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2010年11月30日 (火)

田川紀久雄日記

朗読を行う人たちの中で、日本語の聲の発聲について真剣に考えている人が何人ぐらいいるのだろうか。聲が届かないということは、聲が大きいとか小さいとかの問題よりも、呼吸の使い方がv間違っているからである。倍音がでていれば、聲は遠くまで響いてゆくものである。謡曲や義太夫の聲を聴けば一目にわかることだ。西洋的な聲の出し方とはまったく異なっている。マイクというものが出てきて以来日本人は自分達の聲の出し方を忘れてしまった。
義太夫のCDが一杯あったのが引越しをするたびに無くなっていってしまった。もういちど自分の聲を見直してゆきたい。迷い続けていることは、それだけ日々成長している証拠である。テキストも大切であるが、やはり聲のもつ力を信じて生きていたい。聲のなかに思想は詰まっている。そのひとの聲でその人の人間性が見えてくるものだ。
『詩人の聲』は確かに聲の力で勝負する場である。楽器もマイクも使わず、その人の聲だけでテキストを聴かせる。その経験は私にとっても多いに役立ったと思う。聲を真剣に求めている詩人にとっては大切な場である。一時間も自作詩を語れる場所はいまのところ何処にもないからだ。
今の私はガンの治療の為に聲を毎日出している。聲をだすことがいかに健康によいことか。そのためにも複式呼吸を身につけることである。
詩誌受贈『鹿・121号』

2010年11月29日 (月)

田川紀久雄日記

一つのものにこだわって生きぬことはどれほど大変なことか。あきらめれば、その時点で終了ということになる。そこには大きなスランプの時期もある。なかなか人に認められない時期がある。それらの困難なことを一つ一つ乗り越えてこそ目指す世界に近づける。目標に近づけるのには、温かく見守ってくれる人がいることが必要である。しかし、詩語りの世界では、温かく応援をしてくれる人があまりにも少なすぎる。お付き合いで一回行けばそれで義理が果たしたと思っている人の方が多い。夢を持ち続けることは、その状況を乗り越えなければ、その先が見えてこない。世間でいわれている、持続こそが力なり、という言葉はやはり真実な言葉だ。他者との闘いではない、あくまでも自己との闘いが夢を叶えてゆく力でもある。どれだけ人より強い意志を持って生き抜くかが問題である。
いま浅田真央さんは、一番辛い時期だと思うが、これを乗り切れば凄い選手になる。安藤美姫もそれを乗り越えてきている。彼女らの年齢では大変な精神力の持ち主だ。失敗をどう受け止めて生き抜くかがその人の人生を決めてゆく。先日のボクシングも大きな夢を見るものに与えてくれた。
ガンに負けないで生き抜くことも、同じ病の人たちを勇気付けるものがある。だから私はこの詩語りに向けて闘い続けなくてはならない。先日のライブのとき立ったまま語りができた。普段は座って練習をしている。しかし翌日は腰が痛かった。二階の階段を登るのがつらかった。

2010年11月28日 (日)

田川紀久雄日記

このところ子供の自殺が多い。いのちの大切さを叫ぶ前に、人への思いやりが大切である。大人の世界でも虐めが多い。人は割りに自分に気付かないうちに人の心を傷つけていることがある。言葉はある面で凶器になる。つねに日頃から人と人との信頼に勤めて生きていないと関係性は簡単にくずれてゆくものだ。
世の中が不景気になってゆくと、あれこれと心が荒んでゆく。人の心は弱いものである。今の若い者達はどれだけの読書をしているのだろう。読書は心を鍛えるのに役立つ。いなは古書店でほんは安く手に入る時代だ。それなのに、本は売れない。ゲームで遊んでいるようでは心は貧弱になってゆくだけだ。電子書籍がどれだけ若者達の文化を変える力をもっているのだろうか。私は大学の時、授業にでることより、図書館で本ばかり読んですごしていたものだ。いま思えばその頃が自分の人生への道をきめていったのかもしれない。学校は中退したが、学校だけが人生にとって必要なものではない。大切なことは、自分の好きな道を続けて生きていけることだ。詩など書いていても何の役に立ちはしないという人もいるが、決してそうとは言い切れない。役とはその場合の意味は食にありつけるかという意味でしかない。イエスも言っている。人はパンのみで生きているのではないと。このことの意味がわかって行動する人になることが必要なのである。今の私は詩語りをもとめて生きている。応援してくれる人は少ないが、そのようなことはそれほど重要じゃない。自分がそれを求めて生きている今に意味がある。今を真剣になって生きていることが、明日の希望を生み出してくれる。そのことが免疫力を高めてガンを抑えてくれる。

2010年11月27日 (土)

田川紀久雄日記

風邪を引いたようだ。昨夜はねっぽかった。それに鼻水がでる。夜中は咳が止まらない。久しぶりの風邪だ。
いまのテレビは存在理由があまり感じられない。スポーツの実況にしても録画をつかうことがある。いまインターネットと現実の状況を同時進行で知ることができる。映画の放映にしても途中でコマーシャルが入り見た気がしない。それにくだらないコメンテーターが出てきてろくなことを言わない。彼らがいまの日本を悪くしている。
信州日報に『島村洋二郎の詩について』が載る。新聞を通して自分の考え方を伝えていければありがたいものだ。原稿枚数がすくないのはいたし方が無い。正月の新聞には「いのち」のことについて書いた。新聞の記事は誰もが読んでも解りやすいことが求められている。書くことの勉強になる。
操車場の原稿、坂井信夫さんから送られてくる。
他人のブログを読むことは、その人の生き方を知ることが出来る。いまどのようにして生きているのか、そのことに興味が引かれる。しかし私はほとんどブログを見つけることが出来ない。パソコンの使い方がうまくできないからだ。いまだメールのやり方も出来ないでいる有様だ。

