じている。今日も詩を語ることができた。そのような日々を生きている。これはまるで仏教の修行のようなものだ。『詩人の聲』から外されたことは、自分なりに良かった。心の自由を求めて生きているのが詩人の務めなのだ。本当の語りとは何かを求めて真摯に生きていられる。まだまだ先が何も見えていないが、聴き手の心を解放するような世界を求めて今日も語りの聲をあげていたい。

2012年6月12日 (火)

田川紀久雄日記

生活保護者の虐めよりも、若者達に失業対策が急務ではなかろうか。確かに違法で生活保護を受けている人たちもいるだろう。それはそれとして厳しい態度で対処すべきことである。生活保護の窓口を狭き門にしてはならない。役所の態度は酷いものがある。親身になって相談を受け入れてくれない。
消費税問題を三党で決めようとすることは談合ではなかろうか。そして癒着の度合いがつよまっているようにも見える。国民は蚊帳の外である。また大飯原発も国民には発言する権利がない。国民と政治がますます遠い世界になってゆく。政治家たちよ、最後に決めるのは国民だということを忘れてはならない。
昔の私の語りを聴くと、とても酷いものだ。でもそれがいまの私を作ってきていると思えば、そのことも受け入れていかなければならない。心の籠もった語りをしてゆきたい。聲には人の心を解き放つものがなければならない。それは歌の心を持って語ることである。人に媚びる語りではなく、心の底から生まれる語りを求めていかねばならない。それは難しいことだが、一度この世界を求めた以上、そこに向かって最後の闘いをしてゆきたい。隔月のライブでそのことを目指して精進したい。
詩誌受贈『焔・92号』

2012年6月11日 (月)

田川紀久雄日記

猫の餌を買いに行く。その隣が近代書房という名の古本屋である。この本屋は昔から存在していた。むかし、ここで村山槐多の詩集をかった覚えがある。そして度は、浜田知章詩集『梁楷』を百円で買った。この詩集は凄い迫力のある詩集である。原体験の重さを痛感する。一気に読ませる詩集であった。浜田氏の名前は知っていても、詩集を手にしたことが今までなかった。詩というものは気迫で書くものなのかもしれない。
相棒に、語りの仕事が入った。宮沢賢治の『銀河鉄道の夜』の依頼である。フルート奏者の今泉さんからだ。食道ガンを再発したそうで、ぜひ最後にやってみたいとのことだ。この話は山本萠さんからである。今泉さんは市川で行なった時に聴きに来てくれた人である。
ラジカセでDVDを聴けるものがある。いまこれで自分の聲を聴いている。いろいろと反省するところがあるものだ。詩人達の朗読は全般的に聴いていて何を語っているのか解らないものが多い。そして終ってみれば心の片隅に何も残らない。それは相手に聴いて貰おうという気迫が存在しないからだ。テキストを読むことで精一杯なのだ。要は読み込みが足りないせいである。詩を書くことと、読むことはまったく別な世界である。詩集でもそうであるが、相手に読んでもらえることは大変なものだ。詩集を謹呈しても、本当のところ読んでもらえるかすら解らない。詩人と言っても、本当に詩を愛している人は少ないものだ。

2012年6月10日 (日)

田川紀久雄日記

インターネットで『菅前首相は九日朝のブログで、「原発を止めたままでは日本の経済は立ち行かない」とした野田首相に対し、脱原発でも「日本は立ち行く」として、脱原発を前提とした政策を考えるべきだ、と提言した。』と書かれてある。
いま菅さんと河野太郎さんたちは、原発廃炉に向けて共闘している。国会議員たちは菅前首相を批判したのは、電力会社から資金を貰っていたものたちなのだ。自然エネルギー法案を通過させたのは正しいいことであった。二度と日本では原発事故はあってはならない。そのことは誰でも解っている筈なのに、野田首相は、軽々と大飯原発の再稼動を進めるのか、あの時の文章も、自分が書いたものではなく秘書らが書いたものだろう。自分の言葉で自信をもって語れない。保安院のウソの言葉を鵜呑みしているだけである。大飯原発周辺は各断層がある。保安院は活動性がないと無視して発言しているだけだ。ちゃんと調査もしないで原発の再稼動を許そうとする野田首相には責任を取れるわけがない。責任とは野田首相雅が議員を辞職するだけで済まされる問題ではない。いまの自民党も原発推進派で占められている。河野太郎さんのような人がいない。これからの選挙は、党ではなく個人の資質で選ぶしかないようだ。
浜川崎にやってくる猫のハトに子供が出来た。二匹の小猫の姿を見る。いまも人をみると逃げるハトではあるが、この用心深さが野良猫が生きられる秘訣なのかもしれない。昔から浜川崎に来ていたランの姿がここ一ヶ月も見えない。心配だ。

