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2012年2月29日 (水)

田川紀久雄日記

朝の4時である。昨日の天気予報に寄れば雪だといっていたが、いまのところ雪は降っていない。桜の蕾もまだかたい。河津桜は例年だと満開なのに、ほとんど咲いていない。
坂井のぶこ詩集『浜川崎から』を五月発行で上梓することにした。保坂さんが特別に安く印刷をしてくれるということで決める。相棒の詩集がなかなか出せなかったので気にかかっていたが、これでほっと安心をした。来月から私の医療費がいくらか安くなるので切りつめた生活をすれば何とかなるのではと思う。
原発事故の東電と国との処理はあまりにも情けない。これも安全神話を推進派が強引に作り上げたためでもある。事故以前に原発の危険を注意しても少しも耳を貸さなかったことが最大の原因だ。いまも再稼動で同じ現象が起きている。推進派の大学教授らは、いまなお謝罪をしていない。まったく反省が伺えない。原発事業も推進派の議員の身内が事業を委託されていた話が沢山ある。癒着は無限に広がっている。これは国会議員にも言えることだ。東電から資金を提供されていた。だからこの無謀は原発産業を推し進めてきたのだ。天下り禁止と国会議員の定員削除を消費税が決まるまでに行なってもらいたいものだ。

2012年2月28日 (火)

田川紀久雄日記

エルピーダ破綻のニュースが新聞の一面に載る。これからの日本経済はどのようになってゆくのだろう。大企業だからといって安心できないのが今の日本の現状だ。結婚したい相手の男性は公務員であるといわれる。こんな世の中だから、もっと冒険ができると思わないのか。安定だけをもとめていると、人の心は狭くなる。そして自分勝手な人間に陥りやすくなる。
放射能汚染された農家の人たちは、これからどうやって生きてゆくのだろうか。東電や国からの保証はあるのだろうか。あれから来月で一年になろうとしているのに、賠償問題は少しも進展していない。原発の再稼動が動き出している。東電の電気料金の値上げの目的はそこになる。国民の生活を困らせることによって再稼動を押し付けてくるのではなかろうか。いのちの大切さを思うと、絶対に再稼動を認めないことだ。いま日本は自然エネルギー開発に全力を傾けることだと思う。そこにはいろんな問題が出てくるだろう。それを乗り越える力はまだ日本にはあるはずだ。困難な状況の時こそ新たな発展が期待できるものだ。私が末期ガンから生き残れたのも、前向きに生きてこられたからだ。いのちの尊さを歌い続ける詩人でありたい。

2012年2月27日 (月)

田川紀久雄日記

大阪市の橋本さんの行政はたいして行きすぎな所が目立つ。具体的には解らないが市営バスの給料が四割もカットするという話が持ち上がっている。四割はちょといきすぎではないか。労働組合を潰しにかかっていてのことである。朝鮮の授業無料化の問題に対してもだ。それに国歌の問題にしてもだ。戦中生まれの人間にとって我慢ができないことが多い。ちょっと「万国の労働者・・・」と歌いたくなる。古いといわれても、言いたいことだけはいいたい。
川崎詩人会は楽しく参加できた。一篇朗読したが、部屋の響きが気にかかった。久しぶりで人前で行なったせいかうまく聲の調整が出来なかった。ライブでは少し早めにいって聲の調整を試してみたい。長谷川認さんがライブに来てくれるとのことありがたい。
詩集受贈『金子秀夫詩集・ヒマラヤの歌』

2012年2月26日 (日)

田川紀久雄日記

吉本隆明のように、原発に賛成な人間の頭の中は解らない。彼が苦労したといっても、放射能で辛い人生を送った人のいのちの苦しみは解らない。一種の科学信仰の幻想でしかない。科学でも、前進する時と、撤退する時がある。この判断が出来ない人間には科学を委ねることが出来ない。汚染された大地からどのように放射性物質を除去をするのかの科学はいま求められている。いろいろ研究されているが、まだ実用的な面からはほど遠い。
いま難病とされている病が割と多い。国がそれを認めない以上、救済が求められない。国は一日も早く、難病からの救済を行なってもらいたいものだ。難病は、健康保険が適用されない治療が多い。家族への生活の負担があまりのも多い。日本の社会はまだまだ弱者の大しては冷たい。自分達の幸せだけをもとめている社会はいつか滅びてゆくものだ。
今日は川崎詩人会がある。天気になってほっとした。
三月十日のライブの予約を蒼野詩帆さんから電話をいただいた。野間明子さんと高畑耕治さんの三人しか今のところない。ちょっと寂しいものだ。でもめげずに生きて行くだけだ。来てくれた人にいい語りを行なうだけだ。
詩誌受贈『水盤・9号』『いのちの籠・20号』

