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2010年2月28日 (日)

田川紀久雄日記

チリで大地震が起こる。沖縄でも震度五弱の地震があった。地球が人間に対して怒っているのかもしれない。
オリンピックで日本が勝てないのは、趣味の延長にスポーツがあると思っているからだ。国の予算があまりにも貧弱なのだ。アルバイトをしながらしか自分の行ないたい世界を求めていくしかない現状をなんとかしなければならない。スポーツは人に、夢を与えるものだ。国民全体でスポーツを支える土壌が求められている。
詩の朗読の世界にしても、稽古を行なう場所がなかなかない。大きな聲を出して思う存分にできる場所を確保することが難しい。人に聴いてもらえる演技ができるには日々稽古ができる場所が必要である。施設の会議室などを借りても大聲を出すことは禁じられている。日本は文化に対しても冷淡である。人に評価されるまでには、並ならぬ苦労がつきまとう。マイナー的なものは、評価されたとしても生活に結びついていくことが難しい。それを超えて生きることのできる人だけが人生の勝利を掴み取れる。

輝いて生きている人は
人に夢を与えることができる
輝くことでもっと謙虚に生きられる
愛が輝くことを助けてくれる
人々の愛の中で光が生まれる

2010年2月27日 (土)

田川紀久雄日記

久しぶりの雨らしい雨が降る。床の中で雨の音を聞きながら起き上がるのも風情があってよいものである。今年は春が早く来るという予報だ。やはり温暖化の傾向の影響なのだろうか。
二月も今日で終わりだ。そして国会もやっと討論らしい討論がおこなわれた。民主党の政策がほとんど行なわれていないのに、政治とカネの問題で支持率が落ちてしまうのはやりきれない。
足腰の痛み、それから指のリュウマチの痛みで身体がだんだん悪くなってくる。末期癌はいまのところ進行が止まっているので一安心だが、生きていてはり不安感はある。夜は変な夢ばかりを見る。ぐっすり睡眠をとることができない。つねに疲れている感じがする。せめて毎日モーツァルトのピアノ協奏曲を聴いている。モーツァルト全集をCDで持っているので今は心の救になっている。山本萠さんのことが心配だが、今の私には何もしてやれない。近くに住んでいればお茶でも一緒に飲むことができるのにと思うと残念だ。彼女からはいろいろと応援してもらっている。オリンピックの選手のように、生きていることは大勢の人の支えの上で成り立っている。つねに多くの人に感謝の念をわすれないようにして生きていたい。身体が悪いと、多くの人に迷惑をかけてしまっている。仕事の上でもドジを侵してしまっている。気を付けて生きているつもりでも、何かが抜け落ちてしまう。自分自身にも情けないと思っている。

2010年2月26日 (金)

田川紀久雄日記

午前中に病院に行く。
坂井のぶこさんの給与が七万五千円である。生活が厳しいが、『嶺』の仕事が入ったので三月はなんとかやっていけそうだ。毎月綱渡りの生活である。人から見れば面白く見えるだろう。日本の未来も昨日の朝の濃霧と同じだ。国民全体が不安にかられていると思う。
だから生きて行くための力になれる詩を書きたい。嫌なことを忘れて心に歓びを与えたい。「歓喜の歌」を書いたシラーではないが、魂の歌を求めてゆきたいものだ。ベートーヴェンの交響曲第九番のように苦悩から歓喜への世界を心の中で求めたい。青年時代に読んだ『ジャン・クリストフ』をもう一度読んでみたい。多くの小説から生きる糧を得てきたのに、最近ではほとんど小説を読まなくなってしまった。それは眼の衰えもある。いや心が衰えてきているのかもしれない。
新保哲夫さんから操車場の原稿が入った。亀岡新一さんについてである。もうすぐ一周忌になるという。命日は四月三日享年六十九である。出来れば彼の詩の語りを行ないたいものだ。せめていつもの公園でここしばらく亀岡新一さんの詩を聲にだして語ってゆきたい。亀岡新一さんのことをもっと知りたい。

2010年2月25日 (木)

田川紀久雄日記

歳を取るということは、それだけ身体のあちらこちらに具合が悪くなる場所がでると言うことだ。癌の不安より、歳をとることの恐ろしさを感じる。物を書く人は、やはり精神的に欠陥を持った人が多い。そういう私も欠陥人間である。つねに不安を感じて生きている。不安との闘いの中から新しい生き方を見出そうともがいている。心が落ち着いている時は、物を書いているときぐらいだ。それは鏡に自分の心を映し出そうとしているからである。美人が自分の顔を鏡に写してうっとりしているさまと似ている。だから、物を書いている姿を人に観られたくはない。
猫嫌いの人の心は私には理解ができない。餌を与えている時、猛烈に止めろという人がいる。その言い方がまた人を脅迫するかのようなのだ。猫が保健所に訴えられることを怖れて何もいえない。猫を飼うことができれば、つれて帰りたい。猫のいのちも人のいのちも全く同じ価値なのだ。生まれたいのちはあの世からお迎えがくるまで生きる権利がある。誰にも殺す権利などがない。ようは避妊を街ぐるみで行なえれば一番良い。人間の都合で飼い猫が捨てられたりする。街を歩いていて猫が日向ぼっこをしている姿を見るとなんだか心が豊かになる。あくまでも自然の風景の一部なのである。どんないのちも粗末にしてはならない。猫は人の心を癒してくれる生き物なのだ。