2010年11月26日 (金)

田川紀久雄日記

野間明子さんから先日のライブの感想が送られてきた。私たちが感じていたことと同じことを言ってくれた。ちゃんと言ってくれることは本当にありがたい。ただの批判だけなら意味はない。でも長く付き合って聴いてくれているのでアドバイスも活きている。
北朝鮮による砲撃事件で、軍事産業が復活されては困る。そのあおりで朝鮮学校の授業料の無料化が歪んでしまう。日本の外交力の低さに唖然とされる。
いま日本経済は冷え込んでいる。スパーに行っても人気がない。大学正の就職率も低い。未来に向かって生きていこうという熱意が感じられない。これではアジアの中で埋没してしまう。自信を失ったら大変なことになる。
昨夜山本陽子さんの夢を見る。彼女は「つらいよ、つらいよ」と叫んでいる。渡辺元彦さんが、操車場に参加して彼女のことを書いてくれればと思うのだが、いまは何の反応も無い。山本陽子全集の第二巻の在庫がまだあります。横書きの詩です。凄い詩ですよ。まだ読んでいない方は是非読んでいただきたいものです。

2010年11月25日 (木)

田川紀久雄日記

日本政府は朝鮮問題に対してはなんら打つ手はない。まるで他人事のようだ。もし日本に打ちこめられたらアメリカに鳴きつくしかないのがいまの日本である。
詩人である私は、武力には反対していかねばならない。いのちの尊さをまもるだけだ。ガンジーのように非暴力を貫いていくしかない。言葉は無力かも知れないが、それを守りぬくのも一つのあり方だとおもう。
語りについてエッセイを書き続けていると、何かが視えてくる。つねに考え、稽古を続けることによってしか視えてこないものがある。考え方と実践とはかけ離れているが、それを何とかしてゆきたいものだ。考え方も変ってゆくこともある。つねに試行錯誤の繰り返しだ。だれよりも下手な語りだからこそ、努力をしていかねばならない。
毎日生きていられるからこそ、努力が未来につながってゆく。一日がいかに大切なことか。ガン患者には一日を精一杯生きてゆくしかない。途中で終ったとしても生きている意味が充分ある。結果はそれほど大切なことではない。つねに夢を持っていきることに今を生きていられる。そのことが重要なのである。人への思い遣りを大切にして、人明かりの道を模索していきたいと願うだけだ。ライブを聴きにきてくださった方々には心より感謝したい。そして多くのものを学ばせていただいた。

2010年11月24日 (水)

田川紀久雄日記

妹の身体がいまは落ち着いているので少し安心した。他者の身体のことは医師でないわたしにはどうすることもできない。妹のことを心配していたら泉谷栄さんから食料が届けられた。私にとってはとても助かる。
先日のライブで何とか相棒の給料日まで生活費が保つことができた。語りを行なうことは私にとって生きていることの意味の証である。身体が動けなくなるまで語りの道を究めてゆきたい。私の語りは詩人達のものとは異なる、そのことに私の行なっている意味もある。理解されることは難しいが、これしかほかに道はない。
聲の出し方も詩人達には何もわかっていない。日本語は日本語の発声法がある。腹式呼吸で聲を乗せてゆく。今の人はこの複式呼吸も解らないひとが多い。日常的な会話の聲は、舞台の上では聲が遠くまでとどかない。ただ眼のまえにしか響かない。会話の聲は、眼の前の人のみに聴かせるためのものでしかない。そのような聲の出し方で詩は語れない。日常的な聲が良いと言う人は、舞台で行なうことの意味をまったくわかっていないひとだ。聲を肉聲で会場全体に響かせることの意味をしらないからそういうのである。聴こえなければマイクを使えばいいじゃないのと言う。そのような考え方で詩の朗読を考えてもらっては困る。私は一、二時間聲を出し続けても聲を痛めることはない。聲をだしていても無理をして聲をだしてはいない。これは日本の独特な発声法によるからである。このことによって胃癌の治療にも役立っている。これは私の場合である。ガンの場所に常に新しい空気を充分に送り込むからだと思う。複式呼吸で聲を出すことは身体にもとても良いことなのである。

2010年11月23日 (火)

田川紀久雄日記

国民が期待した民主党とはあまりにもかけ離れてしまった。いくらねじれ国会だといっても基本的姿勢がなっていない。失業者があまりにも増えすぎている。日本の経済はどうなってゆくのだろう。
いま詩を語るということはどのようなことなのだろうか、という基本的な場に戻っていま考えている。これをエッセイで追い求めてゆきたい。
ビデオで私の映像が映っていなかった。ちょっと残念である。坂井のぶこさんのはDVD化にして発売する予定にする。題名が『浜川崎猫物語』(テキストつき)で定価2000円。信州日報・猫新聞(十二月発売)に掲載した作品が含まれている。なんとかして生活費を捻出してゆきたい。
詩誌『焔・87号』で金子秀夫さんが詩集紹介の欄で私の詩集『祈り』を取り上げてくれた。ありがたい。
韓国では詩集が120万部も売れたという話題が新聞に載っていたが、日本ではとても考えられないことだ。詩というものがあまりにも人々から乖離しすぎてしまった。生きている人の応援歌にならなくなっている。個人のことだけを書きすぎて大きな眼でものを見ないからだ。詩を語ることは、自己満足のためではない。語る質を高め、人々に語りかけるテキストを作ってゆかねばならない。現代詩という枠はあまりにも閉鎖された世界に落ちこんでいる。多くの人たちの痛みを引き受けながら聲を発する詩人になってゆきたい。魂の叫びこそが詩人の役目なのかもしれない。

