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2011年6月21日 (火)

田川紀久雄日記

詩人たちの朗読に、詩人自身が無関心である。それは、詩人達が聲の力を獲得することを怠ってきたためである。聲を出すことは簡単でもあるが、人に聴かせる聲となると別な話になる。杜甫の時代は、詩はうたうことでもあった。それが書くための詩になっていった。そのことによっても詩の持つ豊かさが失われていった。活字だけで満足をしていては人々の心には浸透していかないものだ。生活の場に引き戻すにはやはり聲の力を借りる必要がある。朗読は決して特別なものではない。日常の中でおこなわれるようになると詩ももっと豊かさを取り戻すのではなかろうか。詩人達は詩を聴くたのしみを忘れているようだ。
九月十七日(土)の第三回『いのちを語ろう』では詩集『復活』を語る予定である。やはりちゃんと東日本大震災応援詩を語りたい。

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