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2011年8月31日 (水)

田川紀久雄日記

昨夜は眠れなかった。つまらないことが次から次へと浮かんでくる。詩集を上梓したあとは、このようなことが起きる。
いま日本人の聲は衰えている。机にむかってパソコンを打つ日々では聲がでないのはあたりまえだ。農家や漁民そして工事現場で働く人たちは、それなりの聲を持っていた。携帯でもメールで終ってしまう。先日朗読をしていて、なぜ田川紀久雄さんはあんな聲をだすのと、批判めいたことを言っていた人がいる。その人にとっては聲をだすという意味が全く解っていないからだ。神主には神主の聲があり、僧侶には僧侶の聲がある。聲はそのひとの職業そのものであった。それが現代文明の進化とともに聲の持ち主が存在しなくなってきている。須藤功著に『神と舞う俳優たち』という本がある。まえがきに阿波踊りのことが書かれている。そこに私と同じ考え方がかかれている。義太夫・落語にとっても聲がいのちだ。詩人の朗読だって聲がいのちなのだ。普通の聲で読めばいいのだという人にとっては何をいってもわからないだろう。聲はその人の生き方そのものなのである。安易に人前で語るのは嫌な思いをすることが多い。

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