2010年11月22日 (月)

田川紀久雄日記

ライブは稽古のときよりも数倍いろんなことを学べる。しかし基本は日々の精進である。詩人達の朗読を聴いていて一度も感動した記憶がない。それだけ朗読を人に聴かせることは難しいということだ。人を批判することは簡単だが、いざ自分が行なってみると上手くいかないものである。それと詩人同士の競争意識がないから、少しも進歩しない。それにお客自身の朗読に対するイメージが一定化している。少しでも変った方法で朗読をするとそれを受け入れるのに抵抗があるようだ。つまり朗読文化そのものがまだ社会になじんでいない。それと今までの朗読を変えていくという気持をもっている詩人もいない。安心感だけを求めて聴きに来るようでは聴き方にも問題がある。私は今までの詩人達の朗読意識を変革してゆきたい。私のように考えている詩人はどこにもいない。だから私の語りを聴いて戸惑うお客がいる。これは上手いとか下手とかいう問題ではない。朗読とはもっと自由に考えてゆくべきだ。その値tt個には詩人たち自身に聲の力がないからだ。だから聲の力を持つ詩人を否定したがる。詩人達が聲の幅を考えるのに狭い領域しか考えていない。赤信号みんなで渡れば怖くないという考え方が根強い世界である。活字の上だけで自由を求めても、聲にも自由を求めないから詩人の詩はいつまでたっても社会性をもてない。詩人達は内弁慶である。ガン患者はこのような世界と闘っていく。悪いガンを取り除くしかない。人生は一回だけだから自由を求めて生きたい。

2010年11月21日 (日)

田川紀久雄日記

一年半ぶりの自作詩を語った。自分でも思ったより聲が出た。末期ガンでここまで聲がだせるということは凄いことだと思う。日本の聲は、やはり複式呼吸で行なわなければならない。聞き手もそのことを理解していない人がいる。語るということは、聲を響かせることでもある。聲を響かせることを嫌う人もいる。それは日常で聲を響かせる場がなくなっているからだ。詩人達の多くは、聲を響かせることを知らない。日常の聲が良いと思い込んでいる。語るということは日常の聲では駄目なのだ。
約四十分近く、聲の力が衰えずに語りが出来た。腰の痛みも忘れて立ったままできた。練習の時はいつも座ってしか出来なかったのが不思議に座らずにできた。これはある意味で奇跡だ。語ることはガン患者にとって身体的に良いことだ。精一杯生きていることの証ができた。
川崎詩人会の仲間達には感謝をしたい。そして聴きに来て頂いた方々に深くお礼を申し上げたい。ライブを行なうことで、まだまだ未熟な語りであることを痛感する。でもこの体験が前に進ませてくれる大切なものになる。お客に聴かせる芸を身にもっと付けていかねばならない。詩を聴かせることはとても困難なことだが、芸としてなんとか確立してゆきたい。ガンと闘っていくことはひたすら聲をだすことなのだ。

2010年11月20日 (土)

田川紀久雄日記

妹が大量の出血をしたと施設から電話がはいる。ポリープのガン細胞を内視鏡ではもう採り切れないという。横浜市民病院に来月の初めに行って医師と話し合うことにする。辛い話だ。妹も私と同じく長いガン生活を続けている。ガンはいつどうなるのかわからない。先日妹と会った時は何でもなかったのに。昨夜はほとんど眠れなかった。
今日は詩語りライブがある。一生懸命やるしかない。まだ席がありますので当日でも入場ができます。時間のある方は是非聴きに来てください。詩の朗読でお客を10人集めるのは大変なことだ。これほどマイナーな世界はない。それでもいのちを語ることは大切なことなのである。ガンである私はこれにすべてを懸けて生きている。妹のことを思うと、いのちについて語らなければならない。そしてガンで苦しみ悩んでいる人たちのためにも。弘前に住んでいる泉谷栄さんもつらい状態で生きている。
パニック障害で苦しんでいる人たちは、大変だ。とくに一人暮らしの人は仕事を失っても明日の生きる道すらないのが現状だ。国は本当に困っている人にまで手が届かない。最小不幸社会などと言っていられる問題ではない。国民であれば誰でも生きる権利がある。それを守るのが政治というものではないか。今の世の中は、自己責任で済まそうとしている。皆が助け合って生きてゆける社会はどこにあるのか。詩人であるわたしは何も役に立つことができない。せめて死にもの狂いになって詩を語ることしかできない。すべての虚しさを背負って生きてゆくしかない。だからこそ負けないで生きてゆくしかない。
詩集受贈『山本みち子詩集・夕焼け買い』(土曜美術社)

2010年11月19日 (金)