2012年2月25日 (土)

田川紀久雄日記

東電は、電気料金を17パーセントの値上げを行なうという。それに野田総理は消費税を上げる気でいる。これでは零細企業は成り立たなくなる。東電は日本という国を潰す気でいるのだろうか。原発問題を何一つ解決もできないくせに、値上げだけはいっぱしに言う。ますます貧しきもの達の生活が追い込まれてゆく。東電の料金と消費税が決まれば、消費は落ち込んで税の収入は減るだけだ。
雨が降るたびに春が近づいてくる。杜甫が雨を見ながらうたった詩がある。あの杜甫すら生きていて困窮に喘いで生きていた。それに比べれば私はまだまだ良い。多くの友人からカンパをいただき詩集が上梓できるのだから、幸せ者といえる。これも前向きに生きようとしているからであろう。詩が私にあったから、末期ガンとも闘ってこられた。これはある意味で奇跡かもしれない。ほとんど治療もせずに四年間も生きてこられた。もっともっと詩を書けといわれているのだろう。
ここ二、三日指の骨が痛み、寝るとき辛い。でも昼間は痛みをそれほど感じない。原因がわからない。少しぐらい調子が悪くても我慢ができる。

2012年2月24日 (金)

田川紀久雄日記

中村雀右衛門が23日に亡くなった。91歳である。最後に歌舞伎座でみたのはいつごろであったか。私が好きだった歌舞伎役者もいまはほとんどいない。先日テレビで観た「寺小屋」はいまひとつ物足りなさが感じた。歌昇が中村又五郎に襲名。歌昇のユーモアは好きであった。いま歌舞伎の世界はなんだか寂しい。
東京もそろそろ春らしく温かくなってくるが、雪国の人たちはまだまだ大変である。青森はいつになったら春が訪れるのだろう。泉谷栄さんのことを思うと心配だ。詩誌「阿字」がでていない。身体が思わしくないのだろう。
佐野カオリさんから詩集代が送られてくる。
詩誌受贈「笛・259号」

2012年2月23日 (木)

田川紀久雄日記

インターネットの普及で情報は溢れているが、身近な事柄には無頓着である。餓死のもんだいにもいえる。個人情報保護にたいしてに問題が浮き彫りになっている。一番身近なことに情報が得られない。落語に出てくる長屋などには、個人情報保護などという問題は起こりえない。すべてが開けっ放しだ。誰が何処でなにをしたかなど筒抜けだ。今の世の中は、人情も薄くなってきている。そして他人には無関心だ。生活が豊かになればなるほど情報の保護が求められてゆく。生活の豊かさと心の豊かさは反比例しているのかもしれない。
私は日々の生活を切りつめて小銭を蓄えて、詩集を上梓している。そしてカンパをしていただける人たちによって何とか発送までこぎつける。保坂さんのお陰でここまで詩集が出せてこられた。反響がなくても生きて行く上には大きな励みに繋がっている。
小杉妙子さんからカンパをいただいた。手紙の中にこの原発事故は、東電や国もさることながら、私達も加担してきたのではと書かれてある。まさに、電気を無関心に使用してきた自分達にも責任はあるだろう。便利さの裏には危険が付きまとっていることに注意を怠ってきた。生活の豊かさよりも、心の豊かさをどのようにして学びとっていくかがこれからの課題だ。文学は、そのような意味でも大切な役目がある。単なる娯楽だけではなく、心の文学を求めていくためにも詩は大切な役目があると思う。
「嶺」の校正が入る。仕事があることは嬉しい。

2012年2月22日 (水)