2010年2月24日 (水)

田川紀久雄日記

原子力を止めないのは、外国に売り込むために推進している。もんじゅの再開も行なわれる。核の恐ろしさを一言も説明されなくなってきた。いくら平和利用といいながらも、危険度は大きい。人間が行なうものには、つねに欠陥がある。トヨタの安全神話がくずれようとしている。アメリカにはめられたような気もするが、やはり安全神話の上で胡坐をかいていた。対応の遅れがこの問題を大きくしてしまった。人間には失敗を隠したいという本能がある。車の轢き逃げの多発も、人間性の弱さからきている。人間性の弱さを忘れた時に、大きな事故が起こる。
曽我梅林に行ったが、少し歩いただけで足が痺れてしまった。別所まで行かずに途中で引き返してしまった。でも曽我までいけたことは楽しかった。道祖神があった。とても珍しいものだ。眼の前の富士山が霞んで見えたのが残念であった。
デパートもコンビにも売り上げが落ちている。物を売るという商売は難しいものだ。詩人達も詩集をやたらに謹呈するのではなく、売る姿勢をとっていくようにすれば、詩そのものも変わると思う。なぜ詩集が売れないか身をもってわかるからだ。読んでも楽しくも面白くもないものはやはり売れない。売れる詩集が良い詩集とはいえないが、売る姿勢も大切なことだと思う。なんのために定価がついているか、もう一度考えてみてはいかがなものか。

2010年2月23日 (火)

田川紀久雄日記

長崎知事で民主党が敗北したのは、小沢幹事長の金の問題である。やはり国民は、この問題が決着しないかぎり、内閣支持率も落ちていかざるをえない。それにしても自民党は勝ったからと言って国会を欠席するとはあきらたものだ。こんな自民党だから人気が上がらないのだ。自民党が勝利したのではなく、政治とカネの問題に国民が一票を投じただけの話だ。
操車場に、秋葉長榮さんと冨上芳秀さんが参加されてくれた。本当にありがたい。秋葉さんは山本萠さんのお陰である。手作りで作成しているので、これ以上増えると、田川紀久雄日記の掲載ができなくなる。30ページ程度が手作りでは限度である。
最近血糖値が高くなってきているので、コーヒーには砂糖を入れないで飲んでいる。歩いていても急に足が痺れたりする。毎月の検査で悪いところが直ぐにわかるので、検診はありがたいものだ。散歩をしなければないけないといわれるが、なかなかできない。そこで今日は梅を観に下曽我梅林に行く。自然の中を歩いてみたい。
詩語りで、どうしたら人の心に癒しをあたえることができるのだろう。心の優しさを伝える中できっと一つの輪ができると信じたい。お金で買うことのできない心の温もりをつたえることができれば、と思いながら生きている。

2010年2月22日 (月)

田川紀久雄日記

川崎詩人会で長編詩のアンソロジー集が四月に上梓される。日本詩史のうえで今までなかった試みだ。三百行近い詩が八人の参加である。どのような本が出来上がるのか楽しみだ。参加費は苦しいが、画期的な試みには参加してゆきたい。これは宇田禮さんの提案でうまれたものだ。
なんでもそうだが、何か一つのものに打ち込んで生きてゆくことは大変なことである。特に芸術とかスポーツの世界では、飯が食えなければ単なる趣味としかみなされない。そんなことをいつまでやっているのよと、身内からも非難の聲があがる。オリンピックに参加したからといってほとんどの選手にはお金がはいらない。会社の仕事を止めてアルバイトをしながらオリンピックに参加した選手も多い。
詩の朗読も、いくらやってもほとんど仕事が入り込まない。詩の世界で命懸けでおこなうものではないといわれる。初めから遊びも世界でもある。そんないい加減な世界に人々は振り向かないのも当然である。詩は行なうことにはやはりお金がかかる。同人詩誌に参加するにも参加費は自己負担である。そのうえに詩集でも上梓しようと思うとそれそうとうのお金が出費する。それに周囲の温かい応援がなくでは何もできない。やはり大変な世界なのだ。
私は限られたいのちの中で詩を書き、詩語りを命懸けで行い続けていたい。詩集を売り、詩語りの出前を行いいのちの尊さを訴えてゆきたい。生きることはやはり命がけの世界でありたい。