田川紀久雄日記

国会を聴いていると、国民は蚊帳の外に追い出されている。それと菅さんの聲にちからがない。眼も死んでいる。これでは総理とはいえない。障害者自立法案も早く成立させてもらいたいものだ。政治を魅力あるものにするには、国民の為の政治を真剣にやってもらいたい。いまのままだと各派の闘争しかない。法務大臣は辞任すべきであろう。
長谷川忍さんからライブの予約が入った。ありがたい。彼の朗読会に言ってあげていないのに、申し訳がない。ある理由があっていけないでいる。
信州日報のエッセイのゲラの校正ゲラが送られてくる。『島村洋二郎の詩について』である。いくらかでも島村直子さんのために応援してゆきたい。それ以上に洋二郎さんの絵がもっと多くの人たちに見てもらいたい。お金があれば漉林書房から詩のパンフレットをだしたいものだ。来年いちど東鶴堂ギャラリーで島村洋二郎のを詩を語るライブをおこなってみたいものだ。それから村上昭夫詩集も語ってみたい。そのためにも早く腰の痛みを治したいものだ。明日は田川紀久雄詩集『祈り』を語れる。予約者は少ないが、これからは語りの道を進んでいける。残されている人生を何としてでも一回でも多くやってゆきたいものだ。まだまだ語ってみたい人の詩集もある。夢だけでも大きく持っていたい。

2010年11月18日 (木)

田川紀久雄日記

午前中に病院へ行く。
JFEのバス停の前で猫が車にはねられて死んでいた。とても悲しい一日である。
今自殺者が三万2千人もいる。健康にために自殺をするひとが約半分の数にのぼる。介護つかれで死ぬ人も増えている。ますます老齢化社会になってゆく。国は老老介護の対策が非常に遅れている。すべて個人の問題にしている。私も妹の面倒をみるために仕事に就けなかった。そのために年金が支払えなく、この歳になって大変な思いをしている。親の介護で仕事を辞めていく人が多くいる。親の年金で生活をしていた人たちもいる。親の介護で仕事を辞めたひとに、国はいくらかでも補助ができないものなのか。これでは老いたら死ねといっていると同じだ。
それとガンで仕事を辞めさせられた人への対策がない。いまの私の生活の収入はほとんどない。誰かが詩集を作ってくれる方がいればたすかるのだが。相棒がアルバイトでなんとか生きていける状態だ。何とかせねばと思いながら生きている。いのちについて本当に詩語りのできる詩人になることだ。そのためには聲に温もりのなる聲を作りたい。いまはその闘いを続けていくしかない。
昨日見知らぬ人からライブの予約が入った。ありがたいものだ。

田川紀久雄日記

午前中に病院へ行く。
JFEのバス停の前で猫が車にはねられて死んでいた。とても悲しい一日である。
今自殺者が三万2千人もいる。健康にために自殺をするひとが約半分の数にのぼる。介護つかれで死ぬ人も増えている。ますます老齢化社会になってゆく。国は老老介護の対策が非常に遅れている。すべて個人の問題にしている。私も妹の面倒をみるために仕事に就けなかった。そのために年金が支払えなく、この歳になって大変な思いをしている。親の介護で仕事を辞めていく人が多くいる。親の年金で生活をしていた人たちもいる。親の介護で仕事を辞めたひとに、国はいくらかでも補助ができないものなのか。これでは老いたら死ねといっていると同じだ。
それとガンで仕事を辞めさせられた人への対策がない。いまの私の生活の収入はほとんどない。誰かが詩集を作ってくれる方がいればたすかるのだが。相棒がアルバイトでなんとか生きていける状態だ。何とかせねばと思いながら生きている。いのちについて本当に詩語りのできる詩人になることだ。そのためには聲に温もりのなる聲を作りたい。いまはその闘いを続けていくしかない。
昨日見知らぬ人からライブの予約が入った。ありがたいものだ。

2010年11月17日 (水)

田川紀久雄日記

報われない努力でも、それを維持していかなければ自分のものになってゆかない。努力を持続することが人生の一歩になる。何もしないで得られるものなどどこにもない。スポーツをみているとそのことが良くわかる。
詩語りももうかれこれ二十数年を経ている。なかなか上手くなれないが、ここまでこれたのも日々の努力のおかげである。その時は無意味のように思われても、その積み重ねが自信をつけてくれる。無意味だといって諦めてしまえば、詩語りの奥義がつかめないまま人生を終えてしまう。無意味だと思っていても、ひたすら持続するこしかない。急げばまわれという諺がある。
ライブに人が集まらなくても、行なってゆくことで大きな経験を積むことができる。でもこの仕事で病院代くらい稼ぎたいものだ。毎月の出費に苦労しているのも精神的に疲れる。ガンとの闘いの前に生活との闘いにまけてはならない。負けたくないから詩語りの稽古に身を削っていきている。人の心に響く語りをおこないたい。この辛い生き方がきっと身に役立ってゆくことだろう。

2010年11月16日 (火)

田川紀久雄日記

白鵬が63連勝で終った。稀勢の里に敗れる。庶民のインタービュで民族の偏見を多くの人がもっていることを感じた。日本の相撲には外国人も日本人もないはずだ。相撲というルールで行なっている。そこには強いものが勝つというルールしかない。民族意識を強く持つことは歪んだ見方しか出来なくなってゆく。朝鮮学校の無償化の問題にしてもそうである。中国で日本への反日感情のデモをテレビで観て嫌な思いをしてきたはずだ。心から偏見という見方を打ち消すことをしていかないと貧しい人間になってしまう。
ノーベル平和賞を受賞した人たちがヒロシマに集まって核絶滅のための集いがあった。そこで原発反対について一言も語られなかった。
私は一篇の詩を書いた。ヒロシマなくなったのは多くの生き物であると。人間だけがなくなったのではない。すべての生き物のいのちを見つめていかねばならない。多くの人たちが集まって反対運動をするのは好きではない。闘うのはあくまで個人として闘ってゆきたい。その闘う個人の先に人と人とが手を繋いでいければよい。初めから集団で反対するのは危険な思想につながる。いま詩人達を見ていると、先に集団があって、それに乗り遅れまいとして参加している詩人が多い。まずは個人の自立思想を築きあげていくことだ。