田川紀久雄日記

原子力機構が震災後も277億円も受注していた。この企業は天下り企業である。このような無駄遣いが平然と罷りと売る世の中とは摩訶不思議な世界だ。原発で災難になっている人たちに回したほうが良い金だ。国のお金は国民のものであることを政府は忘れている。
さいたま市で三人が餓死した報道がなされているが、なぜ半年以上水道料金が未納であったのに、だれも不信に気付かず見逃していた。これは行政の問題もある。そして地域社会の連帯の弱さである。町会の組織に入っていないと、町会からも見捨てられる。都会では隣の住人の名前さ知らない。私そうだが、近所付き合いがないので町会の人をほとんど知らない。まるでこの町会に存在しないと同じ状態である。そして道でであっても挨拶をかわさない。これが都市生活の現状である。
最近勧誘の電話が何件もかかってくる。時々知人からかかってきても間違えて電話を切ってしまうことがある。係わりたくないところから電話が入るのは困る。世の中での人づきあいは難しい。詩人同士でも、本当の友人を作るのが難しい。私には会いたい人はいない、と書いた室生犀星の晩年の詩に心がうたれる。全集本を探しても、この詩が見当たらない。たしかに読んだ記憶があるのに。

2012年2月21日 (火)

田川紀久雄日記

川崎市も瓦礫を受け入れるようだ。この問題は、みんなで解決していかねばならない。被災地のことを思うと、一日にも早く瓦礫の撤去が、復興への道にも繋がる。放射能の問題は不安が残るにしても、いちよう安全値なので全国で受け入れていく以外には解決がない。
原発の再稼動のテストはいい加減なものである。安全な稼動には遠いはなしである。新聞の記事ではボルトが折れていても無視をするそうだ。ほんとうにいい加減なものらしい。これからは自然エネルギーの活用がもとめられるが、そう簡単にはいかない。まず国の支援がなければならない。今年の夏はどうやって電力を抑えていくか、偽科学者達によって原発が再稼動しないようにしなければならない。来月で東日本大震災が一年目を迎える。なだまだ復興には遠い道のりだがみんなで助け合っていくしかない。語りの場所を増やしてゆきたいものだ。
三日前から下痢がひどい。一体どうしたのだろう。風邪のせいかもしれない。ちょっと心配だ。この三日で詩を三篇書いた。詩集「愛するものたちへ」に向けて書き進めている。

2012年2月20日 (月)

田川紀久雄日記

今日は七十歳の誕生日だ。末期ガンを宣告されたのによくもここまで生きてきたものだ。生きている時間、出来るだけのことはしてきたつもりだ。生かさせている時間はひたすら詩的に生きていたい。だから詩集を次から次に上梓してきた。もしあの時死んでいれば、詩集は生まれてこなかった。宝くじを買った。当たれば田舎生活をしたい。夢を買うのも楽しいものだ。
詩の言葉は、つねに熱い情熱をもった生き方が必要だ。だからかつては詩は若者のものだった。情熱を失った人の詩の言葉は、人の心をひきつけない。多くの詩誌が送られてくるが、心をうたれる詩は稀である。ことばに魂がこもっていない作品が多すぎる。それだけ詩を書くということは大変なのだ。だから詩の技術を学べば詩がかけると思っている。そんなものはいくら書いても詩として感動などしない。岡本太郎がいうように爆発が必要なのだ。
これからも人明かりを見つめながら生き抜いてゆきたい。やっと語りの聲も安定してきた。これからはもっと深みのある聲を生み出してゆくことだ。そのためにはひたすら精進しかない。いくら努力してもこれで良いというものはない。誰にも真似のできない語りを目指して生きて行くことだ。いまなお誰にも相手にされないが、そんなことなど気にしていられない。情熱を持って生きていることが大切なのだから。これから新しい世界が生まれてくる。それを楽しみにして生きていこう。

2012年2月19日 (日)

田川紀久雄日記」

私の詩は、誰にでもわかる言葉で、最も深い思想を描くことにある。難解な言葉が詩だと思い込んでいる人たちからみれば、幼稚な詩にみえるのだろう。作品というものは、人に読んでもらってナンボノの世界である。詩的作品とは暗喩を使って書く世界だと思っている。それはそれで良いのだろう。ようは詩を書くためだけの詩の作業なのか、詩という形式を通して魂の叫びを書くのかの違いだろう。詩というものはある意味で心の日記でもある。
詩というものは、人から評価されなくても、書かなければならない衝動がある限り書き続けるだけのものだ。人に読んでもらいたいという気持ちと、詩を書く行為とはどこか矛盾しているが、それを受け入れながらしか生きていくしかない。
堀場清子さんから、手紙と詩集「延年」「じじい百態」が送られてきた。私の詩集を評価されてくれたことは有り難い。
詩誌受贈「山形詩人・76号」「柵・303号」

