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2011年12月12日 (月)

田川紀久雄日記

高畑耕治さんの詩を語ってみた。彼の作品は言葉を追って読んでは語りにならない。語りというものは書かれた言葉の一番深いところから聲を発していかねばならない。生と死を見つめることは、人間の根源を見つめることでもある。根源とはある意味では宇宙の成り立ちのことかもしれない。
普通の朗読家は、作品のストリーを追うだけで終っている。このような朗読家は詩の作品を語ることは出来ない。つねに魂と向き合いながら語ることが詩を語ることにも繋がってゆく。私の語りを批判する人たちは、あくまで表面の物語性を求めている人たちである。本当に詩を語れる詩人にはいまだに出会っていない。私でもいまだに語れていない。だから詩の語りのいつも挑戦をしている。上手い朗読など私はもとめていない。高畑さんの詩を語れるまでにはまだ時間がかかる。詩と言うものはやはり聲を発してみないとわからないところが多い。活字だけで解ったつもりでも、いざ聲を発してみると自分が思っていたものと違うこともある。
解りやすい言葉ほど、その言葉は無限に深い意味が秘められているものだ。例えば「愛」「生きる」「死」という言葉は日常使われるが、それを表現することは思考的にいくら捕らえても手の隙間から逃れていってしまう。宇宙的な言葉なのだ。

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