田川紀久雄日記
朗読を行う人たちの中で、日本語の聲の発聲について真剣に考えている人が何人ぐらいいるのだろうか。聲が届かないということは、聲が大きいとか小さいとかの問題よりも、呼吸の使い方がv間違っているからである。倍音がでていれば、聲は遠くまで響いてゆくものである。謡曲や義太夫の聲を聴けば一目にわかることだ。西洋的な聲の出し方とはまったく異なっている。マイクというものが出てきて以来日本人は自分達の聲の出し方を忘れてしまった。
義太夫のCDが一杯あったのが引越しをするたびに無くなっていってしまった。もういちど自分の聲を見直してゆきたい。迷い続けていることは、それだけ日々成長している証拠である。テキストも大切であるが、やはり聲のもつ力を信じて生きていたい。聲のなかに思想は詰まっている。そのひとの聲でその人の人間性が見えてくるものだ。
『詩人の聲』は確かに聲の力で勝負する場である。楽器もマイクも使わず、その人の聲だけでテキストを聴かせる。その経験は私にとっても多いに役立ったと思う。聲を真剣に求めている詩人にとっては大切な場である。一時間も自作詩を語れる場所はいまのところ何処にもないからだ。
今の私はガンの治療の為に聲を毎日出している。聲をだすことがいかに健康によいことか。そのためにも複式呼吸を身につけることである。
詩誌受贈『鹿・121号』
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