田川紀久雄日記
いま歌舞伎の世界は凄い。中村勘三郎の「佐倉義民伝」は満員である。もう当日券は手に入らない。またロンドンで行なわれている海老蔵も評判が良い。人を感動させるものは、やはり評判が良い。
詩の朗読は、まったく庶民からは受け入れられていない。それはほとんどが素人でしかない。素人でもよいが、それなりの研鑽もなければ朗読に対しての厳しさも感じられない。誰の為に朗読をしているのかさえ感じられない。眼の前にお客がいることすら忘れている。『詩人の聲』は自作詩を一時間ほど朗読を行う。それは詩人にとって大変な経験になったいる。しかしその後のケーア(反省会やアドバイス)が足りない。もうそろそろ五百回を迎えるのだから、主催者側での厳しい評価も必要になってきている。それは取りも直さずお客に対しての礼儀でもある。私があれこれ言うと嫌がるかもしれないが、それを受け入れる大きな器も必要ではなかろうか。どこの詩の朗読会に行っても、その後の勉強会など行なわれたことがない。『詩人の聲』はそれなりの苦労もある。それを乗り越えて五百回も続けてきたことはひとえに天童氏の功績である。残念なことは殆どの詩人達が、応援しないことである。聴くことも学ぶことであるのに、朗読を行っている人さえ聴きに出かけないのが実情だ。私はもう呼ばれることはないが、『詩人の声』に参加している人たちが大きく成長をすることを期待する。明日は紫圭子さんが行なうが、新しい詩集をどう読むのだろうか。とても良い詩集なので期待したいものだ。でも私は聴きにいくことができない。残念である。詩人のひとりひとりがどう朗読と向き合うかを真剣に考える時期にきている。いい加減に行なう詩人は朗読の世界からさっさと去ってゆくべきだ。
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