2012年6月 9日 (土)

田川紀久雄日記

小説やエッセイを読むときは、それなりの楽しみを求めるが、詩では、楽しみというよりも、心の豊かさを求めているのではなかろうか。杜甫の詩などは、杜甫そのものの人生に共鳴したりする。そしてその人生から生まれる言葉の豊かさやに驚かされる。その人の生き様が見えない詩には、心が動かされないものだ。中原中也の詩でも同じことが言える。生き様を感じさせる詩とは、どうしても同時代に受け入れられない。それは詩壇的な詩の世界とは無縁だからだ。心に打つ詩は、いつも隠れて存在している。人知れず野の花のように。
昨日の野田総理の大飯原発についての話は、原発の安全性から程遠い話であった。大飯原発の近くには活断層があるというのに、何を持って安全だというのだろう。そして核のゴミをどのようにして処分していくのかさえメドが経たないでいる。まして総理が責任を持つといわれても、どうのように責任を持つのかさえあいまいだ。福島原発でさえ責任を国は取っていない。福島の人たちの苦しみを無視したこの度の野田総理の発言にはあきれ果ててしまう。経済界の言うなりに発言したまでだ。詩人はまだまだ悲しみの歌を唄わなければならない。一番弱い人の眼でどれだけ物が見られるかが詩人のテーマである。絶望の淵に佇むのが詩人のあり方なのだろう。その中から美しい詩を求めてゆきたいものだ。
詩誌受贈『あすら・28号』
詩誌受贈『佐々木薫詩集・ディープ・サマー』

2012年6月 8日 (金)

田川紀久雄日記

どこの電力会社も原発だのみだとはおそれいった。関西電力は、大飯原発に対して大阪市や滋賀県が廃炉を求めているのに対して、株主総会では拒否する姿勢である。電力は原発ありきの発送から抜けきれないでいる。いまの現職の人たちは、ヒロシマ・ナガサキのことを知らないのではなかろうか。もしも関西で原発事故が起きたら、日本は本当に沈没してしまう。保安院たちは、このもしもという思考が頭に浮かばない。福島原発事故で哀しみに包まれている人たちへの思いが全くない。哀しみへの想像力が欠如している。ひたすら自己中心型だ。自分さえ良ければいいという考え方は、昔の日本人にはいなかった。日本人の心がますます先鋭化していっている。相手を思いやる心を失ったら、人間失格である。
このところマラーの「大地の歌」を、いろんなCDで聴いている。でもワルター指揮のウィン・フル盤が一番良い。ワルターのマラーには心の温かみを感じるからだ。この曲はなかなか理解できないところがあったが、最近身に沁みて解るようになってきた。
宮沢賢治の「銀河鉄道の夜」と「青森挽歌」を語ったDVDを何とかしてCD化したいものだ。キッド・アイラックで語ったものが一番良い。語りで求められているのは、聲の重みと深さである。言葉を聲で表現することはやはり至難な業だ。一番簡単のように見えて一番難しい。

2012年6月 7日 (木)