山本陽子全集二巻の申し込みは漉林書房まで
川崎市川崎区鋼管通2-3-7・2F

2010年2月21日 (日)

田川紀久雄日記

今日は午後から川崎詩人会がルノアールで行なう。
田島支所の櫻が満開である。そして姥が森の櫻も花が開き始める。やっと寒さの峠はさっていった。気分的にも楽になる。
夜中寝ていてもいろんなことを考えるせいか、朝頭がくるくるする。
胸の痛みもいくらか薄らいできた。詩語りの稽古も気をいれて行なっていかねばならない。だれにも真似のできない世界を作り上げたい。心にもっと多くの光を集めることに集中しなければならない。
オリンピックを見ていると学ぶことが多い。彼らは賞金が入るわけでもないのに、無心で頑張っている姿をみると気持がよい。それにしても日本はスポーツにはお金をかけない。それでメダルを取れというのはちょっと虫が良すぎる。政府の中にスポーツ省を設けても良い気がする。まだまだ無駄なお金が使われている。
生活費がやはり苦しい。ミニ冊子を作って売ってゆきたい。詩語りの仕事が入らなければ医療費もでてこない。坂井のぶこの『浜川崎博物誌』『田川紀久雄の長編詩』などを作ってゆきたい。定価は送料込みで五百円。四月ごろまでに数冊つくりたい。

2010年2月20日 (土)

田川紀久雄日記

公園の落ち葉が自然に生きて循環すべきであるのに、市の公園化は落ち葉を綺麗に掃除をしてしまう。緑の公園と名づけられていても、何も機能がされない。何でもかんでも綺麗にすることがエコと思い込んでいる。自然はなるべくそのままを維持することに意味がある。いまエコが経済と結びついて無駄が悪のように思われている。都会生活を続けていると息苦しくなる。足腰がよくなって自然の中を歩きたいものだ。
今朝の朝日新聞の朝刊に「犬・猫輸送中に殺処分」の記事がある。徳島県と奈良市での出来事だ。施設では殺さない。焼却しないと住民と約束をしていた。そのために車の輸送中に殺処分をしていた。これはあまりにも酷い話だ。この地球上の生き物の中で人間ほど救い難いものはいない。キリストのいう原罪を感じてしまう。

心の優しい人を見ると生きる勇気がわいてくる
心に神が宿る時人の心は美しくなれる
光はつねに人の心を豊にしてくれる
優しい心を失ったとき人は悪魔になる
優しい心を持ち続けることでやっと人は人になれる


2010年2月19日 (金)

田川紀久雄日記

昨日九時に病院にいって終わったのが一時頃であった。薬と診察代・その他で八千円も取られた。
浜川崎で猫が私の来るのを待っている。ランランの子供のピンポンパンたちである。私がいくと飛んで近寄ってくる。可愛いものだ。小笠原の野良猫は、避妊手術を百匹ほどしたという。野良猫を捕獲して殺すことだけはやめてもらいたい。どんな生き物にもいのちがある。いのちは美しいものである。
トヨタの欠陥問題で失業者が多数でそうだ。柳田邦男著『事実の素顔』を読めば、原子力事故や航空事故は、まったく単純なミスが原因であることが多い。人為的な事故が大きな事故を惹き起こしている。
自然を利用した形で発電が出来るように今向かっている。それなにプルサーマルがどんどん行なわれようとしている。原子力が使わなくても電力が賄われるようになってゆくのに、何故か時代に逆行している。原子力発電所を見ると、違和感を感じる。まるで巨大な墓場のようだ。事故が起こると必ず隠そうとする。これはいままで何度となく国民を裏切ってきた。人体には影響がないと報道をしている。そんなことは誰もが信じていないのに。

2010年2月18日 (木)

田川紀久雄日記

今日は、採血と定期検査の日である。
オリンピックの500メートルで銅をとった加藤条治に清水宏保は朝日新聞で厳しい批判を書いている。条冶は才能がある。その才能を活かすにはやはり厳しい努力が必要であることを清水は強調している。かつて加藤は「清水さん、あんなにつらいトレーニングをやらなきゃいけないなら、僕はスケートをやめます。楽して金メダル取りたいですね」といった。本気になってトレーニングをすれば金がとれたはずなのにと清水は思った。金をとることは並やさしいものではない。金をとった人を賞賛するのは、金をとるための眼に見えない努力に対して人々は賞賛している。その努力は我々が想像する以上のものであろう。
それに対して詩人達の朗読は、あまりにも悲しむべきものだ。少しも努力をしないで人から褒められたいと思う心は卑しいものだ。一瞬聲を発した時に、すべてがわかってしまう。黙々と積み重ねた努力の上にしかいきた聲は生まれてこない。朗読の教室にいっても詩人の朗読は何もならない。日々の努力がないところでは、人様に聴いていただく価値がないということをしらなければならない。聲が大きければ良いというそういう単純な問題ではない。身体と心が一つになれることが必要なのである。この一つになれるためには日々の精進しかない。人に感度を伝えるためには眼に見えない努力がすべてを物語っているといえる。