2010年11月15日 (月)

田川紀久雄日記

『詩と思想』1・2号に作品が載せてもらえることが一色真理さんから連絡がはいった。作品が紹介されたり、新聞に原稿が載せられることは、ガンにたいする免疫力を高めるはたらきがある。生きる歓びを感じることはいのちの歓びでもある。読者はどれだけいるかわからないが、小船が大海原に出ていくようなものだ。作品を発表するということは、見知らぬ読者と会う機会をつくることである。
ガンと闘って生きることは、多くの人の助けが必要である。だからといって人に甘えてはならない。その前に自分自身との闘い続ける日々がなくてはならない。その闘いの中から人に伝えたいものを生み出すことだ。それが作品として生まれてこなければ、誰にも相手にされなくなる。日々の語りの精進もそうである。精進をして生きているからライブを行なう気持が生まれる。ガンと闘って生きていることの素晴らしさを語りの中で伝えたいのだ。間寛平さんが地球を走り続けるように、私は語りを通して走る続けていたい。ガンに負けないで生きていられることを多くのガン患者にも伝えていきたい。死にたくはない。その気持がいのちの尊さを物語っている。私も人のためになれることがある。その道を最後まで貫き通して生きることが私にのこされた仕事である。多くの詩語りを行ないたい。その情熱でいまは生きている。

2010年11月14日 (日)

田川紀久雄日記

宇宙の誕生が137億年前のビッグバンから始まったという。137億年なんでなかなか想像ができない。まるで夢をみているような気がする。中国から黄砂が東京にも流れ込んでいる。中国大陸はどんどん砂漠化がすすんでいるのだろう。宇宙の変化のようにこの地球もどんどん変ってゆく。経済発展のために自然がどんどん破壊されてゆく。人間のいのちも自分達で縮めているようなものだ。
豊かさとは一体何んなのだろう。人間の豊かさをもとめて産業革命が始まったのに、逆に人間のあり方が貧しくなってきている。もういちど本当の豊かさとは何にかを考えてゆかねばならない。
信州日報から「新春随想」の原稿の依頼がある。短い文章であるがいのちをみつめることを書いてみたい。
Tさんのブログでいい朗読をした詩人がいたという紹介は、気持がよいものだ。彼が感動するような詩人が多く出てくることが私の語りにも張り合いがあるというものだ。彼は詩人が自主的に朗読に挑んでくることを待っているのだと思う。本気になって朗読と向き合うことがなければ、いくら聲をあげてもそれは長続きはしない。朗読は教えてもらえるものではなく、自力で掴み取るものである。
優れた詩集が送られてきた。北岡淳子詩集『鳥まばたけば』(土曜美術社)である。あとがきがとても良い。仔猫が四匹親と共に引っ越しして来たことが書かれてある。

2010年11月13日 (土)

田川紀久雄日記

大学を出たけれど職がない。昔はやった歌がある。まさにいまそのときより悪い状況だ。就職率が57パーセントだという。優秀な人材はどんどん海外に出て行く時代だ。経済も一国だけでは成り立たない。いま自由貿易化で揺れているが、世界の動きは自由貿易化に進んでいる。資源のないわが国は、大きな渦の中に巻き込まれてゆく。日本の企業もどんどんアジアの各地に拠点を移している。国内の就職率も悪くなるのは眼に見えている。
年金がない私にはどう生活をしてゆけばよいのか、先が見えない。出来ることは詩語りの出前くらいだ。ライブをおこないながら「いのち」についての話をしてゆきたい。人を感動させるライブができることが私の生命線である。それに向かって精進をしていくしかない。ライブまであと一週間だ。
野間明子さんの原稿が入る。エッセイで野間さんの専門分野のことを書いてくれている。ありがたい。
操車場の質の高い詩誌になっていく。毎月作品を書くということは、それだけ生きることに真剣でいられることを意味する。不幸であることは芸術家にとって素晴らしい世界を築くチャンスである。ゴッホ・ドガ・ランボーにしても恵まれた状況で作品を生み出してきたのではない。困難な状況で生み出された。作品が生まれることは生きたいという強い気持から生まれる。アメリカの捕虜収容所にいた日本人達は何もないところから素晴らしいものを生み出した。どんな状況下でも生きるためには美を求めて生きていくのが人間の魂である。

2010年11月12日 (金)

田川紀久雄日記

妹の施設への入居の再契約がすむ。
少し歩いたせいか足が痛む。階段を登るのがちょっと辛い。歳をとってくるとどこもかしこも悪くなる。
井原修さんから『裏町満歩』が送られてくる。本を上梓することは生きる張り合いに繋がってゆく。坂井信夫氏が解説を書いている。坂井のぶこさんも信州のうまれだが、誰一人信州の人とは関わっていない。信州からは出前詩語りの話は一度も入ってこない。最近信州日報にエッセイを載せ貰っていくらか関わりが出来た。
語りの聲をもっと温みのある聲にしてゆきたい。そして詩語りを聴くことによって癒される世界を築いてゆきたい。それにはひたすら聲を出すこと以外にはない。そのような気持を持って稽古に励むことだ。聲とはその人の人格でもある。人格は日々の積み重ねによって形成される。それゆえに心して語りと向き合わなければならない。この道は終ることのない旅でもある。その旅も楽しみを持って歩みたい。時には人に裏切られることもあるが、それにめげずに生きることだ。それをバネにして人は成長ができる。だから人を恨むことをしない。逆に感謝の気持で生きてゆくことだ。すべて良いほうに考えてこの道を生きていたい。