2012年2月18日 (土)

田川紀久雄日記

詩と言うものは考えて読むものなのだろうか。文学というものは所詮娯楽のいちぶだと思う。人の心を癒したり、楽しませたりするものである。なぞなぞであってはならない。といって例外もある。それは魂の叫びが発する言霊である。例えば山本陽子の詩がそれである。
詩は聲を発してその良さが見えてくる。詩というものは、歌ったり、語ったりするものである。活字だけで評価すると、詩を理解することが遠ざかる。そのためにも語るプロが求められている。しかし、詩人達の朗読はアマチヤの世界を超えきれない。今はそれを受け入れていく以外はないのだろう。人前で行なうことが朗読の上達の道である。そのためにも、詩人達が朗読する人を応援していくことだ。聴くことによって耳も鍛えられる。荒川洋二のように、碌に朗読も聴かないのに全否定をするようでは悲しい。人は助け合って生きてゆくものである。いま詩人同士の絆が弱くなっている。同人でも例会に一回も出席しない詩人もいる。これは出不精ということとは違う問題である。相手を理解する心が薄れているとしかいえない。人と人との出会いが世の中を明るくして行くはずだ。いま私も詩的活動をしながら、何か空回りをしているような気がする。この虚しさはなんだろう。今月の川崎詩人会を楽しみにしたい。
書籍受贈『倉田良成著・椨的」思考』

2012年2月17日 (金)

田川紀久雄日記

詩集を上梓することは普通の生活者にとっては、大変なことである。まず生活を切りつめていかねばならない。そして強烈な思いが吹き上げてこなくてはならない。人に読んでもらいたいという願いをこめて送る。しかし、送っても十人足らずしか返信が返ってこない。今はこのことに慣れてしまった。私も、いただいた詩集に対してお礼状すら書かないことが多い。送るのは勝手なことである。それに対して何かを期待する方が間違っている。何も期待しないことが心の安定にも良い。生きることは期待を望んではならない。ただ自分の仕事を一つひとつこなしていくことである。どんなことにもくじけない精神こそが求められている。こんどのライブも何人来てくれるか解らない。来場者のことよりも、ライブに対してテキストをどれだけ読み込んだかが大切なことである。自分の存在の質を高めていくことがライブの目的なのだからあまり気にしないことだ。
高畑耕治さんの詩集『愛のうたの絵ほん』が届いた。これで彼の全部の詩集が揃った。『愛』の詩集は、生き物の姿を通して瑞々しい世界を描いている。今私達はこのような純粋な愛の物語を失っている。現代詩人の中でもこのような美しい作品を書ける詩人は少ない。出来れは高畑耕治さんが多くの人に向かって朗読をして行くことが、新しい世界を産み出していけるのではなかろうか。彼に会える日が楽しみにしている。

2012年2月16日 (木)

田川紀久雄日記

原発事故での賠償問題はほとんど進展していない。あまりにも酷い回答ばかりだ。これでは勝手に死ねと言われているようなものだ。国民の皆様、もしあなたがそのような立場になったらどうします。東電には人の心がない悪魔の固まりでしかない。とても私には他人事とは思えない。詩人である私は痛みを感じる。といって何も出来ないが、言葉では東電に対して抗議が出来る。名もなき国民の聲が広がってゆけば、このような非道なことは許されなくなるのではないのか。いま、だんだんこの原発問題も風化しつつある。そのことは怖ろしいことなのだ。昨日は放射能の測定値が増したという。いまだに福島原発から放射性物質が撒き散らされている。東電は微量だというが、この微量でも人体にとっては悲鳴をあげているのだ。除染問題でもいまだに先がまったく見えてこない。哀しいことばかりだ。いのちと闘っている私にとっては怒りが込み上げてくる。
昨日、高畑耕治さんから二冊の詩集が送られてくる。「海にゆれる」この詩集は美しい。無垢の魂の音楽だ。もう一冊は「愛」である。この詩集は今日読もうと思っている。

2012年2月15日 (水)