田川紀久雄日記

美浜原発、十年延長だと、ふざけるなといいたい。保安院とはいったい何なのだろう。今国会で原発の寿命は四十年と決めることになっている。その国会も各党の思惑で波乱含みである。小沢さんが言うように消費税には反対でないが、その前にやることがあるのではといいたい。小沢さんは好きではないが、何のために民主党を国民が選んだのか、意味を失ってしまう。
現代詩がなぜつまらないのだろうか。詩集や詩誌が送られてくるが、心に響く言葉がほとんどない。魂のないロボットのようなものだ。現代は詩人の魂を見出すことが困難な時代なのかも知れない。素直に心を見つめることを何故出来ないのか。愛の苦しみや、哀しみをつねに見つめる仕事が詩人の仕事ではなかろう。現代詩は素朴な詩を嫌う傾向がある。意味の解らないちんぷんかんぷの詩が優れた詩と思っている。聖書のことばではないが、初めに言葉ありきの原点に立ち返ることも必要である。
語りの稽古をしていてもなかなか言葉の奥に踏み込めないでいる。これは理屈でどうにでもなるものではない。ただひたすら精進をする中から生まれてくるものである。ただ言葉を自分の心の奥に打ち込むことしかない。一応聲ができても、魂の聲まではなかなか到達しないものだ。だから一日一日が大切なのだ。あくなき闘いこそ人生の意味なのかもしれない。そう思って今日も聲をあげに出かけてゆく。

2012年6月 6日 (水)

田川紀久雄日記

髙橋渉二さんから、操車場の原稿が入った。原稿用紙二六枚である。ありがたい。印刷もデジタル化になってきている。デジタル化だとどうしても印刷が薄くなるし、活字もあまり良くない。手作りだと印刷・製本は大変だが、印刷は綺麗に出来る。
時代がますます不安な世の中になってきている。人に対する思いやりが希薄になっている。本当に人と人との会話がなくなっているような気がする。これもITの影響なのだろう。メールでやり取りするのは、気楽に出来るが味がなくなる。やはり人の聲を聴くことでちゃんとした会話が成り立つ。眼に見えないものと語り合うことは、ただの記号化の交信である。詩も活字だけではなく、聲に出して読むことがいかに大切であることを感じてしまう。幼児にたいしての童話の読み聞かせは、子供の心を豊にさせるものである。それと同じように詩の朗読も、豊かな聲で語りかけることで、活字を越えた世界が開けていける。詩の心を他者に届けることは至難な業だが、それい挑戦していける詩人が増えてくれれば、現代詩ももっと豊かさを増すのだがと思う。しかし、詩の朗読は難しいので、逆に、聴かなければ良かったということになっては困る。でも朗読の回数をふかさなければ、上達しなことも確かなことだ。出来るところから朗読を体験してゆくことが今の詩人には求められている。

2012年6月 5日 (火)

田川紀久雄日記

今日また病院だ。本当に精神的のまいる。
内閣改造も、茶番劇だ。それに防衛庁大臣を民間から起用とは情けない。責任問題ではどうにも対処ができない。責任問題といっても今の政治家は誰一人責任などとらないでいる。国民との約束で民主党は勝利をしたはずだが、何も約束が守れず、自民党に擦り寄るいまの野田政権は、あきれて何もいえない。
河の底(5cm以上)にセシウムが大量に検出されている。洪水になれば東京湾に流れ込んでくる。東京湾の魚も食べられなくなるだろう。そして未来に白血病が増えるだろう。でも原発との因果関係は証明されないで終ってしまう。無性にやりきれない問題が発生する。政府は微量だから身体には影響がないというだろう。ガンはもう一つの自分の姿だと多田富雄さんは言うが、原発事故でガンになってゆくのは許しがたいことだ。最近歌手の尾崎紀世彦さんが肺ガンでなくなった。相変わらずガンで亡くなってゆく人が多い。現代医学の進歩は目覚しいが、最後は自分自身との闘いである。医学でも治らないといわれているものが、治ることがある。私の場合もそうだ。末期ガンの告知からもう五年も生きている。どんな状況になっても、いのちそのものを諦めてはならない。生きることに強い意思を持ってゆければ、奇跡が起こることもある。絶望こそ一番の病なのだ。