2010年11月11日 (木)

田川紀久雄日記

尖閣湾の映像の流出問題は、政府の対応のまずさにある。国民は知る権利がある。菅首相の市民的感覚は政治判断にはついていけない。ここに指導力のなさがある。43歳の男だけが逮捕されて罪を被るのは可笑しい。拿捕した中国人には何の責任も負わせず釈放したことに問題がある。経済的な摩擦をさけるために苦肉の策だと言う論理は市民感覚で政治的な感覚とか異なる。
円だかで大企業が次から次へと閉鎖されていく。海外に工場を移転する計画が持ち上がっている。ますます失業者が増えるばかりだ。失業者が増えるということは自殺者が増えていくことでもある。零細企業はますます大変だ。
野間さんから、友人に詩誌を送っても、詩はさっぱり解らないといわれたという。詩を読んでくれるひとは詩人しかいないのか。その詩人すら人の詩を読まなくなっているという。そして朗読にはほとんど見向きもしない。詩人達の心は貧しくなっている。詩にとって大切なのはリズムとメロディーである。つまりそこに音楽を感じるかどうかである。だからこそ、朗読の必要性がある。聲を出すことによって活字では味わえない本当の詩の心を感じる。朗読をする意味を詩人達は噛みしめてもらいたいものだ。詩人は発する聲こそいのちの響きでありたい。

2010年11月10日 (水)

田川紀久雄日記

群馬県の小学校でのいじめの対応について学校側の責任回避にあきれる。こどものいのちを守れない学校教育をもう何十年と見てきた。教師のほとんどが鬱にかかっている。戦後の社会は豊かになってきたが、精神的には貧しくなってきている。私も中学時代に苦い経験がある。それからというものは先生を信じなくなった。
朝鮮の無償化の問題で横田さんが反対声明をだした。なぜ横田さんたちは政治にくちを出すのだろう。子供の教育は同じ国に住んでいる以上平等でなければならない。横田夫婦を鋼管病院で見受けたことがある。新潟で拉致された現場を見た。拉致されたことの悲しさや辛さは理解できるが、考え方が一方的になっていてちょっとついていけない。
国会は予算問題の前に尖閣湾のビデオ問題で揺れている。予算を通過させてからビデオ流失問題を協議してもらいたいものだ。自民党が野党になると、いままでされていたことをやり返しているにすぎない。国民無視の国会である。
これから高齢化が大きな問題になってくる。昨日テレビでシェアハウスのことが取り上げられた。なかなか魅力的な考え方である。老人ホームはある意味では刑務所のような感じがする。閉じ込める政策より開かれる老人ホームを目指していかねばならない。そう意味ではシェアハウスは一つのよい例だと思う。

2010年11月 9日 (火)

田川紀久雄日記

落語をみていても少しも面白く感じられない。それはいま生きているという共感がないからだ。子供のころの漫才や落語は楽しかった。浅草の小屋もお客は少ない。みんなお年寄りばかりだ。テレビに出てくる若手の漫才などとても見ていられない。大切なのは自然に心から湧いてくる笑である。それがまったくない。笑いはガンの免疫力を高めるのは必要なものである。時代の流れがあまりにも早すぎてなにもかもついていけなくなっている。心の底から笑わせてくれるものが欲しい。
いま私が癒されているのは野猫との付き合いだ。野猫はなかなか人間には慣れないが、友達になれると楽しいものだ。猫にもいろいろと性格が違っていて観察しているだけでも楽しい。
指揮者のカラヤンは余りすぎではないが、若いときのカラヤンはいいものがある。それは情熱である。生きていることで感動を呼ぶのは、その人が生きている情熱感ではなかろうか。精神的な若さが失われた時、その人は老人の世界に足を踏み入れているのではなかろうか。老人でも若さを保っていられる人は、老人とは呼べない。生きる意欲を持つことはなかなか困難ではあるが、その焔を絶やさないで生きていたいものだ。それには好きなものを見つけて生きることだと思う。そして良き仲間を持つことである。歳をとるとなにもかもが面倒になってくる。この面倒だと思う心が老いの現象なのだ。好きなものは自らすすんでおこなうことである。そして友の為にできることは行なうべきだ。つねに前向きに生きていればボケの治療にもなる。同じ一日なら中味のある一日を過ごしたいものだ。

2010年11月 8日 (月)

田川紀久雄日記

ロッテが中日を破り優勝した。あきらめない精神が優勝に導いた。この勝因は何処にあったのだろうか。名古屋では負けの少ない中日がなぜまけたのか。原因はそこにある。ロットの負ける気がしない気持が中日より上回っていたからだ。技術力よりここまでくれば精神力の強い方に勝利の女神が微笑むものだ。
私も語りの精進になんども挫けそうになった。いまでもそうだ。諦めない気持がいまを生かしてくれるからだ。多くの人たちがガンで亡くなっている。ガンに負けない生き方が私には与えられている。詩語りに人が集まらなくても、負けずに生き抜くことががん患者に生きる希望を与えることができる。同情で語りを聴きに来てもらいたくはない。本当の芸を届けることができてこそ意味がある。その語りを聴きたいというひとが私の詩語りに来てくれれば良い。この世界はマイナーであるが、熱のある世界を届けてゆきたい。ただそれだけだ。
朝日の朝刊に間寛平さん全面の広告が載せてあった。『日本で増え続ける、前立腺がん。年間、約4万3千人に見つかっている病気です。』間平さんの写真はガン患者に生きる勇気を伝える。
私もいま多くの出前語りを行なってゆきたい。しかし、どこからも仕事が入ってこない。詩集『祈り』『いのちの聲』を多くの人たちに聴いていただきたいものだ。必死になって祈りの聲を鍛えてゆくしかない。これは人のためよりも、まずは自分自身のためにもだ。そしていま苦しんでいるガン患者と共に闘って生きていたい。