田川紀久雄日記

「嶺・36号」の仕事がはいる。ありがたい。これで詩集の送料ができる。いつも詩集をだすたびにビクビクしている。なんとか支払いが出来るだろうかと心配ばかりだ。そしてカンパをしてくださる方の温かい心に甘えている。だからいま詩を書くことは自分だけの問題は書けない。人間はどう生きていけばよいかを追求しなければならない。原発など嫌なものは嫌とはっきりというだけだ。いま「愛するものへ」を書き進めている。
堀場清子さんから電話が来た。詩集「鎮魂歌」をある賞に推薦したいからというはなしであった。そして速達で詩集を送る。こんな話は生まれて初めてだ。その気持ちだけでも嬉しいものだ。
昨日の手紙やハガキは、本田まり子様・野間明子さま・堀本恭三様・斎藤憲一様など。カンパをいただいた方には心よりお礼を申し上げます。

2012年2月14日 (火)

田川紀久雄日記

原発賛成派が動き出している。ようは彼らは原発予算費をネコババしたいだけなのかもしれない。まともな頭では考えられない。福島の人たちを見れば、一番被害者は農家の人たちではなかろうか。田畑は使えない、どうして生きて行くのか、それに対して保証もない。ゴルフ場の放射性物質は、無主物であるから責任はないと東電側は弁解する。あまりにも酷い言い方だ。当然国にも責任があるが」、国もそのことに対して責任感すらない。こんな無責任な国家はない。未曾有な出来事であるからいたし方がないと決め込んでいるのかもしれない。瓦礫問題でもどうして国民全体で解決使用としないのか。一人ひとりがみんなどうかしている。沖縄の基地問題にしてもそうだ。いまの日本人はエゴ的人間になっている。つまり国家意識が薄いということだ。選挙の時だけ政治に関わっていると考えている。そうではない日々の日常が国と関わって生きている。どのような小さな問題でも、国民全体の問題なのだ。日常生活の矛盾そのものが政治の問題に関わっている。
昨日、詩集に対してのお礼状。高畑耕治様・堀本恭三様・小笠原眞様・山下佳恵様・原圭治様カンパや詩集代をいただいた方のは心より感謝をいたします。生きる励みになりました。

ブログ日記は詩誌「操車場」に毎月掲載中です。読みたい方は漉林書房まで
郵便210-0852 川崎市鋼管通3-7-8 2Fまで申し込みをください。年間購読5000円。申し込みの方は 私の詩集『神話の崩壊』 を贈呈します。

2012年2月13日 (月)

田川紀久雄日記

昨日NHKでETV特集の再放送を観る。「ネットワークでつくる放射能汚染地図」最後のシーンで犬が追いかけてくのをみると辛かった。人間の勝手な存在に腹がたった。動物も家族の一員である。原発はいかに人間の存在を苦しめるものか。人間の手ではどうすることも出来ない原発を運転してはならない。いまなお二十キロ圏内には犬・猫が住んでいる。
東電はそれなのに電力代をあげるのは権利だという。この驚くべき発言を許してはならない。
いま人間の心がエゴになっているような気がする。相手を思いやる気持ちが薄れている。そのことに対して生きていることが哀しくなる。この哀しみが詩を書かせる要因にもなっている。頑張って詩を書いてゆこう。

2012年2月12日 (日)

田川紀久雄日記

ガンの告知を受けた人が、会社から解雇されるのが多い。いま二人に一人がガンに罹るといわれる時代だ。それなのにガンになったからと言って解雇されるのは不当だ。人は物ではない。役に立たなくなればゴミを捨てるように扱われる。ひたすら利益だけを追求する世の中はもう終っても良いのではなかろうか。年金制度も破綻している。いまの若い人達には未来に対する不安が募るばかりだ。急激な老人社会が襲い掛かってくる。いまの社会保障制度ではどうにもならない。みんなで助け合う世の中にならなければこの国は滅びる。
私も現在年金もない生活を送っている。生活保護を受けたいが、それでは詩人として活動が出来なくなってしまう。操車場の発行で皆様から温かい支援をいただいている。日々の生活を切りつめて何とか生きていられる。それと相棒から助けてもらっている。詩語りでなんとか稼ぎたいと思っているが、そう簡単には仕事がとれない。今は聲の深みを求めてひたすら精進を続けている。諦めない精神が今の私を活かしてくれている。詩の心をもっと耕して生きていたい。それが人明かりにつなげられてゆくからだ。そして語りにも活かされるはずだ。