2010年2月17日 (水)

田川紀久雄日記

尾崎寿一郎さんから操車場34号の原稿が届く。ありがたい。逸見尚吉をひたすら追い続けている。そして今度の原稿は「ランボー追跡」である。漉林書房から『逸見猶吉 火襤褸篇』がでている。頒価1600円。
オリンピックは天国と地獄の世界である。メダルを取るだけが目的ではない。夢を追い続けることが大切なのである。そして多いに楽しむことである。ここに参加ができたことが素晴らしい。夢を追うということは、初めから終わりまで自己との闘いである。自己に負けてはなにも始まらない。感動を味わうということは、その人の隠れた人生のドラマとの出会いでもある。
大学卒業者の就職率も低迷している。そして派遣村の人たちの問題もほとんど解決ができないでいる。経済が上向きにならない以上、なにも解決ができないのだろうか。けっしてそんなことはない。政治というものはそのためにある。政治の力が本当に機能していないのではなかろうか。政治が機能するためにも、小沢さんには早く職を退いてもらいたいものだ。カネと政治の問題で国会がうまく機能が出来ないでいる。これこそ税金の無駄遣いである。それから国会の議員の定数を半分ほどにしてもらいたい。今の国会はあまりにも税金を無駄に使いすぎている。国の為に何をおこなっているのか解らない議員が多すぎる。

2010年2月16日 (火)

田川紀久雄日記

午後から妹に会いに出かける。定期的の会うことが大切である。
このところ本当に寒い日が続いている。電気ストーブ一つで寒さを耐え忍んでいる。釧路のホームレスの人がテレビで写されていたが、猫と一緒にいる。彼が施設に入れば、その猫を捨てていくしかない。動物と人間の間がつねに引き裂かれる。でも真冬の下で生活を続けることはある意味で死を意味する。動物と人とがなんとか一緒に住めないのだろうか。
詩でなんとか前向きで生きることをテーマにして書き続けている。いま大切なことは人生の応援歌である。心の底から生まれてくる応援歌でなければならない。言葉だけの応援かでは意味をなさない。そのことを書くということはやはり大変なことである。そこには苦しみや、悲しみ寂しさがなければ嘘になる。日々の生き方がそこには問われている。ここ数ヶ月でもう一冊分に詩を書いた。
ひたすら詩を書き続ける行為を持続する。詩語りの精進と同じように光を求めて自分を磨いてゆくこと、その行持こそが人生そのものでありたい。結果とか、人からの評判なんかは意味がない。一瞬一瞬行なう行為に意味がある。意味があるというより、生そのものの姿である。

2010年2月15日 (月)

田川紀久雄日記

月日が経つのが早く感じられる。といって日々が充実して生きているわけでもない。人の心は常に揺れ動くものである。したすら詩語りの道を究めたいと思って生きている。いまは誰も聴いてくれる人がいないが、雪道を一歩一歩進むような感じがする。進む先のことは何も考えない。業とはそのようなものなのだ。ただ行なうことが大切だけだということだ。ただ行なうことの中から人明かりの光が観えてくるものなのだろう。その光は無限の愛に満ちたものでありたい。
ダルマは壁に向かって座禅を続けた。それ以外に何もしない。何もしないかというと、そうでもない。座禅の中で仏の世界を伝えていたのだ。座禅から無限の光を照らし続けていた。そこに意味がある。座禅は意味など求めてはいないが、座禅とはそういうものである。まず揺れ動かない精神を養わなければならない。凡人である私には日々の生き方の中で、自分になることを求めて生きていくしかない。心の思うことを実行してはじめて生きているといえる。詩語りは、人と競争する世界でないから心が救われる。人明かりを求める生き方には楽しみを感じて生きていられる。この楽しみを多くの人と味わえることができれば、素晴らしいこtだ。苦しみの中から本当の歓びを掴み取れるのだと思う。心が迷いながらもこの詩語りの道を歩むしかないのだ。

2010年2月14日 (日)