2010年11月 7日 (日)

田川紀久雄日記

アイススケートで安藤美姫が中国大会で優勝した。久しぶりの優勝だ。彼女はいろんな苦難に耐えながらつねに前向きで闘っている姿には心が打たれる。失敗をバネにして生きる姿は詩人達も学ばなければならない。
詩人たちの中に朗読に対してプロ意識をもつ人が出てこなければ、いくら朗読を行ってもお客はついて来ない。いつまでたっても垂れ流しの朗読会でしかない。朗読には詩人としての知名度など何一つとて関係がない。ひたすら精進する精神こそが褒められる世界である。権威と知名度を当てに朗読会を開いても虚しいものだ。そのような所に聞き行く詩人達の心も貧しいものだ。
高橋馨さんと尾崎寿一郎さんから操車場の原稿が届く。早く原稿が入るとありがたい。
いま私がどんどん原稿を書いているのは、ガンに負けないでいきたいという願いからかもしれない。書く行為は生きるということだ。そして語りの稽古ができることは生きている証拠だ。この二つのことが私に生きる免疫力を与えてくれている。つまり生きていることは、闘いの記録なのでもある。語りの稽古でも最近やっと言葉の奥のところからいくらか聲を出せるようになってきている。これから語りも面白くなっていける。どこまで行けるかわからないがコツコツと前に向かって歩いていくしかない。これもガン日記の心の記録になってゆく。

2010年11月 6日 (土)

田川紀久雄日記

佐野洋子さんが五日、乳がんのため死去した。72歳。やはりガンは怖い病気だ。とくに乳癌は怖い。しかしガンで亡くなったと思うより寿命だったと思ったほうが気が楽になる。日本のガンの治療はアメリカなどよりそうとう遅れているといわれる。私だって今どうなっているのか本当のところが解らない。つねに検査ばかり行なわれる。いまガンの影響でかもしれないが身体の調子があまり良くない。といって何処が悪いのかといえばはっきりしない。不安から来る病かもしれない。
生きるということはどのようなことなのかを、つねに考えながら生きている。座禅をすることは悟りを得るためではない。座禅はあくまでも生きている過程の一部にしか過ぎない。悩むことによって生きている意味の深さを知る。言葉でいう無の境地なども迷いの中に有時なのだ。私は座禅をしないが、語りの稽古は座禅と変わりがないと思っている。かたりを一心で行なっていても迷いは常につきまとっている。その迷いが語りを深化させてくれる。毎日おなじ事を行なっていても、心はつねに変化している。修行というものはこの変化と付き合うことである。生きている意味は最近この変化を最期のときまで見つめていくことであるような気がしている。語りは何回やったから上手くなるという世界ではない。いや語りの道を求めれば求めるほど下手になってゆく。
昨夜平均律をクルードの演奏で聴いていたが、この演奏に疑問を感じた。この演奏はバッハが求めていた演奏とは違うという感じが湧き上がってきた。一音と一音の間をいかに美しく演じるかではなかろうか。神の心のように愛に満ちた音を生み出すことがバッハを演奏する音ではなかろうかと思った。このことは語りの世界でも言えることだ。しかしそのような語りはなかなか出来ない。一つの道はあまりにも遠いすぎる。しかし一歩一歩すすむしかない。
佐藤文夫さんから詩集代が送られてきた。ありがたい。次のライブで漢方の生薬を買いたい。そのためにはお客が来てくれないと買えない。私の聲を聴きに来る人が増えてくれればと祈るだけだ。

2010年11月 5日 (金)

田川紀久雄日記

いろんな秘密映像や文章がもれてインターネット見られる世の中になってきた。このインターネット情報はどのように手に入れるのだろうか。中国などもこのインターネットで国の存亡が左右される。共産党が躍起になって取り締まるのも頷ける。
老後の問題で住所を知りたいとおもってもプライバシーの問題で役所は教えてくれない。そのために孤独死を招くこともある。プライバシーは大切かも知れないが、福祉に関しては大きな障害になっている。また認知症患者に物を売りつける悪徳業者も多くいる。情報という問題でいろいろと考えされることが多い。通信販売でものを買うとおとから次から次へとチラシが送られてきたり、メールどんどん送られたりしてくる。
私は文章を書く以外は出来るだけパソコンを使用しない。
電子書籍がこれからますます増えてくる。紀伊国屋書店でも電子書籍を始めるという。機械が壊れればその情報も消えてしまう。電子書籍としてはここが困るところだ。メモリーカードのようにパソコンでも使用できるものであれば良いのだが。部屋が本だらけで困っている。詩誌なども電子書籍化できればありがたいのだが。未来のパソコンはどのようになってゆくのか見当もつかない。どんどん便利になることは、ものを大切にしなくなることを意味する。本そのものの愛着は我々世代の人間にとってなくなる事はない。

2010年11月 4日 (木)