高畑耕治さんからメールがはいっていた。
新しい詩とうたの本『こころうた こころ絵ほん』2012年3月11日発売。
 A5版並製192頁。好評予約受付中です。
 全国書店での注文。Amazonのネット注文。出版社イーフェニックスへの直接Fax(046-293-0109)。
 いづれの方法でも予約して頂けますと、発売日にお届けできます。
 詩集 こころうた こころ絵ほん

 今回はこの本の冒頭の序として短く記しました文「詩想」をご紹介します。私がこの本に込めた想いを述べています。
 こころに歌いかけてくれるのは作品たちですが、彼らの自己紹介です。

 お読み頂いて木魂(こだま)をお心に感じて頂ける方なら、この本はその方ご自身の歌にもうなっているのだと私は思っております。作品たちの歌声を、聴きとって頂けたら、とても嬉しく思います。

2012年2月11日 (土)

田川紀久雄日記

今朝の東京新聞に「もんじゅ5年運転案」という見出しが一面に載っている。それ理由として、『もんじゅの開発にいは、既に一兆円を超える税金が投入されている。原子力関係者の間では「このまま廃炉になれば巨額な開発費が無駄になる」との懸念が出ている。』
私にいわせれば一兆円でもんじゅが諦められれば安いもんだといえる。人間とは馬鹿なことをして物事を知る生き物でもあるからだ。大飯原発のストレステストの一次評価にしても初めから決められた路線を走っているだけのことだ。今の民主党は原発事業を止める気がない。何処から金をもらっているとしかいえない。いま風力発電の技術も進歩をしている。十年かければいまの原発を超えた電力が自然エネルギーで賄える。そして雇用の世界も拡げられる。もんじゅに金をかけるのなら自然エネルギー研究に金を注ぎ込んだ方が国民の利益に繋がる。
佐相憲一詩論集を読み終わる。彼の行動力には驚かされる。詩と向き合う姿勢を学ぶ必要がある。もっと多くの詩を読まなければと痛感した。
高橋馨さんからも詩集代が振り込まれる。ありがたい。そして金子秀夫さんからハガキが届く。

2012年2月10日 (金)

田川紀久雄日記

原発事故の責任を誰も取らない。これは国民を馬鹿にしている。そして原発の再稼動を国民の意志を無視して進めている。審査委員の中には原発事業からお金を貰っている人もいるという。そして現在も放射性物質の量が増えている。原発事業は滅茶苦茶な世界である。東京では原発の是非を問う原発投票が30万人達成した。
津坂治男さんから詩集に対しての最初のハガキが届いた。そして操車場に掲載中の冨上芳秀さんの資料はA級だと書かれていた。詩集代を新保さん、井原さんから送られてきた。ライブの予約が入っていないのが寂しい。詩活動は、自分の心との闘いなのだ。誰からも無視されても、それに負けない精神を持つことだ。自分の詩を信じるしかない。

2012年2月 9日 (木)

田川紀久雄日記

今日は病院に行く。ガンとの闘いは長い。辛抱強く生きるしかない。
ベートーヴェンのピアノ協奏曲全集で、ポリーニとアバドの協演CDがある。このCDで素晴らしいのは、一番と二番の協奏曲である。ピアノソナタでもポリーニは初期の演奏が良い。若いときのベートーヴェンの曲は活き活きとしていて楽しく聴ける。音楽は演奏家によって別の曲に聴こえてくることがある。もしこの世に音楽がなかったら、人間はもっと孤独であっただろう。
詩の朗読も素晴らしいCDがあったら心が癒されるのに、なぜか皆無に近い。朗読教室が詩の朗読を駄目にしているのだろう。といって詩人達が聴くに耐える朗読を行っているかというとそうでもない。それは朗読を行う機会が少ないためでもある。朗読することはそう簡単なことではない。演奏家が育つには長い努力とそれなりの教育を受けて演奏家に育っていく。詩人達の朗読では、この長い努力が全くない。空白状態なのだ。詩壇も詩人達の朗読の向上には無関心だ。初めから諦めている。詩人達自身が朗読などつまらないと思い込んでいる。ある面で馬鹿にしている。それでいてイベントの中に朗読の場を作る。可笑しな現象が続いている。詩人自身の朗読に対する意識を高めなければ前には進めない。何とか朗読の仲間を作りたい。

2012年2月 8日 (水)