田川紀久雄日記

今日は旧暦で一月一日である。どうりで寒いわけだ。
癌の治療は新薬で治るものもある。しかし新薬は保険が適応しない。。そのため薬代が払えなくなるケースが増えている。治る薬とわかっていながら買えない患者がいる。月に約十万円もかかるそうだ。リストラにあった患者にはとても支払えない。なんとかして保険の適用ができないものか。薬の開発には確かに膨大な費用がかかる。私も胃カメラやCTそれから血液検査などで、ほとんど収入のないので大変な思いをしている。それに漢方を取り寄せているので日々の暮らしがきつい。それに親指のリュウマチや足腰の痛みでこの寒さは身体にこたえる。早く春の訪れが待ちどうしい。
冬季オリンピックが開会したのに、気分がすこしも盛り上がってこない。テレビもみたいと思わない。過剰な国家意識が嫌いなのだ。日本がいくつメダルがとれるのかどうでもよいことなのだ。選手が精一杯行い、楽しんでもらえればそれで良い。スポーツの基本は楽しむことだ。昨日女子サッカーを観ていたが、ほとんど観客が入っていない。アジアの決勝戦なのに。日本が韓国に2対1で勝った。試合が終って両選手が並んで握手すうr場面があったが、韓国の選手は相手の眼をみながら握手をしていたが、日本の選手は相手の選手の眼をみようとはしなかった。試合に勝てばそれでよいというのは良くないことだ。

2010年2月13日 (土)

田川紀久雄日記

中国は鉄道が猛烈に発達している。どんどん高速鉄道が開発されている。香港の街をみても活き活きしている。中国の経済の発展は驚くべきものがある。日本経済は中国との経済を深めていく以外に、この日本経済を救う道はないように思える。日本のホテルもいま中国人が多い。秋葉にいけば中国人に溢れている。
日本の空港もなぜ新幹線を使って結ばないのだろうか。思い切ったことをしなければアジアから見放されてしまう。日本の優秀な技術は宝の持つ腐れになってしまう。インドネシアにしても、いま中国の企業がどんどん進出している。電力会社の工事もほとんど中国の企業に奪われている。日本はアジア外交にもっと力を入れるべきだ。インドにしても経済の発展は目を見張るものがある。そして文化交流を積極的にすべきである。資源のないわが国はつねに外国との友好関係を結んでいかねばならない。そのための努力がいまいち足りないような気がする。
高校を卒業しても仕事にありつけない人が多い。新規採用に問題がある。若いときからアルバイトの仕事しかなかったら、やはり結婚もできないだろうし、未来への夢がもてない。芸術家にしてもいまは大変な時代だ。絵を描いても売れない。それ以前に画廊が潰れていく。そして画廊主も自殺者もでる世の中だ。文化があまりにもお粗末な時代だ。詩人達ももっと夢を膨らませてゆきたいものだ。

2010年2月12日 (金)

田川紀久雄日記

いま世の中は死刑を行なう方向に向かっている。あまりにも凶悪事件が発生しているからかもしれない。だから死刑が必要だという論理はおかしい。永田洋子は死刑を確定しているが、いま脳腫瘍が悪化している。
死刑があるから、犯罪が少なくなるというものではない。犯罪は個人的な問題や社会的な環境などによって生まれる。学校教育でも倫理観をほとんど教えていない。いや教えられない社会になっておいる。大人同士の虐めが増しておる。それはリストラ問題である。そして就職難がますます社会不安を煽っている。いま若い世代のホームレスが増加している。日本中が砂漠化している。人間関係のぬくもりも消えている。貧富の差がますます増えている。月の収入も十万円以下の人が満ち溢れている。
詩人達には、温もりのあるあたたかい作品が求められているのではないだろうか。詩の朗読も言葉の上っ面をなぞるのではなく、言葉の奥に隠されてあるいのちを語られるようにならなくてはならない。そのことによって言葉の豊かさをとりもどさなければならない。活字を聲に出すことによって言葉の豊かさを検証していくことが大切なのである。眼で読むのと、聲をだして読むのとは天地の差がある。聲を出すことを忘れているから現代詩がいつまでたっても社会に拓けて行けないでいる。学校教育の中でも詩の朗読を教えてもらいたいものだ。詩壇でも朗読に対しては冷遇されている。そこにはやはり詩の朗読を教えられる人が存在していない。詩の朗読は、他の分野の朗読とは違うものである。役者や声優たちには詩の朗読は無理である。彼らは詩の朗読とは何かということを全く理解していないからだ。一番大切なことは『いのち』を伝えてゆくということである。そのためにどうしたら良いのかを考えていくことである。このことが出来ないのなら詩の朗読は何も意味をしない。本当に詩の朗読は難しい。だから挑戦していく楽しみが生まれてくる。いま挑戦してゆく詩人が一人でも増えてもらいたい。川崎詩人会に入会してもらえれば私がいくらかアドバイスをしてゆくる。

2010年2月11日 (木)