田川紀久雄日記

アメリカの民主党が大敗した。オバマさんの夢は消え去った。黒人であることを批判できないので、経済政策の失敗を理由に共和党に票が集まった。自然環境の対策もこれで遅れる。悪い意味での保守が蔓延るとその国は滅びる。
神奈川県には、相模人形芝居がある。いま中高生がこれを受け継いで次の世代に伝えようとしている。いま五座があって活動を行なっている。一度見てみたいものだ。
操車場42号を発送する。製本するのは疲れるが、出来上がるのを見ると嬉しいものだ。安いワインで乾杯。作品を発表する場があることは生きる張り合いになる。参加費(二ページまで)五千円、普通の詩誌に比べれば安い。毎月発行なのでなかなか値上げができない。
福島原発で事故だ。原子炉が止まる。安全だというが本当は解らない。周囲の住民には細かいことは知らされない。ただ安全ですと答えるだけだ。未来に向けて原発に頼らない電力を生み出すことに日本政府は力を入れてもらいたいものだ。
いま円高だが輸入品がそれほど安く売られていないような気がする。美味しいワインを飲みたいものだ。ボウジョレヌーボーが入ってくるが二千五百もすると、わたしのような貧乏人には手が出ない。チリの安いワインを飲むしかない。白ワインには牡蠣がうまい。今年の牡蠣は実が小さくでイマイチだ。青森のホタテの養殖は全滅だという。原因は海水の上昇である。牡蠣も全国で被害が大きいといわれている。携わっている漁民になんとか政府からの援助の手が差し伸べられないものか。また、農家も米に質に低下で大変である。どこもかしこも困っている。グルメを求めて歩いているオバサンたちをみていると腹がたってくる。

2010年11月 3日 (水)

田川紀久雄日記

いろんな賞があるが、そのほとんどがまやかしな感じがする。詩人の賞にしても同じことがいえる。一度も賞など貰ったことがないので僻みのように思われるかもしれない。賞はもらいたいと思わないが賞金が欲しい。賞金をもらうということはやはり賞を取らなければもらえない仕組みになっている。
語りの稽古がこのところ楽しくなってきた。それはある水準を超えてきたからであろう。ひたすら積み重ねることによって得られる境地である。この世界でやはり一番になりたい。仕分けではないがなぜ二番でなければないけないのか、という愚かな質問を投げかけたが、一番になるという意識が高見を目指す人には大切なことなのだ。一番になるということは誰よりも努力をしていなければなれない。一番多く努力したからといって一番になれるものでもない。そこにはやはり才能が必要だからだ。才能の全くない私はただ努力以外にこの道を究める方法をしらない。それは聴いていただくお客に対して感動を伝えたいからである。仏教でも言葉でいうように悟りがそう簡単に得られるものでない。煩悩の中に求めていく以外はないと道は開けない。これでいいという境地はどこにもない。ひたすら求めていく以外には芸の深さを増すことができない。一生かけても足りない。少しでも高見を目指して生きていることに生きる豊かさを得ることができる。
詩誌受贈『衣・19・20号』

2010年11月 2日 (火)

田川紀久雄日記

朝の四時に空を見上げると、星が美しい。オリオンもはっきりと見えた。
耳かき殺人は無期懲役になった。死刑反対の立場から言えばこれでよかったと思う。死刑囚は刑務所での生活は、我々が思っている以上に厳しいものである。人によっては死刑になった方が楽なこともある。何回も言うのだが、無期より百年ぐらいの刑がいいと思う。
埋田昇二さんからDVDの注文があった。ありがたい。最後のビデオ撮影が一年半まえである。身体の調子がそれほど良くはなかったが、精一杯行なった。十一月のライブは心のゆとりをもって楽しく行ないたい。そのためにはやはり聲の力が安定していなくてはならない。聲は本来生で聴いてもらいたいのだが、遠くの人にはDVDしかない。ライブの時の空気まで映像では伝わらない。わたしも多くの詩人達のビデオを見たいと思うがなかなかないものだ。
操車場の原稿が集まった。今日から印刷に取り掛かって五日頃までには発送ができそうだ。毎月詩誌が出せることは生きる勇気を与えてくれる。多くの人がブログ日記を読んでくれていることに感謝をする。前向きに生きていられる間は、このガンに負けないで生きていける。他者から私の身体を見れば、田川さん思ったより元気ですねといわれるが、胸の痛みや、腰、膝の痛みでつらい。でも語りの稽古を続けていられるのだから、元気だといえる。完全に体調が良いときなどないのだから、なんとか誤魔化しながら生きてゆくしかない。

2010年11月 1日 (月)

田川紀久雄日記

日本はベトナムに二基の原発を売り込む。私はなんだか悲しくなる。もし日本製の原発で事故でもおこしたらいったいどう責任を取るのだろうか。日本は自然利用の発電は開発していかなくてはならない。世界中で原発ができたら。かならずどこかで大きな事故がおきる。その対策もできていない。日本は技術力を高めていくしかない。そのためには国がもっと研究費を支援しなければならない。
国民から民主党離れがおき始めている。思い切って政治改革ができない。自民党のほとんど変わりがないではないかと思われ始めている。菅首相の指導力が問われている。
語りの稽古をしたいと思っても公園では思うように出来ない時がある。お歳よりはなぜ人の邪魔をするのか。こまったものだ。都会生活ではなかなか思うようにできる場所が少ない。確かに人の聲は、日常では違和感を覚える。まして何を言っているのか解らない詩を大聲ではなかなか出来にくい。そして雨が降れば出来ない。だれだって条件が悪い中で稽古をしなければならない。稽古を積み上げる以外には、聲を鍛える方法がない。どれだけ多く行なうかで朗読の力の差がついてくる。他人に変なように思われても行い続けるしかない。いくらライブを行なっていても、稽古を積み重ねない人の朗読は所詮聴けたものではない。稽古を一回でも多く行なっている詩人の聲は人の心を掴む聲に変ってゆく。そのような詩人と手を組んで詩語り公演をできればと思う。

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