田川紀久雄日記

70になると人生の修正は効かない。やり直すという思考は不可能だ。人に受け入れられなくても遣りとうすしかない。自分の人生が誤りだったと嘆くこともない。あとは最後まで自分流を貫くしかない。人生はしみじみと孤独なものだと痛感する。
人間は性悪説と性善説がある。この性格は幼少時代に性格が決まるといわれている。唯物論者は性悪説だが、シュタイナーは性善説の立場だ。確かに幼少時代にその人の人格は形成されてしまうのかもしれない。世の中がこうもぎこちなくなると親と子との関係も歪んでしまう。人と簡単に殺してしまう記事をみていると無性に悲しくなってくる。水俣病患者の問題もあまりにも辛い話だ。また原発事故の賠償問題でも一方的に話が決められてゆく。政治には心がないとしか思えなくなってくる。民主党は国民の生活が第一と言っていたにも関わらず、すべてが裏切られていく。選挙は国民との契約の場であるはずなのに、なに一つ約束が守れないと国民の生活に活気が失われてゆく。学校もあいかわらずいじめ問題が多いという。人間はいつまでも愚かな生き物なのだろうか。せめて詩の世界だけでも人に豊かな世界を送りとどけたいものだ。

2012年2月 7日 (火)

田川紀久雄日記

やっと詩集が送ることができた。あとは出したことを忘れることだ。反響など期待するのが誤りである。生きている中で自分にとって出来ることをやったまでである。詩歌の世界に何も期待しない。ようは自分自身の問題なのだからだ。自分がどうこの世界と向き合って生きているかということである。そこのとことを明確化して行く上で私にとって詩が大切な役目を果たしているということだ。でも他人の詩でも私の心の中に入ってくる詩と出会うと嬉しくなる。誰にも気付かれずに人の心の襞に入り込める詩を書きたいものだ。それは一つの詩明かりの世界であるからだ。
世の中は嫌なことが多すぎる。その中で美しい音楽を聴くように、一篇の心温まる詩に出会うことを願う。人生の一瞬でも良いから、生きていてよかったと思える世界に出会えることを希っていたいものだ。詩語りもその中の一環として行なっている。そのようなことを通じて人明かりを求めて生きている。
詩集を希望の方は漉林書房までご注文をいただければ幸いです。

2012年2月 6日 (月)

田川紀久雄日記

定年後どのように日々を過しているのだろ。仲間を作って楽しく生きている人は少ないと思う。ようは前向きで生きようとする気持ちだと思う。でも大切なのは勉学だと思う。死ぬまでそれなりに努力することである。できれば自然の中を散歩ができたら最高だろう。私の住んでいるところは京浜工業地帯のど真ん中である。煙突からもうもうたる煙が大空に向かって舞い上がっている。それに産業道路の車の音である。昔から思えば、随分良くなったといえる。
操車場57号が出来上がった。三月のライブに向けて精進をしていかねばならない。でも少しも上手くならない。上手くならなくでも何百回と聲に出すことによって詩が身体に浸み込んでくる。それだけも聲をあげる楽しみが増すというものだ。身体に浸み込むことによって、自然体になれる。何も考えないで聲をあげられる。作品に媚びることをしないで済む。若手登竜門ローザンヌ国際バレエで優勝をした菅井円加さんは、日々の努力が凄い。休日の日でも練習場で深夜まで練習に励んでいたという。天才といわれる人も努力を怠るとただの人でしかない。才能がなくれも努力をしていけばそれなりのところまでいける。聲も悪い。語りの才能もない私にはただ努力しかない。語ることの中で詩の力の素晴らしさを感じとれれば幸せなことだ。

2012年2月 5日 (日)

田川紀久雄日記

エジプト・シリアなどの中東はいま大変だ。本当の自由とは何なのだろう。エジプトは政権を倒しても人びとの生活は変らない。まだまだ民主主義国家にはほど遠い。いまの日本の議会民主主義も国民からみればまやかしの世界に見えてくる。
企業の合理化が進めば進むほど失業者が増えてくる。文明の発達は、人間の生活を豊かにするよりも、かえって貧しくさせていく。
詩集のカバーをするのは大変だ。素人が行なうとうまくいかないものだ。それに時間がかかる。
立春が過ぎたのだから、気分も良くなるといいのだが、まだまだ寒い。雪の多い国の人たちは大変だ。とくにどこの地区も老齢化が進み、雪下ろしをする人がいない。そして事故死が増えている。亡くなる人の殆どが老人たちだ。来週からもまた大雪だという。雪国にはいつになったら春が来るのだろう。