田川紀久雄日記

相撲にとってもっとも大切なのが伝統を守るということである。この伝統を疎かにしたら国技が成り立たなくなる。伝統というものは良い意味でつねに考えてゆくべきである。今日は建国記念日であるが、この建国記念日には疑問がある。天皇は宗教上の儀式や典礼を司る者である。今のいう天皇制とは関係がない。アジア・太平洋戦争であれほど国民が犠牲になったにも関わらず、いまなお天皇を慕う国民が多い。あの戦争の意味を国民が本当に理解していない。二度と戦争が起こらないためにも天皇を政治に利用されないようにしていかねばならない。平和を守るというのは生易しいものではない。ある意味では命がけのことである。それは国家権力との闘いでもある。大杉栄が赤旗を室内で振っただけでも逮捕され留置所に入れられた。「赤旗事件」で二年半もぶち込まれた。平和を守ることはどんない困難なことか。もっと歴史を学んでいかねばならない。
知識は大切であるが、知識のための知識ではなにもならない。詩語りでもつねに精進する日々があって初めて詩語りという言葉が生きてくる。知識を生かすには実践をしていきあなければ知識は身体の一部にはならない。いま知識と実践の間があまりにもかけ離れている。

2010年2月10日 (水)

田川紀久雄日記

立松和平さんが六十二歳で亡くなった。病名は多臓器不全である。彼の作品に『道元禅師』があるが、まだ読んではいない。手に入れて読んでみたいものだ。死が早すぎた。人の運命はやはり誰にもわからないものだ。
もんじゅが早ければ三月に運転を再開する予定だという。こんな危険なものを再開することには疑問がある。それに費用も年間150億もかかるという。なぜ政府は原子力発電を中止しないのだろう。CO2を出さないというのはペテンである。ゴミの処理もまだ何の解決策も打ち出していない。東京電力のテレビでの広告はまっかな嘘である。エジプト学者の吉村さんも研究費を稼ぐために広告塔になっている。日本は自然エネルギーを目指して研究していかねばならない。アンデスの山々も雪が消えている。世界中が水不足になりつつある。温暖化の問題は待ったなしなのに、大国のエゴで問題が先送りされている。地球のいのちより経済が優先する世界では未来がない。日本の森も荒れている。美しい森作りが求められている。失業問題も企業にだけ求めるだけではなく、この自然を生かす事業に雇用を生み出してもらいたいものだ。いま国会でもっと日本の未来を語り合ってもらいたいものだ。カネの問題で権力闘争を行なうのはもう飽き飽きしている。小沢問題も早く解決してもらいたいものだ。一番良いのは小沢さんが職を止めることだと思う。

2010年2月 9日 (火)

田川紀久雄日記

正法眼蔵の第十六に『行持』という項目がある。まさにこの行持という言葉は、いまという言葉の具体的な言葉だと思う。行持ということは環の世界である。ここには何も求めない心がある。修行はまさに何も求めない心が基調になっていなければならない。ひたすら精進をする。ただそれだけが一つの道を作り出してゆく。詩語りの世界もまさにこの行持の世界を貫くことで今を永遠化してゆける。
詩語りの仕事がないと、心が動揺してしまう。まだまだ未熟な自分を露呈してしまう。正法眼蔵は詩語りを行なうためには必読の書である。あせらずゆっくりと読んでゆけばよい。仏道と詩語りの世界はまるで同じようなものだ。行持の中で詩語りの輝くが生まれてくる。その光が人明かりを導いてくれる。
今月に入って詩を二篇書いた。詩も詩語りの道を照らしてくれる。自分の生き方を見詰めるにはこの詩を書くことが役立っている。
胸の痛みで熟睡できない。やはり生活の不安が心の隅で疼いているのだろう。これも詩語りの道を究めるための道だと思えばなんでもないことなのに。この行持という言葉の中に今があることを解ったことだけでもありがたい。無心で生きたいものだ。

2010年2月 8日 (月)

田川紀久雄日記

アメリカ経済に陰りがある。日本経済もそれに引きずられている。それに比べ、アジアの経済はものすごい。日本政府はアジア政策に遅れている。小泉元首相時代のアジア政策がここに来て痛手が現れている。ブッシュの飼い犬のような存在でしかなかった。アジアは貧富の格差が大きいが、それでも着実に経済は伸びている。アジアの人口がこれからの世界の経済を豊かにしていくことは間違いない。小沢さんは好きではないが、中国とのパイプがある。良い意味で小沢さんを使ってもっと中国との友好関係を作っていってもらいたいものだ。日本の経済を立て直すにはアジア外交が鍵になっている。
詩人達もアジアの人たちと手を組んでいくことも大切なのである。川崎詩人会の福田美鈴さんはネーパルとの関係を長年に亘って培ってきた。ネーパルの音楽家たちと組んで詩人の朗読会も行なっている。私も数回に彼らの音楽をバックにして語ってことがある。坂井のぶこさんお叔父さんもネパールに学校を建てたりしたという。川崎詩人会では韓国語の勉強をしたこともある。文化交流は大切なことである。小さな国の日本で詩人が威張ってみたところで大したことはない。みんなが仲良く生きていくことが大切である。

2010年2月 7日 (日)

