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2011年8月 5日 (金)

田川紀久雄日記

詩と言うものは魂の叫びの変容である。和合亮一の福島の詩には疑問を感じる。このような彼の詩を読むと詩の時代が終ったような気がしてしまう。それに彼の朗読にも疑問を感じてしまう。私も東日本大地震の詩を書いたが、それは魂への救済を求めて書いたものだ。つねに一番辛く苦しんでいる人たちへの応援詩を書きたかったからだ。それはまた私地震のためでもあった。末期ガンになって生き抜いてきたことへのお礼の思いもある。だから絶望と向き合うことによって生まれた詩なのだ。詩集は売れたから価値があるなどというものではない。詩人の値打ちは孤独の中でひたすら闘い続けていることだと思う。その叫び聲が、私の詩語りの原点なのだ。だから一般の朗読のような語り方はできないのだ。そのような意味でも先日の島村洋二郎の詩語りは、私にしか出来ないものであったと思う。宮澤賢治も、私にしか出来ない語り方なのだ。詩とはつねに自己との厳しい闘いの中からしか生まれてこない。

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