2012年6月 4日 (月)

田川紀久雄日記

昨日のNHKの日曜美術館で木下晋さんのえんぴつ絵を放映したが、山折哲夫氏の解説もあまり良くなかった。詩も絵も、技術だけでは、本当の世界を描ききれないものである。ようはその人の生き様が大切なのだ。どのように生きているかが問われる。それは立派に生きることとは全く関係がない。長谷川利行などは、人間としてどうしょうもないが、絵は凄い。絵にむきあう気迫がすべてであるともいえる。日曜詩人とか日曜画家などというものは所詮たかが知れている。その世界に懸ける生き様が根本から違う。まず書き上げる量が違う。生きているときは誰からも認められない、それで芸術家は良いのだ。それは結果がだけの問題である。結果(賞など)を気にする人間にとって、芸術というものはアクセサリーでしかない。ひたすら自分の世界を追い求めていくことが求められているだけだ。
操車場は明日には発送が出来そうだ。

2012年6月 3日 (日)

田川紀久雄日記

横浜まで妹に会いにいく。妹も私と同じようにガンであるにも関わらず生き抜いている。父母はガンで亡くなったというのに。ガンの死亡率は現在でも高い。歳をとっても元気でいる秘訣は、あまりものごとにくよくよしないことだ。そして生きる目標を持っていられると、それほど精神的にも老けることがない。人から見ると詩集を立て続けに上梓していると、無理に生きているように見えるが、そのようなことはない。これもあくまで自然体である。もし許されるなら田舎生活をしたいものだ。
豊かさにどっぷり浸かった日本人は、再稼動を推進してゆくのだろうか。大阪の橋本さんは人をあれほど批判していたのに、原発の再稼動に賛成するとはなさけない。政治家は誰も信じられない。眼の前のことしか頭にないのだ。どうせ地球も滅びてゆくのだから、といって諦めていられない。ヨーロッパの経済的危機も押し寄せてきている。日本という国には小型の漁船の様なものだ。風にも波にも弱い。いつ沈没しても可笑しくない国である。せめて皆でよりよい世界を構築してゆきたいものだ。
詩誌受贈『鹿・127号』『木偶・89号』『叢生・180号』

2012年6月 2日 (土)

田川紀久雄日記

昨日、平塚美術館に行った。木下晋さんが偶然にも会場にいた。同時に棟方志功をやっていたが、木下さんの絵の方が私をひきつけた。人物を描いているが、木下さんの創作である。絵のなかに静寂さを感じた。美術館に久しぶりに行った。
官邸の前に再稼動反対の人たちが押しかけたと報道されていた。私は身体的な行動は何もしていない。詩人である私は言葉や創作のなかでしか反対の姿勢をとっていない。それぞれに出来ることを行なうだけだ。
操車場の印刷を行なおうとしたが、コピー機が作動しない。困ってしまった。午前中にヨドバシに行ってみるしかなさそうだ。家庭用のコピー機では何千枚も刷るのは間違っているのかもしれない。もう何台コピー機を購入したのだろう。
宇佐美孝二さんから、操車場の年間購読料が送られてきた。有り難い。

2012年6月 1日 (金)

田川紀久雄日記

大飯原発が再稼動されてしまう。福島原発事故を見ればその恐ろしさは誰にでもわかる。それを首相の一声で決まってしまうとは怖ろしいことだ。原発は国民投票で決めるべきだ。なにもかもなし崩しになってゆく。なにかやりきれないものを感じてしまう。ざったい原発をなくす運動だけは続けていかねばならない。
そのためにも詩人は愛をもっと書いてゆかねばならないのだろう。高畑耕治さんは無垢な愛を書ける詩人の一人だ。そして愛の詩を聲を通じて語れる詩人になってもらいたい。今詩人はもっと聲をあげて語らなければならない。私達の詩語りライブには、聴き手が集まらないが、闘う姿勢だけは失いたくない。誰もいなくても天にむけてでも語り続けていく。この孤独感が自分を強くしてくれる。

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