2012年2月 4日 (土)

田川紀久雄日記

表紙のカバーが出来上がってきた。私のミスで保坂さんにご迷惑をかけてしまった。操車場と一緒に送れる。
詩誌を上梓してもいまはそれほど嬉しくは感じない。でも生きて行く上には必要なことである。ときどきある出版社から詩集をつくりませんかという案内が送られてくる。それを見ると私などはとても払えない金額が書かれている。保坂さんがいるお陰で何とか詩集が出せている。
暦の上では立春だが、とても寒い。今年は異常の寒さだ。それに裏日本は大雪だ。心まで冷え込んでしまいそうだ。
情報社会の世の中では、機械に弱い私などは取り残されてゆく。パソコンでもわたしはワープロの程度しか使用していない。情報に振り回されないで済むのが特典だ。本質なところ情報からは何も生み出すものがない。その世界は私にとって架空の世界だからだ。人は一体一からの付き合いから始まる。見えぬ相手の話は虚しいものだ。心の豊かさは、情報からは何も生まれてこない。ひたすら自分を見つめることしかない。

2012年2月 3日 (金)

田川紀久雄日記

浜川崎の野良猫のピン君が四日間ばかりいなくなったが昨日もとの場所に戻っていた。なぜかぽっとした。昨年の暮にガードしたのネコ達が突然消えてしまった。保健所から来て捕まえていったのかもしれない。そのようなことがあって浜川崎周辺の猫達が怯えていたのだ。野良猫たちを何年も見続けていると、いろんな事が起きる。でも彼らは日々懸命に生きている。悲しいことも多いが、私の心を励ましてくれる。頑張って生きていこうと思う。
送電電分離の議論がやっとスタートした。これからどうなってゆくのか。自然エネルギーを促進していく上にも一日も早く送電を分離してもらいたいものだ。
十八歳以下の医療費が福島県では無料になる。これでいくらかでも親達の不安感が安らぐ。これは東電が本当は支払うべき問題なのだ。
原発事故を起すと、本当は電力会社は倒産する。それなのになお電力会社は原発を再稼動しようとするのか、一般人である私には理解ができない。

2012年2月 2日 (木)

田川紀久雄日記

防衛省の選挙関与は、昔からどんな省でも行なわれていた。郵政省でもあった。特定局の局長達が、家族に選挙以来をお願いしていた。そして署名活動も行なっていた。これは自民党時代からの慣わしではないのか。政治というものは、泥臭いものである。野田総理がいうようにドジョウは泥の中に住んでいるものだ。選挙に勝つためには違法行為も平気で行なう。政治というものはそのような世界でもある。
川崎市が東電に損害賠償を求めている。東電は全国で賠償請求をしたら、会社は潰れてしまう。だから値上げは権利だと主張するのだろう。原発が事故を起した対策が一切なされていなかったことに問題がある。
生きる情熱が失ってくると老いるのも早くなる。人間にとって生きることへの情熱を維持することは難しいが、それに向かって努力を怠ってはならない。末期ガンを克服するのは生きたいという情熱である。精一杯生きたいと願うことである。短いいのちでも精一杯生きられればそれなりに生きた価値がある。長生きだけが人生ではない。人生とは、どう生きたかである。一篇でも多くの詩を書くことが、生の証しに繋がってゆく。それだけでも生きた意味が十分である。

2012年2月 1日 (水)

田川紀久雄日記

本当に寒い。日本海側では大雪だという。雪下ろしで五〇人以上の死者がでている。老人だけの家はどうしているのだろうか。除雪で市や町の予算は底をついている。私も新潟生まれだから、この雪が大変なのは分かる。この大雪は節分まで続くという。
国会議員の削減問題はどうなったのだろう。解散ばかり話題になってこの問題はうやむやになってしまう。口で言っていることは何も実行されない。この国は間違いなく滅びるだろう。
だからと言って諦めてはいけない。なんとしてでも内なる闘いを続けていくことだ。これから高年齢化の時代になっていく。皆で助け合う世の中にしていかねばならない。人明かりの精神がこれからは求められてゆく世の中にしたい。
吉本隆明著『老いの流儀』は気軽に読めて面白い。彼が土肥で溺れたことは知らなかった。腰の苦労は私なりに参考になった。

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