田川紀久雄日記

私が生まれた昭和17年2月は、日本中が食料不足で大変な時代であった。闇値がどんどん高値をあげていった。配給だけでは飢えじをしてしまう世の中であった。軍事景気もほんの一瞬であった。戦争をして良いことなど一つもない。いま何処の食料品店にいっても大量の食品が置かれてある。日本は本当に幸せになったのだろうか。リストラ、零細企業の倒産、右をみても左を見てもつらい話ばかりだ。内閣不支持も増加する一方だ。明るい話はなかなか見つからない。その中でハイチへPKOの先発隊が出発したことだ。人を助ける運動をみると心が癒される。いま品物を買うといくらかの寄付金が加算されてあるものがある。そのような品物の売れ行きが好調だという。何らかのかたちで社会貢献できることは生きる勇気を与えてくれる。
詩語りもなんらかのかたちで社会貢献ができるといいのだが。そのためにも感動を伝えられる語り手にはやく成長してゆきたい。いのちそのものの素晴らしさを語ってゆきたい。

2010年2月 6日 (土)

田川紀久雄日記

古本屋では百円二百円で、読みたい本が沢山ある。いまの若者達がうらやましいが、彼らは本を読む気がないらしい。私の青年時代は、なかなか本も高くて買えなかった。室生犀星全集の第一巻(新潮社)を二百円で手にいれた。詩作品が入っている。犀星の詩にはうたのリズムがある。そして朗読がしやすい。しかし現代詩にはこのうたうリズムが乏しい。無理してうたう必要もない。そのことに大きな問題があるのだが。
いま文庫本の値段が高い。これは持ちやすいためなのだろが、活字が小さくて私には読みにくい。電子本がこれから普及していくのだろうか。私には電子本では読みたいと思わない。どんないい本でも古本屋にもっていくと古紙と同じ値段にしかならない。初版本ですら値がつかない時代になってしまった。本を愛する心がこの世の中から消えていくような気がする。
こんなに物価が下落してゆくと、古本屋さんも営業がやっていけなくなるのではなかろうか。川崎にある近代書房も赤字だそうだ。街の小さな古本屋さんには良い本が入る。ブック・オフとは違う。本のもつ価値を知っている。大切なのは本屋さんがいかに本を愛ししるかということだ。
操車場の井原修さんも飯田で古本屋をやっているが、なかなか悪戦苦闘をしている。猫が古書を見守っている。

2010年2月 5日 (金)

田川紀久雄日記

朝青龍引退する。責任の取り方が遅かった。小沢氏もそうだが、社会的責任の問題が疎かにされている。上に立つ者の男気が感じられない。朝青龍の引退金が1億4千万だそうだ。庶民の生活の金額では考えられない。生活保護も受けられない。それに年金すらもらえない。そして詩語りの仕事もない。そして病院代は毎月支払わなければならない。だけどつねに前向きで生きていかないと自分が潰れてしまう。野良猫と対話をするのがいまの一番の楽しみだ。銭湯に行く回数を減らして猫の餌を買わなければならない。
モーツァルトの悲しみの旋律は上品で豊かだ。このところバッハとモーツァルトを聴いて過ごしている。この悲しみの旋律が生きる勇気を与えてくれている。
昨日朝の三時に起きて「操車場33号」の印刷と製本を行なう。発送まで終える。胸の痛みをこらえながら行なう。すこしづつ年間購読者が増えている。そのぶん詩人達に送る部数が減ってゆく。詩誌同士の交換には疑問がのこる。質の良い詩誌との交換には意味があるが、何でもかんでもはできない。送料代が馬鹿にはできないからだ。月刊で発行していると経費の面でも大変である。年間購読料5000円は安いと思う。購読者には詩集や詩誌の広告も行なっている。読み応えのある詩誌を作ってゆきたい。そのためにも書き手にはそれなり質のよいさ作品を書いていただきたい。33号はエッセイも詩も読み応えがあるものが掲載されている。発行者としてはとても嬉しい。この詩誌を発行していけることが、前向きで生きていける要素の一つでもある。書き手に感謝と読んでくださる方に感謝をいたします。

2010年2月 4日 (木)

田川紀久雄日記

相撲協会の旧態にはあきれる。これでは相撲の人気も無くなるのは当たり前だ。民主化が塞がれた世界には、ただ癒着がはびこるだけだ。それと小澤問題は、いったいなんだったのだろう。今日不起訴処分と新聞の見出しには書かれてある。茶番劇だ。テレビ報道も酷いものだった。民主党にはなさけない感じがする。でも自民党よりましだと思うから、まだ国民は期待するのだろう。
永井荷風の『断腸亭日記』はたいしたものだ。戦時中にあれだけまともに言えた人はいなかった。嫌なものは嫌だというその心が大切なのだ。人間的に優れていたという問題とは別なことだが……。
今年の裏日本は雪が多い。野良猫達はどうして生きているのだろう。映画『犬と猫と人間と」が21日に川崎のラゾーナで上映される。処分施設も描かれている。ビデオがでるとありがたいのだが。
いまは詩語りの世界を深めてゆくこと以外には、私は何もできない。この小さな世界でも本当の深みのある語りが出来れば生きてきた意味がある。そういう生き方をつねに追求していくだけだ。

2010年2月 3日 (水)

田川紀久雄日記

今日はCTの検査がある。末期癌である以上、検査は必要なのだ。それと胸の怪我などでこのところ身体的に疲れている。
中国でインターネットやゲームの中毒者が二百五十万人もいるという。いまの日本人はどのぐらいの数がいるのだろうか。電車に乗ってもメール中毒の人が目立つ。頭だけが先行する人間に育っている。相手の気持を思いやる精神がこれでは育たない。大切なのは人と人とが話し合うことである。対話がない生活では心が育ってゆかない。じっくりと相手の話を聴くことを最近みんなが忘れているような気がする。自分の言いたいことだけを相手に押し付ける。開けた心がどれだけ人に生きる勇気を与えてくれることだろうか。人の心の中に土足で上がるようなことだけはしたくない。国会の討論を聞いていても耐えがたいヤジの応酬であきれてしまう。早く大切な法案を成立させてもらいたい。障害者自立法案の撤回も。新宿区では勝手にこの自立法案を変えていた。予算がないからその介護を受けられないといった問題が発生していたのだ。役人は人のいのちより予算云々のことが大切であるらしい。相手の苦しみを聞く耳を持った役人が増えてほしいものだ。詩人達も人の苦しみを理解して詩の中で生かせる人になってもらいたいものだ。
明日から操車場の印刷を始めたい。
詩誌受贈『詩遊・25号』

2010年2月 2日 (火)

田川紀久雄日記

胸の痛みが相変わらずとれない。昨夜雪が降ると胸が締め付けられる。
テレビで多摩川ホームレスの人が小屋を取り壊されて、飼っていた犬と別れる報道をされていた。犬の名は姫といって十五年間共に過ごしてきた。無理矢理に引き裂かれる場を見ていて、無性に悲しくなった。なぜ日本の家は動物と一緒に住めないのか。鳩山さんがいのちの大切さを云々するならこの動物達のいのちにも心を通わせていただきたい。犬猫を処分しない法律を早く成立してもらいたいものだ。九州のある県では、処分をしない条例を作っている。人間だけがいのちの大切さを云々するのはおかしい。
先日の新幹線事故は整備ミスであった。いまJRでは正社員から非社員への始まっている。そして整備も子会社に丸投げになっている。ひたすら利益だけ追求するようになったら、電車にも安心して乗れなくなる。JR東日本は今年の四月から車両検査・修理部門の五十ヵ所で五千人が削減対象になっている。日本航空も整備が疎かになるのではないかという心配がある。
一日も早く経済の建て直しをしてもらいたいものだが、そのため利益のみの追求で安全や人への思い遣りを忘れてゆくようではなんにもならない。いろんなところで心の問題が問われている。

2010年2月 1日 (月)

田川紀久雄日記

書くことが何もないと思っていても、机の前に座ると自然に何かが書けてくるものだ。それは日々どのようにして生きているかという問いにもなる。みんな一日二十四時間を平等に与えられて生きている。
詩の朗読にはプロという世界がない。詩人が詩の朗読で口を稼いでいる人などだれもいない。だからと言ってプロがいないかというとそうではない。プロとは無欲でその道をひたすら歩き続けている人のことをいう。人に詩の朗読を通じて感動をあたえたいという夢を失わないことが大切なのだ。それはそう簡単には手にいれることなど出来るものではない。大切なことは諦めない心を持つことしかない。何かをやり遂げた人間は、決して恵まれていた環境に育ってこなかった人が多い。そしてそれほど小さい時から才能に恵まれてきたわけでもない。ひたすら夢を追い続けてきただけであることが多い。私だって幼い時に病で言語障害に罹り、無口で内向的な子供であった。そして四十五歳の時まで詩語りを行なうとは思っても見なかった。そのときを一歳と思えば、今は二十三歳だ。やっと何かがわかりかけてきたところだ。これからが面白くなっていく。ひたすら精進をすることの中で生を見詰めて生きていられる。それだけでも生まれてきたことに感謝をしなければならない。いま癌が私に生きる勇気を与えてくれている。この闘いの日々を何とかして人明かりの道に活かしてゆきたい。いま胸の痛みに耐えながら少しづつ聲をだしている。聲が自由になるように祈りながら明日を見詰めて生きていたいものだ。プロとは人から認めてもらう前に、自分自身がプロの生き方をしていくことが求められている。生きるということは素晴らしいことなのだ。この素晴らしさがきっと免疫力を高めてくれている。

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